東京の忠臣蔵ゆかりの地を地図も含めて永代橋から泉岳寺まで紹介します。
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1.元禄忠臣蔵散歩 2.赤穂散歩 3.京都山科散歩 4.討ち入り直前散歩 
5.本所から永代橋散歩 6.永代橋から泉岳寺散歩 7.忠臣蔵ゆかりの地散歩
 

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最終更新日:2018年06月07日

<泉岳寺まで>

 回向院前から竪川の一ツ目橋を渡り、隅田川に沿って、小名木川の万年橋から上の橋、中の橋、下の橋を通って、永代橋を渡り、霊岸島から稲荷橋、そして浅野家の旧屋敷の築地鉄砲洲を通り、汐留橋に出、日比谷から金杉橋、将監橋という道順で無事泉岳寺にたどり着いています。


<忠臣蔵年表>

和 暦

西暦

忠  臣  蔵  年  表

元禄14年
1701

3月14日 浅野内匠頭長矩、松之廊下において肝煎高家吉良上野介義央に刃傷に及ぶ
夕刻、城地没収のうえ切腹仰せ付けられる
3月19日 急使赤穂着
4月11日 赤穂城開城を決定
6月25日 大石内蔵助良雄、赤穂城下を撤去し京都山科に隠栖
8月19日 吉良上野介義央、呉服橋門内から本所一ツ目回向院裏に屋敷替え
元禄15年
1702

1月11日 第一回山科会議
4月15日 大石内蔵助良雄、妻子を離別
8月1日 大石内蔵助良雄、山科閉居を引き上げ、四条河原町梅林庵に仮寓
10月7日 大石内蔵助良雄、京都を立つ
10月26日 川崎平間村の軽部宅に仮寓
11月5日 大石内蔵助一行、日本橋石町公事宿小山屋に逗留
1703

12月14日 浅野内匠頭の夫人瑶泉院に暇乞いに伺う(南部坂 雪の別れ)
12月15日 午前四時ごろ吉良邸に討ち入り、吉良の義央の首級を挙げ六時ごろ退去、八時頃泉岳寺に到着する。夕刻、大名四家に預けられる
元禄16年

2月4日 四十六士に対して切腹の幕命がおり、執行される


kamiyashiki-w.jpg<浅野内匠頭長矩江戸上屋敷跡(屋敷面積 8,974坪)>

 浅野家上屋敷は「松の廊下事件」後のわずか3日後、元禄14年(1701)3月17日、出羽新庄城主戸沢上総介正誠によって収公されています。
 
 築地の明石町、聖路加看護大学校舎横、晩橋(今はありません)方向の植込に、「浅野内匠頭邸跡」の大きな石碑が建っています。今の聖路加病院から中央区教育センターにかけての、八千九百七十余坪ほどが敷地だったといわれています。浅野内匠頭は芸州滝野家の分家であったため、石高も五万三千右、九千坪近い明石町の邸の外、赤坂に千三百九十坪の下屋敷といわれる別邸があっただけで、ここが本邸でもあり、家臣のいる中屋敷を兼ねていたようです。畳千四百四畳、障子大小七百九十五本、襖大小二百三十二本などとちゃんと書上げ、八千九百七十四坪余、建家三千三百三十五坪と帳簿を引きついで全員見事に立退いたため、江戸市民の賞讃を博しました。泉岳寺へ引上げる浪士達が、永代橋を渡って中央区内に入り、今の聖路加看護大学校舎横、暁橋の向う側を通り、西本願寺の裏手を通過したという俗説があり、かつては主君浅野内匠頭の邸のあった方をふりかえりふりかえり通過したとの話も伝わっていて、真偽不明ですがこの明石町の邸跡がいろいろ忠臣蔵に関係がある点が面白いと思います。

中央区明石町10 聖路加看護大学校舎(鉄砲洲)


<浅野内匠頭終焉の地>

 昭和15年(1940)3月14日、元禄事件240周年を記念し田村町有志が建立しました。

 このあたりは、江戸時代に奥州一之関藩(岩手県)田村右音大夫の上屋敷のあった所です。日比谷通りに面したところに、「浅野内匠頭終焉之地」という石碑が建てられています(昭和15年建設)が、実際の屋敷はこれより50mほど東側にありました。元禄14年(1701)3月14日、江戸城内松の廊下の刃傷のあったその日のうちに、十分な吟味も行われぬまま、この屋敷に送られ切腹させられています。内匠頭は
「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」と無念の辞世を残し、喧嘩両成敗の原則に反し、一方的な処置をされたため、赤穂義士の仇討が決行される結果となったといわれています。この付近には「田村の化銀杏」と呼ばれた巨木があり海上からの目じるしになっていましたが、大正12年(1923)関東大震災で焼失。その切株のそばに「田村稲荷」を祭っていましたが、戦災でまた焼けてしまいました。

港区新橋4−3117

【泉岳寺】(「元禄を紀行する」を参照)

