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最終更新日:2007年1月3日


●トキワ荘物語 2003年3月8日 V01L04
 川端康成特集が七週目になりかなり疲れてきました(本当は飽きてきたのです!)ので、今週は趣をかえて「トキワ荘物語」をお贈りします。今年の4月には手塚治虫の「鉄腕アトム」が誕生します(「鉄腕アトム」の漫画を読んだことのない方はよく分からないかもしれません)。漫画特集ということではないのですが、「手塚治虫」と「トキワ荘」を特集してみたいとおもっていました。丁度いい機会なので、今週は「トキワ荘物語」を歩いてみたいとおもいます。

<中華食堂 松葉>
 トキワ荘が建てられていた昭和20年代後半から30年代にかけては、日本の戦後が終り総理大臣が吉田茂、岸信介、池田勇人と変わり、所得倍増、高度成長時代へまっしぐらに進んでいた時代です。石ノ森章太郎の「トキワ荘の青春」では、「”青春とは、後からしみじみ想うもの”という、題も歌もさだかにはおぼりていないが、ボクの好きな歌がある。また”青春の味はほろ苦い”という言葉もどこかで見た。とにかく、恐ろしい程につらいあの瞬間も含めて、楽しいこともまた山ほどあったトキワ荘の数年だった。その数年がボクの青春時代だった。…」、と書いています。なにかこれはわかりますね。昭和30年代前後の雰囲気が残っているとすれば、「トキワ荘」について書かれた漫画でしばしば登場する「中華食堂 松葉」のラーメンではないでしょうか。その当時の建物がそのまま残っているのは、後で紹介しますがレコード屋の「目白堂」ぐらいでした。

左上の写真は「中華食堂 松葉」のラーメンです。一杯500円、当時は40円だったので約12倍位です。「愛…しりそめし頃に…」に書かれていた昭和31年の松葉でのお値段は、ラーメン40円、タンメン60円、餃子40円、炒飯50円で、現在はタンメン600円、餃子400円、炒飯600円でした。物によっては10倍位ですね。

右の写真は現在の「中華食堂 松葉」です。お店の前に「中華食堂 松葉」を紹介する藤子不二雄Aの漫画がおいてあります。入口のガラス戸にも張ってありました。やはり、漫画を愛するものは一度は食べないといけない”ラーメン”のような気がします、ほんとですよ!!


「トキワ荘」年表

和 暦

西暦

年  表

「トキワ荘」の足跡

昭和27年
1952
NHKテレビ放送開始
バカヤロー解散
12月 トキワ荘棟上げ
昭和28年
1953
朝鮮休戦協定
日本テレビ放送開始
手塚治虫 トキワ荘入居
12月 寺田ヒロオ 入居
昭和29年
1954
洞爺丸事故 手塚治虫 雑司ヶ谷の並木ハウスへ転居
10月 藤子二人組がトキワ荘手塚部屋に入居
昭和30年
1955
神武景気始まる 9月 鈴木伸一 トキワ荘に入居
昭和31年
1956
日ソ共同宣言
2月 鈴木伸一・森安なおや トキワ荘で共同生活開始
5月 石ノ森章太郎 トキワ荘に入居
5月 赤塚不二夫、よこたとくお トキワ荘入居
6月 鈴木伸一 鎌倉へ転出
昭和32年
1957
ソ連スプートニク1号打上げ成功
6月 寺田ヒロオ トキワ荘転出
森安なおや トキワ荘転出
昭和33年
1958
1万円札発行 3月 水野英子 トキワ荘に入居、6月 転出
昭和57年
1982
東北新幹線開業
12月 トキワ荘改築のため取り壊される

