< 前の潺湲亭(せんかんてい)>
昭和21年11月24日、南禅寺近くに一軒家を求めます。その時の事を谷崎潤一郎の「潺湲亭のことその他」では「三月にひとりで京へ出て来た私は、五月の末に家族たちをも呼び迎へて、兎も角も寺町今出川に当座の間借りをして暮してゐたが、八月の上旬に知らしてくれる人があって南禅寺の家の話をきめることが出来た。初めて私がその家を見に行ったのは、ちやうど旅行に出かけようと云ふ日のことで、汽車の時間がびどく切迫してゐる時に大急ぎで三十分ほど立ち寄つたのであったが、現在その家に住んでゐる年老いた主人に面会し、その人の案内で座敷を一通り見せて貰ふと、ばたばたときめてしまったのである。その家は、南禅寺の門前から永観堂や若王子の方へ行く道にあって、うしろに白川が流れてゐ、一番奥の八畳の間は水に沿うて建てられてゐて、窓の下をゆくせゝらぎの音がすわってゐてもしめやかに聞えた。」と書いています。冒頭に書いた水上勉もこの家を訪ねたわけです。よっぽどこの家の事が嬉しかったと見えて、この家に名前を付けるに該って「潺湲居」、「潺湲亭」と悩んだようですが「潺湲亭」として錢痩鐡氏に篆刻(てんこく:印材に文字をほること)と額の揮毫(きごう:書画をかくこと)をお願いしています。
★右上の写真、右側が「前の潺湲亭」の跡です。深江浩の「わが道は京都岡崎から」では「岡崎神社から東、丸太町通が白川通と交わるところを南へ折れ、バス道に沿ってものの五分も歩くと、白川のほとり、谷崎の潺湲亭の跡に出る。南禅寺下河原町五二番地である。現在、京土開発株式会社とその隣のTさんというお宅に分かれているが、もとは両方合わせた一一二坪ばかりの敷地であったという。」とあります。写真の白川側はなかなか雰囲気があっていいのですが、反対側のバス道は車の通行も多くて、昔の面影はありません。ただ永観堂の入口であり、周りの環境はなかなかです。
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