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最終更新日:2006年3月21日

愛新覚羅浩さんの足跡を東京近郊を中心に紹介します。


●愛新覚羅浩さんの足跡 初版99 二版04/03/13


●下谷二長町一番地(台東区台東一丁目二番あたり)

 明治2年3月の明治天皇の東京再幸(東京遷都)を前にした2月、すでに前年から東京の下谷二長町に住まわれていた嵯峨実愛氏は、家族を京都から呼び寄せています。

左の写真の下谷二長町は現在は不動建設のビルが建っています。不動建設の向かい側は三井記念病院です。

●日本橋区矢ノ倉十番地(中央区東日本橋)

 浩さんの父実勝さんは大正初めに結婚され、大正3年頃のご自宅が当時の日本橋区矢ノ倉10番地にありました。浩さんが生まれた所です。昭和46年に町名変更で中央区東日本橋一丁目と変わっています。

写真は矢ノ倉町の記念碑です。後ろは現在は日本橋中学校になっています。

●麻布氷川神社(現港区赤坂6丁目10番地)

 後に当時の赤坂区氷川町10番地に住まわれています。現在の港区赤坂6丁目5−16、21、22付近です。昭和20年の東京空襲で消失しています。

左の写真は赤坂6丁目の現在の氷川神社です。

●浜口家 嵯峨侯爵家の母方の実家(上大崎)

 この邸は現在タイ大使館として使われています。中の見学はできませんが、外から見てもたいへん立派なな三階建ての西洋館です。母方(尚子)の実家(祖母:糸子)は浜口家で、上大崎のこの邸に住んでおられました。元は福沢諭吉の養子にあたる福沢桃介(とうすけ)から買い取ったものだそうで、浩さんは浜口家に住んでいました。浜口家は紀州の古い家柄で、祖父の容所(ようしょ)は九州電力社長や豊国銀行頭取などを歴任しヒゲタ醤油を再興させた大実業家で母(尚子)は容所の長女でした。この西洋館を建てたのは、母の兄である浜口の伯父でした。最初のページのお二人の写真がこの西洋館の玄関で撮られたものです。

右の写真は現在のタイ大使館、正面の三階建ての西洋館が浜口家が建てたものです。

●女子学習院

 浩さんが通っていたのが女子学習院です。当時の学習院は前期、中期、後期高等科に分かれており、前期、中期はともに4年、後期は3年という制度でした。

戦前の女子学習院は戦災で焼け、現在は秩父宮ラクビー場になっています。渋谷区北青山二丁目になります。

●嵯峨公勝侯爵邸(杉並区大宮1557番地)

 当時は嵯峨公勝侯爵
のご自宅があり、結婚式の出発はこの邸から出られました。杉並区大宮の土地は、明治四十四年以前に嵯峨家が購入していたようです。昭和十六年八月の公勝氏死去により、味の素社長鈴木忠治さんに売却されています。また、実勝氏は、大正初めのご結婚に伴って独立し、のちに赤坂区氷川町十番(現港区赤坂6丁目5番地)に住居を移されています。

嵯峨公勝侯爵邸(杉並区大宮1557番地)は現在は杉並区立郷土資料館が建っています。



●九段会館(旧軍人会館)

愛新覚羅
溥傑氏と浩さんの結婚式が行われたのが九段会館(旧軍人会館)です。嵯峨公勝侯爵(杉並区大宮)から出発された浩さんは、沿道の皆様からの祝福を受けられています。結婚式は本庄大将の仲人で軍人会館の4階であげられ、引き続いて披露宴を3階で行っています。(約400名参加)結婚式後、お二人は帝国ホテルで一泊され、伊豆川奈へ新婚旅行にいかれています。

●千葉稲毛海岸の新居

 この建物は大正から昭和にかけて建てられた稲毛海岸の保養施設の一つで,東京市神田区・鈴木家(水飴商「笹屋」)が購入し,その後,愛新党羅薄傑、浩ご夫妻が成婚間もない昭和12年に半年ほど居を構えられていた建物です。建物は西側,海岸に向かって接客施設,東側(神社境内側)に居間や台所などの日常空間を配しています。格天井の客間にはアンチークな照明具が残り,柱や建具には良質な材料が使われ,しかも丁寧に仕上げられています。

