<田中一三下宿>
立原道造は京都を三度訪ねています。一度目は昭和11年8月の紀州道を回った帰り道に、当時京都帝国大学仏文科に在籍していた田中一三を訪ねています。この時は会えず、その年の10月に二度目の訪問をしています。三度目は昭和13年に長崎に向かう途中に訪ねています。田中一三は立原道造とは第一高学校の同級生で、東京帝国大学には進まず、京都帝国大学に進んでいます。彼を頼っての京都訪問でした。
角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。(最初の番号は書簡の通し番号です)
「三〇六 十月十六日〔金〕 田中一三宛
お手紙ありがたう。
朝夕は寒いほど、僕も身性の具合あまりよくないままに秋がふかくなってしまひました。時のたつのはほんたうに早いものです。……
…はっきり今はきまってゐませんけれど、二十四日の夜行で京都に行くかもしれません。二十四日の夜一〇時三〇分の鳥羽行で亀山まで行き、亀山から関西線で奈良で下りして田中君が京都から奈良に来てゐて、奈良で落ち合って夕ぐれまであのあたりを歩きまはつて、灯のはいる頃京都へ行く、田中君のところへ行く。お寺に泊めてもらふ。…」
立原道造は上記に書いてあるとおり、10月24日の夜10時30分東京発、鳥羽行きに乗っています。名古屋着は早朝の6時4分、関西本線乗換の亀山着7時46分、ここで約一時間程待って関西本線の湊町行き8時38分発に乗り換え、奈良には正午前の10時52分着となります。
★上記写真は田中一三が下宿していた浄土寺真如町迎稱寺(迎称寺、読み方は”こうしょうじ”)です。黒谷さん(金戒光明寺)の北側、極楽寺(真如堂)の前を通り過ぎた、T字路の正面です。現在も裏の方に下宿のようなアパートがありましたので、引き続いて下宿をやられているのかなとおもいました。