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最終更新日:2006年2月16日


 


●はじめに(このページが日本と中国の友好に少しでも役に立てばと思っています)
 1999年11月13日、目白台の細川侯爵邸に見学に行った時の事です。侯爵邸の応接室に愛新覚羅さんの書画が掛かっておりました。その書について丁重に説明を頂いたので、ふと興味がわいてきたのが始まりです。愛新覚羅浩さんのお嬢さん(愛新覚羅慧生さん)の天城山トンネルでの無理心中の件は知っていたので、浩さん中心に足跡をたどって見る事にしました。散歩で皆様が行ける所を中心に辿っています、全てが東京ではなくて、千葉や京都、山口果ては中国となるのですが、行ける範囲で調べて見ました。(中国は少々むりだと思いますのでご勘弁願います)

愛新覚羅浩さんについて(初めての方のために)
 愛新覚羅浩さんは激動の昭和史の中での生き証人です。日本の公家の嵯峨侯爵家に生まれながら、満州国皇帝の弟の愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)氏に嫁ぎ、満州国の興亡を体験しています。敗戦の満州での逃避行から監獄での生活という辛苦を味わっているのは皇族、華族のなかでは浩さんと近衛文隆だけだといわれています。また22年に帰国後、長女の天城山無理心中に遭遇しています。(「愛新覚羅浩の生涯」より)

《愛新覚羅浩さんの足跡》

西 暦

和    暦

年    表

愛新覚羅浩さんの足跡

1868
明治元年
 
江戸時代   正親町三条家の京都での住まいは京都御所の東隣りで、現在は三条実萬公、三条実美公を祭る梨木神社となっています。

嵯峨家(正親町三条家)の菩提寺は京都嵯峨野、尊院です。
1869 明治2年   東京に転居
外桜田伊予松山藩久松邸
1870 明治3年   呉服橋内松本藩戸田邸
1871 明治4年   浜町麻生藩新庄邸
1872 明治5年〜   下谷二長町一番地対馬宗邸
下谷二長町五十二番地(現台東区台東一丁目二番)韶子内親王の養育にともない、増地されり一万坪の敷地になったと思われます。関東大震災で屋敷は焼失しています。
1914 大正3年3月16日 第一次世界大戦始まる 嵯峨侯爵家の嵯峨実勝(さねとう)さんと尚子(ひさこ)さんの長女として誕生
(日本橋区矢ノ倉町十番地)
1921 大正12年 関東大震災 九段靖国神社の裏
1929 昭和4年3月 世界大恐慌
愛新覚羅溥傑氏日本留学、(杉並区天沼1-252武田秀三宅)
1930 昭和5、6年頃 ロンドン軍縮会議
満州事変
嵯峨家の杉並区大宮の土地は、明治四十四年以前に嵯峨家が購入していたようです。昭和十六年八月の公勝氏死去により、味の素社長鈴木忠治さんに売却されています。また、実勝氏は、大正初めのご結婚に伴って独立し、のちに赤坂区氷川町十番(現港区赤坂6丁目5番地)に住居を移されています。太平洋戦争により、疎開のため横浜の日吉に家財も赤坂から半分移し、移動しています。昭和二十年の大空襲で赤坂の家が焼失した後は、横浜市港北区日吉に移られています。嵯峨公勝侯爵邸(杉並区大宮1557番地)は現在は杉並区立郷土資料館が建っています。
1931 昭和6年9月 満州事変勃発  
1932 昭和7年3月1日 満州国建国  
1933 昭和8年9月 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
溥傑氏陸軍士官学校本科入学
1934 昭和9年3月 愛新覚羅溥儀氏 皇帝に即位  
1935 昭和10年7月 第1回芥川賞、直木賞 溥傑氏陸軍士官学校本科卒業見習い士官として歩兵第59連隊へ入隊
1936 昭和11年11月 2.26事件 本庄大将よりお見合いの話あり 溥傑氏30歳(7歳年上)
1937 昭和12年2月6日
昭和12年4月3日
昭和12年4月
昭和12年9月
蘆溝橋で日中両軍衝突 駐日満州国大使館(芝桜田町)謝大使から婚約発表
結婚式:式場は軍人会館(現在の九段会館)
稲毛海岸で居を構える
満州国に帰国 浩さんは10月12日帰国
1938 昭和13年2月26日 愛染かつら封切り
日本軍が武漢三鎮を占領
長女、慧生さん生まれる(満州、新京)
1939 昭和14年4月
昭和14年10月
ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
駐日大使館武官室勤務となり日本に戻る(牛込、若松町)
溥傑氏奉天に戻る
1940 昭和15年3月18日 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
次女、生さん生まれる(東京、順天堂医院)
1941 昭和16年12月 真珠湾攻撃、太平洋戦争始まる  
1943 昭和18年12月 ガダルカナル島撤退 溥傑さん陸軍大学校入学のため再び日本に戻る(麻布狸穴)
1944 昭和19年12月 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
溥傑さん陸軍大学校卒業、東京大空襲にあう
1945 昭和20年2月

昭和20年8月10日
昭和20年8月14日
 

ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
生さんをつれて新京へ戻る。慧生さんは嵯峨家にあづける。(日吉)

1947 昭和22年1月10日 織田作之助死去
浩さん生さんと共に日本へ戻る
1949 昭和24年10月 中華人民共和国成立  
1950 昭和25年6月 朝鮮戦争始まる  
1957 昭和32年12月10日 コカコーラの日本での販売開始 慧生さん、天城山に死す
1961 昭和36年5月11日 加山雄三の若大将シリーズ
ベルリンの壁
浩さん溥傑氏の所へ(中国)
1968 昭和43年5月   生さん福永さんと結婚される
1974 昭和49年12月   溥傑夫妻、日本に里帰り
1980 昭和55年10月   溥傑夫妻、日本に里帰り
1987 昭和62年6月20日
昭和62年12月12日
  浩さん、北京にて死す(享年73歳)
愛新覚羅溥傑氏納骨のため来日
1988 昭和63年1月17日   中山神社愛新覚羅社に納骨

見たい場所をクリックして下さい。



●嵯峨家について
 嵯峨家は明治頃までは正親町三條(おおぎまちさんじょう)を名乗り、公家のなかでも五摂家、九清華(せいが)につぐ名家といわれています。父方の祖母南加(なか)が明治天皇のご生母である中山一位局(いちいのつぼね)の姪。家名を嵯峨と改姓したのは明治3年(1870)、第二十七代実愛(さねなる)の時です。家系は、藤原鎌足、さらに雨児屋根尊(あめのこやねのみこと)まで遡ることができる名門です。

・嵯峨家(正親町三条家)の菩提寺は京都嵯峨野、尊院です。

〜幕末から明治にかけての嵯峨家と中山家〜
文久元年 (1861)、実愛は岩倉具視と和宮の徳川家への降嫁を実現
文久3年(1863)、中山忠光は天誅組の乱で長州に都落ち、後、暗殺される

〜嵯峨家の現在〜
 嵯峨家は公元氏が平成10年10月26日死去され、長男、実允(さねのぶ)氏が後を継いでおられ、現在神奈川県横浜市港北区日吉にお住まいです。?
生さんは浩さんの妹の嫁ぎ先の福田家に嫁ぎ兵庫県西宮市にお住まいです。
山口県下関市に中山神社があり、溥傑さん、浩さん、慧生さん三人が愛新覚羅社に祭られています。(神社は中山忠光卿を祭神としています)


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