【泉岳寺】(「元禄を紀行する」を参照)
<入山>
吉良義央の首級を挙げた浪士らは吉良邸に近い本所の回向院に入ろうとしましたが、同院の僧に拒まれ、やむなく芝の泉岳寺をめざしました。泉岳寺は「桶狭間の戦い」(永緑3年=1560)で討死した今川義元を供養するために徳川家康によって建立されたもので、曹洞宗の江戸における本山であり、浅野氏など大名数家の菩提寺でもありました。
入山し、亡主・浅野長矩の墓前に吉良義央の首級を供えた浪士らは、同寺で幕府からの指示を待っています。泉岳寺での浪士の行動については、隣寺の承天なる僧がまとめたという『泉岳寺口上(承天覚書)』という書が一般には知られていますが、この書は明らかに偽書でだといわれています。この時の浪士らの行動を比較的正確に伝えているのが、当時、同寺で修行中であった僧・自明(月海)の記録『自明話録』です。自明は浪士らに食事や策を給仕するかたわら、一人一人に頼み込んで詩歌などを書いてもらったそうです。浪士らは食事を摂り、仮眠や歓談をしたりしましたが、風呂を勧めても米沢藩からの追手を憂慮して入らなかったそうです。ただ、この『自明話録』については異本が多く、また『自明話録』(『自明義士話』)自体も宝暦5年(1755)、自明75歳の時に土佐(高知県)の学者・戸部態訪が面接して聞き取ったものであるので、浪士の行動の細かい点は自明の記憶違いなども多いように思われています。自明が晩年に住職をつとめた宿毛市の東福寺には浪士から畜き与えられたという遺墨数点が伝えられています。
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