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最終更新日:2006年2月22日


●横溝正史の富士見、上諏訪を歩く
  初版2005年10月22日 
<V01L01>

 今週は「横溝正史の富士見、上諏訪を歩く」を掲載します。横溝正史は胸の病気のため富士見高原療養所から上諏訪に約5年間転地療養します。



富士見高原療養所>
 横溝正史は昭和8年5月、大喀血をします。「…博文館を退いた翌八年の五月七日、私はとつぜん大喀血をやらかした。そのまえゐ晩、私は友人と銀座を飲みあるき、タイガーで川口松太郎君と会って、冗談をいいあっているくらいだから、私には全然この病気にたいする自覚がなかったのである。…」。銀座のタイガーは有名ですね。戦前の文士なら永井荷風をはじめとして必ず訊ねたキャバレーです。喀血後、横溝正史は江戸川乱歩に富士見高原療養所での療養を進められます。「…これも浮世の義理である。乱歩さんの顔を立てるためにも、療養所へいってあげようということになり、なにしろ物見遊山へでもいくつもりなのである。それ、パナマ帽を買ってこいの、やれ、藤のステッキを都合してこいのというわけで、富士見の療養所へいったときには、乱歩さんから頂戴したお見舞い金の半分は消えていた。 ところがアニハカランヤである。富士見の療養所で正木不如丘先生に一喝されるに及んで、私ははじめてじぶんの病気の、なみなみならぬものであることを、ハッキリ認識したのだから、まことにノンキなことであった。…」。この富士見高原療養所は結構有名なんです。私は竹下夢二が亡くなった病院として知っていました。別途特集したいとおもいます。

左上の写真は現在の富士見高原病院です。富士見高原療養所は大正15年に民営として設立され慶応義塾大学医学部助教授正木不如丘を所長に迎えています。

横溝正史の富士見、諏訪年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

横溝正史の足跡

昭和7年
1932
満州国建国
5.15事件
30
夏 博文館を退社
昭和8年
1933
ナチス政権誕生
国際連盟脱退
31
5月 喀血
7月 富士見高原療養所で三カ月間療養
昭和9年
1934
丹那トンネル開通
32
7月 上諏訪に転居して療養生活に入る
昭和14年
1939
ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
37
12月 上諏訪より吉祥寺に帰京


青木医院>
 横溝正史は富士見高原療養所で三カ月間療養後、吉祥寺に戻りますが友人たちに説得されて上諏訪に転地療養に出かけます。「…すると昭和九年の春の終わりごろ、とうとうたまりかねたのか、水谷準君が森下先生や大下宇陀児氏ほか先輩友人を代表してやってきて、私に宣告をくだした。 むこう一年絶対に筆をとらぬこと。女房子供をつれてどこかへ転地すること。以上二ヵ条の条件をのむならばむこう一年生活を保証しょう。月々二百円でどうだと。 私はひとのお世話になることが、あまり苦にならない性分だとみえて、ありがたくこのご好意をお受けすることにして、昭和九年七月末に信州上諏訪へ転地していった。上諏訪という土地がえらばれたのは、正木不如丘先生の御本宅がそこにあったからである。…」。上諏訪は富士見高原療養所がある中央本線富士見駅から四つ目です。

左上の写真は上諏訪の青木病院です。横溝正史は上諏訪で二回転居しますが、最初の借家はこの青木病院の裏手の借家でした。「…最初私たち一家が借りて住んでいた家は、ある病院の持ち家で、大家さんであるところの病院の、すぐ裏側にある二階建ての家だった。それは非常にいい家で、家のなかの湯殿には、つねに温泉が湧いており、二階が八畳と六畳のふた問あり、私みたいな、友人の庇護で療養生活をつづけているものには、もったいないような家だった。…」。この”ある病院”が大手一丁目にある青木病院なのです。裏手の借家の正確な位置が分かりませんでしたので、裏手の写真を掲載しておきます(この写真の中にある古い二階建ての家ではないかとおもうのですが!)。

茅野病院>
 家主から退去を迫られてやむえず病院裏手の借家から転居します。上諏訪駅の機関車庫の裏手に転居したのですが、此方は正確な場所が掴めませんでした。横溝正史の体調の方は回復していきます。「…正木不如丘先生は上諏訪に本宅をお持ちとはいうものの、お忙しい体だから、諏訪に患者をもつというわけにはいかなかった。そこで茅野病院という上諏訪きっての大きな病院の、院長先生に私のことを托された。 この芽野先生の甥ごさんで、おなじ病院に勤務していられた神沢太郎先生という人物が、主として私の面倒をみてくださることになった。…」。この芽野先生のおかげで上諏訪滞在中に回復します。

右上の写真は高島一丁目にある茅野病院です。この茅野病院は残念ながら閉院していました。建物と表札は残っていましたので写真だけ撮影しました(VGA拡大写真の左側です)。

大手町二丁目>
 上諏訪での二回目の転居が大手町二丁目でした。「…東京へ引き揚げてくるまえ私の住んでいた家は、上諏訪でも三軒目の家で、それは花柳界のどまんなかにあった。たしか大手町の二丁目であった。それというのが、その家の持ちぬしというのが、もと土地の名妓とうたわれた女性で、その家で置き屋を営んでおり、盛んなときには数名の抱えっ妓がいたらしい。それがたまたま女あるじが胸を病むにいたり、いまさらこの稼業の罪深きに思いいたって、抱えっ妓の証文一切まくと、自分はお茶とお花の師匠をして身を立てていられたが、それでは家が広過ぎるところから、私の病気も一切承知でお貸ししましょうというのだから、こんなありがたい話はなかった。…」。本当に呑み屋街の真ん中でしたが少し寂れていました。ここで横溝正史は相当遊んだようです。結局、上諏訪に五年いて吉祥寺に戻ります。

左の写真は大手町二丁目の見番です。この見番の裏手に横溝正史は住んでいました。番地から家主の名前まで分かっているのですが、結局正確な場所は分かりませんでした。大まかな場所の写真を掲載しておこます。

来週は「横溝正史の東京を歩く」に戻ります。

<横溝正史の富士見、諏訪地図>

【参考文献】
・横溝正史と東川崎町:東川崎歴史の会
・探偵小説五十年:横溝正史、講談社
・横溝正史読本:小林信彦、角川書店
・横溝正史自伝的随筆集:横溝正史、角川書店
・横溝正史の棒ぐ:角川書店編
・本陣殺人事件:横溝正史、角川文庫
・金田一耕助のモノローグ:横溝正史、角川文庫


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