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最終更新日: 2018年06月07日


●横溝正史の真備町を歩く(下)
    -「本陣殺人事件」を中心にして-

  初版2005年7月23日 
<V01L02>  

 先週はお休みさせて頂きました。今週から暫くは「横溝正史を旅する」を掲載します。特に今週は前回途中まで紹介していました「真備町を歩く」の続編を掲載します。いよいよ一柳家へ向かいます。



岡山県吉備郡真備町の大きな看板>
  前回は山陽街道の角の煙草屋の所を曲がって、一柳家への路を歩き始めた所まででした。この一柳家への路を暫く歩くと、役場跡にたどり着きます。この役場跡に 大きな看板(道案内)が造られていました。なんと、たのしい、名探偵金田一耕助でしょう!!

左の写真は岡山県真備町岡田の役場跡に造られた名探偵金田一耕助の大きな看板です。2m四方はあるとおもいます。この金田一耕助のイメージで真備町のパンフレットが創られていました。この看板のところを鍵型に曲がって500m歩くと、目的の横溝正史一家の疎開先となります。田舎ですので家もそのまま残っていました。この看板を見ながら一本道を疎開先まで歩くと、自らが金田一耕助になってしまっていました。

<大山康晴七段のお嫁さん>
  疎開先のすぐ近くのお嬢さんが有名人(後で有名になります)と結婚します。 「…私が散歩に出ると表の道で加藤の一さんや片岡の要さん、要さんの分家であるところの片岡の銀さんたちが、農作業をやめてひとかたまりになり、しきりに中山家のほうをうかがっている。「なにかあったの?」 と、私がきくと、「いや、どうやら昌あちゃんのお見合いらしいんですんじゃ」 と、三人のうちのひとりが答えた。「へへえ、そら、お目出度いな」 と、野次馬根性の強い私もその仲間に加わってようすを見ていると、まもなく小柄で、色白の、度の強そうな眼鏡をかけた復員服の青年が、三、四人のひとといっしょに中山家から出てきたかと思うと、お母さんらしいひとを自転車のうしろに乗っけてさっと引き揚げていった。…」。この後、親しい昌あちゃんは見合いの男性と結婚します。この男性というのは、「…先生、昌あちゃんのお婿さん、碁やのうて将棋やそうな。将棋がぼっこう強いんじゃそうな」 「へへえ、それで名前はなんちゅうやねん」 「たしか大山とかちゅうといましたな」 聞いて私はびっくり仰天。…」。そうなんです。お見合い相手の男性はあの大山康晴さんだったんです。

右の写真は横溝正史の疎開先の近くを撮影したものです。現在も親族の方がお住いのようですので直接の写真は控えさせていただきました。大山康晴名人は岡山県倉敷市に生まれ、戦前には六段まで昇進され、昭和22年には七段になります。ですから七段の時にお見合いをしたのです。そして昭和27年には名人になります。残念ながら現役のまま平成4年に死去されます。

横溝正史の真備町年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

横溝正史の足跡

昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
43
3月下旬 疎開のため東京を発つ
3月下旬 兵庫県御影の義兄の家に立ち寄る
4月1日 岡山県総社の義姉宅に一時留まる
5月初旬 岡山県吉備郡岡田村字桜に転居
昭和21年
1946
日本国憲法公布
44
3月 「人形佐七捕物文庫」を連載
4月 「本陣殺人事件」を「宝石」に連載
5月 「蝶々殺人事件」を連載
昭和22年
1947
織田作之助死去
中華人民共和国成立
45
1月 「獄門島」を「宝石」に連載
11月 江戸川乱歩が来訪
昭和23年
1948
太宰治自殺
46
2月 「本陣殺人事件」で第一回探偵作家クラブ賞長編賞を受賞
11月 東京に戻る


二間道路>
 山陽街道の角の煙草屋の所を曲がると役場までは真っ直ぐ伸びた二間道路になります。「…今度は村端れにある岡−村の役場のまえまでいってみた。この役場は村の南端れにあって家ならびはそこでポッンと切れて、そこから南は向こうの川−村まで一面の田圃つづきであった。そして、その田圃の中を一直線に二間道路が走っているのだが、その道路を四十分はど歩けば汽車の停車場まで行く事が出来る。だから汽車でやって来た人がこの村へ入るには、どうしてもこの道をやって来て、役場の前を通らなければならないのである。さて、役場の真向かいには、土間の広い、表に粗末な飾り窓のついた家があるが、この家はもと、馬方などが立ち寄って一杯やる一膳飯屋になっていた。そしてこの家こそ、一柳家の殺人事件に重大関係を持つ、あの不思議な三本指の男が、最初に足をとめたところなのである。…」。本陣殺人事件に書かれている情景と真備町は全くピッタリです。歩いていると楽しくなってきますね! 上記の説明は私が歩いているのとは反対に、役場跡から二間道路を煙草屋まで歩き角を曲がって山陽街道から清音駅までを説明しています。

左上の写真が二間道路です。一間=1.8mですから二間=3.6mとなります。現在の道はもう少し広くなっています。この二間道路の先は本陣殺人事件では一膳飯屋となります。

