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最終更新日:2006年2月20日

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●谷崎潤一郎の熱海を歩く 2002年3月2日 V01L02


 今週は”谷崎潤一郎の熱海を歩く”です。谷崎潤一郎は昭和17年熱海の西山に別荘を購入します。ここを家族が利用し始めたのは昭和19年4月で、当時の居住地であった神戸魚崎が空襲にあう危険がでてきたので、熱海に疎開します。当時の谷崎潤一郎の事を、同じく熱海に疎開していた宇野千代が「生きて行く私」の中で書いています。「私たちは熱海町来宮駅の近くにある、或る別荘の一室を借りて疎開した。秋になって、つい、その近くに谷崎潤一郎が疎開して来ていて、しばしば、潤一郎自身が私たちのところへまでやって釆たので、私はこの大先輩を迎えて恐縮し、何を話題にしたものかと狼狽して、その意を迎える積もりででもあったのか、「先生。フランスの『クレーヴの奥方』は、日本の『源氏物語』に似ている、そうお思いにはなりませんでしょうか」。潤一郎は返事もしなかった。そして、ぼつりと、「この辺りに今日、豚肉が入ったらしいと言うことを、聞いて来たのだが」と言うではないか。この大先輩もまた、食糧を求めて、わざわざ、私たちのところへまで釆たのだと分かったとき、私がどんなに喜んだか。……私はその日から、鶏肉、じやが藷、白米、鰤の切り身などが手に入るたびに、谷崎家に通報した。この非常時に、そんなことの出来るのが自慢であったとは、何と言うことか。」やっぱり宇野千代はすごいの一言です。又このことを谷崎潤一郎の「疎開日記」では七月十一日、雨後晴夜爽風雨あり五時過ぎに至りて晴る、……午後午睡中北原民夫妻来訪せりとて起さる、サイパン嶋すでに占領されたる由を宇野氏に聞く、八月十七日、晴 終日執筆三枚進行、夕刻宇野千代氏鶏一羽持参代三十園也」とあり、サラッと書いています。戦後、京都に住みますが、京都の冬の底冷えの寒さに耐えられず、昭和25年再び熱海に転居します。

和  暦

西暦

年    表

年齢

谷崎潤一郎の足跡

作  品

昭和17年 1942   56 3月 熱海ホテルにて「細雪」の執筆にかかる
4月 熱海市西山598番地に別荘を購入
 
昭和19年 1944   58 4月 熱海市西山の別荘に家族とともに疎開  
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
59 5月6日 神戸魚崎に戻る
5月15日 岡山県津山市小田中八子 松平別邸に疎開
7月 岡山県真庭郡勝山町新町に疎開
 
昭和21年 1946   60 3月 京都、下河原の旅館、喜志元に滞在
5月 京都市上京区寺町通今出川上ル5丁目鶴山町3番地の1、中塚せい方に転居
11月 京都市左京区南禅寺下河原町52「前の潺湲亭」に転居
細雪上巻
昭和22年 1947 中華人民共和国成立 61   細雪中巻
昭和23年 1948 朝鮮戦争 62   細雪下巻
昭和24年 1949   63 4月 京都市左京区下鴨泉川町5番地「後の潺湲亭」に転居 少将滋幹の母
昭和25年 1950   64 2月 熱海市仲田805 別荘「先の雪後庵」に転居  
昭和26年 1951   66    
昭和29年 1952   68 2月 熱海市伊豆山鳴沢1135番地「後の雪後庵」に転居  
昭和30年 1955 自由民主党結成 69   幼少時代
昭和31年 1956   70 京都下鴨の家を売却
左京区北白川仕伏町3番地の渡辺家を宿とする
昭和34年 1959 皇太子殿下ご成婚 73   夢の浮橋
昭和36年 1961   75   瘋癲老人日記
昭和37年 1962   76   台所太平記
昭和38年 1963   77 4月 「後の雪後庵」を売却
一時 熱海市西山町614 吉川英治別邸、文京区関口町の目白台アパートに住む
雪後庵夜話
昭和39年 1964 オリンピック東京大会 78 7月 神奈川県湯河原町吉浜字蓬が原1895-104に転居 続雪後庵夜話
昭和40年 1965   79 7月30日 死去  

