●旅中日記 寺の瓦 其の十 <吉野>
             【志賀直哉、木下利玄、山内英夫】
    初版2012年11月10日 <V01L01> 暫定版

 「旅中日記 寺の瓦 其の十<吉野>」です。自己都合でしばらくお休みしましたが、今日から再開します。今回は明治41年4月4日〜5日の吉野です。吉野については足かけ5〜6年かかって写真を撮りだめしましたので、古い写真も掲載しています。東京からは遠くてなかなか訪問の機会がありませんでした。


【「旅中日記 寺の瓦」について】
 若き日の志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治四十一年三月から四月にかけて関西を旅した時に記した日記が、「旅中日記 寺の瓦」です。後の昭和十五年に里見クがあの甲鳥書林で「若き日の旅」として出版しています。又、原本の「旅中日記 寺の瓦」は昭和四十六年に中央公論社から出版されています。日時はかなり古いですが、旅行記としては非常に面白いので、この旅行記に沿って歩いてみました。




全 体 地 図



「吉野口駅」
<吉野口>
 明治41年4月4日、志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人は法隆寺を見学した後、吉野に向います。当時の吉野は交通の便が悪く、又、桜の季節からも少し早く、よく訪ねたとおもいます。当時は和歌山線の吉野口駅が吉野への最寄りの駅であり、吉野口駅から吉野までは20Km程の距離がありました。吉野軽便鉄道が吉野口駅 - 吉野駅(現在の六田駅)間を開業したのが大正元年(1912)、昭和3年に六田駅 - 吉野駅間が開業し全通、ロープウエイも昭和4年に千本口駅〜吉野山駅にロープウエイが開業し、大変便利になっています。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 王子で乗り換へた列車は、生憎高野山詣の講中でこみ合つてゐて、二人は立ちン坊、私だけが體の小さいのを役得に、どぅやら尻だけ割り込よせ、奈良で買つた文藝倶楽部の、およそ九十頁を占めてゐる鏡花の「頬白」といふ小説を讀み始める。
 吉野口で降りる頃には、雨が本降りになつてゐた。人相の悪い男が、軍隊の廢品らしい外套の衣嚢に雨手を突ッ込んだまゝ近づいて来て、
 「お前さんら、吉野に行くんけ?…… さうけ。六田まで乗つてくれんかい」
 乗合馬車の御者だ。そのくせ、相客を待つ気か、なかく支度が永い。屋臺の軍艦焼の、ホヤホヤ湯気のたつてゐるやつを食ふ。糖分が缺乏してゐたためか、濡れながら媛かいものを食つたせゐか、ばかにうまい。…

 橋の快でおろされ、これから、いよいよ小一里の上りである。相變らずのびしょびしょ降りで、道もひどくぬかってゐた。…」

 当時の時刻表で三人が乗車した法隆寺駅から吉野口駅までの列車を少し調べてみました。法隆寺駅からは大阪湊町行きに乗り、王寺駅で和歌山行に乗り換えます。大黒屋で昼食をとってから駅に向ったことを考えると、法隆寺発12時3分、王子駅着12時10分が丁度です(一本後は13時20分で王子で50分程待たなければならないし、再度乗換えが必要)。王寺駅で和歌山行に乗換えます。王寺駅発は12時25分、吉野口駅着13時36分で、ピッタリとおもいます。

《今日のコース》
・大黒屋→東院伽藍(夢殿)→西院伽藍(實物蔵、金堂、五重塔、中門)→大黒屋(昼食)→法隆寺駅→王子駅(乗換)→吉野口駅→(馬車)→六田→(徒歩)→さこや(旅館)


写真は少し前の吉野口駅です。JRと近鉄の共用駅になっています。手前側が近鉄で向こう側がJR和歌山線になります。三人が吉野口駅を降りたのは明治41年ですから近鉄(当時は吉野軽便鉄道)の駅は無かったわけです。駅前には乗合馬車や屋台があったようですが現在は寂しいかぎりです。