<トキワ荘跡地(正面入口)>
 トキワ荘が建てられたのは昭和27年、戦後7年目ですので、四畳半、共同炊事場、共同便所(当時はトイレとは言わなかった)の二階建アパートでした(当時はこれでも高級だった?)。しかし残念ながらトキワ荘は築後30年目の昭和57年に取り壊され、新しいバス・トイレ付きの高級アパートに建て直されたのですが、此方も既に取り壊され、建売住宅と隣の会社の建物になってしまいました。ですから跡地にはなんにも残っていません。当時のことを丸山昭の「トキワ荘実録」では、「壊された旧トキワ荘に替わって、1982年に改築されたトキワ荘が生まれました。2LDK、六畳二間にバス・トイレつき。白亜の二階建てにはもう昔の面影はありません。入口も、以前の道とは違います。それでも赤塚不二夫筆による「トキワ荘」の看板が果敢ていて、一時は観光バスのルートにまで入っていたそうですが、今は静かです。」と書かれています。宮城県登米郡中田町(一関の少し手前です)にある「石ノ森章太郎ふるさと記念館」にトキワ荘の模型が展示されていますので見ることができます(少し遠すぎますが)。当時の家賃は3千円/一カ月(敷金3万円、礼金3千円)だったようです。

左の写真の空地にトキワ荘正面入口への路地がありました。南長崎ニコニコ商店街からは多田屋跡の角(現在は無くなっています)を曲がって、落合電話局の前の路地を入るとトキワ荘だったのです(写真空地の先の建物の所に建てられていました)。トキワ荘へ入るにはこの正面入口と裏から入る二通りの道があります。裏の方は「中華食堂 松葉」の正面辺りに出ます。

<旧落合電話局>
 トキワ荘を語るにはこの「落合電話局」はなくてはならない建物です。特に昭和30年代の家庭には電話はほとんど普及しておらず(トキワ荘も電話が無かった)、緊急の場合は電報で呼び出して電話を掛けてもらうほか方法はありませんでした(出版会社はほとんどこの方法でトキワ荘来漫画家達を呼び出していた)。現在も建物は残っていますが看板もすべて取り外されており、落合電話局(NTT東日本)は営業していないようです。南長崎4丁目にもNTT東日本がありますのでそちらに業務を集中したのではないでしょうか。トキワ荘から見た落合電話局の漫画や、度々登場している公衆電話ボックスも既になく、こちらも面影は建物のみとなってしまいました。「トキワ荘の青春」では、「路の向かい側に公衆電話ボックスがひとつ。その後ろに<落合電話局>なる看板のある立派なビル。」と書かれています。

右の写真が旧落合電話局です。トキワ荘から空地を挟んで正面に見えていました。空地も現在はアパートが建っており、以前の場所からも旧落合電話局は見えなくなっています。

<八尾清と吉津屋米店>
 南長崎ニコニコ商店街の中程にある八百屋と米屋さんです。寺田ヒロオさんが藤子二人組にトキワ荘への引越しについて注意事項を書き記した手紙に出てきます。もっともお店の名前がそのまま出てくるのではなくて、吉津屋米店を配給所として書かれています。昔の米屋は配給所だったのです。吉田ヒロオさんの手紙にはもっといろいろ書かれていますが、詳しくは「愛…しりそめし頃に…」を読んでください。

左の写真の右側が吉津米店、左隣が八百屋の八尾清です。場所は上記の地図を参照して下さい。

<二又交番>
 目白通りから南長崎ニコニコ商店街に入る二又の交差点の正面角に有るのが二又交番です。JR目白駅からは都バスの「白61」、又は「池65」に乗り”南長崎二丁目”の停留所で降りると、下記の「旧菊菓堂(現在はデイリーヤマザキになっています)」の前正面です。二又交番も目の前で、交番を左側に見てすこし歩くと右側に吉津屋米店、隣に八尾清となります。もう少し歩くと多田屋さんがあり、角を右に曲がるとトキワ荘への路となります。