<入山>

sengakuji-w.jpg 吉良義央の首級を挙げた浪士らは吉良邸に近い本所の回向院に入ろうとしましたが、同院の僧に拒まれ、やむなく芝の泉岳寺をめざしました。泉岳寺は「桶狭間の戦い」(永緑3年=1560)で討死した今川義元を供養するために徳川家康によって建立されたもので、曹洞宗の江戸における本山であり、浅野氏など大名数家の菩提寺でもありました。
 入山し、亡主・浅野長矩の墓前に吉良義央の首級を供えた浪士らは、同寺で幕府からの指示を待っています。泉岳寺での浪士の行動については、隣寺の承天なる僧がまとめたという『泉岳寺口上(承天覚書)』という書が一般には知られていますが、この書は明らかに偽書でだといわれています。この時の浪士らの行動を比較的正確に伝えているのが、当時、同寺で修行中であった僧・自明(月海)の記録『自明話録』です。自明は浪士らに食事や策を給仕するかたわら、一人一人に頼み込んで詩歌などを書いてもらったそうです。浪士らは食事を摂り、仮眠や歓談をしたりしましたが、風呂を勧めても米沢藩からの追手を憂慮して入らなかったそうです。ただ、この『自明話録』については異本が多く、また『自明話録』(『自明義士話』)自体も宝暦5年(1755)、自明75歳の時に土佐(高知県)の学者・戸部態訪が面接して聞き取ったものであるので、浪士の行動の細かい点は自明の記憶違いなども多いように思われています。自明が晩年に住職をつとめた宿毛市の東福寺には浪士から畜き与えられたという遺墨数点が伝えられています。

<仙石邸>

 吉良邸から泉岳寺へ向かう途中、大石内蔵助は堀部安兵衛の進言を容れて副将の吉田忠左衛門と富森助右萄門とを大目付・仙石伯嘗守久尚邸に派遣し、討ち入りの顛末を報告させました。

 この前後に寺坂吉右衛門の姿は浪士らの間にはみられなくなっていましたから、泉岳寺に入った浪士は44名ということになります。久尚から幕府に通報されましたが、泉岳寺からも浪士らが入山したことが寺社奉行に届けられました。幕府からは奉行、目付が泉岳寺に赴き、仙石邸への移動が指示されたようです。この時に仙石邸に向かった人数(正しくは44名)や行列の模様については請書に誤謬が多いです。『自明話録』によれば、浪士らは泉岳寺の僧らに礼を述べた後、大石父子を先頭に、大部分は徒歩で仙石邸に向かっています。仙石屋敷は、芝西久保明舟町にありました。その屋敷跡には、浪士が足を洗ったという井戸の跡がモニュメントとして残っています。数人はケガなどの関係で駕籠を使ったようです。同寺退山の時刻は15日暮六ツ(午後6時)、仙石邸には戌之下刻(午後9時)到着しています。

浪士らは
肥後熊本藩(細川氏)に17人伊予松山藩(松平氏)に10人長門府中藩(毛利氏)に10人三河岡崎藩(水野氏)に9人がそれそれ預けられることになりました。この報は15日に老中から登城中の藩主らに伝えられています。これにより四藩では受け取りの行列を整えて仙石邸近くに進み、定められた人数を受け取って藩邸に戻りましたが、浪士らが藩邸についたのはおおむね八ツ過ぎ(16日午前2時)でした。足掛け3日、正味丸1日の浪士らのもっとも長い日がこれによって終焉しました。

<処分決定>

 赤穂浪士の処分については、荻生狙徠の『狙徠擬律書』に、「上杉の願いも」とあることなどから、米沢藩(上杉氏)から浪士の処分や引き渡しの申し出があったと見られている一方、浅野本家の広島藩からも助命要求があったものと見られています。幕府内でも元禄15年12月23日に評定所の構成員である勘定、寺社、江戸町の三奉行、大目付らから助命の意見が出たという(『評定所存寄書』)が、その中には義周は切腹させ領知は召し上げ、義周実父の上杉綱憲(米沢藩主)も領知召し上げ、吉良家の家臣の内、手向かいしなかった士は斬罪、中間・小者は追い払いなど吉良氏側に厳しい項目もありました。しかし、浪士らの行動を徒党と認めず、藩兵を出さなかった上杉綱憲が処分されるというこの『評定所存奇書』は、現代の最高裁判所に相当する機関の構成員の言とは思えない内容です。この意見がそのまま通り、浪士らが助命されていたとしたらその後の浪士らの評価もかなり変わったものとなっていたでしょう。幕府の儒官であった林大学頭信篤からも何らかのかたちで意見が出されていたものと思います。信篤の浪士らに対する考えは、後年の著作などから親い知ることが出来きます。さて、『柳沢家秘録』、『狙徠擬律書』などによれば、狙徠の進言した、四十六士の行動について、侍の礼をもって切腹に処す、との意見が吉保を経て将軍・綱吉に里されたという。綱吉はこれを採用しながらも、秘かに浪士らに同情をしていたようで、2月1日に日光・輪王寺の門主であった虫弁法親王に苦しい胸の内を訴えたという(『徳川実線』)。つまり綱吉は、将軍という公の立場として四十六士の行動について、侍の礼をもって切腹に処す、という決定を下しながらも、公弁法親王(後西天皇第六皇子)という皇室ゆかりの人物に慈悲を求め、法親王の意思という大義名分を掲げて特赦を実施したかったのでしょう。当時、公弁法親王の叔母が綱吉の側室となっていたので両者はことのはか親しかったというが、法親王は返事をさけたという。法親王としては浪士らを助けたいのはやまやまであったが、一員切腹と決まったのならば潔く全員がそれに服した方が浪士らの忠義が末代まで語り維がれることであろう、と考えたといわれています。

