kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2006年2月20日


●谷崎潤一郎の東京を歩く 2001年12月24日 <V05L03>
<谷崎潤一郎の東京>
 明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれてから大正8年3月に本郷区曙町10番地に転居するまでの谷崎潤一郎の東京を追ってみます。父倉五郎の商売下手のため、年を経るに従って貧しくなっていきますが、周りの人々に助けられながら東京帝国大学に進み、文士の道を歩み始めます。住まいとしては大学までは日本橋界隈で過ごしますが、弟精二が早稲田大学に入学したため交通の便を考えて神田南神保町10番地に転居をします。此処での数年が谷崎潤一郎の一生の上で大事な時期となり、一生を左右する重大な事件も起こります。
 

和  暦

西暦

年    表

年齢

谷崎潤一郎の東京の足跡

作  品

明治19年
1886
帝国大学令公布
0 
東京市日本橋区蛎殻町2丁目14番地(現中央区日本橋人形町1-7)で生まれる  
明治24年
1891
大津事件
露仏同盟
5
浜町3丁目1番に転居
秋 南茅場町45番地に転居
 
明治25年
1892
第2次伊藤博文内閣成立
6
阪本小学校入学  
明治26年
1893
大本営条例公布
7
米穀取引所の裏の〇久商店に転居  
明治27年
1894
日清戦争
8
南茅場町56番地へ転居  
明治30年
1897
金本位制実施
11
4月 阪本小学校高等科に進級  
明治34年
1901
幸徳秋水ら社会民主党結成
15
3月 阪本小学校卒業
4月 府立第一中学校入学(現 日比谷高校)
 
明治35年
1902
日英同盟
16
6月 潤一郎は精養軒の主人北村家に住込
生家は神田鎌倉河岸21号地で下宿「鎌倉館」を営む
 
明治37年
1904
日露戦争
18
   
明治38年
1905
ポーツマス条約
19
3月 府立一中学卒業
9月 第一高等学校英法科文科に入学
 
明治40年
1907
義務教育6年制
21
6月 北村家から出される(穂積フクとの恋愛問題起こる)  
明治41年
1908
 
22
7月 第一高等学校卒業
実家は日本橋箱崎町4丁目1番地
9月 23歳 東京帝国大学国文科入学
 
明治42年
1909
 
23
転地療養  
明治43年
1910
日韓併合
24
4月 実家は神田南神保町10番地に転居 三田文学創刊
明治44年
1911
 
25
滝田樗陰と初めて遭う、三田文学で永井荷風絶賛  
大正元年
1912
中華民国成立
26
京橋区蒟蒻島の「真鶴館」に滞在  
大正2年
1913
島崎藤村フランスへ出発
27
7月 実家は日本橋箱崎町に転居  
大正3年
1914
第一次世界大戦始まる
28
小田原早川口の「旅館かめや」に滞在  
大正4年
1915
対華21ヶ条、排日運動
29
5月 石川千代と結婚、本所区向島新小梅町4番地16号に新居を構える  
大正5年
1916
世界恐慌始まる
30
3月 長女鮎子生まれる。
6月 小石川区原町15番地 、16番地に転居
 
大正6年
1917
ロシア革命
31
5月 母病死  
大正8年
1919
松井須磨子自殺
33
2月 父倉五郎が病死
3月 本郷区曙町10番地に転居
12月 小田原十字町三丁目706番地に転居
 

