●立原道造の世界  【長崎ノート 京都編】
    初版2011年10月1日  <V01L01> 暫定版

 「立原道造の世界」を引き続き掲載します。今回も「長崎ノート」を掲載します。前回は東京を出発して亀山から奈良までを掲載しました。今回は昭和13年11月25日から27日に立原道造が歩いた京都を巡ってみました。11月末ですから紅葉の真っ盛りで京都もめっきり寒くなっていたとおもいます。




「南禅寺 奥丹」
<南禅寺で湯豆腐>
 立原道造は長崎に向かう途中、昭和13年11月25日、奈良から京都に立寄ります。立原道造の京都訪問は今回で三度目になります。
 立原道造全集第六巻の年譜からです。
「二十六日、
朝、京大・ドイツ文化研究所のあたりを散策。そのあと京都在住の丸田浩三(一高での同期生で、京大経済学部卒。田中一三の親友)を訪ね、いっしょに西芳寺(苔寺)の湘南亭をみたり、南禅寺で湯豆腐を食べたりする。…」

 立原道造の京都滞在は25日から27日の二泊三日です。実際には25日の夜に奈良から到着し、27日の午後には、舞鶴に向かっていますので、26日一日と27日午前中だけの京都滞在でした。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和13年からです。(最初の番号は書簡の通し番号です)。
「585 十二月三日〔土〕 深澤紅子宛 〔博多發〕 (山)
 もうぺキンにお出でかどうかわかりませんが、おたよりをします。ここは博多です。繪はがきのおたよりをいただいて、京都でお會ひする計畫がだめになったことがわかると、すぐ旅に出ました。奈良、京都、天橋立、山陰を経めぐり、いま博多にゐるのです。長崎には今日明日のうちに落ち着くとおもひます。當分の住所は長崎市磨屋町四一武気付でいいとおもひます。行く家はべつの方ですが、毎日そこへ行くでせうから……北京での展覧會のころ、僕は京都で苔寺の湘南亭を見たり、南禅寺で湯どうふを食べたりしてゐました。…」

 26日一日の行動を追ってみると、午前中は芳賀檀宅を出た後、京都帝大付近でミルクホール(進々堂)、ウスヰ書房、ドイツ文化研究所(「立原道造の世界【田中一三と京都編】」を参照してください)を回り、午後には三高のグランド、南禅寺の湯豆腐と回ったではないでしょうか(湯豆腐は翌日かも?)。27日は13時50分には京都駅発の列車に乗らなければならないので、午前中に西芳寺(苔寺)の湘南亭を回ったのではないかとおもいます(あくまでも推定です)。少し回りすぎですね、過去の京都訪問と少し混同しているのかもしれません。

上記の写真は立原道造と芳賀檀らが食事をした南禅寺の湯豆腐屋 奥丹です(湯豆腐屋を奥丹と推定)。南禅寺の北側にあります(本店は清水でメニューが少し違うようです)。ここではセットしかなく、”ゆどうふ一通り”が3,150円で、ピールが630円でしたので、計3,780円支払いました。ビールなしでは湯豆腐は食することはできませんね!!、セットですから、順次運ばれてきます。1.最初のセット2.木の芽田楽3.湯豆腐、等です。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)


関西方面地図



「進々堂」
<ミルクホール>
 26日の朝、立原道造は百万遍のミルクホールに入っています。宿泊が芳賀檀宅(京都市左京区中大路、京大正門から南東に420m)ですから、百万遍の交差点もすぐ傍です。
 立原道造の「長崎ノート」です(昭和13年)。
「 十一月二十六日
 大学の塀に沿うて百萬遍の電車通りを、朝の光のなかに歩いた。本郷よりここの大学の方がこのましい雰囲気を持ってゐる。
 落ついたミルクホールのなかで噴水や藤棚のある中庭に光が班にこぼれてゐるのを眺めながら、牛乳をのんでゐる。表のレースカーテンにはプラターヌのかげがうつつてゐて、今は学校の授業中だから、学生が四五人ゐるきりでひっそりしてゐる。
 三年まへは田中とここによく來た。あの秋のころがやはりおもひ出されて來る。けふはこれからどこか郊外に出てゆかうか……あのころもここでパンを買ってどこかへ出て行った − 今は落着いていい気持だ。すこし疲れてゐるやうな気もする。
 どこへ行つても僕は旅にゐるやうな気がしない。そしてどこへ行つても自分の家はどこかとはくにしかないやうにおもはれる。…」

