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最終更新日:2016年02月06日


●谷崎潤一郎の京都を歩く -1-
  初版2002年2月9日
  二版2003年4月6日※「喜志元」の部屋の写真を追加
  三版2007年6月18日※「北白川仕伏町の家」と「法然院の墓」の写真を追加
  四版2008年4月5日※「法然院の墓」の写真を入換と一部修正
  五版2010年8月24日※旅館「喜志元」が閉館しました 
<V01L01>

 戦争も終わり、一息ついた谷崎潤一郎は大好きな京都に向かいます(「私は京の生まれではないけれども京好きの点では京都人に劣らない」と「潺湲亭のことその他」で書いています)。とはいっても戦後の混乱期ですぐには京都に行けず、翌年の3月まで待たされます(戦後直ぐは勝手に転居出来ず、当時の京都市長の和辻春樹の取り計らいで許可されたようです)。京都に転居した谷崎潤一郎を、水上勉がある出版社の社員として訪ねています。
「昭和二十二年の二月はじめに谷崎先生を京都の南禅寺下河原町のお宅に訪ねた。……玄関の右手の応接間へ通された。今から思うと通りに面した部屋だったのだろう。奥は白川に沿っているはずだから、川音は遠かった。まん中に大卓があって、まわりに固い椅子がおかれていた。北の出窓の手前に、箱に入れられた源氏物語が置かれ、左手の壁には京都市の地図がかかっていた。この地図は小学校でみた掛軸型のもので、ずいぶん大きかったことをいまでも鮮明におぼえている。……やがて奥から先生が出てこられた。黒っぼい着物に角帯をしめ、前かけをして、ずんぐり肥っておられるそのお姿は、想像してきたのとちがって、私が小僧の時代に、どこかでみたような、商家か檀家の御主人のようなかんじである。するどい眼でじろりとみられた。私は射すくめられる気がした。……。」
とあり、若い水上勉はこの大作家の前で相当緊張したことと思います。このあと谷崎潤一郎は水上勉の「越前竹人形」を毎日新聞上で絶賛し、これによって水上勉は作家として一人立ちします。出会いというものは分からないものですね。水上勉が上記を書いたのは昭和43年の谷崎潤一郎全集(19巻)の月報ですから、20年経っても、忘れられない出会いだったのだと思います。

左上の写真が谷崎潤一郎が好きであった平安神宮の桜です。今年は咲くのが早くてちょっと時期を逸したようです。

和  暦

西暦

年    表

年齢

谷崎潤一郎の足跡

作  品

昭和21年 1946 日本国憲法公布 60 3月 京都、下河原の旅館、「喜志元」に滞在
5月 左京区浄土寺西田町に転居
5月 京都市上京区寺町通今出川上ル5丁目鶴山町に転居
11月 京都市左京区南禅寺下河原町「前の潺湲亭」に転居
細雪上巻
昭和22年 1947 中華人民共和国成立 61 6月 京都大宮御所の天皇陛下の前で文芸雑談の会を開催
9月 根津恵美子を次女として谷崎家に入籍
細雪中巻
昭和23年 1948 朝鮮戦争
太宰治自殺
62   細雪下巻
昭和24年 1959 湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞 63 4月 京都市左京区下鴨泉川町「後の潺湲亭」に転居
11月 文化勲章授与
少将滋幹の母
昭和25年 1960 朝鮮戦争 64 2月 熱海市仲田 別荘「先の雪後庵」に転居  
昭和27年 1952 白鳥事件
日航機もく星号
66    
昭和29年 1954 スエズ動乱 68 4月 熱海市伊豆山鳴沢「後の雪後庵」に転居  
昭和30年 1955 自由民主党結成 69   幼少時代
昭和31年 1956 日ソ国交回復 70 京都下鴨の家を売却
左京区北白川仕伏町の渡辺家を宿とする
昭和39年 1964 東京オリンピック 78 左京区鹿ヶ谷法然院町の渡辺家を宿とする  