tanizaki-tokyo10w.jpg<谷崎潤一郎生誕の地>
 『私は多分それが私の四、五歳の時のことであったろうと思う記憶を、二つ、三つ持っている。』は谷崎潤一郎の「幼少時代」の書き出しです。この本は江戸の面影を残す明治中期の東京の下町に生まれ育った著者が、生い立ちから小学校卒業までの時期を描いている回想記です。
 谷崎潤一郎は明治19年(1886)年7月24日東京市日本橋区蛎殻町2-14(現中央区日本橋人形町1-7)の祖父が経営していた谷崎活版印刷所で生れています。「幼少時代」では『ここでちょっと、その活版所の位置と、付近の町の様子とを説明しておく必要があるが、戦争前に、都電が鎧橋の方から来て、水天宮の角を曲がって、人形町通りを小伝馬町の方へ伸びていく左側、・・・つい昨年あたりまで残っていた甘酒屋の向こう側の、清水屋という絵草子屋と瀬戸物屋の角を曲がった右側の、二つ目の角から西へ二軒目のところにその家はあった。この清水屋は今は玩具屋になり、瀬戸物屋は代が変わって「ちとせ」という佃煮屋になり、二階に「玉ひで」が越してきている・・・ 』は活版所の周りを説明していますが、現在は甘酒屋は玉英堂になり、清水屋はスガヤ果物店になっています。「ちとせ」はそのままで、二階の「玉ひで」もそのままです。

左の写真が谷崎潤一郎生誕の地です。ビルの一階の駐車場入口に中央区教育委員会の看板があります。ビルの壁にも大きく「谷在潤一郎生誕の地」と書いた大きな石版があります。


tanizaki-tokyo11w.jpg<南茅場町四五番地>
  潤一郎5歳の時に南茅場町45番地に移ります。この時のことを「幼少時代」では「小網町の方から来て元の鎧橋を渡ると、右側に兜町の証券取引所があるが、左側の最初の通りを表茅場町と云い、それに並行した次の通りを裏茅場町と云っていた。表茅場町の通りを南へ一二丁行くと、右の角になみ川と云う自転車や乳母車などを製造販売する店があったが、そこを曲って裏茅場町の通りへ 抜けたところの、東北の角が勝見と云う袋物屋で、その向うの東南の角から東へ二軒目が私の家であった。……間もなく私の家の隣に保米楼と云う西洋料理屋が出来た」 とありますが、どうも表現が綺麗すぎてこの通り歩いても辿り着けません。どうも小説家が道を案内することは無理みたいです。もう一つ昭和33年にこの地を訪ねた時の記録である「ふるさと」を読むと「四十五番地の街衢はなお存している。つい戦争の前まであった保米楼と云う洋食屋が角で、二軒目が私の家であった。保米楼の跡は茅場寮と云う家になっているが、隣りの洋服屋、その隣りの麻雀屋のあたりが私の家の場所に当る」とあります。これでかなり場所が特定できる名前がでてきています。保米楼は昭和16年の地図にも出てきていますので、ここからたどればすぐに分かります。

右の写真が現在の茅場町1−4(昔の南茅場町45番地)です。保米楼のあったところは写真の右側にある高田屋のビルの所です。この隣ですから”LUNCH BOX おおとり”のビルの所だと思われます。野村尚吾の「谷崎潤一郎 風土と文学」でも「その裏手の向かい角が保米楼跡で、その隣に洋服屋と麻雀屋(階下が中華料理屋で、二階が麻雀屋)があった。」とあります。洋服屋が”LUNCH BOX おおとり”に、麻雀屋は無くなっていましたが、中華料理屋は大洋軒になっていました。南茅場町の二度目の家は56番地で、一度目の家から100m位霊岸島の方にいった所ですが現在は新大橋通りが出来て、道路の真ん中になってしまっています。

tanizaki-tokyo12w.jpg<偕楽園跡>
 谷崎潤一 郎が府立第一中学校2年生のとき、父倉五郎の失敗で、学費が払えなくなり退学を考えざるをえなくなります。その時に援助してくれたのが友人で偕楽園の息子の笹沼源之助であり、北村家でした。その当時のことを野村尚吾の「谷崎潤一郎 風土と文学」には『谷崎潤一郎は尋常小学校では、だいたい首席であった。二番が偕楽園の息子の笹沼源之助であった(四年生のとき、潤一郎が二番、笹沼が三番になったことがあった)。この笹沼とは終生の友だちであり、とりわけ潤一郎の学生時代と文壇にデビューする前後には、多くの援助を受けた。』とあります。関西に転居したあともずっと谷崎潤一郎のよき相談相手であり、支援者でした。

