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最終更新日:2006年2月20日

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●谷崎潤一郎の横浜を歩く 2002年1月5日 V02L03
 大正10年小田原から横浜の本牧宮之原に転居します。

和  暦

西暦

年    表

年齢

谷崎潤一郎の足跡

作  品

大正9年 1920 国際連盟成立 35 大正活映の脚本部顧問になる  
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 36 3月 小田原事件(佐藤春夫と千代)
9月 横浜の本牧宮原883に転居
十五夜物語
大正11年 1922 ワシントン条約調印 37 10月 山手267番地Aに転居  
大正12年 1923 関東大震災 38 9月 関東大震災に遭う
10月 京都市上京区持統院中町17番地に転居
11月 京都市左京区東山三条下西要法寺に転居
12月 兵庫県六甲苦楽園に転居
お国と五平

<大正活映>
 大正9年5月、横浜に新しく創設された大正活映株式会社に、脚本部顧問として招聘されています。野村尚吾の「伝記谷崎潤一郎」では当時のことを「そのころの活動写真といえば、物珍しいけれども概して低俗で、尾上松之助に代表される幼稚なものだった。ところが東洋汽船の社長浅野総一郎の子息良三が、アメリカで知りあった白系露人のベンジャミン・プロドスキーから相談を持ちかけられ、活動写真の会社を創業することになり、監督にアメリカで俳優をしていたトーマス栗原が選ばれた。そこで、新しい脚本が必要になった。新劇俳優の上山草人にその相談が持ちかけられ、草人は友人の谷崎を紹介した。……活動写真への関心を早くから持っていたので、その招聴に応じたのである。月給二百五十円(三百五十円という人もある)で、週に一度の出社という条件だった。」と書いています。元町公園のプールの側に立っている碑では「この撮影所は、大正9年から12年までの3年間という短い期間であったが、フランス人アルフレット・ジェラルドの煉瓦工場跡地のこの場所(元町1−77−5)にあった。大正活映は大正9年、神奈川区子安を埋め立てて、アサノセメントを始めた経済界の大物、浅野総一郎氏の子息良三氏が創設した会社である。」とあります。最初の作品は『アマチュア倶楽部』で、義妹せい子が葉山三千子の芸名で、主役を演じています。第二回作品は泉鏡花の『葛飾砂子』と次々に撮影されましたが、芸術映画は地方では受けが悪かったため長続きせず、大正11年に撮影所が解散となり、八月に松竹に吸収され、俳優の多くは京都マキノ映画に移っています。

左の 写真が大正活映撮影所(横浜市中区元町1−77−5)が有った所です。大正活映の本社は今のホテルニューグランドの裏手で、撮影所は現在の元町公園下のプールとその事務所、その前の広場のあたりで、三方が高台になっており、その左の高台の左上が外人墓地になっています(元町公園からは相当下らないとだめで、殆ど元町通りと同じ高さくらいです)。記念碑は最初は写真の左側にあったようですが、現在は写真右後側の隅にあります。


<本牧海岸西洋館>
  大正活映の脚本部顧問になったこともあり、通うのに便利な横浜に引っ越します。当時のことを谷崎潤一郎の「本牧の住居のこと」では「小田原から引き移つて来た私の家族が、最初に住んだ家は本牧の海岸にあつて、他の家よりも一層海につき出てゐる木造の二階だての西洋館だった。東向きのベランダの直ぐ下には、コンクリートの崖の裾まで青い波が寄せてゐて、港へ出入りする大小の船はいつも眼の前を過つて行つた。」とあります。翌年の台風で家が壊れるまで此処にいる訳です。

右の写真の辺りが谷崎潤一郎が住んでいた本牧宮原883 (中区本牧十二天と本牧宮之原付近)です。当時は十二天の岬を廻った海岸の防波堤の上の洋館だったようで、現在の場所を該ったのですが、本牧地区は戦後米軍のキャンプ地となっており、道路も全く変わってしまっていて当時の面影は全くありません。その上、海上が埋め立てられており、当時の場所を的確に探すことが出来ませんでした。下記の地図で地名の雰囲気だけを見ておいてください。

<元町公園前のバス停から山手267番地Aへ>
 谷崎潤一郎が横浜で次に住んだのが山手267番地Aです。こう書くとすぐに場所が分かりそうなのですが、弟終平の「懐かしき人々」や野村尚吾の「風土と文学」に書かれている通りに歩くと辿り着けません。余りに文学的に書かれすぎており、道案内の文書としては全く不的確でした(だいたい文士が書いた道案内書ほど役に立たない物はないと確信しています)。そこでもう少し調べようと横浜市中央図書館に何回か通い、関連図書を閲覧しました。その結果が下記の表の下3つです。中でも「横浜文学散歩」には地図も付いていました。その上で中央図書館に依頼して大正から昭和初期の地番付きの地図を見せていただきました(マイクロフィルムでした)。その結果、大正初期から現在まで山手の地番は全く変わっていなくて、下記の地図の場所と判明しました。下記の一部図書に書かれていますセント・ジョセフ・カレッジ横の道を下りた辺りの二軒目の番地は80番台で267番地とはかけ離れています。違っているのは弟終平が書いているのをそのまま使ったのだと思います。野村尚吾の書いている谷津坂上派出所も場所不明で全く辿り着けませんでした。