「さこや」
<さこ屋>
 三人は吉野口駅を14時前に乗合馬車で出発し吉野に向います。上記に”六田まで”と書いていますので、吉野口から”六田の渡し”に向ったとおもわれます。明治41年頃はこの辺りの吉野川に架かっている橋は下市の千石橋しかありませんでした。六田の渡しのところに美吉野橋(三吉野橋)が架かったのは.大正8年です。ただ、”橋の袂でおろされ”と書いてあります(現本の「寺の瓦」には書いていない)。当時”水位の低いときには仮橋が架かっていた”との話もあるようで、六田で吉野川を渡ったのは間違いないようなので、橋で渡ったか、渡し船で渡ったかはよく分かりません。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 行きあたりばったりにはいつたのが、運わるく道者宿だつたとみえて、二十畳ばかりも敷けさうな部屋の、しかもふた間あけひろげたまゝのところへ案内され坐る気にもならなかつた。
「ねえ、君、もつと狭い部屋はないのかい」
「生憎、みな塞がつてまんね」…

 食後、常用してゐた巻煙草の「大和」を、私が註文すると、
「生憎、きらしてま」
「敷島でもいゝんだけど……」
「すんまへん、やつぱりきらしてよんね」
「ぢやア、なんか、。菓子を持つて来てくれよ」
「お菓子、きらしましてん」
「よくまアさう、さばさばと、何も彼もきらしたもんだな。……仕様がないか…」

 上記に書かれている”道者宿”とは、修行者が泊る宿のことです。仏道の修行者ですから質素なことは間違いありません。もう少し良いところに泊りたかったようです。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「… 吉野山の麓で下りた時はほっとした。何だか尻がほてる様だ。(此の馬車中央の腰かけならばそんなに若しくはないのだ相だが木ノ君が之れを横領し、一人下りたあとへは志ノ君が腰かけた) 之からは山道である。雨は相變らず降って居る。木ノ君はばっちのコン〔紺〕で青く染つた脛を出してちびツた下駄ではねを上げながら、時時クルチークルチーと云つては登る。志ノ君は裾を高々とかゝげ、羽織迄名古屋山三にして其かはりばっちにはうんとはねを上げて進む。僕は大いに歩行術を研究した結果いくらでもはねは上げない様に歩けるのだが、夫うすると足がくたびれるのでべちやアべちやアと歩く。三十二三町でさこ屋と云ふに着いた。何畳か知らぬが可成り廣い座敷を二間ぶちぬいてある。木ノ君はシキリに之を気になさる。湯に入ったら脛位達しか湯がない、いやな宿屋であった。(山)…」
 ここで”さこ屋”の名前が出てきます。又、一丁は約109mなので三十三町は3.6Km、六田から「さこや」まで1時間弱の距離です。

写真は現在の「さこや」です。よく見ると、建物は古そうなのですが明治41年頃からの建物かどうかは分かりませんでした。



吉野口、下市、吉野付近地図



「吉水神社」
<吉水神社>
 明治41年4月5日、朝、志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人は吉野の旅館「さとや」から案内人を頼み観光に出かけます。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 案内者に導かれて、まづ吉水神社へ行く。義経の隠れてゐた部屋、辨慶が拳固で石へ打ち込んだ釘。次の蔵王堂には、ひと擁へもある躑躅の床柱といふのがある。どうやら名所に嘘は附物らしい。護良親王が最後の宴をはられ、村上義光が切腹したといふのは、これはほんたうの話。最後に行った後醍醐天皇の北面の御陵は、いかにも清々しい、いゝ威じのところだった。花にはまだ一週間といふ、中、下、両千本を見おろしながら、 ── 見たところで仕様もないが、否應なしにそこを通って吉野川畔にくだり、その左岸に添って下市まで、ざっと一里の、雨の道中は、さすがにもう、誰もあまり口を利かなかった。…」
 