左の写真のビルの所が偕楽園跡です。野村尚吾の「谷崎潤一郎 風土と文学」では「小学一年のときから、終生深い交際があり、親類以上の恩顧のあった友人笹沼源之助の家、東京で最初の中華料理店の偕楽園(昭和二十年の戦災まであった)の跡は茅場町三丁目の金商倉庫運輸株式会社の茅場町倉庫の地(旧亀嶋町一丁目二十九番地)である。」とありますが現在は新しいビルが建ち持ち主が変わっています。

tanizaki-tokyo23w.jpg<築地精養軒跡>
 谷崎潤一 郎を支えたのは笹沼源之助であり、築地精養軒の北村家でした。その当時のことを野村尚吾の「伝記 谷崎潤一郎」では『それで、府立一中の勝浦校長をはじめ、漢文担当の渡辺盛衛先生は、大いに潤一郎の学才を惜んで、父親を説得した。その結果、渡辺先生の斡旋で、精養軒の主人北村重昌の築地の家に、書生兼家庭教師として住み込むことになった。北村家は現在の新橋演舞場の近く、京橋区采女町三十三番地(現、中央区銀座東五丁目)にあった。』とあります。明治35年6月から北村家に住込み始めます。明治38年9月第一高等学校に入学しますが、第二学年の明治40年6月、箱根の旅館から行儀見習いにきていた穂積フクとの恋愛事件が発覚し、北村家を追われます。再度、伯父と笹沼源之助の援助により学業は続けられました。

右の写真の中央やや左側の白い塀に囲まれた空地が築地精養軒跡です。明治5年4月、西洋料理の草分けとして、元勲三条実美、岩倉具視卿の援助を受け、築地に精養軒ホテルを創業、 明治9年には上野精養軒を開業しています。大正12年(1823)の関東大震災で築地精養軒が焼失、上野が本店となります。昭和16年前後に跡地を東急に売却、跡地に建った銀座東急ホテルも2001年1月閉鎖、時事通信社に売却されています。

tanizaki-tokyo14w.jpg<神田南神保町十番地>
 弟精二が早稲田大学に入学したため通学に便利な神田南神保町10番地に引っ越します。ここで兄谷崎潤一郎の一生を左右する大きな事件が二つ起こります。一つ目は弟精二の「明治の日本橋・潤一郎の手紙」によると『ある朝八時頃、私が発電所から帰って二階の部屋へはいろうとすると、意外にもそこに兄と若い女性が話し込んでいた。……突然の来客で、寝ていた兄は寝床をたたむ暇もなく、私の部屋へ来客を案内したのだった。その若い女性が兄の愛人であることはすぐ察しがついたが、……その愛人はやはり北村家を出て箱根の実家へ帰っているとのことだった。…朝の八時に日本橋の兄の処へ着くには余程朝早く家を出たのだろうし、突然訪ねて来たのは何か重大な事件が起って兄に相談に来たに違いなかった。』とあります。彼女は穂積フクといい詳細は”小田原・箱根を歩く”の時に書きたいと思いますが、谷崎潤一郎が初めて経験する女性問題でした。もう一つは『ある日の朝八時頃、学校へ行くために私が家を出ようとすると、格子ロに赤ら顔の、太った男が立って、「潤一郎さんにお眼にかかりたい。」といいながら「中央公論記者滝田哲太郎」という名刺を出した。兄ほまだ寝ていたので急いで揺り起し、取敢えず滝田氏を私の部屋へ通して私は学校へ出かけた。文学青年であった私ほ無論滝田氏の名を知っていた。』とあります。丁度、出世作「刺青」が評判になっていた頃であり、当時の「中央公論記者滝田哲太郎」といえば飛ぶ鳥を落とす勢いの編集長でしたから、これによって物書きとしての未来が見えてきたのではないでしょうか。