<谷崎潤一郎の京都地図 -1->


tanizaki-kyoto12w.jpg下河原の旅館「喜志元」>
   2010年8月24日 7月末で旅館「喜志元」が閉館しました。
 谷崎潤一郎の疎開日記は終戦の8月15日で終わっていますが、その後は「三つの場合」に書かれています。戦後初めて京都を訪ねたのは終戦から二カ月経った昭和20年10月25日でした。
「十月十九日、細雪下巻五十枚を脱稿、中央公論社に発送する。廿一日、章ちやんの良人伊光氏と共に午前七時二十分発にて出発。今岡は家人を伴はず、布谷家の人々以外は私一人である。美作千代院庄間は未だに徒歩連絡してゐる。津山駅附近吉井川の鉄橋も落ち、仮橋の上を危げに汽車が通過する。三宮で阪神電車に乗り換へ出屋敷下車、焼跡を辿りつゝ布谷家に至る。廿一日より廿四日まで尼崎の同家に泊めて貰び、廿五日出発戦後始めて京都に下車、下河原の旅館喜志元に至る。まだ営業を始めてゐない由であるが、特に階下奥の茶の間に泊めて貰ふ。先づ四条通を散歩し、京都座で開演中の翫雀(現鴈治郎)我當(現仁左衛門)等一座の鎌倉三代記、九段目道行、藤十郎の戀等を見る。京極を散歩してみたが夜は眞つ暗である。市電の数甚だ少く、待てども来らず、タキシーもなし。人力車を摑へて喜志元まで帰る。(料金十圓)祇園芸妓は目下八十人程で、日本人には一時間二十圓、米人には三十圓を請求する由。廿六日まで京都滞在。」
とあります。このあと東京へ行き、中央公論社を訪ねています。年齢も60歳ですから大変な旅だったと思います。年が明けて昭和21年3月16日再度京都に向かいます。この時の滞在も「喜志元」でした。5月になると左京区浄土寺西田町(市バス銀閣寺道停留所の横の小道を今出川通りから南に入った辺り)に間借りします。

tanizaki-kyoto13w.jpg左上の写真が「喜志元」の表札です。現在の住所は京都市東山区下河原通上弁天町です。玄関は普通の民家風で、京都の一般の旅館やお店がそうであるように、前に立っても旅館とは思えない、京都らしい造りになっています。

「喜志元」には私もご紹介により泊まらせて頂きました(京都で一見で泊まらせて頂くのは大変です)。部屋も谷崎潤一郎が使われていた二階正面の部屋を使わせて戴き大感激でした。 建物も昔のまま(写真の左端が喜志元)、で右の写真が私が宿泊した部屋で、机も谷崎潤一郎が使っていた机だそうです。部屋から比叡山方向を見た写真も掲載しておきます。
 残念ながら2010年7月末をもって旅館を閉められました。非常に残念です!!


tanizaki-kyoto13w.jpg寺町通今出川上ル鶴山町 中塚せい方>
  家族を 疎開先の勝山から呼ぶため、家を探します。昭和21年5月20日、京都市上京区寺町通今出川上ル5丁目鶴山町、「中塚せい方」に転居します。谷崎潤一郎の「三つの場合」に「明さんは北海道から五月十八日に出て来て勝山へ行き、廿四日家人義妹恵美子等を引率して入洛。秋までには函館の会社を罷めて東京目黒の家を売り、京都へ来て何か進駐軍相手の商売をするつもりの由。」とあり、松子夫人の妹重子の夫渡辺明が勝山まで迎いに行き、5月24日に家族も京都に連れてきた事が分かります。

