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最終更新日:2006年2月22日


●横溝正史の東京を歩く (上)
  初版2005年10月15日

  二版2005年11月26日 
  三版2009年4月5日 <V01L01> 神楽館の場所を更新

 今週は「横溝正史の東京を歩く」を掲載します。掲載が遅れていましたが、神戸から東京時代へ、そして上諏訪時代、再び東京時代を連続して掲載したいとおもいます。



博文館>
 横溝正史は江戸川乱歩の勧めもあり、何度か上京の後大正15年、博文館に入社、東京に住みはじめます。「…大正十五年、のちの昭和元年のことである。私は神戸にのこって、依然として薬局を経営する薬剤師さんであり、おそらく乱歩が東京からチョッカイを出さなければ、私はそのまま流行らない薬局の主人として生涯を終ったであろう。…… ところが乱歩はまことに執念深い男であった。いや、執念深い男だったからこそあそこまでになれたのであろうが、私をそのままそっとしてはおかなかった。上京するとまもなく映画を作るとやらでさかんに私にチョッカイを出しはじめた。もっとも映画を作るうんぬんはまんざらデタラメではなかったらしいのだが、あんなにさきの読める乱歩が、最後までそれに希望をつないでいたとは思えない。途中で見限りをつけていたにちがいないのだが、それにもかかわらず私のところへ電報を寄越して日く。「トモカクスグコイ」 いたって泰平無事にできている私は、電報なんてのは親の死んだときくらいにしか打つものではないと思いこんでいた。その電報が舞いこんできたものだから、スワ、一大事、さては映画作りがものになったか、それでは乃公出でずんばとばかりに、オットリ刀で上京してきたら、映画の話はとっくの昔にご破算となっていたのにはガツカリしたが、「なにね、久しぶりに君の顔を見たかったのき」 と、いう乱歩一流のコロシ文句に怒りもならず、ええい、ままよ、せっかく上京してきたのだから、半月くらいは遊んでかえろうと思っていたら、乱歩先生大いに責任を感じたのか、「新青年」 の編集長森下雨村先生に談じ込んで、私を博文館へ押し込んでしまった。……」。横溝正史本人も東京に行きたかったのでしょう。神戸の田舎から見れば東京は天国です。横溝正史が入社した博文館は明治20年(1887)大橋佐平によって設立された出版社で、この時代では最も大きな出版社だたようです。社名も伊藤博文の名前に因んで名付けられたようです。

小石川区戸崎町> 2005年11月26日 博文館の場所を修正
 博文館は当初、本郷区弓町にありましたが明治25年に日本橋区本石町3丁目(新日本橋交差点)に移転しています。関東大震災で焼失し、小石川区戸崎町46に移ります。横溝正史が編集長を勤めたころはこの戸崎町にあったようです。戦後の昭和23年(1948) 博文館は博友社、交友社、好文館の三社にわかれますが昭和24年博友社に集約され、昭和25年(1950)博文館新社が設立され、博文館の出版権はこの博文館新社が保有しているようです。

左上の写真は博文館新社の社名看板です。文京区小石川2丁目、伝通院の手前右側に木造二階建の建物が博文館新社です。博友社は博文館新社からは少し離れた新宿区揚場町の裏路地奥にあります。

右の写真の路地を入った奥、左側が当時の小石川区戸崎町49です(現在の文京区白山二丁目17付近)。

横溝正史の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

横溝正史の足跡

大正14年
1925
治安維持法
日ソ国交回復
23
初めて江戸川乱歩に会う
大正15年
1926
蒋介石北伐を開始
NHK設立
24
9月 博文館に入社
10月 「新青年」の編集に携わる、牛込神楽館(神楽坂)に下宿
昭和2年
1927
金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通

25
1月、中島孝子と神戸で結婚、小石川小日向台町に新居を構え、父と弟武夫と同居
3月 「新青年」の編集長に就任
昭和3年
1928
最初の衆議院選挙
張作霖爆死
26
2月 長女宣子生まれる
10月 「文芸倶楽部」の編集長に就任
昭和4年
1929
世界大恐慌
27
1月 父死去
昭和6年
1931
満州事変
29
1月 長男亮一生まれる、母と末弟博と同居
夏 小石川小日向台町を引き払う
9月 新雑誌「探偵小説」の編集長に就任
秋 吉祥寺の借家に転居
昭和7年
1932
満州国建国
5.15事件
30
夏 博文館を退社
昭和8年
1933
ナチス政権誕生
国際連盟脱退
31
5月 喀血
7月 富士見高原療養所で三カ月間療養
昭和9年
1934
丹那トンネル開通
32
7月 上諏訪に転居して療養生活に入る
昭和14年
1939
ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
37
12月 上諏訪より吉祥寺に帰京


