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最終更新日:2006年6月23日


●谷崎潤一郎の西宮・芦屋・神戸を歩く 2002年1月19日 <V03L02>

 関東大震災の後、一時京都に滞在しますが、大正12年12月から昭和19年4月まで関西に住居をかまえます。谷崎潤一郎が大正14年の文藝春秋「阪神見聞録」で大阪の人について書いています。「大阪の人は電車の中で、平気で子供に小便をさせる人種である、――と、かう云つたらば東京人は驚くだらうが、此れは嘘でも何でもない。事實私はさう云ふ光景を二度も見てゐる。尤も市内電車ではなく、二度とも阪急電車であつたが、此の阪急が大阪附近の電車の中で一番客種がいいと云ふに至つては、更に吃驚せざるを得ない。……大阪の人――それも相當教養のあるらしい、サラリーメン階級の人々 − は、電車の中で見知らぬ人の新聞を借りて読むことを、少しも不作法とは考へてゐないやうである。それも長い汽車の道中とか、つい隣席にゐる人の物なら分つた話だが、大阪人のはその借り方がいかにも不躾で、づうづうしい。たとへば私が大朝と大毎の夕刊を買つて乗り込むとすると、執方か一つ、私の手に取らない方の新聞を、ちやんと眼をつけて直ぐ借りにくる。」とあります。いまの大阪でもこんな事はありませんよ。とくに阪急電車は一番品のいい電車ですよ。

和  暦

西暦

年    表

年齢

谷崎潤一郎の足跡

作  品

大正12年
1923
関東大震災
37
9月 関東大震災に遭う
兵庫県武庫郡精道村芦屋中ノ内伊藤方に滞在
10月 京都市上京区持統院中町17番地に転居
11月 京都市左京区東山三条下西要法寺に転居
12月 兵庫県武庫郡大社村越木に転居
お国と五平
大正13年
1924
中国で第一次国共合作
38
3月 兵庫県武庫郡本山村北畑字戸政249-1に転居  
大正14年
1925
治安維持法
日ソ国交回復
39
7月〜9月 京都 上京区黒谷山内西住院で過ごす
 
大正15年
昭和元年
1926
蒋介石北伐を開始
NHK設立
40
10月 兵庫県武庫郡本山村栄田259-1 好文園二号に転居 痴人の愛
昭和2年
1927
金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
41
7月 芥川龍之介の葬儀のため上京  
昭和3年
1928
最初の衆議院選挙
張作霖爆死
42
1月 兵庫県武庫郡本山村栄田259-1 好文園四号の別の家に転居
秋 兵庫県武庫郡本山村梅ノ谷1055に転居
 蓼喰う虫を東京日日新聞、大阪毎日新聞に掲載
昭和5年
1930
ロンドン軍縮会議
44
千代夫人と離婚  
昭和6年
1931
満州事変
45
1月 吉川丁末子と婚約
3月 千代の籍が抜ける
4月24日 丁末子と結婚式を挙げる
5月 和歌山県伊都郡高野町 竜泉院内に滞在
9月 根津家の善根寺、稲荷山の別荘に移る
11月 兵庫県武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在
吉野葛
昭和7年
1932
満州国建国
46
2月 兵庫県武庫郡魚崎町横屋川井550番地に転居
3月 魚崎町横屋字川井(西田)431-3に転居

12月 丁末子夫人と別居、本山村北畑字天王通り547-2に転居
盲目物語
昭和8年
1933
ナチス政権誕生
国際連盟脱退
47
7月 兵庫県武庫郡本山村北畑西ノ町448に転居 春琴抄
昭和9年
1934
丹那トンネル開通
48
3月 松子夫人と同棲始める(兵庫県武庫郡精道村内出宮塚16番地)
10月 丁末子夫人と正式離婚
文章読本
昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
49
1月 松子夫人と結婚式をあげる  
昭和11年
1936
2.26事件
50
11月 兵庫県武庫郡住吉村反高林1876番地に転居  
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
51
   
昭和14年
1939
ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
53
  源氏物語
昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
55
   
