東京の忠臣蔵ゆかりの地を地図も含めて討ち入り直前から切腹まで、紹介します。
その他の地区の紹介は下記の
1〜7 の項目から選択してください。

1.元禄忠臣蔵散歩 2.赤穂散歩 3.京都山科散歩 4.討ち入り前夜散歩 
5.本所から永代橋散歩 6.永代橋から泉岳寺散歩 7.忠臣蔵ゆかりの地散歩
 

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最終更新日:2018年06月07日

●忠臣蔵めぐり (南部坂 雪のわかれ) 2001年12月2日 <V01L04>

 浅野家断絶後、浅野内匠頭の夫人瑶泉院は、生家である三次浅野土佐守の下屋敷(現在の赤坂氷川神社の所にあった)に住んでおられたようです。元禄十五年(1702)の十二月十四日は朝から雪が降り続いており、その中で翌日に討ち入りを控えた大石内蔵助は瑶泉院に暇乞いにおもむきましたが、吉良方に計画の漏れることをおそれて、ついに討ち入りのことを告げずに去ります。瑶泉院が見送った南部坂が講談や歌舞伎で有名な坂で、”嘆く瑶泉院、苦しむ内蔵助”となる訳で、これが有名な「南部坂 雪の別れ」の場面です。

左の写真は南部坂の上から撮影したものです。右側がアメリカ大使館宿舎で、警備が厳重です。(住所:東京都港区赤坂2-22付近)

<氷川神社>
 現在の赤坂 氷川神社の所が三次浅野土佐守の下屋敷跡です。氷川神社内に「史跡 浅野土佐守邸跡」と書かれた立て看板があり、「浅野内匠頭夫人ノ幽居セル里方ニテ、南部坂雪ノ別レトシテ喧セラレシ所ナリ」と書かれています。

右の写真が「史跡 浅野土佐守邸跡」と書かれた立て看板です。氷川神社内にあります。(住所:東京都港区赤坂6-10)

●忠臣蔵めぐり (軽部五兵衛屋敷跡) 2000年12月14日 V01L01

 元禄十五年(1702)の暮れは例年にない寒さに見舞われています。十三日から降り続いた雪は翌日十四日の未明にようやく止んでいます。集合時間は八ツ刻(午前二時)、討入りの身支度をととのえ、各自の武器を携えた浪土たちは、七ツ刻(午前四時)に吉良邸へ向かいました。、14日未明に赤穂浪士の討ち入りがあった訳ですが、今回は討ち入りから少し逆上って、大石内蔵助が江戸に下る途中に立ち寄った所を訪ねてみました。

<軽部五兵衛屋敷跡>
 NHKの”元禄忠臣蔵”でも放映された川崎市幸区の”軽部五兵衛屋敷跡”です。もともと軽部五兵衛は浅野家江戸屋敷の出入り農民(苗字帯刀を許されている)で、赤穂浪士の援助者として知られています。大石蔵之助が江戸へ入る直前に泊まったのが軽部五兵衛屋敷で、元禄15年(1702)10月26日から11月5日まで滞在し、この時に上杉の刺客に襲われたことになっています。

右の写真は軽部五兵衛屋敷跡の前に建っています赤穂浪士縁の称名寺です。軽部五兵衛寄進の赤穂浪士の遺品等があります。屋敷跡はこの前に建っています住宅供給公社の団地の中にありました。
軽部五兵衛屋敷跡:神奈川県川崎市幸区平間
 

●吉良庄を歩く 2005年12月13日 <V01L01>

 忠臣蔵関係では久しぶりの更新です。「忠臣蔵ゆかりの地散歩」で残っていた吉良上野介義央の国元、三河国幡豆郡吉良庄を歩いてみました。
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<吉良吉田駅>
 
吉良庄の最寄りの駅は名鉄西尾線の吉良吉田駅です。名鉄名古屋本線の新安城駅から南に分岐した路線です。住所は愛知県幡豆郡吉良町となります。まだ吉良町の名前が残っていました。「…承久3年(1221)、「承久の乱」に戦功のあった足利義氏が三河国(愛知県東部)の守護に任じられた。当時の守護は国全体の支配者というよりも、守護館周辺の支配者であったが、義氏は西条(西尾市)に城を築いて長男・長氏を入れ、その東一里(約4km)の地点の東条(愛知県吉良町)に三男・義継を入れ …… そして三河の氏は戦国期に松平氏(徳川氏)と密接な関係を持ち、のちに江戸幕府の高家となるのである。元禄赤穂事件の一方の主役・吉良上野介義央はこの三河吉良氏の嫡流であった。…」。かなり昔からこの地の守護をしていたようです。

左上の写真が名鉄西尾線の吉良吉田駅です。田舎の駅でビックリしてしまいました。


<円融寺>
 清水一学の墓があるのが円融寺です。「…赤穂浪士らの封入によって吉良側では隠居中であった義央のほか、小林平八郎、鳥居利右衛門、須藤与一右衛門、左右田源八郎、清水一字ら16人が討死。負傷者は20人余りという。…… 一学は幼名を藤作といい、吉良家の本領・三河宮迫村(愛知県吉良町)の児玉氏出身と言われる。一角という名は講談が作り上げた名である。…」。清水一学よりも清水一角の方が有名になっていますが、清水一学を誤記されたというのが本命みたいです。仮名手本忠臣蔵では鷺坂伴内ですから、いい加減なものです。

右の写真が円融寺です。吉良吉田駅からはかなりの距離です。清水一学の墓の写真を掲載しておきます。

<華蔵寺>
 吉良家の菩提寺が華蔵寺です。吉良家歴代のお墓がありました。「…義央は高家の職務上、ほぼ年に1回は京や伊勢などへ赴いていたようであるが、公務優先の関係からか、その往復途上で本領・吉良七ケ村(愛知県吉良町)へ寄ることは少なかったという。しかし、幕府の許可を得て国入りする際には、駿馬ではなく、赤い駄馬に乗って領内を巡回し、また陣屋でなく領内の華蔵寺、花岳寺などの寺院に宿泊して先祖の墓参をした。…」、と書かれていますので、このお寺にもよく泊まったのでしょう(この駄馬の銅像もお寺の前に建てられていました)。吉良庄領民のこのお殿様に対する評判はかなり良かったようです。

右の写真が華蔵寺です。吉良家歴代のお墓がありました。吉良上野介義央のお墓の写真を掲載しておきます。


<吉良庄地図 -1->

<参考図書>
歴史と文化の散歩道:東京都生活文化局コミュニティ文化局観光レクリエーション課
元禄忠臣蔵データファイル:元禄忠臣蔵の会、新人物往来社
元禄を紀行する(忠臣蔵22景):津川安男、新人物往来社
忠臣蔵百科:泉秀樹、講談社
元禄繚乱:元禄繚乱展図録編集委員会
江東辞典(史跡編):江東区総務部広報課
史跡をたずねて:江東区総務部広報課
中央区区内散歩:中央区企画部広報課

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