 百万遍の交差点を走っていた京都市電は残念ながら廃止されています。このミルクホールを特定するのは、上記に書かれている”ミルクホールのなかで噴水や藤棚”です。百万遍の「進々堂」には中庭があります(撮影しようとしたら店内は撮影禁止だそうで怒られました、残念!!)。
 林哲夫さんの「喫茶店の時代 あのとき、こんな店があった」から、”進々堂”の項です。
「… 京都市左京区、東大路通りと今出川通りの交差点(百万遍)から東へ少し歩くと喫茶店進々堂がある。道路を挟んで南側は京都大学工学部。薄茶のタイルを張ったその建物は今も独特な風格を漂わせている。
 立原道造は昭和十三年 (一九三八)、長崎へ向かう途次、京都に立ち寄った。十一月二十五日夕刻、奈良から京都駅に着き、河原町のアサヒ・ビルの向いのレストランで夕食を摂った。水戸部アサイに宛て《たうとうひとりで京都に来てしまった》で始まる葉書を投じた後、吉田へ芳賀檀を訪ねてそこに泊まった。翌二十六日のノートに立原は次のように書いている。
 《大学の塀に沿うて百萬遍の電車通りを、朝の光のなかに歩いた。本郷よりここの大学の方がこのましい雰囲気を持ってゐる。…」

 林哲夫さんはミルクホールを「進々堂」と特定しています。

写真は現在の百万遍 「進々堂」です。有名なので行かれた方も多いとおもいます。建物は当時のままかなとおもいます。中のテーブルなどは大きくて、一テーブルで8人ほど座れそうです。中庭は今も健在ですが、ごみごみしていましたので、少し綺麗にされたらいいとおもいます。

「ウスヰ書房跡」
<ウスヰ書房>
 立原道造は「ウスヰ書房」も訪ねています。「ウスヰ書房」は後の「白川書院」ですので、こちらも有名です。「ウスヰ書房」は臼井喜之介氏が設立した出版会社で、立原道造と何らかの関係があったのかなとおもっています。
 「四季 立原道造追悼号」からです。
「 立原道追考と私
                 伊東静雄
 この一月だつたか、二月だつたか、京都で詩の雑誌を出してゐるU君の家に、用事があって行ったら、立原君も数日前そこに立寄ったとかで、記念に書き残した繪と短い文句を見せて貰った。繪はランプと椅子で、文句はU君が書籍商を営んでゐるからの思付きらしい気安い、讀書のすすめと云ったやうなものであった。U君の話によると、立原君は長崎旅行の途中に京都に寄ったらしく、これから芳賀檀さんと一緒に食事するのだと言って、すぐ出て行ったのださうだ。さうですか、立原君は長崎に旅行したのですかとわたしは大へんなつかしかった。長崎はわたしの故郷である。立原君は、そのことを知ってゐただらうか。知ってゐたとしたら、大阪にも下車して私にも逢ってくれたのかもしれない、と獨りで思ってゐると、U君が言ふのに、大阪に下車するのだったら、伊東にも會ってみてもよい、といふ意味のことを立原君は言ってくれたさうだ。結局會へはしなかったが、立原君が矢張り私のことを考へてゐてくれたことがわかってうれしかった。…」

 上記の”一月だつたか、二月”は間違いですね、前年の11月の事です。又、”U君”とは臼井喜之介氏のことです。立原道造が「ウスヰ書房」で書き残した繪を掲載しておきます。
 林哲夫の「喫茶店の時代 あのとき、こんな店があった」から、”新々堂”の項です
「… さらに立原は、おそらく進々堂を出た直後、臼井喜之介の元へ立ち寄った。そして芳名帖に次のような画賛を残した。
《願いは……/あたたかい/洋燈の下に/しづかな本が/よめるやうに!/十一月二十六日午前/道造》【図1】。大正二年 (一九一三)、
京都に生まれた臼井喜之介は書店を経営するかたわら出版に手を染めていた若者で、昭和十年に詩誌『新生』を創刊し、十二年には詩華集『新生第一詩集』を刊行していた。そこには天野隆二依田義賢、杉山平一らが作品を寄せている。詩人としての臼井は復刊『四季』に投稿していたことから立原との接触があったのであろう。昭和十一年末に臼井に宛てた手紙が『新生』昭和十二年一月号に掲載されているし、同じく十三年一月号には《京都へはまた行きたいけれども行かれさうもありません》という便りが採録されている。
 しかし立原はやって来た。臼井は昭和十三年十一月十五日すなわち立原が訪問する十日ほど前にウスヰ書房(十七年より臼井書房)の看板を掲げたので、何らかの案内が立原の元へ届いていたということも考えられる。…」
ます。