tanizaki-atami14w.jpg<熱海市西山598番地>
 家族を神戸魚崎に置いて単身熱海にて「細雪」の執筆活動に入ったため、松子夫人に”いいわけ”の手紙を書いています。昭和17年3月21日の日付で「…何にしても今回もまた折角の別荘を見て頂く事が出爽ず残念であります、熱海に家を持てバ東京の親戚や偕楽園などが時々ハ見えるかと存じますが決してあなた様に気がねをおさせ申すまじく其処ハうまく捌きますから御懸念にハ及びませぬ、……むしろ渡辺家や森田家の方々にせいぜい利用して頂く事を望みます、又決して決して関西がイヤになつた譯でもありませぬから余程の事態に立ち至らぬ限り一家を上げて引き移らうなどゝは考へて居りませぬ、只々萬一の場合の家族の避難所として、又冬の間のあなた様の避寒地としてハ絶好の所でありますし、又私の仕事のためにハ大変によいと思って居ります、…」となにやら言訳ばかり書いてある手紙です。(文中のカタカナは原文そのままです。旧漢字は一部換えています) 昭和19年になると神戸魚崎も空襲の危険がでてきたため家族で西山の別荘に疎開します。しかし昭和20年5月になると空襲が激しくなってきため西山の別荘を手放し、一時神戸魚崎に戻ります。

左の写真の左側半部が連月荘で、連月荘の右側に細い道があり、その上右側が熱海市西山598番地の谷崎潤一郎宅跡です。西山は来宮駅から来の宮神社を少し登ったところにあり、この付近は熱海でも特に温暖で、当時は近くに「重箱」という美味しい鰻屋もあったそうです。連月荘は谷崎潤一郎の「疎開日記」にたびたび登場します。「四月廿九日、晴 素晴らしき天気、よき天長節なり、笹沼二時頃来着、四人にて銀座まで散歩、蹄宅後温泉に入り食事す、アンコウ鍋、玉子焼、精進揚也、酒は日本酒意くして飲むに堪へず、笹沼のみ日本酒を飲み予等はりんご酒を飲む、笹沼夫婦今夜は戀月荘に泊る」とあります。


tanizaki-atami12w.jpg<先の雪後庵>
  戦後は暫く大好きな京都に住みます。しかし京都の夏の暑さと冬の底冷えに耐えられず昭和25年2月再び熱海に転居します。当時の事を野村尚吾の「伝記谷崎潤一郎」では「谷崎潤一郎は戦後も冬季は、避寒のため熱海に行くことが多かった。最初は昭和二十二年の暮に、熱海東町の第一ホテルに宿泊したが、まもなく旧友土屋計左右の計らいで、一月二十三日に同じ熱海の上天神町山王ホテルの敷地内にできている別荘に住むようになった。……「後の潺湲亭」に移って『少将滋幹の母』を脱稿した翌年、昭和二十五年二月に、熱海市仲田八〇五番地(現・水口町三−九)に別荘を一軒購入して引き移った。ちょうど『少将滋幹の母』が新聞 に連載中だった。来の宮駅前の坂を降りる途中を右に曲った所にあり、嶋中中央公論社長の別荘の隣りであった。(嶋中社長は一年あまり前にすでに死亡していた。)潤一郎は、戦後初めて手にいれた別荘に、「雪後庵」と名づけた。」とあります。しかしここも長くはつづかず、昭和28年5月「先の雪後庵」を売却します。その後は山王ホテル内の別荘を借り受けます。