左の写真が「中塚せい方」です。ここの二階に間借りしていたわけですが、京都は戦災にあっていないので、ここも昔の建物のままです。周りの建物が少し変わっていますが、雰囲気は昭和21年から進んでいませんね。本当に京都はいい所です。


tanizaki-kyoto14w.jpg前の潺湲亭(せんかんてい)>
 昭和21年11月24日、南禅寺近くに一軒家を求めます。その時の事を谷崎潤一郎の「潺湲亭のことその他」では「三月にひとりで京へ出て来た私は、五月の末に家族たちをも呼び迎へて、兎も角も寺町今出川に当座の間借りをして暮してゐたが、八月の上旬に知らしてくれる人があって南禅寺の家の話をきめることが出来た。初めて私がその家を見に行ったのは、ちやうど旅行に出かけようと云ふ日のことで、汽車の時間がびどく切迫してゐる時に大急ぎで三十分ほど立ち寄つたのであったが、現在その家に住んでゐる年老いた主人に面会し、その人の案内で座敷を一通り見せて貰ふと、ばたばたときめてしまったのである。その家は、南禅寺の門前から永観堂や若王子の方へ行く道にあって、うしろに白川が流れてゐ、一番奥の八畳の間は水に沿うて建てられてゐて、窓の下をゆくせゝらぎの音がすわってゐてもしめやかに聞えた。」と書いています。冒頭に書いた水上勉もこの家を訪ねたわけです。よっぽどこの家の事が嬉しかったと見えて、この家に名前を付けるに該って「潺湲居」、「潺湲亭」と悩んだようですが「潺湲亭」として錢痩鐡氏に篆刻(てんこく:印材に文字をほること)と額の揮毫(きごう:書画をかくこと)をお願いしています。

右上の写真、右側が「前の潺湲亭」の跡です。深江浩の「わが道は京都岡崎から」では「岡崎神社から東、丸太町通が白川通と交わるところを南へ折れ、バス道に沿ってものの五分も歩くと、白川のほとり、谷崎の潺湲亭の跡に出る。南禅寺下河原町五二番地である。現在、京土開発株式会社とその隣のTさんというお宅に分かれているが、もとは両方合わせた一一二坪ばかりの敷地であったという。」とあります。写真の白川側はなかなか雰囲気があっていいのですが、反対側のバス道は車の通行も多くて、昔の面影はありません。ただ永観堂の入口であり、周りの環境はなかなかです。


tanizaki-kyoto16w.jpg後の潺湲亭>
 最初、気に入っていた「前の潺湲亭」も長くは続きませんでした。このことを松子夫人は「倚松庵の夢」のなかで「敗戦後は、浮浪人のように、京都の彼方此方に暮した。家の後を白川の流れる、格好の家を南禅寺に見つけて求めたが、夕立にしては激しい雨で白川が氾濫、書斎の床下が傾くやらで、すっかり恐ろしくなって早速人に譲り、漸く買い求めたのが、軋(ただす)の森の例の瀬見の小川の傍に奥深く、ひっそりと、それでも小滝まで懸った林泉のある、真に谷崎の好みにあった庭のある家で、これを潺湲亭と名付けた。」と書いています。一方、谷崎潤一郎の「三つの場合」では「廿四年三月廿七日、明さん夫婦は中塚さんの娘さんが結婚するため部屋を明け渡すことになり、下鴨の三井別荘の中の離れ家を借りたが、私も持ち前の転居癖が出て今少し広い邸が欲しくなり、二条の度量衡店主塚本氏の所有である、下鴨泉川町の別墅をわれわれ夫婦と明さん夫婦と四人で見に行く。家人等は実用に不便と云ふので不賛成であつたが、有名な庭師の作つた林泉の趣がまことに美しく、滝あり池あり茶席ありで、明さんがすつかり気に入り、頻りにすゝめて已まないので、遂に譲り受けることに決める。四月廿九日、天長節。南禅寺から下鴨の家に移る。爾来こゝを潺湲亭と名づける。南禅寺の家へは入れ変わつて明さん夫婦が這入る。」とあります。ここで書かれている「中塚さん」とはで谷崎潤一郎が間借りしていたお宅で、谷崎潤一郎の後を渡辺一家が借りていたようです。谷崎潤一郎は本当によく引越しをする人です。