〔参考文献〕
斎森茂『藤根義士実纂』東京・同頒布会


<伊予松山城主松平(久松)隠岐守定直三田中屋敷>

 大石主税良金ら十士切腹の地でイタリア大使舘内庭の池泉は往時そのままと伝えられています。場所は綱坂の途中にあり、左手は三井倶楽部です。

港区三田2−5−4 イタリア大使館構内


<三河岡崎城主水野監物忠之三田中屋敷>

 間十次郎光興ら九士切腹の地。かつての遺構は全く残らず灯籠一基が現存しているだけです。場所は田町の駅を降りて第一京浜国道を超えて少し入った右手にあります。なかなか分かりにくい場所です。

港区芝5−20−20


hosokawa-w.jpg<肥後熊本城主細川越中守綱利高輪下屋敷>

 大石内蔵助良雄ら十七士切腹の場所。切腹の場となった大名四家のうち唯一切腹の座が明らかな場所です。都営団地の中に入って行き突き当たりにあります。

港区高輪1−15 都営団地内


<長門長府城主毛利甲斐守網元麻布上屋敷>

 岡島八十右衛門常樹ら十士切腹の地です。現在は、かの有名な六本木ヒルズ内になっており、毛利庭園に記念看板が作られていました。右の写真のやや左側の白い説明版が記念看板です。右側に毛利庭園が広がっていますので六本木ヒルズに行かれた折りは訪ねられたらとおもいます。

港区六本木6−9 六本木ヒルズ内。

:sengakuji1-w.jpg

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四十七士のお墓です

泉岳寺境内



senseki-w.jpg<大目付、仙石伯耆守久尚邸跡>

 元禄15年(1703)12月15日早朝、吉良邸討ち入りを大目付仙石伯耆守久尚自訴した時に赤穂浪土が足を洗った井戸があった場所です。現在のビルに建替えられたとき泉水となっています。ニッショーホールの玄関入り口にありますので探すのに時間がかかりました。

港区虎ノ門2−9 ニッショーホール玄関


myoukouji-w.jpg<赤穂浅野家菩提寺 法華宗 長徳山 妙行寺>

 ○浅野内匠頭長直室 高光院殿
    丹羽右京大夫長重二女。
 ○浅野大学長広室 蓮光院殿
    土方市正雄豊女。
 ○浅野内匠頭長矩室 瑤泉院(供養塔)
    浅野因幡苧長治女。

 墓碑は中央義士会建立。

豊島区西巣鴨4−8−28 法華宗 長徳山 妙行寺。左の写真はお寺の入り口にありますが、右側は四谷怪談のお岩さんの碑です。左側の小さい碑が浅野家の碑です。ホントですよ!!


kounji-w.jpg<吉良家歴代の墓 曹洞宗万昌院功運寺>

中野区の上高田にあります。結構(失礼ですが)大きなお寺で入ってびっくりしてしまいました。林芙美子などの有名人のお墓もたくさんありました。吉良家の歴代のお墓も立派で、さすが、米沢藩主上杉家です。ただ、赤穂浪士が幕命により切腹さらせられた元禄16年2月4日、吉良家は領地を召し上げられてしまいます。喧嘩両成敗という雰囲気です。

 ○吉良家四代の基
・吉良家討死家臣慰l塔   十四代義定・十五代義弥・十六代義冬・十七代義央
 
中野区上高田4−14−1

(注)万昌院(久宝山) 旧地 最初:千代田区永田町→次:牛込築土八幡町
    功運寺(竜谷山) 旧地 芝三田功運町
*両寺とも大正年間(1912〜26)この地に移り合併しました。


senseki-w.jpg<幕臣、梶川与惣兵衛頼照の墓 曹洞宗 乾竜山 天徳院>

 松之廊下における唯一の目撃者で、のち浅野長矩制止の功により加増あって千二百石の旗本になった。事件を記録した、『梶川与惣兵衛頼照筆記』は 有名です。 梶川与惣兵衛頼照の墓
はありましたが、他の墓石と一緒におかれており少し残念でした。

中野区上高田1−31 曹洞宗 乾竜山 天徳院


<参考図書>
歴史と文化の散歩道:東京都生活文化局コミュニティ文化局観光レクリエーション課
元禄忠臣蔵データファイル:元禄忠臣蔵の会、新人物往来社
元禄を紀行する(忠臣蔵22景):津川安男、新人物往来社
忠臣蔵百科:泉秀樹、講談社
元禄繚乱:元禄繚乱展図録編集委員会
江東辞典(史跡編):江東区総務部広報課
史跡をたずねて:江東区総務部広報課
中央区区内散歩:中央区企画部広報課

 
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