忠臣蔵ゆかりの地を地図も含めて赤穂、京都、吉良邸から切腹まで紹介します。
下記の
1〜7 の項目から選択してください。

1.元禄忠臣蔵散歩 2.赤穂城散歩 3.京都・山科散歩 4.討ち入り前夜散歩 
5.本所から永代橋散歩 6.永代橋から泉岳寺散歩 7.忠臣蔵ゆかりの地散歩

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最終更新日:2006年3月26日

●兵庫・赤穂を歩く 2004年12月4日 <V01L01>

 先週の”京都・山科を歩く”に引き続いて「忠臣蔵ゆかりの地散歩」で残っていた赤穂を歩きます。今回の”赤穂を歩く”で忠臣蔵関連は一応終了します。まだ吉良家関連が残っていますので時をみて紹介します。
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<赤穂城>
 
赤穂は兵庫県赤穂市ですか岡山県にほど近い所にあり、JR山陽本線相生駅から瀬戸内海沿いを走っているJR赤穂線に乗り換えて三つ目の播州赤穂駅で下車します。駅前から南に道なりに約1Km程で赤穂城です。「赤穂城は正保2年(1645)常陸笠間藩より五万三千五百石をもって転封された浅野長直によって慶安元年(1648)から13年の歳月をかけて築かれています。近代城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。藩の家老で軍学師範の近藤正純が設計し、そのうち二之丸門虎口の縄張は、当時の著名な軍学者であった山鹿素行の手が加えられたと伝えられています。赤穂城は軍学に従って築かれた城であり、徳川幕府が始まって約50年後に築かれたにも関わらず、その構造は戦を強く意識しており、複雑に折れ曲がる石垣、角度を違える諸門に特長があります。城地は三方を山に囲まれ、東に千種川、南は瀬戸内海に面し、清水門の南にある舟入は船が出入りできるようになっています。  昭和46年に国史跡指定を受け、平成14年には本丸庭園と二之丸庭園が国の名勝に指定され、文化財の修復・復元がなされています(赤穂市のホームページを参照)」。明治維新によって一時お城は潰されたようですが、忠臣蔵ブームによって再建されたようです。

左上の写真は播州赤穂駅から真っ直ぐ南に歩くと最初に見える赤穂城です。綺麗に修復されていました。

<仮名手本忠臣蔵>
 
赤穂浪士は仇討ちと公儀への反発から庶民に人気があり、浪士たちの切腹の二週間後には歌舞伎で上演されたようですが、公儀の命により三日で差し止めになったと伝えられています。その8年後には近松門左衛門により赤穂浪士を題材にした『碁盤太平記』が上演されています。また47年後の寛永元年(1748)には竹田出雲、三好松洛、並木千柳が書いたこれも赤穂浪士を題材にした人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が大阪竹本座で上演され大人気を取り、以降、”赤穂浪士討ち入り”という名称から「忠臣蔵」という名称に変わってしまったようです。四十七士の47という数と仮名の”いろは47文字”(いろは48文字というが実際は47文字)とをかけたと書いている本もありました。どこまで本当かはわかりません。

右上の写真は「仮名手本忠臣蔵」大序の場面です。「仮名手本忠臣蔵」は、大序から討入りまでの11段からなっています(七段は前回の一力の場面になります)。また、当時の時代背景から直接赤穂浪士をそのまま上演することは不可能であり、そのために時代の設定や登場人物の名前などを実際とは変えて上演しています。テーマを「太平記」にとって足利時代の時代設定とし、浅野内匠頑長矩は塩冶判官高定、吉良上野介義央は高武蔵守師直、大石内蔵助良雄は大星由良之助良兼に名前を変えて上演しています(赤穂市立歴史博物館展示解説シート参照)。「仮名手本忠臣蔵」の大序の場面は、赤穂浪士ならば江戸城となるのでしょうが、「仮名手本忠臣蔵」では鎌倉 鶴岡八幡宮頭の場面となります。鎌倉 鶴岡八幡宮の写真も右に掲載しておきます。

和 暦

西暦

忠  臣  蔵  年  表

元禄14年
1701

3月14日 浅野内匠頭長矩、松之廊下において肝煎高家吉良上野介義央に刃傷に及ぶ
夕刻、城地没収のうえ切腹仰せ付けられる
3月19日 急使赤穂着
4月11日 赤穂城開城を決定
6月25日 大石内蔵助良雄、赤穂城下を撤去し京都山科に隠栖
8月19日 吉良上野介義央、呉服橋門内から本所一ツ目回向院裏に屋敷替え
元禄15年
1702

1月11日 第一回山科会議
4月15日 大石内蔵助良雄、妻子を離別
8月1日 大石内蔵助良雄、山科閉居を引き上げ、四条河原町梅林庵に仮寓
10月7日 大石内蔵助良雄、京都を立つ


