忠臣蔵ゆかりの地を地図も含めて赤穂、京都、吉良邸から切腹まで、紹介します。
下記の
1〜7 の項目から選択してください。

1.元禄忠臣蔵散歩 2.赤穂城散歩
 3.京都・山科散歩 4.討ち入り前夜散歩 
5.本所から永代橋散歩 6.永代橋から泉岳寺散歩 7.忠臣蔵ゆかりの地散歩

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最終更新日:2006年3月26日

●京都・山科を歩く 2004年11月27日 <V01L03>

 そろそろ12月14日が近づいてきましたので、「忠臣蔵ゆかりの地散歩」で残っていた京都・山科と赤穂を歩いてきました。今週は「京都・山科を歩く」を掲載します。
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<岩屋寺、大石閑居跡>
 大石内蔵助良雄は元禄14年6月赤穂を立ち、京都・山科に隠栖します。この地を選んだのは当地出身の赤穂藩士進藤源四郎の縁故により,土地を手に入れることができたからで家屋を新築して住み始めます。閑居跡は山科区岩屋寺のなかにあります。京都市山科区というと場所がよく分からなかったのですが、山科区といっても京都市内の中心街からはかなり遠く、新幹線で京都へ行かれた方はわかるとおもいますが、新幹線京都駅手前にトンネルがあり、そのトンネル手前が山科区となります。岩屋寺はトンネル手前左側になります。下記の地図を参照してください。大石内蔵助良雄が住んだ家は残っていませんが、その住いの古材で建てられたのが左の写真の茶室です。討入り後,邸宅,田畑など一切の財産を岩屋寺に寄進しています。岩屋寺には赤穂義士にちなんだ数々の遺物・遺品が保存され,一般に公開されています。


左の写真は大石内蔵助良雄が岩屋寺に寄進した茶室です。閑居跡はこの茶室の場所ではなくて、参道手前の右側になるそうです。

左の写真は岩屋寺に入る所です。場所が分かりにくくて苦労しました。路が狭くて、こんな所にあるのかと思うほどの場所でした。

和 暦

西暦

忠  臣  蔵  年  表

元禄14年
1701

3月14日 浅野内匠頭長矩、松之廊下において肝煎高家吉良上野介義央に刃傷に及ぶ
夕刻、城地没収のうえ切腹仰せ付けられる
3月19日 急使赤穂着
4月11日 赤穂城開城を決定
6月25日 大石内蔵助良雄、赤穂城下を撤去し京都山科に隠栖
8月19日 吉良上野介義央、呉服橋門内から本所一ツ目回向院裏に屋敷替え
元禄15年
1702

1月11日 第一回山科会議
4月15日 大石内蔵助良雄、妻子を離別
8月1日 大石内蔵助良雄、山科閉居を引き上げ、四条河原町梅林庵に仮寓
10月7日 大石内蔵助良雄、京都を立つ


<大石神社>
 岩屋寺の手前に大石神社があります。由緒のある神社とおもっていたのですが、山科区のホームページによると、「大石神社は内蔵助をはじめとする四十七士の義挙を顕彰するため,昭和10年,京都府知事を会長とする大石神社建設会,山科義士会,浪曲界の重鎮であった吉田大和之丞らによって建立された神社です。境内には御神木の大石桜があります。
毎年12月14日,討入りを記念して義士祭が行われ,「義士行列」の最終目的地にもなっています。」、と書かれています。ですから、昭和初めに作られた新しい神社でした。最初、岩屋寺と混同してしまい(お寺と神社で違うのですが)ました。

右の写真が大石神社です。最初、ここに大石内蔵助良雄の閑居跡があるとおもい、探してしまいました。神社自体が大きくて、岩屋寺があまりに小さいので逆ではないかとおもってしまいます。

<伏見撞木町(しゅもくまち)遊廓跡>
 
津川安男の「元禄を紀行する」によると、「久右衛門は、山科街道を京都の町中へ向かっていた。内蔵助は、少し前から池田久右衛門と名のっていた。…… 足は伏見へ向いている。元禄の頃、伏見の(撞木町)に小さな廓があった。歌舞伎舞踊『京鹿子娘道成寺』 に、「敷島原に つとめする身は 誰と伏見の 墨染 煩悩菩提の 撞木町より……」、とうたわれる撞木町である。…… >内蔵助が、いや久右衛門がというべきか、よく通ったという笹屋は、その並びのなかほどにあったらしい。もとより何の情緒も残していない界隈である。内蔵助は、この廓であそんだときの趣を『里げしき』という唄をつくって残している。 相方の遊女との逢瀬を楽しんだ(あそび) ののち……。「ふけて廓のよそおひ見れば 宵の灯火うちそむき寝の 夢の花さへ散らす嵐のさそひ来て……」 灯火のろうそくがちろちろと揺れている夜更けの部屋。寝乱れた姿の妓を起こして、客は帰ろうとする。「余所のさらばも尚ほ哀れにて 裏も中戸をあくる東雲 送る姿のひとへ帯 とけてほどけて寝乱れ髪の 黄楊の小櫛もさすが涙のはらはら袖に こぼれて袖に……」 また会えるのかどうか、はかない遊女の身では何もあてにはできない。「露のよすがのうきつとめ こぼれて袖につらきよすがの うきつとめ」、久右衛門が山科へ帰らない日が続いた。 相方の浮橋や夕霧との逢瀬を楽しんでいるうちに、内蔵助は腰抜けだ、仇討ちなどする気があるものか、といううわさが、浪士の間にも江戸の吉良家にも風のように伝わっていった。…」と、岩屋寺が山科区で、この撞木町が伏見区となります。京都駅からは近鉄京都線から京阪本線に丹波橋駅で乗り換えて、すこし京都に戻った墨染駅でとります。伏見インクラインで有名な場所ですが南禅寺のインクラインほどではありません。また、水上勉の自叙伝にも墨染が登場します。この遊廓のなかでも大石内蔵助良雄が遊んだのは「よろずや」です。現在、石碑が建てられています。

