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最終更新日:2006年2月21日


●手塚治虫の東京を歩く(上) 2003年3月22日 V01L04
 今週は先々週の「トキワ荘」に引き続いて、漫画特集の第二弾として「手塚治虫の東京を歩く」を掲載します。以前も書きましたが今年(2003年)4月には鉄腕アトムが誕生します(手塚治虫の鉄腕アトムのお話は2003年4月のアトム誕生から始まります)。

<手塚治虫>
 手塚治虫は昭和3年(1928)11月3日、大阪府豊中市で手塚ゆたか、文子の長男として誕生します。兵庫県宝塚市に転居後、昭和10年(1935) 大阪府立池田師範付属小学校(現大阪教育大学付属池田小学校)に入学、中学校は昭和16年(1941)大阪府立北野中学校(現北野高校)に入学しています。小学校、中学校とも昔からのエリート校(現在でも進学校です)ですので、手塚治虫自身かなり恵まれた環境で生まれ育ったようです。戦時中のため旧制北野中学を4年で繰り上げ卒業(旧制中学は5年制)し、昭和20年(1945)7月1日大阪大学付属医学専門部に入学します(現大阪大学医学部)、この頃には勤労動員ではなくて通年動員となり、学校へはいかずに毎日工場へ通います。昭和21年(1946)デビュー作の4コママンガ「マアチャンの日記帳」の連載が『少国民新聞(のちの毎日小学生新聞)関西版』で始まります。昭和26年(1951)大阪大学医学部を無事卒業、「アトム大使」を『少年』に連載を始めます。翌年から脇役だったアトムが主人公となって「鉄腕アトム」として長期連載されることになります。出版社が東京のため昭和27年(1952)東京に転居、新宿区四谷の八百屋の二階に下宿します。

この頃の手塚治虫については「トキワ荘実録」によると「初めてお目にかかる手塚先生は、逆卵形の顔にトレードマークのベレー帽をのせ、丸っこい鼻に度の強い丸めがねをかけているところは似顔絵そのままだけれど、かなり背が高くて若々しい青年というのが第一印象。めがねの奥には人なつっこい目がのぞいていて、にこやかに出迎えてくれました。ベレー帽はふだん室内にいるときでもかぶっているので、うっとうしくはないんだろうかと、ひとごとながら気になったものです。……その日の帰り道、先輩はきびしいことを言います。先生は、原稿ができたら連絡すると言うだろうが、それまでのんべんだらりと待っていたらとんでもないことになる、絶対に目を離すな、と言う。なにしろ「神没鬼没の手塚」といわれたくらいで、ほとんどどこにいるのか居所が分からないんだそうです。…」、と表現しています。手塚治虫自身はかなり自由人だったようなので、原稿の締めよりも映画などの好きなことがあればそちらを優先してしまうようです。そのため出版社から見ると「神没鬼没の手塚」になっていたのでしょう、うまくいったものです。

※手塚治虫の大阪については別途特集したいとおもいます。

左の写真は兵庫県宝塚市にあります宝塚市立手塚治虫記念館です。阪急宝塚駅から宝塚歌劇場横を通って歩いて約10分位です。大阪駅からは少し遠いのですが、時間があれば見ていただければとおもいます。

手塚治虫の「東京」年表

和 暦

西暦 年  表 年齢 手塚治虫 東京の足跡 作  品
昭和26年 1951  
23
アトム大使
昭和27年 1952  
24 四谷駅から程近い八百屋の二階に転居
鉄腕アトム
昭和28年 1953 朝鮮戦争休戦協定
25 夏頃 豊島区椎名町トキワ荘に転居
リボンの騎士
昭和29年 1954 スエズ動乱
26 9月頃 並木ハウスへ転居
 
昭和34年 1959 皇太子殿下ご成婚
31 10月 岡田悦子と結婚。都内渋谷区代々木初台に新居を構える  

八百屋の二階(推定)>
 東京に上京して初めて下宿した場所が四谷近くの八百屋の二階でした。昭和27年頃の四谷の下宿について手塚治虫自身で書かれたものは「四谷快談」しかないようです。「手塚治虫物語」にも書かれているのですが、八百屋のスタイルが少し違う様です。「四谷快談」では四谷一丁目と書いてありましたので、この住所で八百屋を探してみました。昭和27年当時は都電が通っており道も拡張される前で、現在とは風景が全く違います。それでも探してみたところ、四谷一丁目三番地に成木屋青物店(新宿通りに面していました)という八百屋がありました(現在はない)。推定ですか多分この八百屋の二階だったのではないかとおもいます。この他で「四谷快談」に出てくるのは次に書かれている於岩稲荷神社とパチンコ屋くらいです。「手塚治虫物語」では中華料理屋の”来々軒”がバックに書かれていましたので探した所、四谷見附交差点の角に”来々軒”がありました。

