●立原道造の世界  【田中一三と京都 京都市内編】
    初版2011年6月25日
    二版2011年7月17日 
    三版2011年9月25日  <V01L04>  ”墓どなり”を追加

 昭和11年夏に立原道造は土井治氏に誘われて紀州道を旅しています。その帰りに京都の田中一三を訪ねますが会わずに引き返しています。その事もあってか、同じ年の10月末に再び京都の田中一三を訪ねます。今回は用心して事前に田中一三に手紙を出しています。




「浄土寺真如町迎稱寺」
<田中一三下宿>
 立原道造は京都を三度訪ねています。一度目は昭和11年8月の紀州道を回った帰り道に、当時京都帝国大学仏文科に在籍していた田中一三を訪ねています。この時は会えず、その年の10月に二度目の訪問をしています。三度目は昭和13年に長崎に向かう途中に訪ねています。田中一三は立原道造とは第一高学校の同級生で、東京帝国大学には進まず、京都帝国大学に進んでいます。彼を頼っての京都訪問でした。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。(最初の番号は書簡の通し番号です)
「三〇六 十月十六日〔金〕 田中一三宛
 お手紙ありがたう。
 朝夕は寒いほど、僕も身性の具合あまりよくないままに秋がふかくなってしまひました。時のたつのはほんたうに早いものです。……
…はっきり今はきまってゐませんけれど、二十四日の夜行で京都に行くかもしれません。二十四日の夜一〇時三〇分の鳥羽行で亀山まで行き、亀山から関西線で奈良で下りして田中君が京都から奈良に来てゐて、奈良で落ち合って夕ぐれまであのあたりを歩きまはつて、灯のはいる頃京都へ行く、田中君のところへ行く。お寺に泊めてもらふ。…」

 立原道造は上記に書いてあるとおり、10月24日の夜10時30分東京発、鳥羽行きに乗っています。名古屋着は早朝の6時4分、関西本線乗換の亀山着7時46分、ここで約一時間程待って関西本線の湊町行き8時38分発に乗り換え、奈良には正午前の10時52分着となります。

上記写真は田中一三が下宿していた浄土寺真如町迎稱寺(迎称寺、読み方は”こうしょうじ”)です。黒谷さん(金戒光明寺)の北側、極楽寺(真如堂)の前を通り過ぎた、T字路の正面です。現在も裏の方に下宿のようなアパートがありましたので、引き続いて下宿をやられているのかなとおもいました。

「迎稱寺裏の墓」
<”墓どなり”>
 2011年9月25日 追加
 立原道造の有名な”墓どなり”です。初版で写真を取り損ねていましたので、今回撮影をしてきました。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。(最初の番号は書簡の通し番号です)
「三一二 十月二十六日〔月〕 猪野謙二宛
 京都に来て田中君のところにゐます。ふだんとかはらない僕のくせの冗舌で田中君を苦めてゐます。朝早くから夜おそくまで僕の思考と言葉の絶えることなしに。明平君は上京しましたか。末成年の方はどうなってゐますか。先日相談したかったりして、君を訪ねましたが、生憎留守でそのままこちらに来てしまひました。

 秋雨や京の東の墓どなり。
                          道造 」

 猪野謙二宛の書簡です。”秋雨や京の東の墓どなり”で、撮影も雨の後に撮影しましたので立原道造のイメージと同じとおもいます。写真の左側は迎称寺の裏にあるアパート(紫雲荘)です。田中一三の下宿もこの辺りにあったとおもわれます。
「三一三 十月二十八日〔水〕 小場晴夫宛(東京市中野區江古田二の七四一) 京都市左京區浄土寺真如町迎稱寺田中香積気付より 〈航空便・封書・巻紙〉

   秋雨や
    京のやどりは
       墓どなり

 着いたよるは夜半から雨がしづかに降りそめ 次の日一日夕ぐれまで降りつづいた 夕映が空を染めたころ京都大学の構内をさまよひ そこですつかりうすやみは夜になった…… 」

 小場晴夫宛の書簡です。”秋雨や 京のやどりは 墓どなり”、此方の方がいいですね。

上記写真は迎称寺の裏にあるアパート(紫雲荘)とその裏のお墓です。アパートの直ぐ裏がお墓になっています。この付近の地図が近くに掲載されていましたので、写真を撮ってきました。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)

