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最終更新日:2018年06月07日


 谷崎潤一郎は東京日本橋人形町に生まれ、関東大震災後、関西へ移住します。戦中の岡山への疎開から京都、熱海へと移り住んでいます。浅草紅團では、東京から小田原、関西、熱海と順に紹介しています。谷崎潤一郎の食にも触れて長編になっていますので、ご期待下さい。

谷崎潤一郎について
  初版2000年5月4日
  二版2005年6月20日
<V01L02>

 明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)。

 谷崎潤一郎を他の文士たちはどう思っていたのでしょうか、嵐山光三郎の「追憶の達人」を読んでみると、川口松太郎は「…谷崎に門下生はなかったが、弟子と自称しているのは今東光、わたし、舟橋聖一の三人である…」と書いています。谷崎には弟子と呼ばれる人はあまりいなかったようです。谷崎のことを正宗白鳥は「…何世紀に一人といったような才能に恵まれた作家」と評価しています。三島由紀夫は「これだけの作家が亡くなれば、国家が弔旗をかかげてもいいし、国民が全部黙祷してもいいと思います。‥‥‥その一生の成果が国民的哀悼という形で迎えられないというのが慨嘆にたえない。…」と発言しています。また、芥川龍之介が『あの頃の自分の事』で帝劇の音楽会で遭った谷崎潤一郎の最初の印象を書いています。「…途中の休憩時間になると、我々は三人揃って、二階の喫煙室へ出かけて行った。するとそこの入口に、黒い背広の下へ赤いチョッキを着た、背の低い人が佇んで、袴羽織の連れと一しょに金口の煙草を吸っていた。久米(正雄)はその人の姿を見ると、我々の耳へ口をつけるようにして、『谷崎潤一郎だぜ』と教えてくれた。自分と成瀬(正一)とはその人の前を通りながら、この有名な耽美主義の作家の顔を、偸むようにそっと見た。それは動物的な口と、精神的な眼とが、互に我を張り合っているような、特色のある顔だった。我々は喫煙室の長椅子に腰を下して、一箱の敷島を吸ひ合ひながら、谷崎潤一郎論を少しやった。…」とあります。なかなか的確な表現だと思いますね。

●谷崎潤一郎の転居

 谷崎潤一郎は東京から、小田原、横浜、そして再び東京に戻り、関東大震災の後、関西に移り住みます。戦時中は一時津山、勝山に疎開しますが、終戦後、好きだった京都に住まいを移します。しかしながら京都の寒さに耐えられず熱海に最後の住まいを求めます。

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●谷崎潤一郎の足跡

和  暦

西暦

年    表

年齢

谷崎潤一郎の足跡

作  品

明治19年
1886
帝国大学令公布
 
東京市日本橋区蛎殻町2丁目14番地(現中央区日本橋人形町1-7)で生まれる  
明治24年
1891
大津事件
露仏同盟
5
浜町3丁目1番に転居
秋 南茅場町45番地に転居
 
明治25年
1892
第2次伊藤博文内閣成立
6
阪本小学校入学  
明治26年
1893
大本営条例公布
7
米穀取引所の裏の〇久商店に転居  
明治27年
1894
日清戦争
8
南茅場町56番地へ転居  
明治28年
1895
日清講和条約
三国干渉
9
   
明治30年
1897
金本位制実施
11
4月 阪本小学校高等科に進級  
明治34年
1901
幸徳秋水ら社会民主党結成
15
3月 阪本小学校卒業
4月 府立第一中学校入学(現 日比谷高校)
 
明治35年
1902
日英同盟
16
潤一郎は精養軒の主人北村家に住込
生家は神田鎌倉河岸21号地で下宿「鎌倉館」を営む
 
明治36年
1903
小等学校の教科書国定化
17
   
明治37年
1904
日露戦争
18
   
明治38年
1905
ポーツマス条約
19
3月 府立一中学卒業
9月 第一高等学校英法科文科に入学
 
明治39年
1906
南満州鉄道会社設立
20
   
明治40年
1907
義務教育6年制
21
北村家から出される(穂積フクとの恋愛問題起こる)  
明治41年
1908
中国革命同盟会が蜂起
西太后没
22
7月 第一高等学校卒業
実家は日本橋箱崎町4丁目1番地
9月 23歳 東京帝国大学国文科入学
 
明治42年
1909
伊藤博文ハルビン駅で暗殺
23
転地療養  
明治43年
1910
日韓併合
24
4月 実家は神田南神保町10番地に転居 三田文学創刊、刺青
明治44年
1911
辛亥革命
25
7月 東京帝国大学退学
滝田樗陰と初めて遭う、三田文学で永井荷風絶賛
 
