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最終更新日:2006年5月21日

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●谷崎潤一郎の津山・勝山を歩く

  初版2002年1月19日
  二版2003年3月25日 「谷崎潤一郎の勝山」を写真/紹介とも更新 <V03L02>

 谷崎潤一郎は最初、魚崎から熱海に疎開しますが、関東地区が空襲で危険になると、一時魚崎に戻り、昭和20年5月、岡山県津山市に疎開します。しかしながらすぐに岡山県真庭郡勝山町に移転します。「疎開日記」は昭和19年1月1日から始まり、昭和20年8月15日で終わっています。昭和20年5月11日の「疎開日記」では「五月十一日、曇 午前九時頃警戒警報ついで空襲警報となる。紀州南部に集結せるB29の編隊北上して魚崎上客を通過。高射砲の音しきりなるを以て皆々壕に入る。……重子さん、予等夫婦、ヱミ子、信子、章ちやん母子三人、平松のをばちやん、おみきさん、美代女母子の十二人に持出し荷物を収容して満員なり。編隊は三度に別れて頭上を過ぎ、その度毎に壕中船の如くに揺れ、サアと云ふ音して爆弾落下す。ラヂオは停電して用をなさず。少し静かになりたるを以て信子と予と外に出づ。東方の空夥しき砂煙にて魚崎停留場も濛々と煙りて見えず。……然し幸ひにして間もなく解除になる。」とあり、空襲下でも頼りになる谷崎潤一郎と見えますが、松子夫人の「倚松庵の夢」では「魚崎で空襲に過った時も、妹たちに、従妹、娘と女連の方が多く、庭に掘られた狭い防空壕に紅一点の男性であったが、一番恐怖感が強く、最も頼りにはならなかった。附近の川西航空を目がけ一トン級の爆弾が落された時なので、全く百雷一時に落ちるとはこのことかと思った。頭上をヒュルン〜と云う金属製の炸裂間近を感じさせる大音響がジャー〜という轟音の中に鋭くきゝ分けられるのだったが、主はと見れば、耳を塞ごうとすれば眼は掩えないので眼を固く瞑るのに、顔中くしゃくしゃにして折れかゞむように一隅に脅えていた。……途端に太古もかくやと思われる静けさが土中まで拡がった。「誰か外を見てみない」と谷崎のこえに、こいさんと呼ばれる妹が壕の蓋を開けて首を地上に出し、私も恐る恐るそれにつゞいた。」とあります。B29は当時の川西航空機の甲南工場(現在の新明和甲南工場)を狙ったようで、魚崎から大阪よりの僅か2km程の距離しか離れていませんでした。上記では谷崎潤一郎と松子夫人が一緒に防空壕を出た事になっていますが、本当は松子夫人の書かれた通りだったのでしょうね。

和  暦

西暦

年    表

年齢

谷崎潤一郎の足跡

作  品

昭和19年
1944
 
58
4月 熱海市西山の別荘に家族とともに疎開 細雪中巻
昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
59
5月 岡山県津山市小田中八子松平別邸に疎開
7月 岡山県真庭郡勝山町新町小野はる方離れに疎開
12月 岡山県真庭郡勝山町城内今田旅館に疎開
細雪中巻、下巻
昭和21年
1946
 
60
3月 京都、下河原の旅館、喜志元に滞在
5月 京都市上京区寺町通今出川上ル5丁目鶴山町3番地の1、中塚せい方に転居
11月 京都市左京区南禅寺下河原町52「前の潺湲亭」に転居
細雪下巻

<津山市>
 津山市は織田信長の小姓、森蘭丸の弟、森忠政によって今から約400年前の1604年に拓かれた城下町です。また、「駆け落ちをするなら津山に」といわれるほど人情に厚い土地柄だそうですが、あまりお世話にはなりたくありませんね。津山市で一番の自慢は、今は鶴山公園として親しまれている津山城跡の壮大な石垣と 日本のさくら名所100選にも選ばれている5千本の桜の花です。町の中央には吉井川がゆるやかにながれ、歴史を感じさせる豪壮な武家屋敷や格子窓の商家の町並み見学は格好の散策コースになっています。谷崎潤一郎は終戦も間近になった昭和20年5月に津山に疎開します。「疎開日記」では「五月十五日、雨 今日北川氏は神戸出張の日ニ付、明十六日北川氏同道津山行の予定にて得能氏岡氏へもその旨打電したりしが昨夜急に変更、予等五人今朝津山に立ち彼地にて十六日北川氏を待つことにする。宿の朝……。九時二十分発の津山行にかけつけたれども満員にて乗るべからず、二時間待ちて十一時三十分発に乗る。生憎雨甚強し。然れども途中新緑の景誠に美し。予は此の姫新線は始めてなれば殊に珍し。本日も四国広島へかけ小型機来襲の由なれども此の遽は警報も出でず。汽車中にて辨當を使ひ二時津山着……」とあります。谷崎潤一郎に取ってはやっと到着したという感じですね。

