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最終更新日:2006年2月20日

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●谷崎潤一郎の高野山を歩く 2004年2月14日 V01L01

 今週は、「谷崎潤一郎を歩く」の中で、やり残していた、”和歌山 高野山”と、”東大阪の根津家別荘”を歩いてみました。大阪に関しては、本町の根津商店跡、靱の実家等、まだ歩いておりませんので、「谷崎潤一郎の大阪を歩く 東大阪編」とします 。

<高野山>
 谷崎潤一郎は、大正10年の小田原時代から、佐藤春夫と千代を巡る確執が続いていましたが、昭和5年夏、千代と佐藤春夫との結婚を承諾します。つまり、千代と離婚したわけです。そして、文藝春秋社に勤める吉川丁末子と再婚します。46歳と25歳の結婚でした。「…ここで正直に云ってしまうが、僕は丁末子との結婚に依って、始めてほんたうの夫婦生活というものを知った。精神的にも合致した夫婦と言うものの有り難味が、四十六に歳の今日になって漸く僕に分かった訳だ。…」、と46歳の谷崎潤一郎は言っています。”畳と××は新しい方がいい”と言いますが、谷崎潤一郎は、よほど若い嫁さんが良かったようです。弟の谷崎終平がこのお嫁さんについて書いています。「…丁末子さんは私より一つ年長でした。私は好意を持って貰いました。でも姉さんとはいえなかつたように思います。兄は「ちょいと!」と呼ぶのでした。次は「奥方はどこですか!」といいました。私もきっと「奥方」とでも云ってたのでしょう。…」。二人は結婚後すぐに高野山に登り、宿坊に滞在します。当時、谷崎潤一郎は金銭面で相当苦労していたようで、一高の同級生だった津島寿一(当時大蔵省財務官)に頼んで、税金滞納三千円を一年待ってもらっています。

【高野山 金剛峯寺】
 高野山といえば金剛峯寺ですね。金剛峯寺の名称は弘法大師が命名されたもので高野山全体のの総称でした。豊臣秀吉が文禄2年(1593)亡母の菩提のために興山寺を建立、その後、落雷による火災により全焼しましたが文久3年(1863)再建されたのが現在の建物です。明治2年、青厳寺・興山寺を合併し金剛峯寺と改めます。奥の院には、織田信長、豊臣秀吉などの墓碑が数多くあります。

左上の写真が高野山 金剛峯寺です。大阪 難波から南海高野線「特急こうや号」で約一時間半、南海極楽橋駅を降りるとケーブルカーで高野山駅まで昇ります。駅からバスで高野山の中心部まで約10分くらいです。高野山は和歌山県です。

谷崎潤一郎の高野山年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

谷崎潤一郎の足跡

作  品

昭和3年 1928   43 秋 兵庫県武庫郡本山村梅ノ谷1055に転居  
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 45 8月 千代夫人と離婚   
昭和6年 1931 満州事変 46 1月 吉川丁末子と婚約
3月 千代の籍が抜ける
4月24日 丁末子と結婚式を挙げる
5月 和歌山県伊都郡高野町 竜泉院内に滞在
9月 根津家の善根寺、稲荷山の別荘に移る
11月 兵庫県武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在
吉野葛

tanizaki-hitachi15w.jpg<龍泉院>
 谷崎潤一郎と丁末子が高野山で宿泊したのが龍泉院です。当時の事を弟の谷崎終平が、「…唯夏休みに、佐藤家から文化学院に行っていた鮎子と一緒に当時高野山の泰雲院という坊を借りて避暑をしていた兄夫婦の処に一夏行きました。昭和六年のことです。親王院という厳格に精進しているお寺で普茶料理を御馳走になりましたが、こんな美味な精進料理を味わつたことは後にも先にもありません。……四間の部屋と附属した広い台所と風呂場がありました。先の水が絶えず流れていて、珍しかったのは便所でした。?字型に石組がしてあつてその溝に絶えず、小川のように水が流れているのです。それが丁度汚物の落ちる真下を洗っていくのです。天然の水を利用した文字通りの水洗式で、厠の語源を思わせるものでした。料理上手なお竹さんという女中さんが岡本から一緒に来ていました。…」、と書いています。まだ東大の学費を兄に頼っていたようで、学費が貰えないうちは東京に戻れなかったようです。離婚した千代さんとの間の子供の鮎子も連れてきています。