左上の写真が「後の潺湲亭」です。この後、谷崎潤一郎は熱海に転居しますが、昭和31年12月この「後の潺湲亭」を日新電機に売却します。そして「後の潺湲亭」の名前を「石村亭」と変えます。残念ながら平成2年二階建てが解体さ れています。写真の後ろ側は軋(ただす)の森の下鴨神社です。下鴨神社は私のもっとも好きな神社の一つです。

渡辺邸:北白川仕伏町>
   2007年6月18日 追加
 義理の娘の”渡辺たおり”とは、谷崎松子と根津清太郎の子供の清治を松子の妹(渡辺重子)の養子にした後、結婚した清治の子供が”たおり”となるわけです。「後の潺湲亭」を日新電機に売却後、京都での滞在場所は渡辺清治・千萬子夫妻の左京区北白川の家でした。その当時の事を谷崎潤一郎は、「…渡辺の義妹が伜に嫁を迎へて間もなく、北白川の仕伏町の、市内とは名ばかりの山里に家を持った時、私はそんなに賛成の意は表さなかった。その頃私は長わづらひの後で、歩行が自由でなかつたのに、その家へ行くには自動車を下りて三四丁も歩かなければならないと聞き、家を持つならもう少し出入りの便利な所にしたらよささうなものを、たまには若夫婦の新家庭を覗きたくもあるし、何よりもたをりの背丈の伸びて行くさまを見に行きたがる老人の気持を汲んではしかったのであった。義妹の話だと、そこは如意岳の西北の麓の、後白河法皇以来の古い由緒のある土地で、明治になってからも北白川宮の御殿があった所である、…」、とあります。(渡辺清治は根津清太郎と松子夫人との間に生まれた子で、重子が明に死別してのち養嗣子に迎えます。清治の結婚相手が高折病院の令嬢千萬子で、千萬子の母は橋本関雪の娘で、松子夫人の友人でした)

左上の写真の少し先の左側になります。当時の家はもうありませんが、上記に書かれている雰囲気はそのままでした。現在では車でここまでこれるようになっていますが、当時は無理だったのでしょう。


tanizaki-kyoto18w.jpg渡辺邸:法然院下>
 「後の潺湲亭」を日新電機に売却後、京都での滞在場所は渡辺清治・千萬子夫妻の左京区北白川の家でした。しかし渡辺家は北白川の旧宅あたりがすっかり宅地化してしまったため、家を新築します。その当時の事を渡辺たをりの「花は桜、魚は鯛」では「……私たちは京都の北白川に住んでいましたが、昭和三十九年、法然院下のいまの場所に家を新築しました。祖父は私たち一家が家を建てるにあたって、「北は修学院まで、南は南禅寺まで、左京区内の東側に限る」という条件を出したそうです。母はいまでも、「ほかにもいいところはあったんだけど、条件にあったのはここだけだったのよ」と言います。法然院下の土地が見つかる前に、祖父は法然院を墓所と決めていました。ある日、その墓所のためのお金を持って祖父の代理として法然院に使いに行った母は、その場でこのお寺の山門前の土地の一部が売られることを知ったのでした。── 鹿ヶ谷の地所にアナタの家を建てること大賛成です、さうしたら私たちも泊りに行けます、死後もそばにゐられます。三十七年十二月五日には祖父からこんな手紙も来て、法然院下に家を建てることになったのでした。」とあります。