左の写真がJR津山駅です。神戸からは岡山経由でも行けるのですが、姫路経由の姫新線(姫路と新見を結んでいます)で直接津山まで行っています。三宮、午後2時5分発で4時姫路着、一晩泊まって翌日の11時30分姫路発で午後2時津山に到着していますので、延べ4時間30分掛かっています。


<八子の愛山宕々庵>
  津山を疎開先に選んだのは野村尚吾の「谷崎潤一郎 風土と文学」を読むと「再疎開地として津山を選んだのには、二つの理由があった。一つには姫新線の月田(現在は勝山町に合併)に疎開していた友人の岡成志からの勧誘があったためであり、もう一つは、もともと津山は夫人の妹重子の夫君渡辺明のゆかりの地だったからである。渡辺明は旧作州津山十万石の藩主松平康民の三男で、松平家の跡は次男の康春が嗣いでいた関係から、旧藩主の別業だった八子の愛山宕々庵を、一時借り受けられることになったのである。」とあります。

右の写真が八子の愛山宕々庵です。津山駅から疎開先までですが谷崎潤一郎の「疎開日記」によると「車中遥かに鶴山公園の天守閣を望む。但し此の建物は近頃のハリボテの由なり。八子松平邸は東照宮の廟前にあり。得能氏方の勝手口より上る。林泉の新緑目ざむるばかりなり。予等に充てられたるは十畳と六畳の御殿作りの座敷にて廻り縁ありて他に臨む。」とあります。実際、駅からはかなり遠くて、歩いては行けません。写真の左の建物の所が「八子の愛山宕々庵跡」で今は御神輿などの倉庫になっています。真ん中少し左側が地蔵院で真ん中右側が鶴山幼稚園、一番右が東照宮の廟の愛山廟です。愛山廟の前に谷崎潤一郎の碑があります。地蔵院の和尚さんにお会いしましたが、全国から谷崎潤一郎の疎開地を見に来られるそうで、愛山宕々庵が無くなってしまったのをとても残念がっておられました。


<勝山町>
 勝山町は津山市よりもっと田舎(勝山町の方御免なさい)ですが三浦二万三千石の城下町として出雲街道、大山道、旭川を利用した高瀬船の発着場など交通の要所として古くから栄えてきています。勝山に移った理由を野村尚吾の「谷崎潤一郎 風土と文学」では「……頼りにしていた岡成志は、結核でまもなく病死し、宕々庵は仮りに身を寄せた所だけに途方にくれていたところへ、岡未亡人から勝山町に格好な離れが借りられると知らせて来たので、三たび疎開することになるのである。」とあります。友人が死んでしまったためやむを得ず移ります。このことを谷崎潤一郎の「疎開日記」によると「七月七日、晴 午後四時四四分発にて本日は予と家人とヱミ子の三人のみ移転す。(中略)勝山小野方に至ればすでに昨夕の荷物到着せり(中略)……ヱミ子には勝山の町大いに気に入りたるやうなり。」とあります。

左の写真がJR勝山駅です。津山から約40kmの距離ですので汽車で一時間程度と思います。川沿いに伸びる出雲街道の古い町並みや、旦地区に残る武家屋敷や寺院の配置等に城下町2百数十年の歴史が感じられます。現在は旧出雲街道が街並保存地区に指定され郷土資料館もあり綺麗に保存されています。ただ電柱と電線がそのままなので早く地下下されると良いと思います。

<小野はる方>
 ここで谷崎潤一郎は岡山市に疎開していた永井荷風を終戦直前に招待します。谷崎潤一郎の「疎開日記」では、『「六月二十七日、雨後晴 勝山へ馬力一基頼み荷物を迭ることになり本日荷造りす。夜に入りおみきさん来る。岡山に疎開中の荷風先生より書面来れり」、「八月十三日、晴 本日より田舎の孟蘭盆なり。午前中永井氏より来書、切符入手次第今明日にも来訪すべしとの事なり。ついで午後一時過頃荷風先生見ゆ。今朝九時過の汽車にて新見廻りにて来れりとの事なり。カバンと風呂敷包とを振分にして担ぎ外に予が先日造りたる籠を提げ、醤油色の手拭を持ち背広にカラなしのワイシャツを着、赤皮の牛靴を穿きたり。焼け出されてこれが全財産なりとの事なり。然れども思つた程穿れても居られず、中々元気なり。……」、「八月十四日、晴 朝荷風氏と街を散歩す。氏は出来得れば勝山へ移りたき様子なり。……」、「八月十五日、晴 ……荷風氏は十一時二十六分にて岡山へ帰る。予は明さんと駅まで見送りに行き帰宅したるところに十二時天皇陛下放迭あらせらるとの噂をきゝ、ラヂオをきくために向う側の家に走り行く。十二時少し前までありたる空襲の情報止み、時報の後に陛下の玉音をきき奉る。然しラヂオ不明瞭にてお言葉を聞き取れず、ついで鈴木首相の奉答ありたるもこれも聞き取れず、たゞ米英より無条件降伏の提議ありたることのみほゞ聞き取り得、……家人来り今の放迭は日本が無保件降伏を受諾したるにて陛下がその旨を国民に告げ玉へるものらし、警察の人々の話なりと云ふ。……再び六時の放迭を聞く。阿南陸相自決したる由なり。……」』とあり、これで「疎開日記」終わっています。
 一方、永井荷風の断腸亭日乗では、「八月十四日。晴。朝七時谷崎君来り東道して町を歩む。・・・正午招がれて谷崎君の客舎に至り午飯を恵まる、小豆餅米にて作りし東京風の赤飯なり。・・・燈刻谷崎氏方より使の人来り津山の町より牛肉を買ひたればすぐにお出ありたしと言ふ。急ぎ小野旅館に至るに日本酒もまたあたためられたり。細君下戸ならず。談話頗興あり。九時過辞して客舎にかへる。」と書かれています。詳細は「荷風 昭和20年 夏」を参照してください。永井荷風の断腸亭日乗に書かれている小野旅館とは割烹「小野はる」(現在の旦酒屋さん)のことです。荷風が勝山で宿泊した旅館は赤岩旅館です。旦酒店から数軒先になります。建物はそのままですが旅館は営業されていませんでした。

