忠臣蔵ゆかりの地を赤穂、京都、吉良邸、泉岳寺から切腹場所までを紹介します。
下記の
2〜7 の項目、もしくは下記の地図から選択してください。

1.元禄忠臣蔵散歩 2.赤穂散歩 3.京都山科散歩 4.討ち入り前夜散歩 
5.本所から永代橋散歩 6.永代橋から泉岳寺散歩 7.忠臣蔵ゆかりの地散歩

 ▲トップページ |  メール 

最終更新日:2006年3月26日


 元禄15年(1702)12月15日未明、本所 松板町(現墨田区両国三丁目)にある 幕府高家筆頭・吉良上野之介義央の屋敷に、大石内蔵助率いる赤穂浪士 四十七人が討ち入ります。前年三月、江戸城、松の廊下での刃傷事件で無念の切腹をした主君 浅野内匠守長矩の仇を討つためでした。 

 この事件は元禄という頽廃的な時代に仇討ちという義理人情的な事件が起こったことに関して庶民は熱狂的に支援します。すぐに浄瑠璃や歌舞伎などの題材に取り上げられ、とくに
歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』によってすぐれた物語に仕上げられていきます。300年近く経過した現在でもなお、繰り返し映画やテレビドラマ の題材になっており、義士たちの墓嶺がある泉岳寺は、全国的な観光名所となっています。
 
 話は変わりますが、泉岳寺の赤穂浪士の墓の数が48あるのをご存じですか?。四十七士なので、墓の数も47のはずなのですが、討ち入り後に行方不明になった寺坂吉右衛門を除けば墓の数は46のが正解です。実は、その寺坂吉右衛門の墓がちがった戒名で2つ加わって、計48になっているのです。寺坂吉右衛門については逃亡説、密使説など諸説がありますが、彼は晩年、麻布曹渓寺の寺男になって、83歳の天寿をまっとうしたそうです。

大石蔵之助藤原良雄 誠忠義士伝 三代歌川豊国


<忠臣蔵年表>

和 暦

西暦

忠  臣  蔵  年  表

元禄14年
1701

3月14日 浅野内匠頭長矩、松之廊下において肝煎高家吉良上野介義央に刃傷に及ぶ
夕刻、城地没収のうえ切腹仰せ付けられる
3月19日 急使赤穂着
4月11日 赤穂城開城を決定
6月25日 大石内蔵助良雄、赤穂城下を撤去し京都山科に隠栖
8月19日 吉良上野介義央、呉服橋門内から本所一ツ目回向院裏に屋敷替え
元禄15年
1702

1月11日 第一回山科会議
4月15日 大石内蔵助良雄、妻子を離別
8月1日 大石内蔵助良雄、山科閉居を引き上げ、四条河原町梅林庵に仮寓
10月7日 大石内蔵助良雄、京都を立つ
10月26日 川崎平間村の軽部宅に仮寓
11月5日 大石内蔵助一行、日本橋石町公事宿小山屋に逗留
1703

12月14日 浅野内匠頭の夫人瑶泉院に暇乞いに伺う(南部坂 雪の別れ)
12月15日 午前四時ごろ吉良邸に討ち入り、吉良の義央の首級を挙げ六時ごろ退去、八時頃泉岳寺に到着する。夕刻、大名四家に預けられる
元禄16年

2月4日 四十六士に対して切腹の幕命がおり、執行される


<忠臣蔵は「松の大廊下」から始まります>

 元禄14年(1701)3月14日、その事件は江戸城、松の廊下で起こりました。朝廷の勅使を迎えるため、赤穂藩、浅野内匠頭は大手門から江戸城に入門し、本丸に入ります。松の廊下といっても畳敷きで幅二間半(約5m)、長さが十八間もある大廊下です。三十五歳の浅野内匠頭が六十一歳の高家筆頭・吉良上野介に斬りかかります。「この間よりの遺恨、覚えあるか」と、浅野内匠頭は吉良上野介の後ろから一太刀、振り向いた吉良上野介の眉の間に斬りつけたところを梶川与惣兵衛に背中から組み止められます。
  