「獨乙文化研究所跡」
<獨乙文化研究所>
 立原道造は建築学科ですから、新しい設計の建物にはたいへん興味をもっていたようです。京都でも昭和以降に建てられた建物をいくつか見ています。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。
「三一四 十月二十七日〔火〕 柴岡亥佐雄宛 〔京都五條発〕 〈後3〉
 獨逸文化研究所に大へんに心打たれた。朝日ビルもやっぱりすきだ。夜に近くうすやみのなかで京都帝大の建物を見物して京都の方がいいなとおもった。今夜は梶井基次郎の遺蹟めぐりをする。──「檸檬」に出て来るいろいろな町や店を歩く。今、そのひとつ鍵屋といふ店でお菓子を食べつつ、あのレモンを並べた八百屋の店を眼の下に見てゐるのだ。東京と京都のあひだは一體何里ぐらゐあるのかしら。…」

 私は建築はよく分かりませんので、ネットで検索したところかなりヒットしました。
・獨乙文化研究所【設計:村野藤吾、施工:津田甚組、竣工:昭和9年(1935)11月】
・大阪毎日新聞 昭和9年(1934)10月28日
 「日独文化の交換と両国の親善を目標に本年二月以来京都東一条(京都高工跡)に建築中であったドイツ文化研究所は風害などにより竣工がおくれていたが、漸くこのほど落成してドイツ近代式の楚々たる姿を現すに至り、十一月三日明治節に花々しく開所式をあげ、また同夜十時から同三十分までO・Kから京都ではじめての日独交換放送(全国中継)を行って遠く欧洲の天地までうぶ声を挙げることになった
 同夜の日独交換放送はドイツ大使館書記官コルプ氏の司会で松田文相、ディルクセン独大使、同研究所総裁清浦伯、松井京大総長、弘世理事長が日本側から開所の喜びを放送、つづいてドイツ側からルスト文相、フォレッチ、ゾルフ両前駐日独大使、永井駐独大使が祝辞を述べ、電波を通じてベルリンと京都の固い握手を行うわけである
なおこの建物は総建坪二百七十八坪、工費六万円の鉄筋コンクリート二階建て階下には五百名を優に容れるサロンのほか定員二十名の教室が三つあり、階上は図書室、貴賓室、日本ゲーテ協会事務室などにわかれ、ドイツ式に極めて能率本位にでき上っている。」

 日独伊三国同盟は昭和15年ですから、その前になります。ドイツとの関係強化の一環で建てられたようにおもえます。

左の写真は東山東一条交差点から北西を撮影したものです。写真正面のところに獨乙文化研究所(ドイツ文化研究所)がありました。当時の写真がありましたので掲載しておきます。戦後は西洋文化研究所と改称しましたが、米軍に接収され、解除後の昭和50年(1975)に建て直されています。


堀辰雄・立原道造の京都地図



「京都朝日会館」
<朝日ビル>
 もう一つ、立原道造が建築関連で見たビルがあります。
 河原町通三条上ルの京都朝日会館です。朝日会館は神戸を初めとして全国に有名なビルを建てています。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。
「三一四 十月二十七日〔火〕 柴岡亥佐雄宛 〔京都五條発〕 〈後3〉
 獨逸文化研究所に大へんに心打たれた。朝日ビルもやっぱりすきだ。夜に近くうすやみのなかで京都帝大の建物を見物して京都の方がいいなとおもった。今夜は梶井基次郎の遺蹟めぐりをする。──「檸檬」に出て来るいろいろな町や店を歩く。今、そのひとつ鍵屋といふ店でお菓子を食べつつ、あのレモンを並べた八百屋の店を眼の下に見てゐるのだ。東京と京都のあひだは一體何里ぐらゐあるのかしら。…」

 京都朝日会館の竣工は昭和10年ですから立原道造が訪ねる一年前になります。なかなかユニークな建物だったようです。当時の写真がありましたので掲載しておきます(建築学会 建築雑誌 第49輯第604号、昭和10年10月)。

