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最終更新日:2006年2月22日


●横溝正史の真備町を歩く(上)
   -「本陣殺人事件」を中心にして-

  初版2005年7月2日
  二版2005年7月11日 総社の義姉宅とカフェの写真を追加 
<V01L02> 

 今週から「横溝正史を旅する」の掲載を始めます。当分は「梶井基次郎を歩く」と併載になります。特に今週は横溝正史の「本陣殺人事件」を中心にして、疎開先である岡山県真備町を歩きます。



岡山県吉備郡岡田村字桜の疎開宅>
 横溝正史は戦時中、東京の吉祥寺(現在の武蔵野市吉祥寺本町)に住んでおり、近くの中島飛行機武蔵製作所や三鷹研究所が爆撃されて驚き、疎開を決心したようです。横溝正史本人は、「…私はそのまま吉祥寺にいすわるつもりだったのだが、それにもかかわらず三月十日の大空襲におどろいて、手簡い手紙をよこされた原田光枝女の疎開のすすめに二も二もなく応じる気になったのは、そこが瀬戸内海にちかいからであった。どう考えてもこの戦争もヤマがみえていた。戦争が終わったら探偵小説も復活するだろう。そんな場合、瀬戸内海の小島を舞台に書いてみたらどうかと漠然と考えていた私は、矢も楯もなくそこへいってみたくなった。…… 昭和二十年の春、私は吉祥寺の家を引き払って、岡山県吉備郡岡田村字桜というところへ疎開していった。家族はわれわれ夫婦に三人の子供たち。時に私は四十三歳、家内が三十九歳、長女十七歳、長男十三歳、次女が六歳であった。…」、と書いています。一家五人、大変なおもいをして疎開していきます。長男の亮一さんは、「…食糧事情は極度に逼迫し、連日、B29の爆撃が続くようになる。ある日、飛行機工場に動員されていた姉がなかなか帰ってこなかった。夕刻、真っ青な顔の姉がヨロヨロと帰ってきて倒れた。クラスメートの多くが入った防空壕が直撃弾を受けて、何人もの級友が爆死したのだという。この事件で、父は疎開を決心する。昭和二十年三月だった。…」、とも書いています。やっぱり身近な人の危機が決心させたようです。

左上の写真は、吉備郡岡田村字桜の疎開先宅で障子に映している金田一耕助の影絵です。上手に作っています。疎開先宅でサイダーをご馳走になりました。暑かったので美味しかったです。ありがとうございました。現在の住所で吉備郡真備町大字岡田1548となります。

総社駅>
 東京を昭和20年3月25〜26日に東京を発ち、途中、神戸で数日間過ごした後、昭和20年4月1日午後四時ごろ、横溝一家は「総社駅」に到着します。「…三日三晩、無蓋車で行ってびしょ濡れになりました。和綴じの本なんかもすっかり駄目になったし、布団から何からもう全部濡れちゃって。で、着いたらよその家の屋根を借りて、布団なんか干したものですよ。…」。大変だったようです。ただ無蓋車で疎開したのは荷物だけです。永井荷風が6月2日に東京を発って岡山に疎開していますが、東京駅16時30分発の列車で翌日の6時には京都に着いています。5月24日の空襲の後での疎開ですが、3月の空襲から相当時間が経っており今更疎開する人は多くはなかったのでしょう。横溝一家は3月10日の空襲の後で、一番大変な時期に疎開したのだとおもいます。

右の写真がJR伯備線総社駅です。工事中で写真がイマイチです。横溝一家は当初、親の故郷である浅口郡に疎開する予定でしたが、他の人が既に疎開していたため、新たに家を見つけることになります。その家が吉備郡岡田村字桜になります。


総社の義姉宅とカフェ>
 横溝一家は岡山県総社の義姉宅に字桜の家の修理が終わるまでの約一カ月滞在します。「…「しかし、この義姉はなかなかしっかり者で、予定していた家が駄目になると、すぐそれにかわる家を見つけておいてくれたが、じつはそれが大変なシロモノなのであった。…… まるで蚕の腹のような肌をしていて、腺病質という言葉を絵にしたような、しかし、男っぷりも上乗の大工が、義姉の家の筋向かいに住んでいた。その若い衆が一切取りしきってくれることになったが、むろんひとりで手に負えるはずもない荒れかただから、私たち夫婦もお手伝いしなければならなかった」 この記を書いたころ私はこの大工さんの名前を忘れていたが、こんど光枝の遺児の迪胤に問い合わせたところ、栄田実君といって昭和二十五、六年ごろ病死されたそうである。慎しんでご冥福を祈るしだいである。…」。現在の総社駅前には市役所通りという真っ直ぐ伸びた大きな道が出来ていますが、その道の左側に古い商店街のある路があります。その路を少し歩いたところに義姉宅がありました。残念ながら栄田さんという大工さんのお宅は発見できませんでした。残念!!