 この後、浅野内匠頭は一関藩主、田村右京太夫建顕の屋敷に預けられます。その日の内に切腹させられるわけですが、有名な辞世の句を残します。

「風さそふ 花よりもなお 我はまた 春の名残を いかにとやせん」

右の写真は江戸城、現在の皇居東御苑内の「松の大廊下跡」の説明看板です。その他に石碑などの記念碑が建てられています。

●東京全体の忠臣蔵関連地図です。赤い道筋は討ち入り後の泉岳寺までの道筋です。

地図をクリックしてください。紹介ページにリンクします。




<江戸城内の大事件は浅野内匠頭の事件を入れて四件(忠臣蔵百科より )>

 <第一の事件>
、寛永五年(1628)八月十日に西の丸殿中で旗本・豊島明重が老中井上正就を殺害殺したものです。で、井上の息子と大坂町奉行の女との縁談の仲人を豊島が務めるはずだったのに、井上が破談にしたため斬ってしまったのです。豊島は井上の死を確認してから、みずからの命を絶っています。江戸土着の名家豊島家はこれで断絶しました。

 
<第二の事件>
 貞享元年(1684)八月二十八日、江戸城本丸の御用部屋の近くで大老掘田正俊が若年寄・稲葉正休に斬られた事件です。正俊は春日局の養子として育ち、五代将軍.綱吉に用いられて、大老職にまで出世した十三万石の大名であり、幕閣の最高位についています。しかし、性質は剛直で、政務にも厳しい態度でのぞんでいます。刃傷の前夜も、二人は夜の更けるまで政治上の話を洒を酌み交わしながらしていました。刃傷は翌日の正午、突発的に起こっています。正俊は間もなく息絶え正休はその場で討たれ、家断絶の沙汰を受けました。正休は正俊の父の従兄弟にあたり、いわば一門同士の刃傷であって、原因は不明みたいです。

 
<第三の事件が浅野内匠頭の事件となります>
 
 <第四の事件>
 天明四年(1784)三月二十四日、江戸城中の桔梗の間の近くで新番士・佐野政言が若年寄・田沼意知に「覚えがあろう」と声をかけながら刺しています。田沼はまもなく死亡、三十三歳でした。下手人の佐野政言は伝馬町牢獄で切腹させられています(二十八歳)。理由は私怨でしたが、意知は老中・田沼意次の嫡子であったため、田沼政権に不満をつのらせていた世間は佐野を「世直し大明神」とよんで喝采を送り、神様扱いされています。これをきっかけに田沼政権は衰退に向かっていきました。
 
 この四つの事件のうち、内匠頭ただ一人が相手を殺すことができませんでした。このことが大石内蔵助以下四十七士の討ち入りを起こす原因となっています。徳川幕府はの267年続きましたが、その間に仇討ちはおよそ百十件はどありました。それらの仇討ちは、はとんどが親兄弟、肉親のための復讐であり、主君のために仇討ちを行った例は四十七土のはかに一例しかありません。それは石見(島根県)浜田城主の松平周防守康豊の江戸屋敷で起こった女性の仇討ちです。中老のお道が同じく中老・沢野に辱められて自殺するという事件が起こりました。お道の下で働いていた下女・おさつはこれに復讐するために沢野を刺殺したのです。したがって脱盟して討入りに加わらなかった者のほうがマトモで、残った四十七土のはうが少々特異な男たちであったというべきです。内匠頭を見たこともない者たちも結構いたでしょうし、内匠頭にも浅野家そのものに対しても新参者が多かったと思われます。にもかかわらず幕府高官暗殺の実行犯になったというこの特異さこそ、「元禄忠臣蔵}の本質であり、人気が衰えない理由なのです。

【大手の義士二十四人、搦手の義士二十三人二国橋会合図】 忠臣蔵夜討 歌川国定


<参考図書>
歴史と文化の散歩道:東京都生活文化局コミュニティ文化局観光レクリエーション課
元禄忠臣蔵データファイル:元禄忠臣蔵の会、新人物往来社
元禄を紀行する(忠臣蔵22景):津川安男、新人物往来社
忠臣蔵百科:泉秀樹、講談社
元禄繚乱:元禄繚乱展図録編集委員会


 ▲トップページ | ページ先頭 | 著作権とリンクに ついて | メール