一膳飯屋>
  本陣殺人事件では岡田の役場の前は一膳飯屋でした。 「…それは昭和十二年十一月二十三日の夕刻、即ち事件の起こった日の前々日のことだった。この飯屋のお主婦さんが表の床几に腰をおろして、馴染みの馬方や、役場の吏員と冗ばなし話をしていると、そこへいまいった二間道路を、川−村の方からとぼとぼとやって来た一人の男があった。その男は飯屋の前まで来るとふと立ち止まって、「ちょっとおたずね致しますが、一柳さんのお屋敷へ行くにはどういったらいいのでしょうか」 …… ところがちょうどその時、今男が歩いて来た道を、一台の人力車がやって来たのだが、それを見ると、「ああ、ちょっとお前さん、お前さんの尋ねる一柳の旦那が向こうからいらっしゃったよ」 と、飯屋のお主婦さんが注意した。俥に乗ってやって来たのは、四十恰好の、色の浅黒い、きびしい顔つきをした人だった。黒い洋服を着て、まっすぐに姿勢を正し、その眼は、きっと前方を見据えたきり、決してわきを振り向かなかった。そぎ落としたような頬の線と、隆い鼻が、いかにも近づき難いような印象をひとにあたえる。これが一柳家の当主賢蔵だった。俥はそういう一柳家の主人を乗せたまま、一同のまえを通りすぎると、すぐ向こうの曲がり角へ消えていった。…」。ここでも全くそのまま書かれています。一膳飯屋は写真の酒屋か、右隣の家か、イメージ的には右側の古い家の方が合いますね (正解は右の建物)。この後、岡田村役場跡の前からT字路を右に曲がりすぐに左に曲がり一柳家へ向かいます。また本ではここで一柳家の当主とすれ違うのですが、TVのDVDをみると人力車ではなくて車で通りすぎています。

右上の写真の酒屋の右隣の建物が一膳飯屋の所です(横溝正史の一膳飯屋は当然フィクションなのですが、本当に一膳飯屋があったようです)。手前側は岡田村役場があったところです(此方は本当にありました)。

濃茶のばあさん>
  先程の岡田村役場跡から鍵型に曲がって、横溝正史一家の疎開先に行く一本道の途中にあります。本陣殺人事件とは直接関係はないのですが、「八つ墓村」に登場してきます。 「…異様な風体をした人物が現れて、きっと私たちのほうをにらみすえた。「来るな、来るな。かえれ、かえれ。八つ墓明神はお怒りじゃ。おまえがくると村はまた血でけがれるぞ。八つ墓明神は、八つのいけにえを求めてござる。おのれ、おのれ。くるなと いうに。」わたしは身内がすくむ感じだったが、それをそばから励ますように美也子がぎゅっと腕をつかんだ。「へいきよ、いきましょう。あれ濃茶の尼というのよ。少し気が狂っているの。…」。”濃茶のばあさん”自体は江戸時代の話で、家老の奥方が病気で苦しんでいるときに、茶屋の老婆が助けた話からできた祠だそうです。

左の写真が”濃茶のばあさん”の祠です。左の路が横溝正史一家の疎開先に行く一本道です。突き当たりが疎開先となります。

横溝正史一家の疎開先>
  横溝正史一家の疎開先がそのまま残っていました。 「…その家はまことに見晴らしのよいところに建っていた。すぐ背後に桜のお大師さんというのが、少し小高い石段のうえに建っており、お大師さんを抱く丘は、すぐ北側の久代村までつづいていた。はじめてその家へわれわれ夫婦をつれていったとき、義姉の光枝は築地のまえに立ち、南のほうにひろびろとつづく田園を指さし、「そら、そのむこうの村が川辺というて、そこにマサシさんの親戚が住んでおいでんさる。いこう世話好きなおかたじゃけん、いまにお近づきにおなりんさるじゃろ。そのずうっとむこうに川が横に流れてますじゃろうが。あの川のむこうに小高い山が見えてますけえど、その山のむこうがマサシさんのおくにの柳井原ですんぞな」 と、教えられたとき、私は一種の感銘をおぼえずにはいられなかった。…」。たしかにすこし高いところに疎開先がありました。丘の裾といったほうがいいかもしれません。

右の写真が横溝正史一家の疎開先です。古い家にかなり手をいれて見学できるようにしたみたいです。正直いって車でいくのは大変でした。駐車場は二台分ありました。

一柳家>
  本陣殺人事件の一柳家は川辺宿の本陣、難波家をモデルにしているようです。難波家は明治時代、川辺宿から岡田村に移り住んでいます。 「…岡田村の南に川辺村というのがあり、そこは昔街道筋にあたっていたとやらで、本陣があったということである。その本陣の末裔が岡田村に住んでいた。大きなお屋敷で、近在きっての資産家であった。本陣の末裔という古めかしいお家柄が私の興趣をそそっていた。…。」。ということで、難波家を探したのですが…‥

左の写真は、こんなかんじかな‥というイメージで探した一柳家です。真備町のパンフレットには、大池近くで探してくださいと書いてあったのですが、なかなかイメージと合う風景がありませんでした。「…私の家からこの事件のあった一柳家の邸までは、ざっと十五分くらいの距離である。そこは岡−村宇山ノ谷というだけあって、三方を山にかこまれた小部落で、ひくい山のうねりがヒトデの足のように平地に向かって突き出している。その足の尖端に一柳家の広い邸宅があった。この突き出した山の西側には小川が流れており、一方東側には山越しに久−村へ通ずる細い道が走っているのだが、この小川と道は平地へ出てから間もなく合している。一柳家はこの小川と道とでくざられた、不規則な三角形をした二千坪はどの土地を占有しているのである。…」。ということで、大池より少し北側になるはずなのですが……‥‥

次週は岡田村の周辺を紹介します。

<横溝正史の真備町地図>

【参考文献】
・探偵小説五十年:横溝正史、講談社
・横溝正史読本:小林信彦、角川書店
・横溝正史自伝的随筆集:横溝正史、角川書店
・横溝正史の棒ぐ:角川書店編
・本陣殺人事件:横溝正史、角川文庫
・金田一耕助のモノローグ:横溝正史、角川文庫


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