●谷崎潤一郎の「吉野葛」を歩く (上)
    初版2006年6月24日
    二版2013年1月19日 <V01L01> 追加・更新

 今回から数回に分けて奈良県吉野を歩いてみます。今週はまず谷崎潤一郎の「吉野葛」に沿って奈良から吉野までを歩き、来週以降、小松左京の「本邦東西朝縁起覚書」で後南朝を中心にした川上村を歩きます。


「吉野葛」
<谷崎潤一郎「吉野葛」>
  奈良の吉野といえば谷崎潤一郎の「吉野葛」が自然に思い浮かびます。本人は「現代小説(当時の)」としてよりは「歴史小説」として書きたかったようです。「吉野葛」の最後に本人も書いていますが””やや材料負け”となってしまったようです。

 谷崎潤一郎の「吉野葛」からです。
「…私が大和の吉野の奥に遊んだのは、既に二十年程まえ、明治の末か大正の初め頃のことであるが、今とは違って交通の不便なあの時代に、あんな山奥、 ── 近頃の言葉で云えば「大和アルプス」の地方なぞへ、何しに出かけて行く気になったか。 ── この話は先ずその因縁から説く必要がある。読者のうちには多分御承知の方もあろうが、昔からあの地方、十津川、北山、川上の荘あたりでは、今も土民に依って「南朝様」或は「自天王様」と呼ばれている南帝の後裔に関する伝説がある。この自天王、 ── 後亀山帝の玄孫に当らせられる北山宮と云うお方が実際におわしましたことは専門の歴史家も認めるところで、決して単なる伝説ではない。……」

 ここまで読むと、胸踊る後南朝の「歴史小説」となってしまうのですが …‥。私も後南朝にはまってしまってかなりの図書を読破しました(参考図書を見てください)。

左上の写真が谷崎潤一郎の「吉野葛」です。初版は昭和5年(1931)12月に中央公論1月号としてに「中央公論」に掲載されています。ですから谷崎潤一郎が初めて吉野を訪ねたのは明治末か大正初めになるわけです。谷崎潤一郎の昭和6年は千代婦人と離婚して吉川丁末子と結婚した年です。吉野の桜花壇という旅館に泊まって執筆したようです。この旅館は現在でもそのまま残っていました。

【谷崎潤一郎】
 明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)



奈良県・大阪府地図



谷崎潤一郎の「吉野葛」年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎の足跡
         
大正12年 1923 関東大震災 37 4月〜5月 吉野「桜花壇」に宿泊
大正15年 1925 蒋介石北伐を開始
NHK設立
40 1月〜2月 上海へ旅
4月 吉野観光
10月 兵庫県武庫郡本山村栄田259-1 好文園2号に転居
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 45 千代夫人と離婚
10月 吉野「桜花壇」に宿泊し『吉野葛』を執筆
11月 奈良県柏木川上ホテル箔、奥吉野まで自動車
12月 「吉野葛 (上)」を中央公論1月号に掲載
昭和6年 1931 満州事変 46 1月 「吉野葛 (下)」を中央公論2月号に掲載
1月 吉川丁末子と婚約
3月 千代の籍が抜ける
4月24日 丁末子と結婚式を挙げる
5月 和歌山県伊都郡高野町 竜泉院内に滞在
9月 根津家の善根寺、稲荷山の別荘に移る
11月 兵庫県武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在



「国鉄奈良駅」
国鉄奈良駅>
 「吉野葛」のお話は大阪在住の第一高等学校時代の友人津村との出会いから始まります。津村は自身の母親の出生の秘密を探りはじめます。

 谷崎潤一郎の「吉野葛」からです。
「…此方は東京を夜汽車で立ち、途中京都に一泊して二日目の朝奈良に着いた。…」

  谷崎潤一郎本人は東京から京都経由、奈良線で奈良駅まで来たようです。

左の写真は現在の奈良駅です。左奥が現在の駅舎で、正面に昭和9年(1934)完成の寺院風の二代目駅舎が写っています。奈良駅が出来たのは明治23年(1890)で、谷崎潤一郎が見た駅舎は初代駅舎になります。京都−奈良間は明治32年(1899)に開通していますから、京都から奈良には本に書かれた通り汽車で移動できました。

「国鉄奈良駅」
武蔵野旅館>
 現在も若草山入口に「むさし野」という旅館があります。

 谷崎潤一郎の「吉野葛」からです。
「…武蔵野と云う旅館は今もあるが、二十年前とは持主が変っているそうで、あの時分のは建物も古くさく、雅致があったように思う。鉄道省のホテルが出来たのはそれから少し後のことで、当時はそこと、菊水とが一流の家であった。津村は待ちくたびれた形で、早く出かけたい様子だったし、私も奈良は曾遊の地であるし、ではいっそのこと、折角のお天気が変らないうちにと、ほんの一二時間座敷の窓から若草山を眺めただけで、すぐ発足した。…」

  上記にも経営者がかわっていると書かれていますので、現在の「むさし野」は多分違うのでしょう。場所は同じかな?

