<大正活映> 大正9年5月、横浜に新しく創設された大正活映株式会社に、脚本部顧問として招聘されています。野村尚吾の「伝記谷崎潤一郎」では当時のことを「そのころの活動写真といえば、物珍しいけれども概して低俗で、尾上松之助に代表される幼稚なものだった。ところが東洋汽船の社長浅野総一郎の子息良三が、アメリカで知りあった白系露人のベンジャミン・プロドスキーから相談を持ちかけられ、活動写真の会社を創業することになり、監督にアメリカで俳優をしていたトーマス栗原が選ばれた。そこで、新しい脚本が必要になった。新劇俳優の上山草人にその相談が持ちかけられ、草人は友人の谷崎を紹介した。……活動写真への関心を早くから持っていたので、その招聴に応じたのである。月給二百五十円(三百五十円という人もある)で、週に一度の出社という条件だった。」と書いています。元町公園のプールの側に立っている碑では「この撮影所は、大正9年から12年までの3年間という短い期間であったが、フランス人アルフレット・ジェラルドの煉瓦工場跡地のこの場所(元町1−77−5)にあった。大正活映は大正9年、神奈川区子安を埋め立てて、アサノセメントを始めた経済界の大物、浅野総一郎氏の子息良三氏が創設した会社である。」とあります。最初の作品は『アマチュア倶楽部』で、義妹せい子が葉山三千子の芸名で、主役を演じています。第二回作品は泉鏡花の『葛飾砂子』と次々に撮影されましたが、芸術映画は地方では受けが悪かったため長続きせず、大正11年に撮影所が解散となり、八月に松竹に吸収され、俳優の多くは京都マキノ映画に移っています。
★左の 写真が大正活映撮影所(横浜市中区元町1−77−5)が有った所です。大正活映の本社は今のホテルニューグランドの裏手で、撮影所は現在の元町公園下のプールとその事務所、その前の広場のあたりで、三方が高台になっており、その左の高台の左上が外人墓地になっています(元町公園からは相当下らないとだめで、殆ど元町通りと同じ高さくらいです)。記念碑は最初は写真の左側にあったようですが、現在は写真右後側の隅にあります。
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