左の写真の北沢書店正面から撮影したもので(左側のビルが北沢書店本店)、右側の小道を入ったところだと思われます。野村尚吾の「谷崎潤一郎 風土と文学」では『弟精二は、「神保町の交叉点から九段下に向った左側、現在の洋書専門の古本店北沢本店(神保町二ノ五)のちょうど裏側にあたる」といい、末弟終平は、「次兄(精二)の話では南神保町でもだいぶ今川小路寄りであったというのですが、私にはどうも今の岩波の売店の附近に思われるのです」といい、』と書いています。兄弟で記憶が少し違うようです。

tanizaki-tokyo21w.jpg<本所区向島新小梅町>
 谷崎潤一郎は大正4年5月、石川千代(前橋生まれの20歳)と結婚します。石川千代は一時、芸者をしていましたが大正4年には一番上の姉が経営していた向島新小梅町の「嬉野」という料理屋に身を寄せていました。この頃の谷崎潤一郎はこの向島新小梅町の「嬉野」に良く行っていたようです。仲人は小学校からの友人で偕楽園の笹沼源之助夫妻で、浅草の草津亭で結婚式を行っています。新婚家庭は「嬉野」と同じ町内の本所区向島新小梅町4−16でした。翌年の3月には長女鮎子が生まれます。当時のことを谷崎潤一郎は「私の生活の大部分は私の芸術を完全にするための努力であって欲しいと思った。私の結婚も、究極する所私の芸術をよりよく、より深くするための手段という風に解釈したかった。」と書いています。

右の写真は現在の向島1−8辺りです(当時の本所区向島新小梅町4付近)。写真の左側は東武伊勢崎線で向こう側が浅草です。

tanizaki-tokyo22w.jpg<本郷区曙町十番地>
  谷崎潤一郎は父の亡くなった翌月に本郷区曙町10番地に移転しています。この家には谷在潤一郎夫婦と娘の鮎子、妹の伊勢、弟終平、夫人の妹のせい子が一緒に生活していました。当時のことを弟終平は「懐かしき人々」の中で「父が亡くなってから、本郷の白山上、曙町の新建ちの家に移った。……板塀で囲まれた五ツ間程の家であった。通りに面して一間の門があり、すぐに玄関になる。玄関の右手は便所で、二間半程の廊下が延びていて、廊下と便所に挟まれて四角い空地の様な庭があった。廊下の奥に二タ間があり、台所と湯殿(ただし浴槽はない)があった。玄関を這入ると直ぐ梯子段があって二階に通じている。踊場があって、その先に三畳の間があって、そこが私の部屋だった。私は生れて初めて自分の部屋を貰って、椅子と机があって嬉しかった。踊場を右へ這入ると兄の書斎兼客間で、その奥の間に夫婦の寝所があった。今東光氏がよく遊びに来ていた。程遠くない墓地の見える二階家には佐藤春夫氏もいて、よく兄と二人して互いに誘い合って銭湯に出かけた。」とあります。この頃から今東光、佐藤春夫と親しくなっていたようです。

左の写真は現在の文京区本駒込1-17-18付近(当時の本郷区曙町10番地)です。写真の右側辺りが谷崎潤一郎の住いが有った所です。



「谷崎潤一郎」東京地図(クリックして下さい)




【参考文献】
・追憶の達人:嵐山光三郎、新潮社
・文人悪食:嵐山光三郎、新潮文庫
・細雪:谷崎潤一郎、新潮文庫(上、中、下)
・新潮日本文学アルバム 谷崎潤一郎:新潮社
・谷崎潤一郎「細雪」そして芦屋から:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・芦屋市谷崎潤一郎記念館パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・倚松庵パンフレット:神戸市都市計画局
・富田砕花断パンフレット:芦屋市谷崎潤一郎記念館
・谷崎潤一郎--京都への愛着--:河野仁昭 京都新聞社
・伝記谷崎潤一郎:野村尚吾 六興出版
・谷崎潤一郎 風土と文学:野村尚吾 中央公論社
・神と玩具との間 昭和初期の谷崎潤一郎:秦慎平 六興出版
・谷崎潤一郎全集(28巻):中央公論社(昭和41年版)

 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール