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最終更新日:2018年06月07日

下関市綾羅木本町の中山神社(愛新覚羅社)を紹介します。


●愛新覚羅浩さんの足跡をたどり、山口県下関市綾羅木本町にあります中山神社の愛新覚羅社を訪問してきました。中山神社は下記に設立の由来がありますが、嵯峨家(正親町三條)と中山家とは非常に近い関係にあります。(家系図を参照して下さい)その関係から、中山神社のなかに愛新覚羅溥傑氏、浩さん、慧生さんを祭っています愛新覚羅社があるわけです。

中山神社へは下関駅から山陰本線に乗り2駅目の綾羅木駅で下車し、徒歩約10分です。山陰本線は一時間に1〜2本しが列車がありませんのでご注意下さい。下関駅前からバスが出ていますのでこちらのほうがいいかもしれません。列車はディーゼルカーで線路も単線です。田舎の駅で、駅員は居ましたが、タクシーも駅前には止まっていません。国道まで出ると、交差点の角がタクシー会社でした。でも結局中山神社まで歩いてしまいました。周りは住宅街ですが、人通りはほとんどなく中山神社の裏は日本海の海水浴場で、遠く中国大陸を望める地です。


<中山神社>
 中山神社の御祭神の中山忠光卿は、弘化二年(1845年)に、大納言中山忠能卿の第五子に生れ、明治天皇の御生母中山一位の局(慶子)は姉君であり、従って忠光卿は明治天皇の叔父にあたります。又、忠光卿は、幕末動乱の時代にあって尊皇討幕派の最も急進的な青年公卿だったといわれています。当時朝廷は、尊皇攘夷派と公武合体派とにわかれていましたが、やがて三条実美をリーダーとする尊皇攘夷派が勢を得て、ついに文久3年(1863年)8月13日孝明天皇の大和行幸の詔のりが下されます。天皇の穣夷親征が決った事によって、一部急進尊皇攘夷の志士等30余名は、天忠組を結成し、忠光卿を主導として8月17日討幕の挙兵を奈良県五條市にておこしています。ところが18日には公武合体派の公卿たちと会津・薩摩両藩の画策によりクーデターが成功し、朝議は一変して、孝明天皇の大和行幸はとりやめとなり尊皇攘夷派にくみしていた長州藩は、堺町内の守衛を差しとめられ、三条実美以下七卿は、長州へ落ちのびました。これが七卿落ちといわれる政変です。このため、大和にあった忠光卿以下天忠組の義軍も、この政変で名分を失い、朝敵の汚名を受けることになって孤立し、やがて彦根・紀州の幕軍に攻められて、参謀吉村寅太郎以下烈士は悲壮な最期を遂げています。忠光卿外数名は脱し、長州藩に難を逃れています。これが、いわゆる天忠組の義挙と言われる事件です。

このころ、長州藩は本・支藩ともに俗論党の勢が強くなっており、長州に落ちて居た三条実美以下七人の公卿等と会合して再起の期を伺っています。しかし、幕府の探索が厳しく三田尻から長州、川棚、湯玉、上畑と住居を移し、この地、田耕に来たのは元治元年8月夜半、常光庵を出て附人国司直記登美女側女外一名を伴い、山道をたどって夜明け方にこの地、大田新右エ門宅にとどまっています。この地の五人の庄屋の一人山田幸八は何時しか刺客に買収され、その夜遅く忠光卿を欺いて無腰のまま長瀬の渓谷に誘い出し、そこに待機させていた刺客(長州藩の剣士)野々村三九朗外六名のため撲殺されています。時に元治元年11月8日忠光卿行年二十歳の若さであったといわれています。尚、忠光卿の遺体はその後下関市綾羅木の浜に葬られています。また、山田幸八の子孫は狂人続出家名断絶しており、付近の人々是をして天の報いなりと言われています。高杉晋作が、長府の功山寺に回天の兵をあげたのはわずか37日後の12月15日のことでした。やがて、回天の義挙が成ると、奇兵隊らの手によって新に松の角材の墓標が設けられ、慶応元年(1865年)11月長州藩(豊浦藩)は墳墓の上に社殿を建て「中山社」と称しました。これが中山神社創立の由来です。(右の写真は中山忠光卿のお墓で、藤原忠光卿と書いてあります。一説はこれは中山家をたどれは藤原家の出となること、もう一説は長州藩が中山忠光卿を埋葬したことを隠したかったとの説とがあります。)

<愛新覚羅社>
 昭和62(1987)年12月12日、愛新党羅溥傑氏は義弟嵯峨公元氏に伴われて来日しました。山口県下関の中山神社の境内に建てた愛新覚羅社に浩と慧生の分骨を納めるための来日でした。神奈川県川崎市日吉の嵯峨家に落ち着いた溥傑氏は皇族方にお礼の挨拶回りをすませ、西宮の福永健治氏と樗生さんの家で水入らずのお正月を楽しく過ごしました。溥傑氏は「これでもし浩さんが生きていてくれたなら・・・・」という気持ちは片時も忘れることはなかったようです。翌年1月17日、新幹線で下関に向かい、中山神社の鎮座祭に祭主として参列しています。綾羅木の海岸に近い松林の砂丘に建つ中山神社の本殿の左手に、祖霊殿「愛新覚羅社」が建てられています。総ヒノキの小さな神殿は木造神明造りで、このお社は西北方、玄界灘のはるか彼方の中国大陸に向かって建てられています。入り口の右側には溥傑氏の書で社名が彫られた石柱が立てられ、左手の松の根元に浩の歌碑が彫られています。(「愛新覚羅浩の生涯」より)
愛新覚羅社の右手奥に宝物殿がありました。私は朝早く訪問したのですが(9時30分ころ)わざわざ開けてくださいました。浩さんの遺品が飾られておりました。

<参考図書>
愛新覚羅浩の生涯:渡辺みどり 文春文庫
中山神社パンフレット

<参拝順路> 地 図
●山陽新幹線/山陽本線 新下関駅下車 徒歩45分 タクシー8分
●山陰本線綾羅木駅下車 徒歩 10分

●バス 下関駅より約30分、中山神社前又は綾羅木下車(北浦線 唐戸又は筋川経由横野行き)
●住所 〒751下関市綾羅木本町7−10−8 TEL 083-253-0704
 

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