右の写真は現在の「むさし野」です。ここは若草山入口の旅館街ですので昔と殆どかわっていないようです(詳細は調べておりません)。上記に書かれている”鉄道省のホテル”は現在の奈良ホテル」、菊水”はそのまま現存していました。



奈良市内



「吉野口駅」
吉野口駅>
  奈良駅から鉄道を乗り継いで吉野を訪ねたようです。

 谷崎潤一郎の「吉野葛」からです。
「…吉野口で乗りかえて、吉野駅まではガタガタの軽便鉄道があったが、それから先は吉野川に沿うた街道を徒歩で出かけた。…」

 奈良駅から関西線に乗り、王寺駅で和歌山線に乗り換えて、吉野駅に向いました。ここで吉野軽便鉄道に乗り換えます。

左の写真は現在の吉野口駅です。JR和歌山線と近鉄吉野線の駅が一緒にあります。プラットホームはなかなか古風で、昔のままのようです。吉野口から吉野への電車は明治45年(大正元年)(1912)に吉野軽便鉄道として開通しています。

「六田駅(旧吉野駅)」
六田駅(旧吉野駅)>
 二人は吉野口駅で乗り換えて吉野駅に向います。当時の吉野軽便鉄道(吉野鉄道)吉野駅はは現在の六田駅で、昭和3年に六田駅〜吉野駅間が開通して現在と同じ路線となっています。

 谷崎潤一郎の「吉野葛」からです。
「…近頃は、中の千本へ自動車やケーブルが通うようになったから、この辺をゆっくり見て歩く人はないだろうけれども、…」

 ですから「吉野葛」が書かれた昭和6年は現在の吉野駅まで開通していたわけで、吉野の桜花壇に宿泊した時もロープウエーに乗っていたわけです。

右の写真が現在の六田駅です。当時の吉野駅はもう少し東側に在ったようで、現在の電車車庫の付近だそうです。

「柳の渡し」
柳の渡し>
 六田駅(旧吉野駅)で下車した二人は、上市へ歩いていきます。

 谷崎潤一郎の「吉野葛」からです。
「…万葉集にある六田の淀、 ── 柳の渡しのあたりで道は二つに分れる。右へ折れる方は花の名所の吉野山へかかり、橋を渡ると直さに下の千本になり、関屋の桜、蔵王権現、吉水院、中の千本、 ── と、毎年春は花見客の雑沓する所である。私も実は吉野の花見には二度来たことがあって、幼少の折上方見物の母に伴われて一度、そののち高等学校時代に一度、矢張群集の中に交りつつこの山道を右へ登った記憶はあるのだが、左の方の道を行くのは始めてであった。…」

左の写真が”柳の渡し”の記念碑です。写真の左側に美吉野橋が見えます。当時も橋はありましたので全く同じ構図だとおもいます。

「上市」
上市>
 六田駅から二人は上市の町に入ります。

 谷崎潤一郎の「吉野葛」からです。
「…奈良を立ったのが早かったので、われわれは午少し過ぎに上市の町へ這入った。街道に並ぶ人家の様子は、あの橋の上から想像した通り、いかにも素朴で古風である。ところどころ、川べりの方の家並みが欠けて片側町になっているけれど、大部分は水の眺めを塞いで、黒い煤けた格子造りの、天井裏のような低い二階のある家が両側に詰まっている。歩きながら薄暗い格子の奥を覗いて見ると、田舎家にはお定まりの、裏口まで土間が通っていて、その土間の入り口に、屋号や姓名を白く染め抜いた紺の暖簾を吊っているのが多い。店家ばかりでなく、しもうたやでもそうするのが普通であるらしい。…」

 下市から上市に向う現在の169号線は吉野川沿いを走っていますが、当時の街道は少し山側を通っていました。

右の写真が上市の昔の街道筋です。家並みも道幅も昔のままです。

「釣瓶鮨屋」
釣瓶鮨屋(つるべすしや)>
 後南朝まではなかなか達しませんが、またすこし寄り道をします。

 谷崎潤一郎の「吉野葛」からです。
「…「君、妹背山の次には義経千本桜があるんだよ」 と、津村がふとそんなことを云った。「千本桜なら下市だろう、彼処の釣瓶鮨屋と云うのは聞いているが、」 維盛が鮨屋の養子になって隠れていたと云う浄瑠璃の根なし事が元になって、下市の町にその子孫と称する者が住んでいるのを、私は訪ねたことはないが、噂には聞いていた。何でもその家では、いがみの樺太こそいないけれども、未だに娘の名をお里と付けて、釣瓶鮨を売っていると云う話がある。…」

 下市なので上市から吉野川を少し戻ります。このお店は竹田出雲の『義経千本桜』で、源氏に破れた平維盛をかくまう役どころとして登場しています。

左の写真が釣瓶鮨屋、現在の「釣瓶鮨 弥助」です。残念ながら時間がなくて食べておりません。何処かで追加します。

 食してきました.。詳細は
・『村上春樹の「奈良の味を歩く
・『旅中日記 寺の瓦 其の十<吉野>
 を参照して下さい。

 来週は少し後南朝に近づきます。



吉野付近地図