牛込神楽館> 2009年4月5日 神楽館の場所を更新
 横溝正史は上京後飯田橋近くの牛込神楽館(神楽坂)に下宿します。「…当時乱歩は牛込の筑土八幡に住んでおり、私は乱歩の世話で神楽坂の神楽館に下宿していた。彼我の距離歩いて十分足らず、私は毎晩のように押しかけていっては坐り込んでくどくのだが、乱歩からはかばかしい返事はえられなかった。……それだけに八月のある日、旅行からかえったばかりだという乱歩が、神楽館の玄関へ訪ねてきて、下宿から私をひっぱり出し、神楽坂を歩きながら、「パノラマ島奇譚」〔のち「パノラマ島奇談」と改題〕 の構想を語ってきかせてくれたとき、私は天にものぼる欣びようだったといってもいい過ぎではあるまい。真夏のことだから神楽坂の通りはいっぱいの人出だった。そのとき私がどういう服装だったか記憶にないが、乱歩が浴衣がけだったのをいまでもハッキリ憶えている。その後知ったのだが、厭人病にかかると乱歩はしばしばそういう服装で旅に出るのである。「そんならあんた、小説の構想をねるために旅に出られたんですか」…」。横溝正史が江戸川乱歩に作品を依頼していたのでしょう。さすが 「新青年」の編集長!!

左上の写真正面に神楽館がありました。当時の地番で牛込区神楽二丁目二一番です。地図で見るとかなり大きなアパート(下宿)だったようです。現在の住所で神楽坂二丁目20番地です。

小石川小日向台町>
 横溝正史は中島孝子と結婚するため神戸に戻ります。そして家族を連れて再び東京に戻ります。「…ここで私事を語って恐縮だが、昭和二年の正月私は神戸へ帰って現在の妻孝子と結婚した。孝子との婚約は私が東京へ飛び出してくるまえから決まっていたのである。私が神戸へかえっているあいだに、雨村がわれわれの世帯をもつべき家を物色しておいてくれた。現在とちがって当時は借家などいくらでもあった時代である。その家というのが当時雨村の住んでいた、小石川小日向台町のすぐ近くで、いわば目と鼻のあいだであった。おなじ小日向台町には当時翻訳家の延原謙、画家の松野一夫、その頃早稲田大学の講師をしており、のちに博文館へ入って「太陽」の編集長となった、左翼評論家の平林初之輔などが住んでいて、雨村を中心に「新青年」グループを形成していた。私はその小日向台町に住むことによって、ハッキリと雨村傘下に編入されたわけである。…」。小石川小日向台町といっても余り聞き慣れない地名なので場所が良く分からないとおもいます。地下鉄の茗荷谷駅と江戸川橋駅の間の高台です。昔からの住宅街で道が狭くて車がすれ違うのが大変です。

右上の写真は小日向二丁目にある小日向台町小学校です。「…亮一 いや、僕が生まれたのは文京区です。小日向台町ですね。森下雨村先生のお宅の近くだったと思います。夫人 鳩山秀夫さんの家の近くよ。…」。と亮一さんと夫人が言われているので鳩山会館に近い、小日向二丁目付近ではないかとおもわれます。


横溝正史の富士見療養所と上諏訪を歩く
 療養先の富士見高原療養所と信州上諏訪の療養生活をあるきます。



吉祥寺>
 昭和6年の夏小石川小日向台町の家を引き払います。そして秋には吉祥寺の借家に転居します。「…昭和六年の夏、当時まだ博文館に勤めていた私は、それまで住んでいた小目向台町の家を引き払い、妻と長女とその年生まれたばかりの件を、避暑という名目で房州の海辺の町へ追っ払い、私はひとりで本郷の玄人下宿に宿をとり、酒浸りの気随気俵な生活を送っていた。…… ふと胸の底からヌラヌラとしたものがこみあげてきたので、何気なく吐くと血の塊りであった。私は慌てて砂でかくすとだれにもそれを語らなかった。ふしぎにそのときの喀血はそれだけでおさまり、勤めを休んで二週間ほど静養しているうちに、体の異常なけだるさも自覚症状から消えていった。…… その年の秋私は吉祥寺の借家へ引っ越した…」。この頃から肺結核の症状が表れていたようです。当時、肺結核は死の病で、梶井基次郎、織田作之助は死に、水上勉は生き残っています。体を大切にした人は生き残れたようです。吉祥寺では一度すぐに転居したようです。「…亮一 そこで生まれてから、すぐに吉祥寺へ移り、吉祥寺で一回転居をして…」。と書かれていますが、最初の吉祥寺の借家が不明です。

