kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2006年2月20日

tanizaki-title2.gif


●谷崎潤一郎の小田原、箱根を歩く 2001年12月29日 V02L01

<谷崎潤一郎の小田原>

 谷崎潤一郎が関係する神奈川県の西側の鵠沼、小田原、箱根を歩いてみます。そのころの小田原を野村尚吾の「谷崎潤一郎 風土と文学」では「そのころの小田原は、東海道線の国府津駅から箱根湯本行きの電車に乗換えて行かねばならず、現在の小田原駅はまだなかった。熱海に行くには、さらに早川口から軽便鉄道に乗換える不便さだった。箱根、熱海の温泉地に行くためのローカル駅であり、漁業を主にした城下町だった。」とあります。当時は東海道線は国府津駅から御殿場経由であり、まだ丹那トンネル(開通は昭和9年)は開通していませんでした。
 

和  暦

西暦

年    表

年齢

谷崎潤一郎の足跡

作  品

明治40年 1907   21 6月 北村家から出される(穂積フクとの恋愛問題起こる)  
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 28 小田原早川口の「旅館かめや」に滞在  
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 29 5月 石川千代と結婚、本所区向島新小梅町4番地16号に新居を構える  
大正7年 1918   32 3月 神奈川県鵠沼海岸の「あづまや別館」に滞在 人魚の嘆き
大正8年 1919   33 2月 父倉五郎が病死
3月 本郷区曙町10番地に転居
12月 小田原十字町三丁目706番地に転居
美食倶楽部
大正9年 1920 国際連盟成立 35 大正活映の脚本部顧問になる  
大正10年 1921   36 3月 小田原事件(佐藤春夫と千代)
9月 横浜の本牧宮原883に転居
十五夜物語

tanizaki-odawara14w.jpg<穂積フク>
 「この初恋の女性は、潤一郎が一高時代に家庭教師兼書生として住込んでいた北村家に、行儀見習に来ていた小間使いである。そこで二人の間柄が主人に知れて、娘の福子は親許へ帰され、潤一郎も主家を追われて、一高の菜寮一番室に移らざるをえなくなったことは前に書いた。その後も二人の恋愛関係は続き、潤一郎がたびたび小田原から、箱根塔之沢まで出かけて行ったこともあり、娘もまた東京へ逃げ出して来たりした。……津島寿一が、「……当時もその後も、私は極秘にした事柄だが、谷崎に頼まれて福子さんを私の下宿へ預ったのであった」とはっきり言ってのけている。と野村尚吾の「谷崎潤一郎 風土と文学」に書かれています。前回の「谷崎潤一郎の東京を歩く」で府立第一中学校の学費のために精養軒の主人北村重昌の築地の家に、書生兼家庭教師として住み込んでいた時のことで、ここに行儀見習いとして箱根塔之澤の温泉旅館からきていた福子さんと恋仲になるわけです。谷崎潤一郎、人生で初めての女性問題を抱えます。

左の写真は箱根塔之澤の現在の環翠楼です。福子の本名は穂積フクといい、箱根塔之澤の旅館松本屋の娘でした。松本屋は現在の環翠楼の上手隣にあったそうです。穂積フクは明治22年3月15日生まれで墓は浄福院跡にあります。(現在はお寺はなく、お墓のみあります、下記の地図を参照して下さい)

tanizaki-odawara12w.jpg<早川口 旅館かめや>
 大正2年頃になると谷崎潤一郎は文壇でかなり有名になり、来客が多く神保町の裏長屋には居られなかったみたいで旅館住まいをしていたようです。この当時のことを弟精二は「明治の日本橋・潤一郎の手紙」のなかで「大正二年七月、私は早稲田の文科を卒業したが、卒業試験が済んだ翌日、一人で伊豆地方へ旅行に出た。その途中小田原の近くの早川という町の其旅館に滞在している兄を訪れる気になった。事情があって(女性関係のことだったか知れない。)兄は住所を世間に知らさず、中央公論の滝田氏だけが知っていた。偶然電車の中で滝田氏に会い、同氏から私は兄の住所を聞いたのだった。」と書いています。しかしながら同じ本の中で「この年の七月に私は早稲田の文学部を卒業したのだが、卒業試験が終った晩、二三人の友人と牛込神楽坂のレストランの二階で祝盃をあげた。偶然隣のテーブルに滝田氏が居合せ、酔ったまぎれに私は滝田氏に話しかけ、ついでに兄が早川の旅館に滞在していることを聞いた。」ともあります。どちらが本当なのでしょうか同じ本の中なので不思議ですね。

