今週は、「谷崎潤一郎を歩く」の中で、やり残していた、”和歌山 高野山”と、”東大阪の根津家別荘”を歩いてみました。大阪に関しては、本町の根津商店跡、靱の実家等、まだ歩いておりませんので、「谷崎潤一郎の大阪を歩く 東大阪編」とします 。
<高野山> 谷崎潤一郎は、大正10年の小田原時代から、佐藤春夫と千代を巡る確執が続いていましたが、昭和5年夏、千代と佐藤春夫との結婚を承諾します。つまり、千代と離婚したわけです。そして、文藝春秋社に勤める吉川丁末子と再婚します。46歳と25歳の結婚でした。「…ここで正直に云ってしまうが、僕は丁末子との結婚に依って、始めてほんたうの夫婦生活というものを知った。精神的にも合致した夫婦と言うものの有り難味が、四十六に歳の今日になって漸く僕に分かった訳だ。…」、と46歳の谷崎潤一郎は言っています。”畳と××は新しい方がいい”と言いますが、谷崎潤一郎は、よほど若い嫁さんが良かったようです。弟の谷崎終平がこのお嫁さんについて書いています。「…丁末子さんは私より一つ年長でした。私は好意を持って貰いました。でも姉さんとはいえなかつたように思います。兄は「ちょいと!」と呼ぶのでした。次は「奥方はどこですか!」といいました。私もきっと「奥方」とでも云ってたのでしょう。…」。二人は結婚後すぐに高野山に登り、宿坊に滞在します。当時、谷崎潤一郎は金銭面で相当苦労していたようで、一高の同級生だった津島寿一(当時大蔵省財務官)に頼んで、税金滞納三千円を一年待ってもらっています。
【高野山 金剛峯寺】 高野山といえば金剛峯寺ですね。金剛峯寺の名称は弘法大師が命名されたもので高野山全体のの総称でした。豊臣秀吉が文禄2年(1593)亡母の菩提のために興山寺を建立、その後、落雷による火災により全焼しましたが文久3年(1863)再建されたのが現在の建物です。明治2年、青厳寺・興山寺を合併し金剛峯寺と改めます。奥の院には、織田信長、豊臣秀吉などの墓碑が数多くあります。
★左上の写真が高野山 金剛峯寺です。大阪 難波から南海高野線「特急こうや号」で約一時間半、南海極楽橋駅を降りるとケーブルカーで高野山駅まで昇ります。駅からバスで高野山の中心部まで約10分くらいです。高野山は和歌山県です。
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