大正元年
1912
中華民国成立
タイタニック号沈没
26
京橋区蒟蒻島の「真鶴館」に滞在 悪魔
大正2年
1913
島崎藤村、フランスへ出発
27
7月 実家は日本橋箱崎町に転居  
大正3年
1914
第一次世界大戦始まる
28
小田原早川口の「旅館かめや」に滞在  
大正4年
1915
対華21ヶ条、排日運動
29
5月 石川千代と結婚、本所区向島新小梅町4番地16号に新居を構える お艶殺し
大正5年
1916
世界恐慌始まる
30
3月 長女鮎子生まれる。
6月 小石川区原町15番地 、16番地に転居
神童
大正6年
1917
ロシア革命
31
5月 母病死 人魚の嘆き
大正7年
1918
シベリア出兵
32
3月 神奈川県鵠沼海岸の「あづまや別館」に滞在
10月 支那旅行に出発
11月 上海に滞在
12月 帰国
 
大正8年
1919
松井須磨子自殺
33
2月 父倉五郎が病死
3月 本郷区曙町10番地に転居
12月 小田原十字町三丁目706番地に転居
美食倶楽部
大正9年
1920
国際連盟成立
34
大正活映の脚本部顧問になる  
大正10年
1921
日英米仏4国条約調印
35
3月 小田原事件(佐藤春夫と千代)
9月 横浜の本牧宮原883に転居
十五夜物語
大正11年
1922
ワシントン条約調印
36
10月 山手267番地Aに転居  
大正12年
1923
関東大震災
37
9月 関東大震災に遭う
10月 京都市上京区持統院中町17番地に転居
11月 京都市左京区東山三条下西要法寺に転居
12月 兵庫県六甲苦楽園に転居
お国と五平
大正13年
1924
中国で第一次国共合作
38
神戸市東灘区本山北町3-9-11に転居  
大正14年
1925
治安維持法
日ソ国交回復
39
7月〜9月 京都 上京区黒谷山内西住院で過ごす  
昭和元年
1926
蒋介石北伐を開始
NHK設立
40
1月〜2月 上海へ旅
10月 兵庫県武庫郡本山村栄田259-1 好文園2号に転居
痴人の愛
昭和2年
1927
金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
41
1月 兵庫県武庫郡本山村栄田259-1 好文園4号の別の家に転居  
昭和3年
1928
最初の衆議院選挙
張作霖爆死
42
秋 兵庫県武庫郡本山村梅ノ谷1055に転居  
昭和4年
1929
世界大恐慌
43
   
昭和5年
1930
ロンドン軍縮会議
44
千代夫人と離婚  
昭和6年
1931
満州事変
45
1月 吉川丁末子と婚約
3月 千代の籍が抜ける
4月24日 丁末子と結婚式を挙げる
5月 和歌山県伊都郡高野町 竜泉院内に滞在
9月 根津家の善根寺、稲荷山の別荘に移る
11月 兵庫県武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在
吉野葛
昭和7年
1932
満州国建国
5.15事件
46
2月 兵庫県武庫郡魚崎町横屋川井550番地に転居
12月 丁末子夫人と別居
盲目物語
昭和8年
1933
ナチス政権誕生
国際連盟脱退
47
7月 兵庫県武庫郡本山村北畑西ノ町448に転居 春琴抄
昭和9年
1934
丹那トンネル開通
48
3月 根津松子と同棲始める(兵庫県武庫郡精道村内出宮塚16番地)
10月 丁末子夫人と正式離婚
文章読本
昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
49
1月 松子夫人と結婚式をあげる  
昭和11年
1936
2.26事件
50
11月 兵庫県武庫郡住吉村反高林1876番地に転居  
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
中原中也歿
51
6月 帝国芸術院会員となる  
昭和13年
1938
関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
52
   
昭和14年
1939
ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
53
長女鮎子が佐藤春夫の甥武田龍児と結婚 源氏物語
昭和15年
1940
北部仏印進駐
日独伊三国同盟
54
   
昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
55
義理の妹、重子結婚  
昭和17年
1942
ミッドウェー海戦
55
3月 熱海ホテルに滞在、熱海西山に別荘を購入  
昭和18年
1943
ガダルカナル島撤退
57
11月 兵庫県武庫郡魚崎町魚崎728-37に転居 細雪(途中まで)
昭和19年
1944
マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
58
4月 熱海市西山の別荘に家族とともに疎開  
昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
59
5月 岡山県津山市小田中八子 松平別邸に疎開
7月 岡山県真庭郡勝山町新町に疎開
 