左の写真の中に義姉宅があります(個人のお宅なので直接の写真は控えさせて頂きました)。「…さて、このおびただしい家財道具の収容所だが、これはあらかじめしっかりもんの義姉の光枝が用意をしておいてくれた。原田のうちの筋向かいにカフェが一軒あった。しかし、あの時代にカフェの営業などなりたとう道理がなく、お店は閉業状態であった。そこの女主人の小島愛子さんというひとと、義姉の光枝が仲よしだったので、あらかじめ義姉がたのんで、そこの土間を用意しておいてくれたのであった。…」。たいへん苦労してカフェを探しました。横溝正史は、”うちの筋向かいにカフェが一軒”と書いていましたが、たいへん遠い筋向かいでした(素晴らしいことにまだカフェの跡が見受けられました)。


横溝正史の真備町年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

横溝正史の足跡

昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
43
3月下旬 疎開のため東京を発つ
3月下旬 兵庫県御影の義兄の家に立ち寄る
4月1日 岡山県総社の義姉宅に一時留まる
5月初旬 吉備郡岡田村字桜に転居
昭和21年
1946
日本国憲法公布
44
3月 「人形佐七捕物文庫」を連載
4月 「本陣殺人事件」を「宝石」に連載
5月 「蝶々殺人事件」を連載
昭和22年
1947
織田作之助死去
中華人民共和国成立
45
1月 「獄門島」を「宝石」に連載
11月 江戸川乱歩が来訪
昭和23年
1948
太宰治自殺
46
2月 「本陣殺人事件」で第一回探偵作家クラブ賞長編賞を受賞
11月 東京に戻る


清−駅(清音駅)>
 「この稿を起こすにあたって、私は一度あの恐ろしい事件のあった家を見ておきたいと思ったので、早春のある午後、散歩かたがたステッキ片手に、ぶらりと家を出かけていった。私が岡山県のこの農村へ疎開して来たのは、去年の五月のことだが、それ以来、村のいろんな人たちから、きっと一度は、聴かされるのが、一柳家のこの妖琴殺人事件である。いったい人は私が探偵小説家であることを知ると、きっと自分の見聞した殺人事件などを話してくれる。…」。「本陣殺人事件」の書き出しです。横溝一家が疎開した日付も正確に記載していますね。「本陣殺人事件」が「宝石」に掲載を始めたのが昭和21年4月ですから、なにかそのままという感じです。

 金田一耕助が事件解決のため下車した駅が伯備線清音駅(本では「清−駅」)です。「…伯備線の清−駅でおりて、ぶらぶらと川−村のほうへ歩いて来るひとりの青年があった。見たところ二十五、六、中肉中背 − というよりはいくらか小柄な青年で、飛白の対の羽織と着物、それに縞の細い袴をはいているが、羽織も着物もしわだらけだし、袴は襞もわからぬほどたるんでいるし、紺足袋は爪が出そうになっているし、下駄はちびているし、帽子は形がくずれているし……つまり、その年頃の青年としては、おそろしく風采を構わぬ人物なのである。色は白いほうだが、容貌は取り立てていうほどの事はない。…」探偵、金田一耕助の登場場面です!!

左上の写真が現在の伯備線清音駅です。駅舎は当時と変わっていないのではないかとおもいます。現在は伯備線の駅だけではなくて、井原鉄道の起点にもなっています。井原鉄道は清音駅から神辺駅間が平成11年に新規開通しています。

川辺橋>
 清音駅から事件が起こった岡田の一柳家に向かうには高梁川の川辺橋を渡ります。「…そういう青年が高−川を渡って川−村のほうへ歩いて来る。左手は懐手したまま、右手にはステッキを持っている。ふところがおそろしくふくれているのは雑誌か、雑記帳か、そんなものが突っ込んであるのだろう。その時分東京へ行くと、こういうタイプの青年は珍しくなかった。早稲田あたりの下宿にはこういうのがごろごろしているし、場末のレヴュー劇場の作者部屋にも、これに似た風采の人物がまま見受けられた。これが久保銀造の電報で呼び寄せられた金田一耕助なのだ。…」清音駅前の一本道を高梁川まで歩き、左側に土手上がり、旧川辺橋を渡ります。