右の写真の右側が吉祥寺での二軒目の住居跡です(現在の吉祥寺本町四丁目付近です)。「…亮一 当時、僕も気がついてたけども、吉祥寺の家の真向かいが、マルクス経済学の権威の大塚金之助さんという、有名な経済学者のお宅でね。この方は一橋大学の教授で、もう先年亡くなられましたけど、どういうわけか非常に可愛がっていただいたんです、僕は。そこのお宅とうちのおやじの挙動が監視されていたんですよ。夫人 憲兵に……。亮一 憲兵だったか、警察の特高だったかが、よく電信柱の陰で見張っていたですね。そういえば、あの頃おやじは、左翼の作家の資金カンパかなんかしてたもんだから……。」。少し前まで写真の左側に上記に書かれている”大塚金之助さん”のお住まいがあったのですが現在は無くなっています。


<横溝正史の東京地図 -1->

<横溝正史の東京地図 -2->

●横溝正史の東京を歩く (下)
  初版2005年11月26日 
<V01L01> 暫定版

 今週は「横溝正史の東京を歩く」の最終回を掲載します。江戸川乱歩は来週から続けて掲載する予定です。あくまで予定ですので変更するかもしれません。金田一耕助の名前の由来とお墓までを歩きます。



<金田一耕助>
 「真備町を歩く」でも書きましたが、金田一耕助の名前が初めて書かれたのは「本陣殺人事件」です。今回はこの金田一耕助の登場を考えてみました。「…ちかごろ私は、ちょくちょくひとさまから質問をうけることがある。金田一耕助なるいっぶう変わった探偵さんのな。たちと、あの有名なアイヌ学者金田一京助先生との名前の関連性についてである。そのつど私は適当に答えることにしているが、この際、いちおう文章にして書きとめておくのも無駄ではあるまいと、かくは禿筆を走らせる気になったしだいである。…」。横溝正史本人もこの名前に関しては気にしていたみたいです。「…菊田一夫はエノケンとふたことみこと話をしたきりで、すぐ部屋を出ていったから、われわれのあいだで会話がかわされたわけでもなく、その間わずか二分か三分のことだったろう。あるいはもっと短かったかもしれない。菊田一夫に会ったのはあとにもさきにもそのときしかない。それでいてその風貌が強烈な印象となって私の脳裡に残ったのは、もちろんその後エノケンが大いに売り出すと同時に、菊田一夫も盛名大いにあがったからでもあろうが、…」。金田一耕助のイメージはどうやら菊田一夫のようです。ただ、頭はもじゃもじゃでは無かったようです。(菊田一夫とは戦後、東宝の役員までなった演劇界では有名な方です)

左上の写真は光文社版の「金田一耕助の帰還」です。この本の最後に”金田一耕助誕生記”として、金田一耕助の名前の由来が書かれています。


横溝正史の東京年表 -2-

和 暦

西暦

年  表

年齢

横溝正史の足跡

昭和21年
1946
日本国憲法公布
44
3月 「人形佐七捕物文庫」を連載
4月 「本陣殺人事件」を「宝石」に連載
5月 「蝶々殺人事件」を連載
昭和22年
1947
織田作之助死去
中華人民共和国成立
45
1月 「獄門島」を「宝石」に連載
11月 江戸川乱歩が来訪
昭和23年
1948
太宰治自殺
46
2月 「本陣殺人事件」で第一回探偵作家クラブ賞長編賞を受賞
4月 長男亮一が早稲田大学に入学、夫人と共に東京に戻る
8月 東京成城に戻る
昭和24年
1949
湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞
47
3月 「八つ墓村」を新青年に連載
昭和25年
1950
朝鮮戦争
48
1月 「犬神家の一族」をキングに連載
昭和56年
1981
ピンクレディが解散
向田邦子が飛行機事故で死去
79
12月28日 国立病院医療センターでがんのため死去