昭和21年
1946
日本国憲法公布
60
3月 京都、下河原の旅館、喜志元に滞在
5月 京都市上京区寺町通今出川上ル5丁目鶴山町3番地の1、中塚せい方に転居
11月 京都市左京区南禅寺下河原町52「前の潺湲亭」に転居
細雪上巻
昭和22年
1947
織田作之助死去
中華人民共和国成立
61
  細雪中巻
昭和23年
1948
太宰治自殺
62
  細雪下巻
昭和24年
1949
湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞
63
4月 京都市左京区下鴨泉川町5番地「後の潺湲亭」に転居 少将滋幹の母
昭和25年
1950
朝鮮戦争
64
2月 熱海市仲田805 別荘「先の雪後庵」に転居  
昭和26年
1951
サンフランシスコ講和条約
65
   
昭和27年
1952
白鳥事件
もく星号墜落
66
   
昭和28年
1953
朝鮮戦争休戦協定
67
   
昭和29年
1954
スエズ動乱
68
4月 熱海市伊豆山鳴沢1135番地「後の雪後庵」に転居  
昭和30年
1955
自由民主党結成
69
  幼少時代
昭和31年
1956
日ソ国交回復
70
京都下鴨の家を売却
左京区北白川仕伏町3番地の渡辺家を宿とする
昭和34年
1959
皇太子殿下ご成婚
73
  夢の浮橋
昭和36年
1961
加山雄三の若大将シリーズ
ベルリンの壁
75
  瘋癲老人日記
昭和37年
1962
YS11初飛行
キューバ危機
76
  台所太平記
昭和38年
1963
黒澤明監督の「天国と地獄」
こんにちは赤ちゃん
77
4月 「後の雪後庵」を売却
一時 熱海市西山町614 吉川英治別邸、文京区関口町の目白台アパートに住む
雪後庵夜話
昭和39年
1964
東京オリンピック
78
7月 神奈川県湯河原町吉浜字蓬が原1895-104に転居 続雪後庵夜話
昭和40年
1965
江戸川乱歩没
79
7月30日 死去  

●谷崎潤一郎家系図

 「伝記 谷崎潤一郎」では谷崎家のことについて「祖父の久右衛門は、谷崎家の繁栄を一代で築き上げた「偉いお祖父さん」であった。」と書いていますし、潤一郎の『幼少時代』では「祖父はもと深川の小名木川べりの釜屋堀(現、江東区大島一丁目)の、釜を製造する釜六という店の総番頭であったが、維新の際に主人一家が田舎へ避難した時、跡を預かって立派に営業をつづけて行き、やがて世間が静まった後に主人に店を返したので、深く主人から徳とされた。そして、上野の戦争で市中の土地家屋が一時値下りしたのに乗じて、京橋の霊岸嶋の真鶴館と云う旅館を百両で買い取って経営するようになったが、程なくそれを二番目の娘の夫に譲り、日本橋の蛎殻町二丁目十四番地に、以前銀座のあったところに家を構えて活版印刷業を始めた。私が生れたのは此の『谷崎活版所』と云う、巌谷一六の隷書の看板が掲げてあった黒漆喰の土蔵造りの家の蔵座敷の中であった。」とも書かれています。潤一郎が生まれたころは当時としてはかなり恵まれた環境であったようです。しかしながら祖父に比べて父は商売下手であり、年を経るに連れて金銭的な苦労が始まります。


【参考図書】
・追憶の達人:嵐山光三郎、新潮社
・文人悪食:嵐山光三郎、新潮文庫
・細雪:谷崎潤一郎、新潮文庫(上、中、下)
・新潮日本文学アルバム 谷崎潤一郎:新潮社
・谷崎潤一郎「細雪」そして芦屋:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・芦屋市谷崎潤一郎記念館パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・倚松庵パンフレット:神戸市都市計画局
・富田砕花断パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・谷崎潤一郎の阪神時代:市居義彬、曙文庫
・谷崎潤一郎--京都への愛着--:河野仁昭 京都新聞社
・伝記谷崎潤一郎:野村尚吾 六興出版
・谷崎潤一郎 風土と文学:野村尚吾 中央公論社
・神と玩具との間 昭和初期の谷崎潤一郎:秦恒平 六興出版
・倚松庵の夢:谷崎松子、中央公論社
・谷崎潤一郎全集(28巻):中央公論社(昭和41年版)
・わが道は京都岡崎から:深江浩、ナカニシヤ出版
・花は桜、魚は鯛:渡辺たおり、中公文庫

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