※何方か御存じの方がいらっしゃいましたら教えて下さい。

左上の写真は四谷見附交差点を四谷駅側から撮影したものです。四谷一丁目三番地の成木屋青物店は、当時は右側角から新宿に向かって三軒目でした。(角から美乃屋食堂、風月堂洋菓子、成木屋青物店となっていました)

<四谷快談>
 手塚治虫の「四谷快談」に出てくるのが於岩稲荷神社です。「四谷快談」と書きますが字は間違っていません(「四谷怪談」と書くのが本当なのですが手塚治虫風のパロディだとおもいます)。若い美人のお岩さんが目の悪い子供のために自分の目をあげる話です。本来の「四谷怪談」は当ホームページの「東海道四谷怪談」のページを見て下さい。

右の写真は新宿区四谷左門町の「於岩稲荷田宮神社」です(四谷駅から15分位歩きます)。斜め向かい側に「於岩稲荷陽運寺」があります。怪談ものを扱う芸能関係者が必ずお参りに訪れる名所です。


トキワ荘>
 トキワ荘への移転については「トキワ荘実録」によると、「先生は初め (一九五二 [昭和二七]年)、四谷にある八百屋さんの二階に下宿してました。ところが、昼夜をとわず編集者たちが出入りするわ、原稿取りを争って大声を出すわで、大家さんはめいわくして因っていたらしいんです。そこでもう少し独立した自分の部屋に移りたいと思っていたところ、「漫画少年」 の編集をやっていた加藤謙一氏の息子さんが、ここを探してきてくれたのだそうです。それはトキワ荘が建ったばかりの、一九五三年の正月のことでした。なぜか練馬のこのあたり、西武池袋線の椎名町駅から練馬駅にかけて、島田啓三大先輩をはじめ、茨木啓二 太田じろう、高野よしてる、芳賀まさお、馬場のぼる、田中正雄、山根一二三などなど、児童まんが家がたくさん住んでいて、なんとはなしに「まんが家は練馬に住むべし」 みたいな雰囲気がありました。そんな関係から、ここが選ばれたんだろうと思います。」、出版社側から見るとトキワ荘に移ったことで便利になったようです。

「トキワ荘物語」と同じ写真です。この空き地に正面入口かあり、トキワ荘自体はこの空き地の先にありました。詳細は「トキワ荘物語」を見ていただければとおもいます。

並木ハウス>
 トキワ荘に移って便利になったはずなのですが、どういう訳かすぐに雑司ヶ谷鬼子母神近くの並木ハウスに転居します。「トキワ荘実録」によると、「そのころ、関西の納税長者番付の画家の部で、聞いたことのない手塚治虫という名が上位にあるのを見て驚いた週刊誌の記者が、トキワ荘の部屋へ取材に来ましたが、たったの四畳半で、机とふとんの他はほとんど何もない、カーテンさえもない部屋を見まわして目を疑いました。そのありさまが、一九五四(昭和二九)年四月に出た「週刊朝日」に 『知られざる二百万円長者、児童漫画家手塚治虫という男』というタイトルで記事になっています。」、で、トキワ荘の四畳半の状況をみて、少しでもアパートの環境の良い並木ハウスに移ったのだとおもいます(並木ハウスは古くなりましたが今でも洒落たアパートに見えますので当時としてはかなり素敵な下宿だったのだとおもいます)。年収二百万円で家賃3千円/月のアパートに住んでいたのですから!、その上ほとんどトキワ荘にはいなかったようです。「手塚先生がここに住んでいたのは数えるくらいの日数です。というのは、もう次の年の初めには鬼子母神の並木ハウスに移っているからです。そればかりか、その間も大半は宝塚の実家に帰っていたり、どこかにカンヅメになっていたりで、あまりトキワ荘に落ちついていることはなかったんですね。だから本格的なねぐらというところまではいきませんでした。」、と書いています。

右の写真中央が並木ハウスで、手塚治虫は正面二階左側に下宿していた様です。昭和20年代後半の建物で残っているのは珍しいです。場所的には、少し不便な所で都電荒川線の鬼子母神前で降りて、参道を少し歩き右に入った所にあります。

次回は手塚治虫の東京を歩く(下)を掲載します。

<手塚治虫の東京地図 -1->



●手塚治虫の東京を歩く(下) 2003年3月29日 V01L02
 今週は先週の「手塚治虫の東京を歩く」”上巻”に引き続いて”下巻”をお送りします。代々木初台の新婚時代から、富士見町での虫プロ倒産、下井草での借家生活、東久留米の新居までを中心に掲載したいとおもいます。もうすぐ4月7日になりますので、鉄腕アトムの誕生についても掲載しておきます。

<鉄腕アトム>
 鉄腕アトムは昭和26年の雑誌「少年」3月号の予告記事から始まります。「諸君、もし、からだも性質も、なにもかも同じもうひとりの人間があらわれたら、どんなにかゆかいな事件がおこるでしょう! これは、科学万能時代の五十年後の東京にはじまる、すばらしくめずらしい、おもしろい事件をあつかった科学漫画です。…」、と書かれていました。実際に「鉄腕アトム」が始まったわけではなくて、鉄腕アトムの前身の「アトム大使」がはじまります。「鉄腕アトム」の名前で始まったのは翌年の昭和27年4月からです。3月号には予告として「鉄人アトム」と書いてあります。「鉄腕アトム」の名前が決まったのはぎりぎりだった様です。「五十年後」と書かれていますので、昭和27年4月から50年ということで今年の4月が鉄腕アトムの誕生となるわけです。

左の写真は「鉄腕アトム HAPPY BIRTHDAY BOX」に入っていた雑誌「少年」の昭和30年新年号ふろくの「科学まんが 鉄腕アトム 電光人間の巻」です。当然、復刻版なのですが、全く同じように創られていました。感激です!!

手塚治虫の「東京」年表

和 暦 西暦 年  表 年齢 手塚治虫 東京の足跡 作  品
昭和34年 1959 皇太子殿下ご成婚
31 10月 岡田悦子と結婚。都内渋谷区代々木初台に新居を構える  
昭和35年 1960  
32 都内練馬区富士見台に家を新築
 
昭和36年 1961 ソ連有人宇宙衛星
33 医学博士の学位をとる。手塚治虫プロダクション動画部設立  
昭和48年 1973  
47 虫プロ倒産
 
昭和49年 1974 小野田さん ルパング島より帰還
46 都内杉並区下井草へ転居
 
昭和55年 1980 山口百恵引退 
52 都下東久留米へ転居  
平成元年 1989 ベルリンの壁崩壊
60 2月9日 死去  

渋谷区代々木初台>
 手塚治虫は昭和34年10月、岡田悦子さんと結婚します。当時の状況を奥様の悦子さんが「夫・手塚治虫とともに」の中で、「昭和三十四年十月四日、兵庫県宝塚市の宝塚ホテルで私たちは結婚式を挙げました。両親、兄弟、姉妹、親族のほか、友人代表として東京から駆けつけてくださった馬場のぼる氏、アニメーターの古沢日出夫氏が出席してくださり、奈良医大の恩師安澄権八郎教授の媒酌で、ごく普通のささやかな式でした。」と書いています。しかしながら東京での手塚治虫を取り囲む周りの環境は、そんななまやさしいものではなかった様です。「宝塚での結婚式は身内だけのものでしたので、一月あまり経って東京で披露宴をしました。仲人役として松下井知夫先生ご夫妻に労をお願いし、お仲間も大勢集まってくださいました。ところが、宴が始まる時間がきても肝心の新郎の姿がありません。前の晩も徹夜で仕事をしていたのですが、「鉄腕アトム」の原稿が描きあがらず、隣の控え室で汗だくで原稿の仕上げにとり組んでいたのです。やっとのことで原稿が仕上がり、遅まきながら宴が始まりました。ずらりと並んだお客さまの顔ぶれのすごさ。講談社、小学館といった、各一流出版社の社長、副社長、編集長を頭に担当の編集者の方々、そうそうたるマンガ家の面々。招待客百七十名近い大宴会に、このすごい世界と今後つきあっていかなくてはならないのか……、たいへんな所に嫁入りしてしまったのだ、と痛感した披露宴の夜でした。」、ほんとうにたいへんそうですね。

左上の写真は手塚夫妻が新居とされた渋谷区代々木初台の旧宅です。建物は当時のままのようで、京王線初台駅から徒歩5分位の距離です。

練馬区富士見台>
 代々木初台の次に住んだのが練馬区富士見台です。「新婚当時に話は戻ります。手塚は、家を建てるために借金をして練馬区富士見台に土地を買いました。将来はアニメスタジオも建てようということで、四百坪の広い土地でした。昭和三十五年の夏には新居が完成。これを機に祖父の代からの宝塚の家は売り、手塚の両親を呼びよせて一緒に暮らすことにしました。広い敷地に建つ白い新居はスタジオ兼住宅で、半分が仕事場です。螺旋階段のついた吹き抜けのスタジオは、二階が手塚の仕事場、見下ろす広間がアシスタントの仕事部屋でした。手塚はいつもクラシック音楽をかけながら仕事をします。ステレオが珍しい時代でしたが、大きなステレオを入れ、スピーカーを壁に埋めこみ、二階でかけた音楽がスタジオ中に流れるようにしていました。これは新居のご自慢でしたが、歌謡曲や演歌好きのアシスタントには、たまったものではありません。……」、現在も虫プロダクションが入っている建物が残っています。