 立原道造が訪ねた当時の「ウスヰ書房」はミルクホール「進々堂」の右隣にありました。立原道造が訪ねた理由もわかります。

写真の正面、やや左が「進々堂」で、右隣に「ウスヰ書房」がありました。現在はマンションになっています。後の白川書院は左京区田中西樋ノ口町に移っています。写真の地点から北に500m程で、御蔭通りにあります。

「芳賀檀の家跡」
<芳賀檀(当時三高教授)の家>
 立原道造は今回の京都訪問で、芳賀檀宅に宿泊しています。前回は田中一三の”墓どなり下宿”だったのですが、今回は町の中です。
 立原道造の「長崎ノート」からです。、
「… たうとう京都に着いた、にぎやかな町まで電車にのつてやつて來た。町の屋根に細い三日月がかかってゐた ── それがやうやく僕の旅を祝福した。
 いま、アサヒ・ビルの向ひ側のレストラントですこしおそい夕方の御飯を食べるところだ。すぐ眼の下に新京極から來る人たちが歩いてゐる。この角をまがると、あのにぎやかな町がある。僕にトランクさへなかったなら知らん顔して旅人みたいではないのだが、トランクがすこし邪魔をする。銀座通りをトランクを持って歩く人に僕らの投げる眼ざしをいま僕はうけとつてゐる。
 この町の郵便局でおまへにはじめてのハガキを書いた。…」

 京都に着いたのは25日の夜でした。18時前後に京都駅に着いたとおもわれます。その後、河原町通り三条上ル、右側にある朝日ビルの向側で食事をしています(アサヒ・ビルについては「立原道造の世界【田中一三と京都編】」を参照してください)。推定ですが、一人では無く、芳賀檀等と一緒だったのではないでしょうか。
 立原道造全集第六巻の年譜からです。
「二十四日、夜行で東京を立つ。二十五日、関西本線経由、亀山駅で朝を迎え、昼、奈良に着く。この日から水戸部アサイのために、ノート(長崎ノート)を書き始める。唐招提寺、薬師寺、秋篠寺、そして東大寺の二月堂・三月堂をみて、その夜は京都の芳賀檀(当時三高教授)の家(京都市左京区中大路一七)に泊る。大山定一(当時京大講師)も来て、互いに酒を酌み交わしたが、彼は居眠りばかりしていたというほどに、疲れていた。咳もひどくなりはじめていたと思われる。この時、彼は「何処へ?」の詩を銀色の紙に包んで芳賀に贈った。…」
 芳賀檀は東京帝国大学の先輩で、立原道造より11歳年上です。当時、芳賀檀は第三高等學校の教授をしており、そのため京都に滞在していました。父親が国文学者・芳賀矢一で、本人よりも父親の方が有名です。東京の芳賀檀宅については「檀一雄の東京を歩く(昭和12年頃)」を参照して下さい。

写真は現在の京都市左京区中大路、吉田東通りです。写真正面右側辺りに芳賀檀宅がありました。

  続きます!!

京都地図(堀辰雄と共用)


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
大正12年 1923 関東大震災 10 9月 関東大震災、流山に避難する
12月 東京に戻る
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
昭和4年 1929 世界大恐慌 16 3月 神経衰弱療養の為、豊島家に宿泊
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
9月15、16日 山形 竹村邸泊
9月17日 上ノ山温泉泊
9月19日 盛岡着
10月20日 帰京
11月24日 夜行で長崎に向かう
11月25日 奈良を回り京都着