右の写真が昭和8年に完成した旧川辺橋です。右側の新川辺橋は昭和56年に完成しています。横溝一家はこの旧川辺橋を渡っていたとおもいます。当然、金田一耕助もこの橋を渡ります。

川辺町、木内医院>
 金田一耕助は川辺橋を渡り、山陽街道に沿って川辺町に入ります。「…何事が起こったのかと思って、耕助も思わず足をはやめていたが、するとちょうど川−村の町並みのとぎれるあたりで、乗り合い自動車が電柱に乗り上げていて、そのまわりに大勢人だかりがしているのだった。…… いま川−村の木内医院にひとりの婦人が収容されている。その婦人は昨日、川−村で起こった自動車事故で怪我をして、そこへ担ぎこまれたのだが、今朝の一柳家の事件をきいて非常に昂奮している。その婦人は今度の事件について何か知っているらしく、捜査主任にあって是非お話ししたいことがあるといっている。彼女は犯人を知っているらしい。…」。写真の右側辺りに自動車事故で婦人が入院した木内医院があったようです。

左の写真が川辺町の山陽街道です。高梁川の土手のところに山陽街道の記念碑が立てられていました。

川辺町の本陣跡>
 山陽街道、川辺町の本陣跡です。「…村の故老の話によると、一柳家は近在きっての資産家だったが、元来がこの村の者ではなかったので、偏狭な村人からはあまりよく言われていなかったそうである。一柳家はもと、この向こうの川−村の者であった。川−村というのは、昔の中国街道に当たっていて、江戸時代にはそこに宿場があり一柳家はその宿場の本陣であったという。ところが、維新の際に主人が、この人は時代を見る明があったと見えて、瓦解とともにいちはやく今のところへ移って来ると、当時のどさくさまざれに二束三文で田地を買いこみ、たちまち大地主になりすましたのである。…」。中国街道とは山陽街道(山陽道)のことです。江戸時代は西国街道とも呼ばれていました。近くに脇本陣跡の記念碑もあります。

右の写真が川辺本陣跡記念碑です。建物は残っておらず、現在は歯医者さんになっていました。

角の煙草屋>
 金田一耕助は事件解決のため。警部と二人で自転車に乗り、川辺の町を巡ります。「…二人は黙りこんだまま、自転車をつらねて川辺の町を通りすぎ、間もなく岡−村へ通ずる、あの一直線道路へさしかかったが、するとその時だしぬけに、耕助が警部を呼び止めた。 「チョ、チョ、ちょっと警部さん、ちょっと、待っていて下さい」 警部が怪訝そうに自転車を止めて見ていると、耕助はそこの曲がり角にある煙草屋へ入っていった。…」。残念ながら曲り角にはたばこ屋はありませんでした。一軒向う隣に雑貨屋があり、タバコも販売していました。

左の写真の正面やや左側の路が岡−村へ通じる路です。手前から先に伸びている路は山陽街道です。角の煙草屋の所は現在更地になっていました。金田一耕助と警部は向こう側から自転車できて角の煙草屋に寄ってからここで右に曲がるわけです。

一柳家への路>
 「…そしてチェリーをひとつ買うと、煙草屋のおかみさんにこんな事を訊ねていた。「おかみさん久−村へ行くのはこの道を行けばいいんですか」 「へえ、そうですよ」 「この道を行って……それからどう行くんですか、すぐわかりますか」 「そうですね。この道をずっと行けば、岡−村のとっつきに、村役場がありますから、そのへんで山ノ谷の一柳さんときいてごらんなさい。大きなお屋敷ですからすぐわかりますよ。その一柳さんの表門のまえの路をいけばいいのです。山越しだけど一本路だから迷うようなことはありませんよ」 編み物に熱中しているおかみさんは、頭もあげずにそうおしえた。「ああ、そう。いや、有難うございました」…」。三本指の男が久−村への路を訪ねて、歩いて行った路です。金田一耕助は再度検証しています。

右の写真が村役場への路です。山陽道の新道を超えて真っ直ぐ1Km程歩くと、村役場跡にたどり着きます。

今回で終わりませんでしたので次週も掲載します。

<横溝正史の真備町地図>

【参考文献】
・探偵小説五十年:横溝正史、講談社
・横溝正史読本:小林信彦、角川書店
・横溝正史自伝的随筆集:横溝正史、角川書店
・横溝正史の棒ぐ:角川書店編
・本陣殺人事件:横溝正史、角川文庫
・金田一耕助のモノローグ:横溝正史、角川文庫


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