右上の写真は小野はる方跡で現在は旦酒店です。このお店の正面には「文豪谷崎潤一郎疎開の地跡」と書かれた掛け塾が架かっていました。このお店には谷崎潤一郎記念の日本酒が三種類販売されていましたので、一本買って帰りました(私が買ったのは”こいさん”でした)。8月6日に川口松太郎に送った手紙では「此の勝山町は津山より西へ汽車にて一時間程の山間にある町に候只今居り候処ハ以前料理屋と芸妓屋とを営み居たる家の離れ座敷一棟(二階六畳二間階下八畳二間廻縁あり)にて女将が中々物分りよく且顔ひろきために何かと便宜不少、(中略)執筆中の「細雪」ハ中巻原稿完成いたし下巻を百枚程書きかけたるまゝにてこゝ二三箇月中止いたし居候へ共御忠告もありやがて涼風も相立ち候事故今月中旬頃より徐ろに稿を続けるつもりに御座候これハあと五百枚程にて全巻完了可致欺、さりながら中巻下巻を刊行いたし候ハいつの時節にやとちょっと淋しく存ぜられ候」とあります。勝山に来てすこし落ちついたようです。

左上の写真は旦酒店の裏にある離れです。ここに谷崎潤一郎は昭和20年7月から滞在し、この年の12月に今田つね方に移ります。

<今田つね方跡>
 今田つね方は旦酒店から歩くと15分位の距離です。今田方はもともと旅館だった様で、部屋数も多くて谷崎潤一郎が滞在するには丁度よかったようです。場所は勝山町役場の丁度斜め前辺りで、当時の家は取り壊されてしまっており、個人の方の住宅になっていました。谷崎潤一郎の「越冬記」を読むと、「小田はる方はちょっと事情がありて今度転居せんと我等は決心したるなり」、書かれています。また野村尚吾の「谷崎潤一郎」では、『ツネの娘の今田俊子の話では、「先生はいつもユズ湯に入っていらっしゃいまして、お湯をパチャパチャ叩く音がしていました。朝は早く、六時ごろ先にひとり起きだして、鳥打帽子にステッキを持ち、左手に買物かごを下げて、毎朝のように散歩に出られました。奥様方は、私らの一帳羅のようなきれいな着物をいつも召して、時には地唄の師匠をよんで舞ったりされていたので、町では人目をひき、大変評判でした。お手伝いさんが三人もいましたから、だいたい十人ぐらいの家族でしたが、来客があってそれ以上になりますと、私らは階下の大部分をあけ渡して、一部屋に住んでいたことも多うございました」と、ケタ違いの生活ぶりを今もって首をかしげて話してくれた。』、と書いています。戦争中の昭和20年で、その上疎開先でお手伝いさんが三人とはなんともすごいです。

右の写真の真ん中辺りが今田つね方跡です。写真には写っていませんが右側が勝山町役場です。

昭和21年3月、谷崎潤一郎は待望の京都に転居します。
 

谷崎潤一郎の津山・勝山地図(見たい所をクリックして下さい)

 



【参考文献】
・追憶の達人:嵐山光三郎、新潮社
・文人悪食:嵐山光三郎、新潮文庫
・細雪:谷崎潤一郎、新潮文庫(上、中、下)
・新潮日本文学アルバム 谷崎潤一郎:新潮社
・谷崎潤一郎「細雪」そして芦屋:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・芦屋市谷崎潤一郎記念館パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・倚松庵パンフレット:神戸市都市計画局
・富田砕花断パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・谷崎潤一郎--京都への愛着--:河野仁昭 京都新聞社
・伝記谷崎潤一郎:野村尚吾 六興出版
・谷崎潤一郎 風土と文学:野村尚吾 中央公論社
・神と玩具との間 昭和初期の谷崎潤一郎:秦慎平 六興出版
・倚松庵の夢:谷崎松子、中央公論社
・谷崎潤一郎全集(28巻):中央公論社(昭和41年版)
・ここですやろ谷崎はん:たつみ都志、広論社

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