左の写真正面やや左寄りが二又交番です。左側が目白通りで、右側が”南長崎ニコニコ商店街”になります。

<金子園と旧菊菓堂>
 トキワ荘の書かれた漫画でフランスパンを食べるシーンが度々登場してきます(愛蔵版 まんが道 第三巻の最初の方に寺田ヒロオさんが藤子氏二人に”フランスパンのメンチカツはさみ”を奢るシーンがでてきます)。このフランスパンを買ってくるお店が菊菓堂です。残念ながら建物も建て替えられて、現在はコンビニエンスストア(デイリーヤマザキ)になっていました。時代の移り変わりですね。このコンビニエンスストアの前がバス停留所なのですが、昭和30年代は漫画によく出てくる”椎名町四丁目”という名称でしたが現在は”南長崎二丁目”になっています。トキワ荘に行くにはJR目白駅から都バスで椎名町四丁目まで乗ってきて後は少し歩くのが普通でした(西武線の椎名町駅からは少し遠いです)。金子園も目白通りの風景の場面にときどき描かれているお店です。旧菊菓堂の左隣になります。

左の写真正面が旧菊菓堂で現在はコンビニエンスストアになっています。左隣が金子園です。コンビニエンスストアの前がバス停留所です。写真右方面が目白駅側になります

<喫茶店「エデン」跡>
 喫茶店「エデン」に関しては漫画にも、本にもよく書かれれています。『「よォし、じや、この続きは、原稿持ってって”エデン”やろうや」エデンというのは、トキワ荘から歩いて五、六分の所にある喫茶店の名前である。そう、そこなら冷房が効いている。冷たい飲物もある。金はかかるけど、それには替えられない。このクソ暑い西陽の部屋に比べれば、エデンはまさにエデンなのだ。部屋二杯に広げられていた「墨汁一滴」の原稿が、アッという間に集められ、紙袋に放り込まれる。蒸し風呂から吐き出されるように、六人はゾロゾロと暗い廊下へ。階段を降り玄関を出て、カッと照りつける七月の明る過ぎる陽光の中へ。大きいの小さいの、細いの細いの(太めは、この頃誰もいなかった)。髪の長いの短いの。なにやら正体不明の若者たちほ、一塊になって、アパート「トキワ荘」から喫茶店「エデン」へと、椎名町の路を急ぐ……』、冷房のない四畳半のアパート暮らしはたまらなかったとおもいます。でも当時この環境は普通で、喫茶店が流行った訳が分かります。「喫茶店エデンへ通ったのは、なにもコーヒーが飲みたかったから、ばかりではない。そこのウエイトレス 女の子たちに”気”あった、からでもある。」、ふむ!、今も昔も同じですね。残念ながらこの「エデン」は山手通りの拡張計画で既に取り壊されています。

右の写真の中央の路が目白通りで、左右が拡張工事中の山手通りです。「エデン」は写真正面辺りにありました。

<レコード目白堂>
 トキワ荘からは少し遠いのですが、石ノ森章太郎がよく通ったレコード屋です。このお店だけは当時の建物そのままでした。唯一残った昭和30年代ではないでしょうか。「そして−−”女っ気”だって、あったのだ。目白堂という、レコード屋さんに通ったのは、そこの奥さんが美人だった所為も、かなりある。」、どうも動機が不純ですね。でもレコードを買ってもステレオがなくては聞くことかできません。「音楽だけはどうにもならなかった。レコードを買っても、それを聴くための”機械”無くてはハナシにならない。で、ステレオを買おうー と決心した。」 、このあと漫画をたくさん描いて、原稿料で秋葉原でステレオを買うことができます。

右の写真正面が目白屋さんです。トキワ荘からは喫茶店「エデン」を過ぎて、山手通りを超えて、目白通りを目白駅方面にもう少し歩いた右側にあります。JR山手線目白駅とトキワ荘の中間辺りです。

「手塚治虫の東京」をアトムの誕生までに掲載したいとおもいます。

「トキワ荘」地図−1−



【参考文献】
・まんが道(愛蔵版 第一巻〜四):藤子不二雄、中央公論社
・愛…しりそめし頃に…(1〜4):藤子不二雄A、小学館
・トキワ荘の青春:石ノ森章太郎、講談社文庫
・トキワ荘実録:丸山昭、小学館文庫
・トキワ荘青春日記:藤子不二雄A、光文社
・手塚治虫物語:伴俊男+手塚プロダクション、朝日文庫
・ぼくのマンガ人生:手塚治虫、岩波新書

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