左の写真が東海道線の早川駅です。昔のままの駅で、当時もあまり変わらない風景だったのではないかと思います。「旅館かめや」はここから旧道を少し歩いた箱根登山鉄道バスの「早川駅入口」の真前にありました。現在はダイビング屋みたいで、船の名前が「かめや丸」になっていました。


tanizaki-odawara17w.jpg<鵠沼海岸の東屋>
 「潤一郎は翌年の三月になると、鵠沼の「あづまや」の別館に移った。この旅館兼料理屋には、潤一郎は明治四十四年十二月に、「中央公論」への第二作『悪魔』を執筆したさいにも、宿泊している馴染みの旅館である。(このあとまもなく、塔之沢で初恋の福子が死んだわけだ。)……現在も、代替りした「東家」が残っているけれども、家屋は大震災で潰れたし、敷地も多少変った場所に建っている。また潤一郎が、「あづまや」に住むようになってから、小説家仲間が多く行くようになった。佐藤春夫、芥川龍之介、久米正雄、宇野浩二などが遊びに行ったり、仕事を持って行くようになったので、夏の海水浴客だけでなく、かなり有名な旅館になっていった。せい子もしばしば出入りしており、馴染客の一人になっている。」と野村尚吾の「谷崎潤一郎 風土と文学」に書かれています。これは大正7年のことで、千代夫人の妹せい子と第二の女性問題を起こします。これが「小田原事件」に発展していきます。

右の写真が「あづまや」の建てられていた所です。そもそもこの地は別荘地として明治25年頃に開発された街で、当時は旅館が数軒あったそうです。中でも有名だったのが「東屋」で鵠沼海岸開拓の祖である伊藤将行により開業されましたが昭和14年に閉館、その後料亭になりましたが平成7年に閉めています

tanizaki-odawara10w.jpg<小田原十字町>
  谷崎潤一郎は大正44年5月 石川千代と結婚 本所区向島新小梅町4番地16号に新居をかまえます(現在の墨田公園付近)。その後大正18年に小田原に転居します。移った翌年から潤一郎は横浜に創設された「大正活映」に関係し、横浜に出かけることが多くなります。そのため佐藤春夫との間に「小田原事件」が起こります。野村尚吾の「谷崎潤一郎 風土と文学」では「小田原のこの家には、大正十年九月まで、約一年十カ月ほど住んでいたが、この期間に有名な谷崎潤一郎と佐藤春夫との間に、ややっこしい千代夫人の譲渡事件が、最初に持ちあがったわけである。佐藤春夫との交友は、本郷曙町時代から、急速に親密になっていた。……ところが潤一郎が、すこし以前から千代夫人の妹のせい子とねんごろになっていた。…冷遇されるその夫人に同情を寄せたのが、佐藤春夫であった。そうした入りくんだ関係が、小田原移住後まで継続され、春夫は十字町の家に泊ったり、近くの養生館に逗留したりして親密な交際がつづいていたが、そこで一つの解決が見出されそうにまでなった。−潤一郎夫妻は離婚し、春夫が千代を妻にむかえ、潤一郎がせい子と同居するという話しあいが一応出来たのであるが、急に潤一郎が翻意して、ご破算にしたため、春夫は憤慨して絶交になった。」とあります。これが世に言う「小田原事件」なのです。佐藤春夫と千代夫人との結婚はこれにより約十年間も先送りされます。

右の写真が現在の南町二丁目(昔の小田原十字町三丁目706番地)付近です。丁度写真の左側が小田原文学館です。移転の理由については谷崎終平の「懐かしき人々」では「大正八年の暮に北原白秋氏のお世話で小田原に引越した。家中が腺病質だったからか? それとも前に兄が滞在した事のある土地ゆえか。小田原は城下町の名残りがあって静かな東京より暖かく良い処であった。その頃十字町の「さいかち通り」といった電車通りを海寄りの方へはいった静かな通りがあった。割合道幅の広い通りで、真直ぐ箱根の方へ続く裏通りだが、大きな建物は水産講習所があるだけで、後は両側とも桜並木で、屋敷町の観があり、両側の家の前は二尺ばかりの幅で溝川が流れていて、処々の石垣の間に鰻が住んでいた。」と書かれています。下記の地図でも分かりますが、溝川は無くなりましたが街並みは写真の通り昔のままですね。歩いても雰囲気のいい所です。


「谷崎潤一郎」小田原、塔之澤付近地図
tanizaki-odawara-map1.gif



【参考文献】
・追憶の達人:嵐山光三郎、新潮社
・文人悪食:嵐山光三郎、新潮文庫
・細雪:谷崎潤一郎、新潮文庫(上、中、下)
・新潮日本文学アルバム 谷崎潤一郎:新潮社
・谷崎潤一郎「細雪」そして芦屋から:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・芦屋市谷崎潤一郎記念館パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・倚松庵パンフレット:神戸市都市計画局
・富田砕花断パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・明治の日本橋・潤一郎の手紙:谷崎精二、新樹社
・懐かしき人々:谷崎終平、文藝春秋
・谷崎潤一郎--京都への愛着--:河野仁昭 京都新聞社
・伝記谷崎潤一郎:野村尚吾 六興出版
・谷崎潤一郎 風土と文学:野村尚吾 中央公論社
・神と玩具との間 昭和初期の谷崎潤一郎:秦慎平 六興出版
・谷崎潤一郎全集(28巻):中央公論社(昭和41年版)
 
 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール