<吉野口>
明治41年4月4日、志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人は法隆寺を見学した後、吉野に向います。当時の吉野は交通の便が悪く、又、桜の季節からも少し早く、よく訪ねたとおもいます。当時は和歌山線の吉野口駅が吉野への最寄りの駅であり、吉野口駅から吉野までは20Km程の距離がありました。吉野軽便鉄道が吉野口駅
- 吉野駅(現在の六田駅)間を開業したのが大正元年(1912)、昭和3年に六田駅 - 吉野駅間が開業し全通、ロープウエイも昭和4年に千本口駅〜吉野山駅にロープウエイが開業し、大変便利になっています。
里見クの「若き日の旅」からです。
「… 王子で乗り換へた列車は、生憎高野山詣の講中でこみ合つてゐて、二人は立ちン坊、私だけが體の小さいのを役得に、どぅやら尻だけ割り込よせ、奈良で買つた文藝倶楽部の、およそ九十頁を占めてゐる鏡花の「頬白」といふ小説を讀み始める。
吉野口で降りる頃には、雨が本降りになつてゐた。人相の悪い男が、軍隊の廢品らしい外套の衣嚢に雨手を突ッ込んだまゝ近づいて来て、
「お前さんら、吉野に行くんけ?…… さうけ。六田まで乗つてくれんかい」
乗合馬車の御者だ。そのくせ、相客を待つ気か、なかく支度が永い。屋臺の軍艦焼の、ホヤホヤ湯気のたつてゐるやつを食ふ。糖分が缺乏してゐたためか、濡れながら媛かいものを食つたせゐか、ばかにうまい。…
…
橋の快でおろされ、これから、いよいよ小一里の上りである。相變らずのびしょびしょ降りで、道もひどくぬかってゐた。…」
当時の時刻表で三人が乗車した法隆寺駅から吉野口駅までの列車を少し調べてみました。法隆寺駅からは大阪湊町行きに乗り、王寺駅で和歌山行に乗り換えます。大黒屋で昼食をとってから駅に向ったことを考えると、法隆寺発12時3分、王子駅着12時10分が丁度です(一本後は13時20分で王子で50分程待たなければならないし、再度乗換えが必要)。王寺駅で和歌山行に乗換えます。王寺駅発は12時25分、吉野口駅着13時36分で、ピッタリとおもいます。
《今日のコース》
・大黒屋→東院伽藍(夢殿)→西院伽藍(實物蔵、金堂、五重塔、中門)→大黒屋(昼食)→法隆寺駅→王子駅(乗換)→吉野口駅→(馬車)→六田→(徒歩)→さこや(旅館)
★写真は少し前の吉野口駅です。JRと近鉄の共用駅になっています。手前側が近鉄で向こう側がJR和歌山線になります。三人が吉野口駅を降りたのは明治41年ですから近鉄(当時は吉野軽便鉄道)の駅は無かったわけです。駅前には乗合馬車や屋台があったようですが現在は寂しいかぎりです。