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最終更新日:2006年2月23日




●松本清張の「砂の器」を歩く (東京編)
  初版2004年1月10日
  二版2004年1月24日 構成を変更
<V02L06>

 今週は「村上龍を歩く」をお休みして、松本清張の「砂の器」をとりあげました。来週18日からTBS日曜劇場で中居正広(SMAP)主演の「砂の器」の連ドラが始まります。特にテレビドラマが始まるので取材した訳ではなくて、以前から準備していたですが、タイミングもいいので掲載します。

 今回の取材は、原作と、昭和49年(1974) 主演:丹波哲郎、加藤剛、森田健作で映画化された時の撮影場所を中心に紹介しています。2004年1月18日から始まる中居正広(SMAP)主演の「砂の器」は、原作とは少し違ったストーリーで、TBSのホームページを見ると、時代設定は現代、主人公を刑事役から犯人に置き換えています。中居正広が犯人役になるようです。テレビドラマの撮影場所が何処なのか愉しみです。(そちらも順次紹介したいとおもっています)

<松本清張記念館>
 北は秋田から南は博多までの取材で、結局、三年かかってしまいました。取材の場所が、辺鄙な所が多くて、又、休みの日を利用しての取材でしたので、時間がかかりました。まず最初に紹介するところは「松本清張記念館」です。松本清張が子供の頃から朝日新聞社時代を過ごした、福岡県北九州市に建てられています。松本清張記念館図録の書き出しを読むと、「松本清張はあらゆる規範をのりこえた作家である。日本の文学史上初めて出現した多様にして明確な個性を有する作家ということである。芥川賞を受賞した「或る『小倉日記』伝が本来は直木賞の候補作だったという経緯が示すように、一つの型に分類することが不可能な大きさを文学者だった。…」、と書かれています。さすがです。

【松本清張】
 1909(明治42)年12月、福岡県小倉市(現・北九州市)に生れる。53(昭和28)年「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。56年、それまで勤めていた朝日新聞社広告部を退職し、作家生活に入る。63年「日本の黒い霧」などの業績により日本ジャーナリスト会議賞受賞。70年菊池寛賞、90年朝日賞受賞。「点と線」「波の塔」「日本の黒い霧」「現代官僚論」「昭和史発掘」「古代史疑」「火の路」「霧の会議」「草の径」など多方面にわたる多くの著作がある。92(平成4)年8月死去。98年8月、北九州市に「松本清張記念館」が開館した。(文春文庫「松本清張の世界」より)

左上の写真が、福岡県北九州市の松本清張記念館です。住所は福岡県北九州市城内2−3です。中には杉並に建てられていた松本清張宅が移築されており、二階の松本清張の書斎や、書庫をそのまま見る事ができます。松本清張オタクは是非とも見学して下さい!!

「砂の器」日本地図


<国鉄蒲田操車場>
 あまりにも有名なので、説明する必要もないかとおもいますが、松本清張の「砂の器」の書き出しはこの蒲田から始まります。「国電蒲田駅の近くの横丁だった。間口の狭いトリスバーが一軒、窓に灯を映していた。十一時過ぎの蒲田駅界隈は、普通の商店がほとんど戸を入れ、スズラン灯の灯だけが残っている。これから少し先に行くと、食べもの屋の多い横丁になって、小さなバーが軒をならべているが、そのバーだけはぽつんと、そこから離れていた。場末のバーらしく、内部はお粗末だった。店をはいると、すぐにカウンターが長く伸びていて、申しわけ程度にボックスが二つ片隅に置かれてあった。だが、今は、そこにはだれも客は掛けてなく、カウンターの前に、サラリーマンらしい男が三人と、同じ社の事務員らしい女が一人、横に並んで肘を突いていた。」このあと、国電蒲田操車場で男の死体が発見され事件が始まります。この続きは……です。”トリスバー”って、響きがいいですね。トリスの看板を見ただけで、昭和30年代をおもいだしてしまいます。