<息継ぎ井戸>
 浅野内匠頭長矩が江戸城松之廊下において肝煎高家吉良上野介義央に切りつけて、切腹させられたのが元禄14年3月14日の夕刻になります。江戸の浅野家下屋敷では赤穂に大至急この事件を知らせなければなりませんので、馬廻役 水藤左衛門と萱野三平を早駕籠で江戸を出発させたのが14日の午後2時頃だったそうです。東海道から西国街道を通って早駕籠を次々と乗りついで19日の午前5時ごろに赤穂に着いています。江戸から赤穂までの600Kmを不眠不休の4日半でたどり着いた2人は息も絶え絶えだったといいます(133Km/日、5.5Km/h となります)。その時に、赤穂城に入る前に休んだのがこの「息継ぎ井戸」だったそうです。播州赤穂駅と赤穂城のちょうど中間にあります。「…通常十七日間かかるところを四日半で着いたのだが、この急な知らせに赤穂は大騒ぎになった。家老の大石内蔵助良雄(千五百石) と大野九郎兵衛(六百五十石)を中心として、家臣全員の緊急会議が開かれた。会議は何日もつづき、議論百出してモメにモメたが、しだいに鎮まって、幕府の命令通り抵抗したり切腹したりすることなく、おだやかに城地を明け渡すことに決まった。…」。この結果、討ち入りになったわけです。

右の写真が息継ぎ井戸です。「早水藤左衛門、萱野三平の両士が、早かごで主君刃傷の凶報をもって江戸より駆けつけた隙この井戸で一息ついて城内の大石内蔵助邸へ入った。これが天下に誇る日本三大上水道の一つ赤穂藩上水道の給水井戸である。」、と”赤穂観光マップ”に書いてありました。

<大石邸長屋門>
 大石内蔵助良雄邸は赤穂城の中にありました。「この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が57年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋である。門口約26.8m奥行約4.8mの建物で、屋根瓦には双ツ巴の大石家の家紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。かっては、内蔵助と主税の親子が朝夕出入りし、又元禄14年3月主君の刀傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。……」。とこの長屋門の右側の看板に書かれています。何回か修理されいるようで、年月が経っているわりには綺麗でした。

右の写真が大石邸長屋門です。写真を撮った日がちょうどバザーの日かなにかに重なっていて長屋門の前にお店がたくさん出ていました。そのため写真がイマイチです。

<大石神社>
 赤穂城内に大石内蔵助良雄以下四十七義士を祀る大石神社があります。まだ新しい神社のようで、大石神社のパンフレットには、「… 大石神社は明治天皇の宣旨を契機として明治三十三年、神社創立が公許せられ、まず大石邸長屋門の保存修理から始まって、義士を崇敬追慕する多くの方々からの浄財によって本殿以下社殿が竣功し、大正元年十一月、四十七義士を祀る神社としてご鎮座になった。ご祭神は、大石内蔵助良雄以下四十七義士命と中折の烈士萱野三平命を主神とし、浅野長直・長友・長矩の三代の城主と、その後の藩主森家の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将を合祀してある。境内は、赤穂城内三の丸にあり、社殿や義士宝物殿のある上段地は家老の一人藤井又左衛門の邸跡、拝殿前石段より神門迄の間、義士木像奉安殿、大石内蔵助銅像、大石邸庭園辺りが大石内蔵助の邸跡である。」。と書かれていました。大正元年にできたようです。

右の写真が大石神社です。右手の方に大石邸長屋門がありますので、この右側に大石邸があったのだとおもいます。

<花岳寺(浅野家菩提寺)>
 藩主浅野家の菩提寺が花岳寺です。花岳寺は浅野長直が常陸笠間藩(茨城県笠間市)から赤穂藩へ転封された正保2年(1645)に浅野家の菩提寺として建立されています。また中に入って正面にある松の木は、大石内蔵助
良雄の母親である松樹院が亡くなったときに寄進したものときれています。浅野家が断絶されて赤穂を出るときにこの松の下でなごりを惜しんだことから「大石なごりの松」と言われています。この寺の中には赤穂歴代藩主浅野家大石家、永井家、森家の菩提寺であり、四十七士の墓碑や義士木像堂、宝物館もあります。

左上の写真は花岳寺です。この花岳寺の門は赤穂城の塩屋総門を明治の初年にここに移したものとされています。


<忠臣蔵の赤穂地図 -1->

<参考図書>
歴史と文化の散歩道:東京都生活文化局コミュニティ文化局観光レクリエーション課
元禄忠臣蔵データファイル:元禄忠臣蔵の会、新人物往来社
元禄を紀行する(忠臣蔵22景):津川安男、新人物往来社
忠臣蔵百科:泉秀樹、講談社
元禄繚乱:元禄繚乱展図録編集委員会
江東辞典(史跡編):江東区総務部広報課
史跡をたずねて:江東区総務部広報課
中央区区内散歩:中央区企画部広報課

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