右の写真が現在でも富士見町に残っている虫プロダクションの建物です。昭和35年頃の練馬区富士見町付近は大根畑ばかりで、住宅はほとんど無かったのではないかとおもいます。現在の建物が建てられている一区画すべてが手塚治虫家の敷地だった様です(虫プロ倒産で周りの土地は売ってしまった)。

杉並区下井草>
 昭和48年、虫プロが倒産します。経営と物づくりを一人で行うのはやはり無理だったようです。「…一度傾いた会社を盛り返すのは難しく、「虫プロ商事」は昭和四十八年八月に倒産してしまいました。……昭和四十九年、虫プロダクションの倒産で家を失った私たち家族七人は、借家住まいを始めていました。……杉並区の西武新宿線井荻駅から五分くらいの所にある二階屋に移ったのです。住まいと仕事場が離れたとはいえ、富士見台の手塚プロのスタジオまでは自転車で通える近さで、仕事の面でも便利でした。前の家に比べれば随分こぢんまりとした住まいでしたが、それでも舅、姑、子どもたちそれぞれに部屋がありました。また庭もあり、花壇を作れるような空き地もあって、ゆったりとした気持ちになれました。」、あまりに忙しすぎた富士見台時代から少しのんびりできた下井草時代だったのではないでしょうか。

写真の右手が手塚治虫旧宅跡です。現在は土地も分割されて幾つかの住宅に分かれてしまっています。西武新宿線井荻駅から歩いて5分位の高級住宅街の真ん中です。

東久留米市小山>
 倒産の後遺症から立ち直り、東久留米に新しい家を建てて移ります。「手塚が夢を賭けた虫プロダクションが倒産し、六年間は井荻の借家に住んでいましたが、手塚の仕事も再び軌道に乗りました。昭和五十五年には東久留米に新居を建て、引っ越しをすることができました。東久留米市は、東京郊外、埼玉県との県境にあり、まだ武蔵野の面影が残っていて、森や林のある静かな所。近くには川が流れていて、虫が飛びかい、たくさんの野鳥の姿も見られるとあって、自然の好きな手塚の、お気にいりの土地でした。高台に建つ新居は見晴らしがよく静かで、たまに帰宅する手塚も、家庭の温かみが感じられ、ゆったりとくつろげると喜んでいました。新居は、手塚がロサンゼルスに行ったとき、ハリウッドのビバリーヒルズで見た素敵な館を思いだして設計した白い家で、家族それぞれが個室をもつことができ、子どもたちも大喜びでした。」、井萩の借家と書いてあるのは下井草の事です。都心からはかなり離れましたが、その分のんびりできたのではないでしょうか。

右の写真が東久留米の手塚宅です。かなり大きな邸宅で現在もご家族の方がお住まいの様です。

総禅寺のお墓>
 平成元年手塚治虫は千代田区麹町の半蔵門病院で胃癌のため亡くなります。数年前から体調がすぐれず、病院で検査を続けていた様ですが、よく分からなかったようです。遺骨は巣鴨の総禅寺に納められます。私もお参りをさせて戴きましたが、お寺の入口で”お線香を買ってお供えして下さい”とのことでしたので、200円でお線香を買ってお供えをしました。

左の写真が手塚家のお墓です。正面が手塚家のお墓で、左側に「鉄腕アトム」の碑があります。

※少し時間を於いてから「手塚治虫の大阪を歩く」を掲載します。

<手塚治虫の東京地図 -2->



【参考文献】
・まんが道(愛蔵版 第一巻〜四):藤子不二雄、中央公論社
・愛…しりそめし頃に…(1〜4):藤子不二雄A、小学館
・トキワ荘の青春:石ノ森章太郎、講談社文庫
・トキワ荘実録:丸山昭、小学館文庫
・トキワ荘青春日記:藤子不二雄A、光文社
・石ノ森章太郎の青春:石ノ森章太郎、小学館文庫
・ぼくのマンガ人生:手塚治虫、岩波新書
・手塚治虫名作集2 雨ふり小僧:手塚治虫、集英社文庫
・手塚治虫物語 オサムシ登場(1928〜1959):伴俊男+手塚プロダクション、朝日文庫
・夫・手塚治虫とともに:手塚悦子、講談社
・鉄腕アトム HAPPY BIRTHDAY BOX:手塚治虫、光文社

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