<早川口 旅館かめや> 大正2年頃になると谷崎潤一郎は文壇でかなり有名になり、来客が多く神保町の裏長屋には居られなかったみたいで旅館住まいをしていたようです。この当時のことを弟精二は「明治の日本橋・潤一郎の手紙」のなかで「大正二年七月、私は早稲田の文科を卒業したが、卒業試験が済んだ翌日、一人で伊豆地方へ旅行に出た。その途中小田原の近くの早川という町の其旅館に滞在している兄を訪れる気になった。事情があって(女性関係のことだったか知れない。)兄は住所を世間に知らさず、中央公論の滝田氏だけが知っていた。偶然電車の中で滝田氏に会い、同氏から私は兄の住所を聞いたのだった。」と書いています。しかしながら同じ本の中で「この年の七月に私は早稲田の文学部を卒業したのだが、卒業試験が終った晩、二三人の友人と牛込神楽坂のレストランの二階で祝盃をあげた。偶然隣のテーブルに滝田氏が居合せ、酔ったまぎれに私は滝田氏に話しかけ、ついでに兄が早川の旅館に滞在していることを聞いた。」ともあります。どちらが本当なのでしょうか同じ本の中なので不思議ですね。
★左の写真が東海道線の早川駅です。昔のままの駅で、当時もあまり変わらない風景だったのではないかと思います。「旅館かめや」はここから旧道を少し歩いた箱根登山鉄道バスの「早川駅入口」の真前にありました。現在はダイビング屋みたいで、船の名前が「かめや丸」になっていました。
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