左の写真が龍泉院の入口に或る石碑です。戦前の建物であろう高野山警察署の隣です。この石碑の左側を少し入っていくと龍泉院の入口になります。この龍泉院の中に泰雲院があるはずなのですが、よく分かりませんでした。

tanizaki-hitachi16w.jpg<織田信長墓所>
 高野山の観光案内ということで、奥の院の墓碑を紹介します。奥の院の一の橋から御廟までの約2Kmの参道には、皇室、貴族関係をはじめ法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)の各宗派の開祖、上杉謙信、武田信玄、織田信長、伊達政宗、豊臣秀吉など、あらゆる階層の人々が供養塔を建立しています。今回は、その中から、織田信長の墓所を紹介しておきます。大きなお墓かとおもっていたら、小さいのでびっくりしました。豊臣家のお墓は大きくて、対比がおもしろいです。

右の写真が織田信長の墓所です。織田信長のお墓は高野山だけではなくて、本能寺(京都市中央区)、阿弥陀寺(京都市上京区)、大徳寺総見院(京都市北区)、崇福寺(岐阜市長良福光)にあります。どこのお墓がどうなのかは私にはよく分かりません。そのうち、調べておきます。


谷崎潤一郎 高野山地図


●谷崎潤一郎の大阪を歩く (東大阪編) 2004年2月14日 V01L01

  今週は、「谷崎潤一郎を歩く」の中で、やり残していた”東大阪の根津家別荘”を歩いてみました。大阪に関しては、本町の根津商店跡、靱の実家等、まだ歩いておりませんので、「谷崎潤一郎の大阪を歩く 東大阪編」とします。

<稲荷山遊園跡>
 東大阪の根津家別荘については殆ど書き物がなく、苦労しましたが、「大阪春秋 第81号」に”東大阪日下の町場商家の別荘−谷崎潤一郎も住んだ根津家の山荘−”として西田孝四郎氏が書かれているのを見つけ、この雑誌を基に歩いてみました。昭和初期になると大阪と奈良の県境、生駒山の北部西斜面の開発が始まります。「…大阪電気軌道会社(現近畿日本鉄道株式会社)が大正二年(一九一三)になって、近代の「直越え道」を拓いた。生駒トンネルである。そして翌年、上六−奈良間を開通させた。日下地区での最寄りの駅は、「鷲尾駅」(現額田駅)。近くの鷲尾山から採った。これからこの地区の住宅建設事情は様変わりする。何しろ日当たりが良く、河内平野はもちろん、大阪湾まで一望できる。しかも大軌電鉄で大阪市内から一時間。 大阪のええし(金持)、商店、会社などは見過ごすわけはない。われ先にともいうわけでもないが、高級住宅、別荘、社員寮などが続々建てられた。……それに当寺の成功、実力者らは二つの事を誇りにしていた。 別荘と遊園地を造ること。日下地区をはじめ、枚岡地区にかけて生駒山麓はその最適地となった。…」、根津家もご多分にもれず、生駒山山麓を所有し、遊園地と別荘をもちます。この別荘は最初、根津家と親戚の木津家が中河内郡善根寺村稲荷山(現東大阪市善根寺町一)に建てた別荘・従業員寮(大正二年)でしたが、後に根津家の所有となっています。「根津家は大阪市東区本町三丁目で貿易商を営み、また木綿問屋でもあった。大阪の靭公園の殆んどを所有していたほどで、今の総合商社に匹敵していた。」、そうです。凄いの一言ですね。

左上の写真は根津家別荘があった生駒山北部西斜面、阪奈道路下り線の南側の稲荷山です。石碑が残っていて、”左 稲荷山遊園”と書かれています。たぶん、右に行くと根津家別荘だったとおもいます。

谷崎潤一郎の大阪年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

谷崎潤一郎の足跡

作  品

昭和6年 1931 満州事変 46 1月 吉川丁末子と婚約
3月 千代の籍が抜ける
4月24日 丁末子と結婚式を挙げる
5月 和歌山県伊都郡高野町 竜泉院内に滞在
9月 根津家の善根寺、稲荷山の別荘に移る
11月 兵庫県武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在
吉野葛
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
46 2月 兵庫県武庫郡魚崎町横屋川井550番地に転居
3月 魚崎町横屋字川井(西田)431-3に転居

