<息継ぎ井戸>
浅野内匠頭長矩が江戸城松之廊下において肝煎高家吉良上野介義央に切りつけて、切腹させられたのが元禄14年3月14日の夕刻になります。江戸の浅野家下屋敷では赤穂に大至急この事件を知らせなければなりませんので、馬廻役 水藤左衛門と萱野三平を早駕籠で江戸を出発させたのが14日の午後2時頃だったそうです。東海道から西国街道を通って早駕籠を次々と乗りついで19日の午前5時ごろに赤穂に着いています。江戸から赤穂までの600Kmを不眠不休の4日半でたどり着いた2人は息も絶え絶えだったといいます(133Km/日、5.5Km/h となります)。その時に、赤穂城に入る前に休んだのがこの「息継ぎ井戸」だったそうです。播州赤穂駅と赤穂城のちょうど中間にあります。「…通常十七日間かかるところを四日半で着いたのだが、この急な知らせに赤穂は大騒ぎになった。家老の大石内蔵助良雄(千五百石) と大野九郎兵衛(六百五十石)を中心として、家臣全員の緊急会議が開かれた。会議は何日もつづき、議論百出してモメにモメたが、しだいに鎮まって、幕府の命令通り抵抗したり切腹したりすることなく、おだやかに城地を明け渡すことに決まった。…」。この結果、討ち入りになったわけです。
★右の写真が息継ぎ井戸です。「早水藤左衛門、萱野三平の両士が、早かごで主君刃傷の凶報をもって江戸より駆けつけた隙この井戸で一息ついて城内の大石内蔵助邸へ入った。これが天下に誇る日本三大上水道の一つ赤穂藩上水道の給水井戸である。」、と”赤穂観光マップ”に書いてありました。
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