所在地:稲毛区稲毛1丁目16番12号 国道14号沿 稲毛浅間神社鳥居の脇、京成稲毛駅から徒歩約6分 JR稲毛駅から徒歩約15分

公開時間:午前9時から午後4時30分 入場無料
休 館 日:毎週月曜日(国民の祝日の場合は,その日とその翌日)祝日,年末年始
数 地 面 積:1,129.13d
建物の構造等:木造平屋建瓦茸住宅 172.42?u
鞋家:木造平屋建 18.71?u
問い合わせ先  教育委員会生涯学習部文化課 ?Z043−245−5960
           市民ギャラリー・いなげ      ?Z043−248−8723

●牛込、若松町 (昭和14年)

 昭和14年、駐日大使館武官室勤務となり日本に戻られた時、住まわれた所です。

詳細の住所等は分かりませんので、若松町の交差点から新宿方面に向かって写真を撮ったものです。遠くに見えるのは新宿の高層ビル街です。

●駐日満州国大使館(芝桜田町)

 なかなか正確な場所が分からず、戦前の東京都35区区分地図帳を丹念に見て探しました。芝桜田町と書いてあったので芝区と思ったのですが、桜田町が見つからず、周りの区を探しました。すると麻布区にありました。有栖川宮記念公園から六本木に少しいった所です。大使館のマークの横に満州と書いてあります。現在の中華人民共和国大使館の所でした。良く考えたらすくに分かったはずでした。戦前の住所では麻布区桜田町45番地位です(正確な番地は分かりません)

右の写真は現在の中華人民共和国大使館です。

●麻布狸穴(あざふまみあな) (昭和18年〜20年2月)

 昭和18年の秋、愛新覚羅溥傑さんは陸軍大学校に入学することになり、東京の麻布狸穴で生活されました。12月に東京大空襲にあわれています。20年2月に軍用機で新京に戻られました。

写真は外苑東通りから撮影したもので、左側はロシア大使館です。丁度後ろは外務省飯倉会館です。

●昭和32年12月、慧生さん、天城山に死す

 1957年12月4日、二人の若い男女が静岡県天城山トンネルと八丁池の間で自殺しました。男性の名前は大久保武道君(19歳)、青森県八戸出身の学習院大学の二年生、そして女性の名前は愛親覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)さん(19歳)、あの清朝最後の皇帝宣統帝 愛親覚羅溥儀氏の実弟 溥傑氏と嵯峨公勝侯爵の孫娘、浩さんとの間の長女です。この二人は、お互い結婚まで考えた仲でしたが、それぞれの家柄や家庭事情が違うということで反対されており、結局死を選んだわけでした。二人の遺体は5日後、百日紅(さるすべり)の樹の下で発見され、二人は寄り添っていてピストルでこめかみを打ち抜いていたということでした。当時の新聞等に大きく報道されました。

写真は天城峠旧道、寒天橋バス停です。この橋の先を右に曲がると八丁池方面となります。

●町田学園

 公元氏は平成10年10月26日死去されるまで、町田学園の理事長をされておりました。

左の写真は町田学院の全景です。右下の写真は溥傑氏による町田学園の表札です。左の写真の学校の正面にありますので是非とも見ていただければと思います。
●町田学園(品川エトワール女子高等学校)

昭和 9年 『町田報徳学舎』という3年制の男子商業学校として創設
昭和25年 普通科の女子高等学校となる
昭和31年 商業科を併設

【交通のご案内】
東京都品川区南品川 5−12−4
京急『青物横丁』駅より徒歩2分、JR京浜東北線・東急大井町線『大井町』駅より徒歩6分

●日吉

現在、嵯峨家の方々がお住まいの神奈川県横浜市港北区日吉です。


●中山神社(愛新覚羅社) 下関市綾羅木本町

●小倉山 二尊院(嵯峨家墓)  京都市右京区嵯峨小倉山

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