今日のコースです。
・さこや→吉水神社(弁慶力釘義経・静御前潜居の間)→蔵王堂躑躅の床柱村上義光公忠死之所)→下記参照

《吉水神社》
 もとは金峯山寺の僧坊・吉水院(きっすいいん)でしたが、明治維新の神仏分離(廃仏毀釈)により、神社となります。後醍醐天皇を主祭神とし、併せて南朝方の忠臣であった楠木正成、吉水院宗信法印を配祀されています。明治6年(1874)に後醍醐天皇社の名で神社になることが太政官に承認され、明治8年(1875)に吉水神社に改称しています。後醍醐天皇のほか、源義経や豊臣秀吉ゆかりの地であり、多くの文化財が所蔵されています。本殿は旧吉水院護摩堂で、隣接する書院には、後醍醐天皇の玉間と源義経が潜居したと伝えられる間があり、重要文化財に指定されています。(ウイキペディア参照)

写真は現在の吉水神社です。桜の季節は観光客が多いです。入ると右側直ぐに弁慶力釘があります。ここまでは無料なのですが、建物の中に入って”義経・静御前潜居の間、後醍醐天皇玉座”などを見に行くと有料になります。

「後醍醐天皇御陵」
<後ダイゴ〔醍醐〕帝の御陵>
 「旅中日記 寺の瓦」には漢字が分からなかったのか、めんどくさかったのか、カタカナで書いています。延元4年(1339)後醍醐天皇(52歳)は吉野金輪王寺で死去され、如意輪寺の裏山、塔の尾へ埋葬されます。京都に対する思いを示すために天皇家の墓陵としては唯一北向きとなっており、「北面の御陵」として有名です。正式名称は「後醍醐天皇塔尾陵(宮内庁看板)」で如意輪寺の裏側にあります。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…◎四月五日 吉野山より和歌山

○寝床の中でドシャ降りの雨の音を聴く、がっかりする。
いやな女中がもう一日御滞在なさいと云ふ、いやな尊く。案内者に導かれて、何とかいふ、大きな古い社へ行く、廻り六尺とか七尺とかいふつゝじの柱がある、うそにきまってゐる。護良親王が死を決して宴を張られたとかいふ所。義経が居た家とか辨慶が拳固で石へ打ち込むだ釘だとか、例の如意輪堂だとか、怪しげな古墳を敦へて、後ダイゴ〔醍醐〕帝の御陵へ引つぱつて行く、これは何となく清い心持のする場所だった。これへ來る途に、中の千本といふのがある、咲きそろったらさぞ美しからう。花へはまだ一週間あるといってゐた。
いづれにしろ吉野はいやな所だった。
名物は吉野葛と大峯のダラニスケとかいふ薬。…」

 上記の”大峯のダラニスケ”は”大峯の陀羅尼助”と書きます。陀羅尼助(だらにすけ)は日本古来の民間薬です。医薬品(現在のリスク区分では第2類医薬品に分類される)。単にだらすけとも呼ばれています。古くは吉野山(吉野町)および洞川(どろがわ、天川村)に製造所があり、吉野山や大峯山への登山客、行者参りの人々の土産物となっていました。オウバクを主成分とする伝統薬であり、特に製造が特許に保護されていることもないため複数の製造所があります。また製造所によってオウバク以外の成分が少しずつ異なります。吉野では「フジイ陀羅尼助丸」が有名だそうです。(ウイキペディア参照)

