<南禅寺で湯豆腐>
立原道造は長崎に向かう途中、昭和13年11月25日、奈良から京都に立寄ります。立原道造の京都訪問は今回で三度目になります。
立原道造全集第六巻の年譜からです。
「二十六日、
朝、京大・ドイツ文化研究所のあたりを散策。そのあと京都在住の丸田浩三(一高での同期生で、京大経済学部卒。田中一三の親友)を訪ね、いっしょに西芳寺(苔寺)の湘南亭をみたり、南禅寺で湯豆腐を食べたりする。…」
立原道造の京都滞在は25日から27日の二泊三日です。実際には25日の夜に奈良から到着し、27日の午後には、舞鶴に向かっていますので、26日一日と27日午前中だけの京都滞在でした。
角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和13年からです。(最初の番号は書簡の通し番号です)。
「585 十二月三日〔土〕 深澤紅子宛 〔博多發〕 (山)
もうぺキンにお出でかどうかわかりませんが、おたよりをします。ここは博多です。繪はがきのおたよりをいただいて、京都でお會ひする計畫がだめになったことがわかると、すぐ旅に出ました。奈良、京都、天橋立、山陰を経めぐり、いま博多にゐるのです。長崎には今日明日のうちに落ち着くとおもひます。當分の住所は長崎市磨屋町四一武気付でいいとおもひます。行く家はべつの方ですが、毎日そこへ行くでせうから……北京での展覧會のころ、僕は京都で苔寺の湘南亭を見たり、南禅寺で湯どうふを食べたりしてゐました。…」
26日一日の行動を追ってみると、午前中は芳賀檀宅を出た後、京都帝大付近でミルクホール(進々堂)、ウスヰ書房、ドイツ文化研究所(「立原道造の世界【田中一三と京都編】」を参照してください)を回り、午後には三高のグランド、南禅寺の湯豆腐と回ったではないでしょうか(湯豆腐は翌日かも?)。27日は13時50分には京都駅発の列車に乗らなければならないので、午前中に西芳寺(苔寺)の湘南亭を回ったのではないかとおもいます(あくまでも推定です)。少し回りすぎですね、過去の京都訪問と少し混同しているのかもしれません。
★上記の写真は立原道造と芳賀檀らが食事をした南禅寺の湯豆腐屋
奥丹です(湯豆腐屋を奥丹と推定)。南禅寺の北側にあります(本店は清水でメニューが少し違うようです)。ここではセットしかなく、”ゆどうふ一通り”が3,150円で、ピールが630円でしたので、計3,780円支払いました。ビールなしでは湯豆腐は食することはできませんね!!、セットですから、順次運ばれてきます。1.最初のセット、2.木の芽田楽、3.湯豆腐、等です。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)