昭和18年
1943
ガダルカナル島撤退
57
11月 兵庫県武庫郡魚崎町魚崎728-37に転居 細雪(途中まで)

tanizaki-kobe12.w.jpg<苦楽園 満象館>
 関東大震災 の後、地震を避けて関西に移転してきた谷崎潤一郎は数カ月単位で神戸、京都、神戸と点々と住居をかえます。落ちついて住みだしたのが兵庫県武庫郡大社村越木岩山(苦楽園 満象館)(現在の西宮市苦楽園4番町5番地)です。阪急神戸線は大正9年7月開通(三宮まで全通するのは昭和11年)していますので夙川駅は既にありましたが駅からは2.5Kmほどあり、また苦楽園は山の上にあり、駅から歩くのは大変だったと思います。ただ山の上からの景色は絶景です。

左の写真が苦楽園のバス停留所です。写真でも右下がりの坂がかなり急なことが分かると思います。現在 苦楽園付近は阪神間の高級住宅街の一つで大きな家がたくさんあります。また山の上(丘かな)なので景色は絶景です(100万ドルの夜景が見えます)。


tanizaki-kobe16w.jpg<兵庫県武庫郡本山村北畑>
  苦楽園の次に移ったのが兵庫県武庫郡本山村北畑字戸政249-1(現在の神戸市東灘区本山北町3-9-11)です。此処は阪急神戸線の岡本駅と東海道線の摂津本山駅の直ぐ側で便利が良かったのだと思います。この当時の事を弟終平の「懐かしき人々」では「…本山村北畑に移った。これは小学校の隣りで、石垣で因んだ道路より高い処にモルタル塗の四角い家が四角の地所に「品」という字の右側の口がない様な、真中にコンクリートの道があって左側と突当りの小さな二間と三間の洋館に導かれる。台所は各々別々にあったから、別人が一軒ずつ借りても住めるが、兄が突当りの家を書斎と客室にして、我々は入口に近い左側の三間の家に住んだ。……兄の書斎の後ろは又石垣で高くなっていてそこを阪急電車が走っていた。」と書かれています。

右の写真が兵庫県武庫郡本山村北畑字戸政249-1(現在の神戸市東灘区本山北町3丁目)です。写真の真ん中辺りにある階段を上がった先です。階段は昔のままで、その奥の家も当時のままだそうです(谷崎潤一郎「細雪」そして芦屋)。写真には写っていませんが左側に本山第一小学校があります。

tanizaki-kobe16w.jpg<好文園二号>
  大正15年10月、兵庫県武庫郡本山村栄田259 好文園二号に転居します。この転居も弟終平の「懐かしき人々」では「…北畑から「伊藤萬」の経営する、テニスコートなどもある、高級住宅地に移る。それは阪急岡本の駅に近い本山村岡本好文園二号…」と書いています。好文園は桜並木やテニスコートもあるリゾート風の高級住宅街だったそうです。また市居義彬によると、この孔文園については伊藤萬の経営ではなくて、伊藤萬次郎氏の個人経営だったようです。

右の写真の右側の家付近が好文園二号跡です。詳細に説明すると、道路幅が広がっており、好文園二号跡はやや道路寄りにあったはずです。この後、転居する四号は2軒向こう隣となりになります。

tanizaki-kobe18w.jpg<岡本の家>
 関西にきて初めて自宅を新築したのがここです。好文園から少し六甲山の方に登ったところで、野村尚吾の「谷崎潤一郎 風土と文学」では「だがその間、本山村好文園二号(現本山町岡本栄田四)に変り、さらに同地の梅ヶ谷(現本山町梅ノ谷四十二)に、円本景気のおかげで、大正十五年秋に生れて初めて自分の家を新築した。部屋の様子や装飾に、中国趣味を多く取りいれているのが特徴だが、この家は現在、当時のままあまり模様がえもされずに、クリセルという米国人が居住している。」とあります。この本が書かれたのは昭和48年で阪神大震災前ですので、建物は全壊し、付近の様子はすっかり変わってしまっています(ここが通称、”岡本の家”です)。