<金田一京助先生>
 金田一耕助のイメージモデルは菊田一夫のようですが、名前の方はどうでしょうか。「…私が最初考えた探偵の名前は、菊田一なにがしであった。しかし、これではなにがなんでもあまりにも菊田一夫に失礼だし、そういう苗字は世間にありそうにもないので、菊田一夫がいつか金田一に変わっていったのは語呂が似ているのと、それからもうひとつ、つぎのような連想神経の作用によるのである。岡山へ疎開するまえ私は吉祥寺の一九〇一番地に住んでいた。下町とちがって吉祥寺のような住宅街に住んでいると、近所づきあいというのはごく稀れなのが普通らしいが、ときあたかも太平洋戦争のさなかで、隣組というものが結成され、男も女も、ときどきいやおうなしに防空演習に狩り出されたものである。そのおなじ隣組に金田一さんというかたがいられた。失礼ながら呼び名のほうは失念してしまったが、いつもニコニコしていられ、まことに穏やかなお人柄であった。聞くところによると、あの有名な金田一京助先生のご令弟だということであった。そこで菊田一が金田一に転訛すると、ええい、構うことはねえと、金田一京助を金田一耕助と詐称させていただいたのは、あのおだやかな金田一さんのお兄さんなら、ニコニコ笑って私の無礼も、許してくださるだろうという身勝手な甘えと、まさか金田一耕助の名前がこんなにも有名になろうとは、ゆめにも思っていなかったからである。…」。戦前に転居した吉祥寺の横溝正史の家から一筋 吉祥寺駅側に金田一京助先生のご令弟が住まわれていたようです。町名は違いますが戦時中は隣組でお付き合いがあったようです。

左上の写真は横溝正史の吉祥寺の旧宅から一筋吉祥寺駅側に歩いたところです。この近くに金田一さんがお住まいです。現在もお住いのようなので直接の写真は控えさせていただきました。


横溝正史の真備町を歩く 上別巻
 横溝正史は昭和20年3月末、岡山県吉備郡岡田村字桜に疎開します。



<成城>
 昭和23年、横溝正史の長男が早稲田大学に合格したため、疎開先の岡山から東京に戻らざるを得なくなります。「…さて、昭和二十三年になると私はすっかり途方に暮れてしまった。伜の亮一は東京では府立十中に席をおいていたのだが、疎開してから矢掛中学というのへ転校させてあった。それがその春東京の早稲田を受けさせてみたところ、首尾よくパスしてしまったのである。私もここらが引き揚げどきかもしれないと思ったが、さて帰るに家なしという状態であった。吉祥寺の家は強制疎開を命じられた人物に貸してあったのだが、ああいう時代に家を明け渡してほしいという因業さは私にはなかった。…」。終戦後間もなくの東京は凄い住宅難ですから今住んでいる人に出て行けとは言えなかったでしょう。

左上の写真は横溝正史が住んでいた成城の邸宅付近の写真です。まだご家族の方がお住いのようなので直接の写真は控えさせて頂きました。この成城の家の購入については、「…東京の出版社のおやじで、杉山市三郎君というのがよく桜の家へ来ていた。……杉山君は現在私の住んでいるこの成城の家へ亮一をつれていって、この家を譲ってもよいといっているから、お父さんにいって買わせなさい、お金はなんとかなるだろうからというようなことだったらしい。…」。と言うことでこの成城の大邸宅を購入しています。

岡山からの帰京には吉備町の方々にかなりお世話になったようです。「…思いがけないところから援助の手が差しのべられた。桜に在住中の三年五カ月のあいだに私はいくらか「山陽新聞」のお役に立ったかして、それではこちらでなんとかしましょうというわけで、最寄りの清音駅へ空の貨車を一台まわしてきたのには、私も驚いたが、清音駅の駅員諸君も驚いたそうである。いや、新聞社の勢力の偉大さには私もいまさら舌をまいて驚嘆せずにはいられなかった。七月三十一日の汽車の切符も新聞社で手配してくれた。…… 夫婦そろって桜の部落へ挨拶まわりもした。そして七月三十一日の午後、夫婦親子四人そろって約三キロある清音駅へ、当時のことだからクルマもなく、徒歩でむかったのだが、あとに艇々として長蛇のごとくお見送りの列がつづいたのを、私はいまでもハッキリ憶えている。…」。吉備町でも人気者だったのですね。

<横溝正史のお墓>
 横溝正史は昭和56年12月28日 国立病院医療センターでがんのため死去します。

右の写真は川崎市生田春秋苑の横溝家のお墓です。高台の特別良いところにお墓がありました。春秋苑までは道が狭くて車で尋ねるには大変です。

今週で「横溝正史を歩く」は終了です。時間をかけてブラシュアップしていきます。

<横溝正史の東京地図 -1->

<横溝正史の東京地図 -2->

【参考文献】
・横溝正史と東川崎町:東川崎歴史の会
・探偵小説五十年:横溝正史、講談社
・横溝正史読本:小林信彦、角川書店
・横溝正史自伝的随筆集:横溝正史、角川書店
・横溝正史の棒ぐ:角川書店編
・本陣殺人事件:横溝正史、角川文庫
・金田一耕助のモノローグ:横溝正史、角川文庫
・金田一耕助の帰還:横溝正史、光文社


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