左上の写真が現在の渡辺邸です。裏側が法然院の丁度前辺りで、正面は疎水と哲学の道となっています。環境抜群の所です。一階が「アトリエ・ド・カフェ」という喫茶店になっていて、コーヒー、紅茶、自家製の季節のシャーベット等があります。


tanizaki-kyoto20w.jpg春琴堂書店>
  谷崎潤一郎夫妻が昭和19年4月熱海に疎開すると、魚崎の留守宅を信子やお手伝いの久保一枝が守っていました。お手伝いの久保一枝は既に結婚していましたが戦後も引き続いて京都でも谷崎家に仕えます。谷崎潤一郎の「三つの場合」のなかでは「十月廿七日より十二月六日まで毎日興野と東京との間を往復し、七日下目黒の根津清治の宿に泊り、八日午前三時起床、四時二十分頃出発目黒駅より省線にて東京駅に出、午前五時二十五分発普通列車に乗る。午後八時大阪着、九時無事に尼崎の章ちやん夫婦に迎へられる。八日より十三日まで布谷氏方に厄介になり、十四日午前四時起床、四時半出発。久保一枝氏(現京都春琴堂書店主夫人)も昨夜から泊り込んでゐて一緒に勝山まで同道することになる。」とあり、魚崎から勝山まで手伝いに行っていた事がわかります。昭和22年9月、久保夫妻は東山一条付近に古本屋をだし、10年後現在の地にお店をだします。店の名は谷崎潤一郎が「春琴堂」と名付けます。この久保一枝は「細雪のお春どん」としてや「台所太平記のはる」としても登場します。

左の写真が現在の春琴堂書店です。近くに京都大学があり、なかなかいい場所にあります。

法然院の墓>
   2007年6月18日 追加
   2008年4月5日 写真を取替(08/04/5撮影)と一部修正

 谷崎潤一郎夫妻のお墓は法然院にあります。生前に決められていたようです。生まれた東京でも、神戸でも、熱海でもなく、やっぱり京都なのですね。
「…夫と世を隔てて翌年の春、平安神宮の桜を思い起さないではなかったが、あの花を独りで見る悲しさに堪えきれるものでなく、花に誘われて遠い遠い雲の彼方へ魂は連れ去られ、此の身だけが妨々としだれる花にそと触れられながら横たわっている。そんな空想をしながら家に籠っていた。 法然院の墓所に移し植えた紅枝垂も去年は愛らしい花をつけた。…」、
と松子さんは書いています。

左の写真が法然院のお墓と桜の木です。やっと桜の咲いた写真を撮影することができました(桜の木の下にお墓があります)。昔に比べて桜の木が大きくなりました。お墓の写真を掲載しておきます(左が谷崎潤一郎と松子さん、右が渡辺家のようです)。


【関連住所】
・喜志元:京都市東山区下河原通上弁天町436 (閉館)
・前の潺湲亭:京都市左京区南禅寺下河原町
・後の潺湲亭:京都市左京区下鴨泉川町
・アトリエ・ド・カフェ:京都府京都市左京区鹿ヶ谷法然院町72 075-751-7914
・春琴堂書店:左京区牛宮町3

【参考文献】
・追憶の達人:嵐山光三郎、新潮社
・文人悪食:嵐山光三郎、新潮文庫
・細雪:谷崎潤一郎、新潮文庫(上、中、下)
・新潮日本文学アルバム 谷崎潤一郎:新潮社
・谷崎潤一郎「細雪」そして芦屋:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・芦屋市谷崎潤一郎記念館パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・倚松庵パンフレット:神戸市都市計画局
・富田砕花断パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・谷崎潤一郎の阪神時代:市居義彬、曙文庫
・谷崎潤一郎--京都への愛着--:河野仁昭 京都新聞社
・伝記谷崎潤一郎:野村尚吾 六興出版
・谷崎潤一郎 風土と文学:野村尚吾 中央公論社
・神と玩具との間 昭和初期の谷崎潤一郎:秦慎平 六興出版
・倚松庵の夢:谷崎松子、中央公論社
・谷崎潤一郎全集(28巻):中央公論社(昭和41年版)
・わが道は京都岡崎から:深江浩、ナカニシヤ出版
・花は桜、魚は鯛:渡辺たおり、中公文庫

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