 昭和5年8月 谷崎潤一郎はここで佐藤春夫と共同で下記の挨拶状を出します(小田原時代から11年掛かっています)。
 
 拝啓
 炎暑之侯尊堂益々御清栄奉慶賀候
 陳者我等三人此度合議を以て千代は潤一郎と離別致し春夫と結婚致す事と相成り潤一郎娘鮎子は母と同居致す可く素より双方交際の儀は従前の通りにつき右御諒承の上一層の御厚誼を賜度何れ相当の仲人を立て御披露に可及侯へ共不取敢以寸楮御通知申上候      敬具
   昭和五年八月 日
                                     谷崎潤一郎
                                         千代
                                     佐藤 春夫
             様
               侍史
 尚小生は当分旅行致すべく不在中留守宅は春夫一家に托し候間この旨申し添へ候
                                     谷崎潤一郎

版下は谷崎自身が書き、弟終平が刷ったそうです。離婚後、谷崎潤一郎は離婚の騒ぎから逃れるため、高野山に避難していましたが、昭和6年4月 「夫人サロン」の記者の吉川丁末子と正式に結婚します。

左の写真が兵庫県武庫郡本山村梅ノ谷1055(現在の神戸市東灘区岡本7丁目)付近です。写真の左側の家の辺りなのですが地震ですっかり風景が変わってしまっています。変わっていないのはここからのすばらしい眺めだけです(写真を拡大して見て下さい)。


谷崎潤一郎の高野山を歩く
  谷崎潤一郎は千代と離婚後、25歳の吉川丁末子と結婚、借金の事もあり、高野山に隠匿します。

谷崎潤一郎の大阪を歩く
  高野山から東大阪の根津家別荘に移ります。


tanizaki-kobe10w.jpg<根津家別荘>
 谷崎潤一郎が三人目の妻となる松子夫人と始めてあったのは昭和2年、来阪していた芥川龍之介と共にでした。当時のことを松子夫人は「俺松庵の夢」の中で「夫の行きつけの南地のお茶屋のお内儀が、芥川氏を知っている、と云うことを聞いていたので、早速来阪の機会に逢わせて欲しいと頼んだ。間もなく報せがあって、お酒落もそこそこに、胸をときめかせて車を走らせた。……お座敷に招じ入れられた私は、芥川氏だけと思ったら、こちらは谷崎先生です、と紹介されてはっとしたが、直ぐに落着いて、初対向の挨拶を交わし、いささか上気しながら、先刻から続いていたらしいお二人の文学論を黙々ときいていた。」とあります。最初は゛芥川龍之介の方に興味があったようです。谷崎潤一郎も当時の事を芥川追悼記の「いたましき人」の中で君はその明くる日も亦私を引き止めて、ちようど根津さんの奥さんから誘われたのを幸い、私と一緒にダンス場を見に行こうと云うのである。そして私が根津夫人に敬意を表して、タキシードに着換えると、わざわぎ立ってタキシードのワイシャツのボタンを篏めてくれるのである。それはまるで色女のような親切さであった。」とこちらも書いています。松子夫人の夫の根津清太郎は、船場の有名な綿布問屋の一人息子で、また松子夫人の実家は大阪で名の知れた藤永田造船所の永田の一族でした。この時の松子夫人との出会いから少しづつ二人は親しくなっていきます。また松子夫人の好意により根津家の寮などを転々とします。最後に谷崎潤一郎が滞在したのが兵庫県武庫郡大社村森具字北蓮毛847の根津家別荘別棟です。