12月 丁末子夫人と別居、本山村北畑字天王通り547-2に転居
盲目物語

tanizaki-hitachi15w.jpg<根津家別荘の石灯篭とつくばい>
 大阪春秋に書かれた西田孝四郎氏が、谷崎潤一郎が滞在した稲荷山の根津家別荘を探されたようです。「…私は昭和三十一年(一九五六)から四十七年(一九七二) まで読売新聞大阪本社の記者として河内支局を担当した。ここに谷崎が住んでいたことは、この周辺を回っているうちに耳にはさみ、いつか調べて見ようと思っていた。……稲荷山は麓まで茂った雑草に覆われていた。どこから入っていいのかも分からなかった。比較的草の少ない南の方から雑草をかき分けて五〇メートルほど登って行くと、中から石垣が現れた。その付近の草を手で押し分けると、石灯篭(高さ二メートル)とつくばい(同)が見つかった。さらにその付近には敷石もあり、昔の別荘の庭園であったと認められた。庭園となれば、ここには当時の根津家の別荘・寮しかなかったのであり、当然谷崎の住んだところに間違いないと思われた。またそこから山頂に向かって、約一〇〇段の山石の階段も現れてきた。その山頂も草に覆われて、昔の遊園地の面影は全く見られなかったが、「稲荷山遊園地」の石標だけは残っていた。雑草の中を山頂を越え、向こう側に降りると、前方に自動車の走行する音が聞こえ、国道阪奈道路が走っているのに出くわした。その道路橋脚の直下まで来たとき、これも半ば草に理まっ元「木津家の石碑」を見つけたのである。…突き進んで調べてみると、稲荷祠の社殿は格子戸が大きく開かれたままになっていて、中の祭器は無残に散らばっていた。社殿前の狐の石像も欠けて朽ちていた。…」。私も、覚悟を決めて山の中を登っていこうとおもっていたのですが、現地を訪ねてみると、再開発の波が押し寄せていて、麓まで民家が建てられており、稲荷山も動物のお墓として再開発されつつありました。西田孝四郎氏は後に、上記に書かれている石灯籠とつくばいを東大阪市内の日下リージョンセンター前に移されました。

左の写真が東大阪市の日下リージョンセンター前に移された、根津家別荘の石灯籠とつくばいです。上記に書かれている、”石段”、阪奈道路の橋脚の脇にある”木津家の石碑”その先の”稲荷祠”も残っていました。

tanizaki-hitachi16w.jpg<根津家の別荘跡>
 谷崎潤一郎は昭和6年9月、高野山を降りては東大阪の根津家別荘に移ります。「…とにかく谷崎は高野山も安住のところでなくなって来ていたのである。 しかし金もなく、さしあたり行くあてもない。切羽詰まった状態であった。その時、松子夫人が救いの手を差し伸ばしてくれた。根津家の善根寺、稲荷山の別荘を貸してくれるよう夫の清太郎さんに頼んだ。当時、根津商店も、昭和初期の大経済不況の波を受け、経常は破綻に瀕していた。別荘や遊園地の管理や維持に手が回らず、この別荘・寮には住む者もなかった。しかし建物は建築後、一七、八年でたいして傷んでおらず、少し手を入れるだけで十分に住めた。そして大阪に近い山中の高級一軒家、谷崎好みの環境であった。 その上、谷崎がここに移ることに意欲的になったのは、稲荷山から南へ五〇〇メートルの所に、江戸時代の文人、上田秋成が住んでいた住居跡もあったからである。秋成は谷崎にとっては”文学開眼”の大先輩である。「雨月物語」をはじめ、多くの作品から感化を受けている。…」。とあります。僅か二ヶ月の間ですが、東大阪の根津家別荘に住みます。しかし、町からは余りに不便で、結局、阪急夙川駅近くの、こちらも根津家別荘ですが、移ります。

右の写真が根津家別荘があった稲荷山です。写真右側、山中にうっすらと白い線が見えますが、これか大阪と奈良を結ぶ阪奈道路 下り線です(阪奈道路は上り線と下り線が分かれています)。


谷崎潤一郎 東大阪市地図



【参考文献】
・追憶の達人:嵐山光三郎、新潮社
・文人悪食:嵐山光三郎、新潮文庫
・細雪:谷崎潤一郎、新潮文庫(上、中、下)
・新潮日本文学アルバム 谷崎潤一郎:新潮社
・谷崎潤一郎「細雪」そして芦屋:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・芦屋市谷崎潤一郎記念館パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・倚松庵パンフレット:神戸市都市計画局
・富田砕花断パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・谷崎潤一郎の阪神時代:市居義彬、曙文庫
・谷崎潤一郎--京都への愛着--:河野仁昭 京都新聞社
・伝記谷崎潤一郎:野村尚吾 六興出版
・谷崎潤一郎 風土と文学:野村尚吾 中央公論社
・神と玩具との間 昭和初期の谷崎潤一郎:秦慎平 六興出版
・倚松庵の夢:谷崎松子、中央公論社
・谷崎潤一郎全集(28巻):中央公論社(昭和41年版)
・わが道は京都岡崎から:深江浩、ナカニシヤ出版
・花は桜、魚は鯛:渡辺たをり、中公文庫
・谷崎潤一郎君のこと:津島寿一
・日立文学散歩:川崎松壽、筑波書林
・関伊三郎海外日記:関利保、第一印刷
・大阪春秋 81号:西田孝四郎、大阪春秋社
 
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