右の写真が「先の雪後庵」です。来宮駅から少し下った所にあり、現在も家は当時のままで、谷崎潤一郎が好きそうな家の造りです。左隣が嶋中中央公論社長の別荘だったのですが、今は空き地になっています。写真の右側には移っていませんが有名な松竹荘があります。この別荘のいいところは、来宮駅から近いという事です。歩いて5分位です、ただ坂道なので駅への登りはすこしつらいです。

tanizaki-atami17w.jpg<後の雪後庵>
 昭和29年4月には熱海から車で15分位の伊豆山鳴沢に転居します。「先の雪後庵」は駅からも近く便利だったようですが、逆に別荘の周りに会社の寮や旅館などが出来て騒がしくなったり、表通りの交通が激しくなったりして、落ち着ける環境ではなくなっていました。伊豆山鳴沢の「後の雪後庵」については谷崎潤一郎は「高血圧症の思い出」の中で、「その年(昭和二十九年)の四月に、私は山王ホテルの知人の別荘を引き払って、今住んでいる伊豆山の鳴沢の山荘に移った。この家は河合良成氏の別荘の上にあって、真に景勝の地を占め、錦ケ浦、網代、川奈を始め七つの浦々を遠く望み、天城連峯、伊豆富士と云われる大室山、初島、大島、利島等を眼前に眺めることが出来、恐らく熱海でこれほどの景観をほしいままにする地は他にあるまいと思われる。」と書いています。下記に場所の説明をしますが、とにかく凄い所にあります。とにかく景色はすばらしいとおもいますが、お年寄りの方が自由に散歩できるようは場所ではありませんでした。

左の写真の真ん中上方に屋根が見えますが、この別荘が伊豆山鳴沢の「後の雪後庵」です。熱海から旧道を湯河原方面に走り、身代わり不動尊の先の道を左に登った興亜観音へ行く道の途中にあります。凄い上り坂を200m位登って(何とか車で登れます)そこから階段を50m位上がった右側にあります(廻っていけばもう少し上まで車で行けます)。現在は元新日鉄社長の稲山氏の所有になっています。表札も稲山ですので間違いないとおもいます。

tanizaki-atami19w.jpg<湯河原町吉浜の湘碧山房>
 約9年間、伊豆山鳴沢の「後の雪後庵」に住んだ後、再び転居します。今回は熱海から少し離れた湯河原町吉浜に冷暖房完備の新しい家を建てます。野村尚吾の「伝記谷崎潤一郎」では「翌七月になって、待望の新築の家が完成した。湯河原町吉浜蓬ケ平一入九五ノ一〇四である。この家を、湘碧山房と名づけた。……蜜柑畑の中に建って家の内から東海道本線の走るのが見え、相模湾の紺碧が視界いっばいに広がっていて、その点、伊豆山鳴沢の家からの眺めとやや似ていた。網代、川奈の七浦の湾曲は前の家の方がよく眺められたが、その代り初島がはっきりと近くに見下ろせた。雪後庵いらい、太陽にきらめく海面を眺めながら、仕事をするのを好むようになった。」とあります。しかし、この家に移っでから、だんだん健康状態が悪くなってきます。
 
右の写真が湯河原町吉浜の湘碧山房です。ここも分かりにくい所にあるのですが、周りが開けている分近くにいけばわかります。現在この別荘はピジョン株式会社の寮になっています。湯河原観光協会の湯河原散策ガイドによると見学希望の方は事前に湯河原町役場観光産業課まで申し込めば良いそうです。


谷崎潤一郎 熱海周辺地図(見たい所をクリックして下さい)



【参考文献】
・追憶の達人:嵐山光三郎、新潮社
・文人悪食:嵐山光三郎、新潮文庫
・細雪:谷崎潤一郎、新潮文庫(上、中、下)
・新潮日本文学アルバム 谷崎潤一郎:新潮社
・谷崎潤一郎「細雪」そして芦屋:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・芦屋市谷崎潤一郎記念館パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・倚松庵パンフレット:神戸市都市計画局
・富田砕花断パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・谷崎潤一郎の阪神時代:市居義彬、曙文庫
・谷崎潤一郎--京都への愛着--:河野仁昭 京都新聞社
・伝記谷崎潤一郎:野村尚吾 六興出版
・谷崎潤一郎 風土と文学:野村尚吾 中央公論社
・神と玩具との間 昭和初期の谷崎潤一郎:秦慎平 六興出版
・倚松庵の夢:谷崎松子、中央公論社
・谷崎潤一郎全集(28巻):中央公論社(昭和41年版)
・わが道は京都岡崎から:深江浩、ナカニシヤ出版
・花は桜、魚は鯛:渡辺たをり、中公文庫
・谷崎潤一郎君のこと:津島寿一

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