右の写真は阪急神戸線夙川駅です。兵庫県武庫郡大社村森具字北蓮毛847(現在の西宮市相生町12番付近)の根津家別荘別棟は夙川駅から歩いても10分位で丘の中腹にあったようで眺めの良い所です。

tanizaki-kobe24w.jpg<魚崎の仮寓>
 松子夫人の夫の根津清太郎の放蕩三昧により根津商店は傾いていきます。それに従って松子夫人も住いを転々とせざるを得なくなり、昭和7年頃は魚崎に仮住いをしています。谷崎潤一郎は松子夫人の仮住いがある魚崎の近く(魚崎町横屋字川井431-4(旧550番地))に昭和7年2月丁未子夫人と共に引っ越します。しかしながら魚崎の根津家の隣に借家が新築されると、すぐまた隣に移転します(魚崎町横屋字川井(西田)431-3)。当時の状況を松子夫人は「倚松庵の夢」の中で「阪神間の魚崎に居を定めていた頃のこと、偶々隣合わせに家を借りることになった。何方も借りの居で…」と書いています。この家で谷崎潤一郎は松子夫人に自分の思いを伝えたようです。またそのころのことを宇野千代が「男性と女性」(昭和四十一年四月号中央公論)に「昭和七年の頃、私は東郷青児と一緒に、阪神沿線の魚崎にある先生の仮住居を尋ねたことがある。……先生がすぐ隣家に住んでいた夫人を招じ入れて、夫人の踊りを私たちに見せたときのことである。その頃夫人はまだ谷崎先生の夫人ではなかった。文字通り、隣家の夫人であったのに、先生の招きによって、やや時をおいて先生の家に現われ、そのときには私には分らなかったが、たぶんあれが地唄舞であろう、扇をひろげて、とても静かな、音のないような舞を舞い、そのまま、実にその舞の続きのような所作で、隣家へ消えて行かれた。隣家の夫人と云う説明だけで、何の詰も聞かなかった私たちは、世にも不思議な人もあるもの、と思った。……先生は何の説明も与えずに、先生の抱いていられたあの激しい夫人への思慕の思いを、はんの通りすがりの者に過ぎない私たちにまで、伝えたかったのではなかったか。」と書いています。昭和7年12月丁未子夫人と離婚し、大正13年に住んでいた本山村北畑の所より阪急神戸線 を超えた山手の家に転居します(本山村北畑字天王通り547-2、現在の東灘区本山北町5-11-26で、ここでも直ぐ近くに一回転居しています)。ここに移ってから松子夫人はときどき訪ねていたようです。松子婦人は、夫である根津清太郎と魚崎から本庄村西青木三二二−一、青木の海の家跡に移っています。

左の写真が魚崎町横屋字川井(西田)431-3(現在の神戸市東灘区魚崎北町4丁目)辺りです。最初に魚崎に引っ越した住所は魚崎町横屋字川井431-4(現在の神戸市東灘区魚崎北町4丁目)です。何方も当時の面影は全くありません。

ashiya11w.jpg<富田砕花旧宅>
谷崎潤一郎が芦屋に転居したのは昭和9年3月。当時の?K兵庫県武庫都精道村打出下宮塚16(現在の芦屋市宮川町4-12)です。松子夫人の叔父の姓を借りた、水野寓という表札を出しています。家主の義弟にあたる詩人の富田砕花はその西隣に住んでいましたが、旧知の谷崎潤一郎が住んでいたのをずっと知らなかったようです。48歳の潤一郎と31歳の松子夫人は、同棲生活を始めます。松子夫人と根津晴太郎との離婚届が出されたのは、昭和9年4月で、その後、表札を(森田寓)に変えています(森田は松子の実家の姓)。昭和10年1月に正式の祝言を挙げています(「谷崎潤一郎「細雪」そして芦屋」を参照)。当時の事を松子夫人は「倚松庵の夢」の中で「仮住居に同じ屋根の下に起き臥しするようたなった頃が最も貧乏も底をつき、負債の利払いや税金の取り立てが行く先々まで追い付き、傷ましい程悩まされていた。私の衣類も自分でこそくぐらなかったが、気易い人に頼んで質屋に使に行って貰うこともあった。質札と云うものにお目に懸ったのはあとにもさきにも最初で最後であった。」と書いています。この頃が一番苦労したころのようです。

