東京の忠臣蔵ゆかりの地を地図も含めて本所から永代橋まで紹介します。
その他の地区の紹介
は下記の 1〜7 の項目から選択してください。

1.元禄忠臣蔵散歩 2.赤穂散歩 3.京都山科散歩 4.討ち入り直前散歩 
5.本所から永代橋散歩 6.永代橋から泉岳寺散歩 7.忠臣蔵ゆかりの地散歩
 

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最終更新日:2006年3月26日


<両国駅から永代橋まで>

 JR総武線両国駅を降りると右側に国技館、線路沿いに江戸東京博物館があります。両国駅も古くて趣があっていいですね!!

大江戸博物館は一見の価値があります。時間を掛けてゆっくり見てください。
江戸東京博物館:入場料600円、月曜日休館 9時30分〜17時30分、木金のみ20時まで

 両国駅を大江戸博物館とは逆に左に出て少し歩くと、京葉通りで正面に回向院の門が見えます。現代的なデザインの門です。門の前を左に歩いてガソリンスタンドの所を右に折れて、次の大きな道を左に折れ少し歩くと吉良邸跡の公園があります。ここから富岡八幡宮、永代橋へはかなりの距離があります。歩く場合は時間がかかりますのでご注意ください。

<泉岳寺への道のり>

 吉良上野介の首を槍の柄にくくりつけて吉良邸を出たあと、一行は回向院へ向かいました。しかし、かかわりあいになるのを恐れたらしく、回向院は入門時間でないことを理由に門を堅く閉ざしていたようです。その様子を見て内蔵助は、回向院に入れなければ「両国橋東詰の広場に赴く」という取り決めをやめて、急遽内匠頭の墓所である高輪の泉岳寺へ急ぐことにします。本所から泉岳寺に行くには隅田川を両国橋で渡って江戸市中に入るのが一般的ですが、そうすると武家屋敷街を通ることなります。十五日は大名・旗本の登城日にあたっていました。不測の事態の起こるのを懸念した内蔵助は、両国橋を渡らず、そのまま墨田川を南下して町人の街を行くコースをとりました。そして、永代橋で隅田川を渡って市中に入り、霊岸島から鉄砲洲に出て、汐留橋、金杉橋を通り、泉岳寺へと歩き始めます。


<忠臣蔵年表>

和 暦

西暦

忠  臣  蔵  年  表

元禄14年
1701

3月14日 浅野内匠頭長矩、松之廊下において肝煎高家吉良上野介義央に刃傷に及ぶ
夕刻、城地没収のうえ切腹仰せ付けられる
3月19日 急使赤穂着
4月11日 赤穂城開城を決定
6月25日 大石内蔵助良雄、赤穂城下を撤去し京都山科に隠栖
8月19日 吉良上野介義央、呉服橋門内から本所一ツ目回向院裏に屋敷替え
元禄15年
1702

1月11日 第一回山科会議
4月15日 大石内蔵助良雄、妻子を離別
8月1日 大石内蔵助良雄、山科閉居を引き上げ、四条河原町梅林庵に仮寓
10月7日 大石内蔵助良雄、京都を立つ
10月26日 川崎平間村の軽部宅に仮寓
11月5日 大石内蔵助一行、日本橋石町公事宿小山屋に逗留
1703
12月14日 浅野内匠頭の夫人瑶泉院に暇乞いに伺う(南部坂 雪の別れ)
12月15日 午前四時ごろ吉良邸に討ち入り、吉良の義央の首級を挙げ六時ごろ退去


<回向院>

 明暦の大火で亡くなった人々の供養にと築かれた万人塚が起源。後年、天災による無縁仏を葬るならわしとなりました。江戸後期の劇作者・山東京伝、義太夫節の創始者・初代竹本義太夫、義賊として親しまれた鼠小僧次郎吉の墓や、家畜・諸動物の供養塔もあります。また、江戸勧進相撲の開催地としても知られています

京葉通り側から撮影した回向院です。吉良邸はこの回向院裏手左側になります。


<吉良上野介義央邸跡>

 元禄14年(1701)8月19日に、本所一ツ目、回向院裏、旧松平登之助信望邸へ屋敷替えを命じられています。

敷地面積 2,557坪 建坪合計1,234坪 と伝えられています。

 元禄15年(1703)12月15日(当時は15日)、赤穂浪士はこの邸に推参しました。現在の邸跡として残っている公園は下の地図の通り、ごく一部です(赤いところが今の邸跡)。関東大震災後に区画整理をされて道が変わってしまっています。

写真は吉良邸跡にある公園です。墨田区両国3−13 松坂町公園

現在の回向院付近の地図

元禄十五年の頃の本所松坂町付近


【討ち入りの道のり】(「元禄を紀行する」を参照)