右の写真が伏見撞木町遊廓跡です。道の両側に遊廓の門柱がたっています。この先の両側に遊廓があったとおもわれます。「…いまも、国道二十四号線沿いに撞木町という町があって、撞木町廓跡の大きな石碑が立っている。町内はしもた家、小さなビルが並ぶ一郭である。三百年前の(色里)は、道の両側におよそ十軒ほどの遊女屋が並んでいた。…」

<仮名手本忠臣蔵七段目・祇園一力茶屋の場>
 また、
津川安男の「元禄を紀行する」を参照すると、「…歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』 の作者たちは、七段目の舞台を「舐園一力茶屋の場」とした。まあ「撞木町廓の場」とするよりも、はるかに華やかなのは確かである。七段目は、『忠臣蔵』の各段で一番といえるほど見所のある場。…… 山科から長男の力弥が駆けつけて来る。亡き殿の妻・顔世からの密書を手渡しに来たのである。引きかえす力弥に由良助が声をかける。「祇園町を離れてから急げ」 間者が入っていることの暗示である。もとの藩の家老・斧九太夫が、敵方の間者となって登場する。つまり開城の前に逃げてしまった大野九郎兵衛である。亡き塩谷判官の命日の前夜に、由良助がなまものを食べるかどうか試して、敵討ちの心ありやなしやを探る。由良助は輪を食べたふりをして懐紙に落とし、その場をしのぐ。去っていくふりの九太夫は、実はまだ茶屋にひそんでいる。ひとりになったと思った由良助は、懐中から先ほどの密書を取り出し、釣灯籠のあかりで読んでいると……。酔いざましに二階にいたおかるが、面白半分、鏡に映してその密書を読んでしまう。この時、九太夫は縁の下にもぐっていて、これも由良助の手からたれた密書を読んでしまうのである。浮世絵などに描かれる名場面である。おかるは六段目で切腹してしまった早野勘平の妻であり、夫が血判の一味に加わるための金を都合するため、遊女になったのである。足軽の平右衛門はその兄である。ふたりが対面しお互いに話しあうなかで、勘平の死や由良助の心底が明らかになってくる。決起のために身も心も捧げている兄と妹の場は、七段目後半のやま場である。由良助は、ふたりの話を陰で聞いて感動し、まだ縁の下にひそんでいた九太夫をおかるに差し殺させ、平右衛門の江戸への伴を許す。華あり、涙ありのひと幕である。…」。「仮名手本忠臣蔵」の中でも「七段目・祇園一力茶屋の場」は一番の盛り上がり場面です。七段目後半は特にいいですね!!。ただ大石内蔵助良雄が一力茶屋で遊んだという証拠はないようです。一力茶屋には、久右衛門が愛用したという三味線「初音」があるのみです。伏見の撞木町遊廓では派手な歌舞伎にはあわなかったのでしょう。祇園でも最も有名な一力茶屋がぴったりあったのだとおもいます。

右上の写真は祇園一力茶屋です。八坂神社前の祇園交差点手前の花見小路通りと四条通りの角にあります。建物も暖簾も京都祇園にマッチしています。まるで歌舞伎の場面をみているようです。歌舞伎の場面で実際の建物が残っているのは数少ないのではないでしょうか。

右の写真はお軽の墓のある上善寺です。上善寺は千本今出川の交差点近くにあります(京都でも左上側で上京区になります)。「…実際のおかるは、進藤源四郎らがひとり住まいの久右衛門のために世話した側女であった。京の二条寺町に住んでいた二文字屋次郎左衛門の娘であるという。おかるが山科で久右衛門とともに住んだものか、どこかに囲われていたのかは何ともいえない。しかし、池田久右衛門と名のる主が、ただの侍でないことは、おそらく知っていたにちがいない。そのへんは単なる遊女とちがって、そばにいる時間が長い。内蔵助は、のちに江戸から玄渓にあてて、手紙を出している。それによると、おかるは内蔵助の子を身ごもっていたようである。「出産したらどこかへ養子にでも出してほしい。おかるが白人になったりしないよう面倒を見てほしい」と頼んでいる。ちなみに、白人とは、玄人にたいして素人を意味する当時のことばで、素人と同じ類の遊女のことであるという。その後のおかるがどうなったのか、だれも知るものはない。京都今出川千本西入ルに上善寺という寺がある。その本堂の裏に「清誉貞林法尼」と刻まれた墓があり、おかるのものではないか、というのだが………。…」。残念ながらお寺の中に入れませんでした。一般には公開していないようです。

次回は赤穂を歩いてみます。

<忠臣蔵の京都地図 -1->

<参考図書>
歴史と文化の散歩道:東京都生活文化局コミュニティ文化局観光レクリエーション課
元禄忠臣蔵データファイル:元禄忠臣蔵の会、新人物往来社
元禄を紀行する(忠臣蔵22景):津川安男、新人物往来社
忠臣蔵百科:泉秀樹、講談社
元禄繚乱:元禄繚乱展図録編集委員会
江東辞典(史跡編):江東区総務部広報課
史跡をたずねて:江東区総務部広報課
中央区区内散歩:中央区企画部広報課

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