右の写真が富田砕花旧宅です。阪神芦屋駅から線路の一つ南の道を東へ歩くと宮川の手前に、石をはめ込み瓦を上に置いた土塀の家があります。階下が四間と台所、二階が四間、門のわきに中二階の納戸があります。家賃は70円。現在だと25万円ほどだと思います。母屋は戦災で焼けてしまいましたが、写真の門と右側の建物は焼け残ったそうです。

tanizaki-kobe20w.jpg<倚松庵(いしょうあん)>
 谷崎潤一郎はこの?L「倚松庵」に昭和11年11月から昭和18年11月まで、関西移住のなかでは一番長く住んでいました。もとの「倚松庵」は現在地より南へ150mの位置にありましたが、住吉川右岸線の道路築造工事のため、この場所に神戸市が平成2年7月に移築したものです。「倚松庵」の名を谷崎潤一郎が最初に使ったのは、昭和7年春に当時いた夙川の家でした。「松によりかかっている住まい」という意味です。この住吉川畔にも松が多く、その名が使われました。関西に移住して谷崎文学が花開いたのは、松子夫人との出合いだったようです。昭和9年末に松子夫人の妹の重子、信子を引き取り、松子夫人の娘の恵美子と合わせて女4人+谷崎潤一郎の生活が始まりました。「細雪」が執筆出来たのは船場の女であるこの姉妹の日常を観察できたおかげだと言われています。(「倚松庵」パンフレットより)。野村尚吾の「伝記谷崎潤一郎」によると潤一郎一家は、十一月に住吉村反高林に移った。阪神魚崎駅から川に沿って北にすこし行った左側にある。ここに移ってから、家主の了解をえて、書斎を新築した。別棟の離れで六畳と三畳である。この家も打出と同じく、石垣塀をめぐらし、大きな七八本の松が塀から高々とそびえて見える。打出の家にも数本の松が塀越しに見えたが、しかし反高林の家は松に囲われた感じがあって、いかにも「僑松庵」の名にふさわしい。それまではただ雅号にすぎなかったのだが、ここに移って初めて、住いもろともの命名となった観がある。」と書いています。

左の写真が「倚松庵」です。住吉川沿いにあり、風景明媚だったのですが、川の上に新交通が走りだしてから少し風景が変わりました残念です。建物の内部は昔そのままで、なかなか雰囲気が出ています。

●建築年月 昭和4年8月 ●移築年月 平成2年7月
●開館時間/午前10時〜午後4時 ●開館日/土曜日・日曜日(年末年始除く) ●入館料/無 料

tanizaki-kobe22w.jpg<神戸最後の住まい>
昭和18年11月には住吉川を挟んで丁度反対側に転居し、ここが神戸での最後の住いとなります。住所は兵庫県武庫郡魚崎町魚崎728-37(現在は東灘区魚崎中町4丁目)です。


右の写真が富兵庫県武庫郡魚崎町魚崎728-37です。写真の手前から二軒目です。

 昭和19年 空襲が阪神間に及ぶにつれて谷崎潤一郎は津山、勝山と疎開します。次回は疎開日記を中心にして、津山から勝山を歩きます。
 

谷崎潤一郎の神戸地図(見たい所をクリックしてください)
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【参考文献】
・追憶の達人:嵐山光三郎、新潮社
・文人悪食:嵐山光三郎、新潮文庫
・細雪:谷崎潤一郎、新潮文庫(上、中、下)
・新潮日本文学アルバム 谷崎潤一郎:新潮社
・谷崎潤一郎「細雪」そして芦屋:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・芦屋市谷崎潤一郎記念館パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・倚松庵パンフレット:神戸市都市計画局
・富田砕花断パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・谷崎潤一郎--京都への愛着--:河野仁昭 京都新聞社
・伝記谷崎潤一郎:野村尚吾 六興出版
・谷崎潤一郎 風土と文学:野村尚吾 中央公論社
・神と玩具との間 昭和初期の谷崎潤一郎:秦慎平 六興出版
・谷崎潤一郎の阪神時代:曙文庫、市居義彬
・倚松庵の夢:谷崎松子、中央公論社
・谷崎潤一郎全集(28巻):中央公論社(昭和41年版)

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