<集合>
 元禄15年(1703) の暮れは例年にない寒さに見舞われています。十三日から降り続いた雪は翌日十四日(現在の15日)の未明にようやくやみましたが、夜半には霜が降り、非常に寒い日でした。集合時間は、八ツ刻(午前二時)、林町の堀部安兵衛宅と本所三ツ目横丁の杉野十平次宅、そして吉良邸裏門斜向かいにあった前原伊助・神崎与五郎宅の三カ所がその集合場所でした。内蔵助や小野寺十内ら数人の浪士たちは、まず本所・回向院に 近い矢之倉米沢町の堀部弥兵衛宅へ集まりました。弥兵衛宅ではその妻と娘(安兵衛の妻)が一同を出迎え、歓待したといわれています。内蔵助らが弥兵衝宅を出たのは九ツ刻(午前零時)を過ぎたころになったようです。そして集合場所へ向かい、討入りの身支度をととのえ、各自の武器を携えた浪土たちは、七ツ刻(午前四時)に吉良邸へ向かいました。一説によると、この時刻を八ツ刻と記したものもあるが、十内や寺坂吉右衛門らの記録には七ツ刻で一致していています。四十七土全員が、吉良邸近くのうどん屋・久兵衛方、あるいはそば屋・楠屋重兵衛方に集まり、腹ごしら えをしたあとで討入り装束に着替えたという説もあります。そして吉良邸前で前原伊助宅の数人の同志と合流し、表門組と裏門組とに分かれて討入ったのでした。


<討ち入り>
 
赤穂浪士は、吉良邸の門前に来ると、二手に分かれました。表門組は大石内蔵助自らが采配を振う二十三名であり、裏門組は大石主税を名義上の主将とし、実際は吉田忠左衛門が指揮ををとり、小野寺十内と間喜兵衛が補佐する態勢の二十四名でした。そして、その双方が、両門から討入ったのでした。


<引き揚げ>
 回向院前から竪川の一ツ目橋を波り、隅田川に沿って、小名木川の万年橋から上の橋、中の橋、下の橋を通って、永代橋を漬り、霊岸島から稲荷橋、そして浅野家の旧屋敷の築地鉄砲洲を通り、汐留橋に出、日比谷から金杉橋、将監橋という道順で無事泉岳寺につきました。一行が深川を通過するとき、中の橋付近の、ちくま味噌店、平野屋酒店の店先で休息をし、店では一行に酒をふるまったと伝えられています。



<深川江戸資料館>

 なかなか面白いので是非一度見学してください。深川の風景が実物の建物で再現されています。江東区は、天正年間に摂津の人、深川八郎右衛門が深川村を、万治年間に相模の人、砂村新左衛門が砂村新田をそれぞれ開発したのを始めとする比較的新しい町ですが、区内には多くの史跡・文化財があります。これは、江戸市中に近いことから、江戸の発展につれて多くの神社・寺院が移転してきたことや、河川が多く水運に恵まれていたことから観光地・行楽地として、そして大都市東京の経済活動を支える中心地として発展してきたことによるものです。

江東区白河1−3−28 03−3630−8625
入場料:300円 9時30分〜17時


<赤穂浪士休息の碑>

 元禄15年(1703) 12月15日早朝、大石内蔵助良雄を首班とする赤穂浪士の一行が、本所松板町(墨田区両国)の吉良邸討入後、一ツ目通りを引き揚げの途中、乳熊屋で休息し甘酒の接待を受けたといわれています。
 この由来を記した赤穂浪士休息の碑(80珊×1m)が、昭和38年、株式会社ちくま味噌によって会社入口に建立されています。碑文によれば、討入本懐を遂げた義士たちが水代橋へ差しかかったとき、ちょうど上棟の日だった乳熊屋味噌店では、店主作兵衛が一同を店に招き入れ、甘酒を振る舞い労をねぎらったといわれています。また、赤穂四十七士の一人で俳人としても有名な大高滞吾は、ちくま味噌初代竹口作兵衛と其角の門下として俳界の友であったとも伝えられています。

写真が乳熊ビルです。乳熊屋は初代竹口作兵衛義通が、慶安のころ(1648)伊勢乳熊郷(松阪市)から江戸に出て日本橋で塗物商を営んでいたが、元禄初年(1688〜)深川永代橋際で味噌醸造を営み、乳熊屋作兵衛商店といったのが現在のちくま味噌の始まりです。味噌店だったので、麹があり、甘酒もすぐ準備することができ一行を接待したのでしょう。一行はここで休息してから永代橋を渡り、高輪泉岳寺(港区)へ向かいました。(乳熊ビル 佐賀1−6)



永代橋>

 浪士一行は乳熊屋で休息後、永代橋を渡ります。

左の写真は霊岸島から門前仲町の方に向かって撮影したものです。昔の面影はもうありませんが、隅田川だけが昔のままのただずまいをしています。

<参考図書>
 歴史と文化の散歩道:東京都生活文化局コミュニティ文化局観光レクリエーション課
 元禄忠臣蔵データファイル:元禄忠臣蔵の会
、新人物往来社
 元禄を紀行する(忠臣蔵22景):津川安男
、新人物往来社
 忠臣蔵百科:泉秀樹
、講談社
 元禄繚乱:元禄繚乱展図録編集委員会
 江東辞典(史跡編):江東区総務部広報課
 史跡をたずねて:江東区総務部広報課
 
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