左上の写真が現在のJR蒲田操車場です。「砂の器」は昭和49年(1974) 主演:丹波哲郎、加藤剛、森田健作で映画化されており、撮影場所を現在と見比べてみると、操車場の場面は左上写真の場面で、また、パトカーが走り出す場面は、左の写真の道で、当時とほとんど変わっていません。

「砂の器」の蒲田地図



羽後亀田へ (羽後亀田編)
 被害者の残した東北弁の”カメダ”をたよりに、秋田の羽後亀田を訪ねます


<国立国語研究所>
 東北弁と”カメダ”という言葉をたよりに、秋田県由利郡岩城町亀田を訪ねますが成果を挙げる事はできませんでした。そこで、東北弁とおもわれる”カメダ”の言葉自体を調べるため、都内の国立国語研究所を訪ねます。「…今西栄太郎は、都電で一ツ橋に降りた。暑い盛りを濠端の方に歩くと、古びた白い建物があった。小さな建物である。「国立国語研究所」の看板がかかっている。……「出雲のこんなところに、東北と同じズーズー弁が使われていようとは思われませんでした」今西はうれしさを押さえて言った。……今西は技官に送られて国語研究所を出た。ここまで来たかいはあったのだ。いや、期待以上の収穫だった。今西の心はおどっていた。被害者「三木謙一」は岡山県の人間である。出雲とは隣合わせの国だ。…」。映画では、本物の国立国語研究所を訪ねています。現在は北区西が丘にありますが、昭和35年当時は千代田区一ツ橋一丁目(共立講堂の道を挟んで皇居より)にありました(現在は学術総合センター)。ですから、本の書かれた時は、”一ツ橋”で、映画の頃は、”西が丘”というわけです。けっこう真面目な撮影をしている映画です。

【国立国語研究所】
昭和23年12月20日 国立国語研究所設置、研究所庁舎として明治神宮聖徳記念絵画館の一部を借用
昭和29年10月1日 研究庁舎、千代田区神田一ツ橋1丁目1番地の一橋大学所有の建物を借用し、移転
昭和37年4月1日 研究庁舎、北区西が丘3丁目9番14号(旧北区稲付西山町)に移転

左上の写真は、映画で今西刑事が国立国語研究所へ向かう途中を撮影された所です。当時は左側の横断歩道はありましたが、環状七号線の陸橋はありませんでした。

<内外地図>
 一ツ橋の国立国語研究所を出ると、今西刑事(丹波哲郎)は出雲の地図を買い求めに本屋街の神保町方面に向かいます。「今西は都電に乗る前に、近くの本屋に寄って、島根県の地図を求めた。彼は本庁に帰るのも間遠しく、本屋のすぐ隣の喫茶店に飛びこんだ。ほしくもないアイスクリームを頼んで、地図をテーブルの上に広げた。今度は、出雲から「亀」の字を探すのである。……「亀嵩」とあるではないか。「かめだか」と読むのであろうか。今西は瞬間ぼんやりした。あんまり造作なく期待どおりのものがすぐ出てきたのである。この亀嵩の位置は、鳥取県の米子から西の方に向かって宍道という駅がある。そこから支線で木次線というのが、南の中国山脈の方に向かって走っているのだが、「亀嵩」はその宍道から数えて十番目の駅だった。…」。東北弁の”カメタ”がこれで解決します。国立国語研究所のある西が丘からは、地図を買う「内外地図」のある神保町はかなり遠いです。一ツ橋ならすぐ傍になります。原作の時代と、撮影した時とのギャップがあり、そのための距離感は埋められませんね。

右の写真は、神田小川町の「内外地図」です。ここで今西刑事(丹波哲郎)は出雲の地図を買います。写真に写っている看板は映画で撮影された看板と同じと見えました。

<渋谷の呑み屋街>
 今西刑事(丹波哲郎)と吉村刑事(森田健作)は、映画ではよく飲みに行く場面が出てきます。夜の場面が多くて何処か分からなかったのですが、たぶん渋谷の道玄坂方面ではないかと推定しました。「…「わかりました。どこで会いましょう?」、「そうだね。やっぱりこの前のおでん屋にしようか?」、「わかりました。なにか耳よりなことがあったのですか?」、「ちょっとね」、と、今西は電話で思わず笑った。「会ってから話すよ」、六時半に二人は渋谷駅で落ちあった。…」。映画の場面では、左側が電車の高架で、右側が飲み屋街になっていました。場所を探せたポイントは高架を走っていた電車が地下鉄だった事です。右側の飲み屋は、30年前とはすっかり変わってしまっていました。ここでも、原作に忠実に渋谷でロケを行っています。