《今日のコース》
・さこや→吉水神社(弁慶力釘、義経・静御前潜居の間)→蔵王堂(躑躅の床柱、村上義光公忠死之所)→後醍醐天皇御陵→吉野川左岸を下市へ→下記参照

写真は現在の「後醍醐天皇塔尾陵(宮内庁看板)」です。「北面の御陵」の写真を掲載しておきます(写真の反対側が北です)。

「釣瓶鮨 弥助」
<釣瓶鮓屋>
 吉野での最後の訪問は下市の「釣瓶鮓屋」です。吉野蔵王堂から吉野川左岸を歩いて9.8Km、徒歩で2時間弱の距離です。この鮓屋は正式には「釣瓶鮨 弥助」といいます。東京紅団では三度目の掲載です。最初は『谷崎潤一郎の「吉野葛」を歩く』です。二度目は『村上春樹の「奈良の味」を歩く』です。料理に関しては『村上春樹の「奈良の味」を歩く』で掲載していますのでそちらを参照して下さい。今回は「釣瓶鮨 弥助」の裏山を紹介します。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「…「風味もよしの下市に、釣瓶鮓屋の彌左衝門」といふ床の「呼び」で、向揚幕からとぼとぼと出る、その足どりで、その鮓屋の土間へはいり、濡鼠の、坐るは不便と、どこか腰かけて食へるところはないか、と訊く。どうぞこちらへ、と、二十二三の女が、足駄を突っかけ、番傘を開きながら、土間は通りぬけに、奥庭へ出ると、池の隅を仕切ったやうなところを指して、お里はんの姿見の井戸、だと云ふ。珈琲色の水の面に、やゝ小降りになった雨の脚が、ポッリポツリ、小さな波紋を擴げ合ってゐる。丘の斜面をはすかひに登らながら、黒髪塚、維盛の塚、若葉ノ内侍御信仰の稽荷、……最後の止めに、権太手植の梅、と來て、うんもすんもない。
「どこでもいゝんだが、腰かけられるとこで、早く鮓を食はしてくれないか」
「へえ、どうぞこちらへ」
 眞新しい、安普請の離れに案内され、隙間に竹を挟んだ一尺五寸幅の濡縁に腰をおろす。押鮓といふやつ、どうも関東者の口に合はない。甘く煮た、得態の知れない魚から、グチャグチャの飯のなかほどまで、褐色の汁をにじませてゐたりすると、見た目で、食慾が半滅する。それでも、丁度もう正午で、空腹にうんうん詰め込みながら、別に給仕を要する食物でもないのに、なほそばを去らうとしない女に、早速、木下一流の、矢継早な質問が始まる。…」

 
 私も「釣瓶鮨 弥助」を訪ねたときに裏山の歩いて碑を紹介して頂きました。「釣瓶鮨 弥助」は木造二階建てと三階建ての二棟が繋がって建てられています。写真の二階建ての方の入口から入って、右側の三階建ての建物に移り、三階まで上がると裏山への渡り廊下があります。渡り廊下を渡って裏山に行くと斜面の路にそって錍があります。

 お里はんの姿見の井戸お里黒髪塚維盛塚若葉ノ内侍御信仰の稽荷、権太手植の梅(写真が無い)の写真を掲載しておきます。

《今日のコース》
・さこや→吉水神社(弁慶力釘、義経・静御前潜居の間)→蔵王堂(躑躅の床柱、村上義光公忠死之所)→後醍醐天皇御陵→吉野川左岸を下市へ→釣瓶鮨弥助→吉野口駅(17時53分発)→和歌山駅(20時29分着)

写真は現在の「釣瓶鮨 弥助」です。このお店は竹田出雲の『義経千本桜』で、源氏に破れた平維盛をかくまう役どころとして登場して有名です。

《義経千本桜》
 義経千本桜(よしつね せんぼん ざくら)は、義太夫節の人形浄瑠璃・歌舞伎の演目で江戸時代中期の作品です。源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、平家の武将の復讐とそれに巻き込まれた者たちの悲喜こもごもを描いています。三段目のすしやの段で「釣瓶鮨 弥助」が登場しています。すし屋「釣瓶鮓」には、主人の弥左衛門・女房のお米、娘のお里、美男の手代弥助が暮らしています。そこに一夜の宿を借りに来た若葉の内侍と六代君で、弥助との思わぬ出会いに、彼の正体が三位中将維盛と知れます。寄合いで平家探索の手が下市村まで伸びてきていることを知って戻ってきた弥左衛門。そんな中で、勘当されている息子の権太が父親の目を盗んで訪れ、母に無心をして出て行きます。いよいよ詮議役の梶原景時がやってきて、弥左衛門は維盛一家を別の場所に移しますがそこに権太が一家を捕らえたと言ってやってくる。絶望する弥左衛門。しかしそれは、権太命がけの親孝行でした。一家は救われ、維盛は出家し高野山へと向かいますが弥左衛門家の権太は絶命しお里は婚約者を失うというストーリーです。(ウイキペディア参照)

 次回は和歌山です。



吉野付近地図