左の写真は山手本通りの元町公園前バス停留所付近です。セント・ジョセフ・カレッジは既になく、更地になっていました(マンションが建つようで反対運動の真っ最中です)。山手病院も1982年に廃院になっています。

《それぞれの本に書かれている”山手267番地A”》
弟終平の「懐かしき人々」 外人墓地の前の通りを西の方へクライスト・チャーチを通ってセント・ジョセフという学校をすぎると、直ぐ下へ降りる急な坂道の通りがあり、その道の左側の角から二軒目だった。
野村尚吾の「風土と文学」 「港の見える丘公園」の前から、外人墓地通りを南西に行くと「元町公園前」というバス停留所があり、その先にセント・ジョセフ・カレッジという学校が今もあるその隣が山手病院になり「学校をすぎると、直ぐ下へ降りる通り」とあるけれど、実際に行ってみると、もう少し先に谷津坂上派出所があり、その四つ角を右に曲がるダラダラ坂の左手二軒目になる。
横浜文学散歩
(横浜市教育委員会)
神奈川近代文学館から約400m。北方小学校のわきの丘。(地図付き)
横浜・作家の居る風景
(横浜中区役所福祉部)
セント・ジョセフ校の角から北方小学校へ下る坂の途中
文学の中の神奈川
(神奈川県県民部広報課)
山手・267番のAというからビール発祥の地の記念碑が立っている小公園の上手あたりになろうか。

tanizaki-yokohama14w.jpg<山手267番地A>
 谷崎潤一郎の「本牧の住居のこと」では「本牧の私の家は造りは西洋館だつたが、臺所だの湯殿だの便所だのの都合が日本風に出来てゐたし、畳の座敷も一と間あつて、純洋風とは云へなかつたので、だんだん洋風生活の便利を感じ出した私たちは、折があつたら山手の居留地へ移りたいと思つて居た。」とあり、本格的な西洋館に憧れていたようです。
 この山手の洋館のことを「山手の二百六十七番のAにあつて、俗に云ふ「赤マーテン」の邸の高臺と、セントラル・ホテルの立つてゐる小さな丘に抱かれた、……二百六十七番もつまりさう云ふ凹地の一つで、みんなそれ程大きくほない平家造りの五六軒が集まつてゐる、至極平和な谷あひだつた。私の家の東隣りにはイラさんと云ふ可愛い娘のゐる露西亜人の家族、西隣りにほ和蘭人の家族がゐた。びろい往来を一つ隔てた向う側には英吉利人のホーレイさんの家族がゐた。……電車へ乗るには千代崎町の停留場まで五六丁ほど行かねばならず、……家の前の路を、セント・ジョセフ・カレヂの方へ降りて行くと、「赤マーテン」の下の所に「マーテン地蔵」の祠があつて、そこには街燈が一つもなく、一番淋しい場所であつた。」と書いています。上記に書かれています”凹地の一つ”、”谷あひ”、”千代崎町の停留所”等で下記の地図の場所が正しいのが分かりますね。

右の写真が現在の山手267番地です。谷間にあるのはこの写真を見ていただくと分かると思います。現在も表札を見ると外人の方が住まわれているようで、家も洋館で素敵な家ですね。

 このあと谷崎潤一郎は箱根で関東大震災に遇い、関西に旅立ちます。その時の事を谷崎潤一郎の「東京をおもふ」では「想い起す、大正十二年九月一日のことであった、私は同日の朝箱根の芦の湖畔のホテルからバスで小涌谷に向う途中、芦の湯を過ぎて程なくあの地震に遭ったのであるが、そこから徒歩で崖崩れのした山路を小涌谷の方へ降りながら、先ず第一に考えたのは横浜にある妻子其の安否であった」と関東大震災にあったときの事を書いています。谷崎潤一郎は東京への交通路が不通の為、直接東京に帰ることをあきらめ、沼津から神戸に向っています。神戸から上海丸で横浜に戻り、東京府下杉並村(現在の杉並区)に避難していた家族と再会しています(9月11日)。谷崎潤一郎は東京に見切りをつけて、20日には再び上海丸で神戸に向っています。よっぽど地震が嫌だったようです。


谷崎潤一郎の横浜地図 −1−
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谷崎潤一郎の横浜地図 −2−



【参考文献】
・追憶の達人:嵐山光三郎、新潮社
・文人悪食:嵐山光三郎、新潮文庫
・細雪:谷崎潤一郎、新潮文庫(上、中、下)
・新潮日本文学アルバム 谷崎潤一郎:新潮社
・谷崎潤一郎「細雪」そして芦屋から:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・芦屋市谷崎潤一郎記念館パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・倚松庵パンフレット:神戸市都市計画局
・富田砕花断パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・谷崎潤一郎--京都への愛着--:河野仁昭 京都新聞社
・伝記谷崎潤一郎:野村尚吾 六興出版
・谷崎潤一郎 風土と文学:野村尚吾 中央公論社
・神と玩具との間 昭和初期の谷崎潤一郎:秦慎平 六興出版
・谷崎潤一郎全集(28巻):中央公論社(昭和41年版)
 
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