左の写真は渋谷イーストの横の通り(渋谷駅に向かって右側)です(映画では正面少し上に地下鉄が見えました)。ですから、左側の高架は地下鉄銀座線の渋谷車庫となります。

<蒲田界隈>
 被害者の氏名が判明後、今西刑事(丹波哲郎)と吉村刑事(森田健作)は蒲田界隈の聞き込みを再度行います。ロケ地としては、蒲田駅東口、東急蒲田駅付近、蒲田駅近くの新呑川の付近です。新呑川付近は、事件発生直後の蒲田周辺の聞き込みとして、宮之橋と御成橋横から日本工学院方面を撮影しています。当時と比べて建物が増えて、見通しが悪くなった以外は、ほとんど現在と同じでした。ただし映画では宮之橋の場面で、スナックの看板が”BAR三美”となっていましたが現在は”スナックゆうこ”です(撮影当時は本当に”BAR三美”がありました)。また、東急蒲田駅下の飲み屋街も登場しいます。最後に登場するのは、蒲田五丁目付近から新呑川を撮影した場面です。画面に”ニュー金時”という大きなネオンサインがみえますが、これは現在もあるパチンコ屋さんです。

右の写真が宮之橋近くの”スナックゆうこ”から日本工学院方面を見たものです。途中に京浜東北線が走っていました。

亀嵩へ (亀嵩編)
 東北弁の”カメダ”が出雲地方の亀嵩とわかり、島根県仁多郡仁多町亀嵩を訪ねます

伊勢へ (伊勢編)
 犯人と被害者の接点が伊勢参宮にあるとわかり、三重県伊勢市を訪ねます

大阪へ (大阪編)
 犯人の本籍がある大阪市浪速区恵美須町を訪ねます


<埼玉会館>
 原作では、最後に逮捕されるのは羽田空港でしたが、映画では埼玉会館での演奏終了後逮捕されます。原作の頃(昭和35年)はまだ海外旅行がめずらしく、そのため、羽田空港での逮捕となったのでしょう。「『…二十二時発、サンフランシスコ行きのパン・アメリカン機にご搭乗なさいます和賀英良さまのお見送りの方に申しあげます。和賀英良さまは急用が起こりまして、今度の飛行機にはお乗りになりません。和賀英良さまは今度の飛行機にはお乗りになりません……』、ゆっくりとした調子の、音楽のように美しい抑揚だった。」。終わりかたがいいですね。なんともいえません。

左の写真が、埼玉会館です。浦和駅から500mくらい、埼玉県庁までの途中です。入口は反対側でした。

今回紹介できたのは、都区内での映画の撮影現場の一部です。まだまだ不明な場所がたくさんあります。

「砂の器」の東京地図




【参考文献】
・砂の器 上、下:松本清張、新潮文庫
・DVD 砂の器:監督 野村芳太郎、原作 松本清張、松竹株式会社
・松本清張の世界:松本清張、文藝春秋臨時増刊号
・松本清張事典:歴史と文学の会、勉誠出版
・成長日記:松本清張、日本放送出版協会
・新潮日本文学アルバム 松本清張:新潮社
・松本清張の世界:文春文庫
・半生の記:松本清張、河出書房
・朝日新聞時代の松本清張:吉田満、九州人文化の会刊
・松本清張記念館図録:松本清張記念館
・証言─朝日新聞時代の松本清張:松本清張記念館
・新たなる飛躍-点と線のころ:松本清張記念館
・松本清張の残像:藤井康栄、文春新書
・松本清張 その人生と文学:田村栄、啓隆閣新社
・時刻表復刻版 戦後編:日本交通公社




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