上記写真は現在の京都朝日会館です。昭和47年に建て直されて現在のビルになっています。

「八百卯の二階から鎰屋を見る」
<八百屋と鎰屋>
 立原道造の書簡の中に梶井基次郎の「檸檬」が出てくるとはおもいもしませんでした。梶井基次郎の初の作品集「檸檬」が発刊されたのは、亡くなる一年前の昭和6年5月15日です。同人誌『青空』に掲載されたのが大正14年(1925)ですから、立原道造はやはり作品集を読んだのではないかとおもいます。梶井基次郎の東大入学は大正13年(1924)ですから、立原道造より10年先輩になります。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。
「三一四 十月二十七日〔火〕 柴岡亥佐雄宛 〔京都五條発〕 〈後3〉
 獨逸文化研究所に大へんに心打たれた。朝日ビルもやっぱりすきだ。夜に近くうすやみのなかで京都帝大の建物を見物して京都の方がいいなとおもった。今夜は梶井基次郎の遺蹟めぐりをする。──「檸檬」に出て来るいろいろな町や店を歩く。今、そのひとつ鎰屋といふ店でお菓子を食べつつ、あのレモンを並べた八百屋の店を眼の下に見てゐるのだ。東京と京都のあひだは一體何里ぐらゐあるのかしら。…」

 友人に梶井基次郎の「檸檬」について書いていますが、貰う方も理解できるわけで、当時、梶井基次郎はかなり有名だったのかなとおもいます。4年前に亡くなっていますが、まだまだ話題の中には入っていたのでしょう。
 梶井基次郎の「檸檬」からです。
「…とうとう私は二条の方へ寺町を下り、そこの果物屋で足を留めた。ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面 ―― 的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆高く積まれている。―― 実際あそこの人参葉の美しさなどは素晴しかった。それから水に漬けてある豆だとか慈姑だとか…
…また近所にある鎰屋の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だった。…」

 私が東京紅団で「梶井基次郎の京都を歩く」を掲載したように、立原道造も同じように書簡に書いています。何年経っても同じ事をしています。

写真は「八百卯(上記には八百屋と書かれている)」の二階から鎰屋跡(現在はampm)を見たものです。当時の鎰屋を写真を掲載しておきます。残念ながら「八百卯」さんは現在営業されていません。昨年ご主人が死去されたためです。残念です!!

「リプトン」
<リプトン紅茶>
 「リプトン」は織田作之助が第三高等学校時代に良く通った喫茶店で有名です。織田作之助は大正2年生まれですから立原道造より一年先輩になりますが、第三高等学校に入学したのは昭和6年ですから、立原道造と同期となっています。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。
「三一六 十月二十八日〔水〕 杉浦明平宛(愛知県渥美部福江町折立) 京都局発 〈檜端書・田中一三と連記〉
 僕はこの町に 「リブトン紅茶」といふ名の喫茶店があるので感嘆し、なかにはいると、青鑵と黄鑵とメニューに二種類書いてあり、また感嘆した。建物の内部は白く作られてある。
 表の寫眞に二人映ってゐるのは僕らです。…」

 織田作之助は昭和11年3月に卒業を諦め上京していますので、立原道造とはすれ違いです。その後、東京本郷のペリカンハウス辺りですれ違っていたかもしれません。織田作之助をもう少し読んでみる必要があるかもしれません。

写真は河原町通三条西入ルの「リプトン」です。昔からこの場所にあったようです。寺町通り、新京極の北の端ですから人通りも多くかなり繁盛しているようです。

「大津赤十字病院」
<大津の赤十字の病院>
 立原道造は銀閣寺から哲学の小路を歩いて南禅寺に向かいます。その後、出町柳まで戻って比叡山に向かい、僧坊に一泊しています。翌日は坂本から大津に向い、大津赤十字病院を見ています。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。
「三一三  十月二十八日〔水〕 小場晴夫宛(東京市中野區江古田二の七四一) 京都市左京區浄土寺真如町迎稱寺田中香積気付より 〈航空便・封書・巻紙〉
   秋雨や 京のやどりは 墓どなり
 着いたよるは夜半から雨がしつかに降りそめ 次の日一日夕ぐれまで降りつづいた 夕映が空を染めたころ京都大学の構内をさまよひ そこですつかりうすやみほ夜になった 近くの獨逸文化研究所も見た 次の日 銀閣から疏水に沿うて若王子をとはり 南禅寺に行った。雨は降りみ降らずみ 雲の多い室と青空とは交代した 南禅寺の山門のところで遊んでゐる幼稚園の子供たちに見恍れ その言葉が京言葉なのに聞き恍れた
 出町柳から八瀬をすぎ叡山に行った 四明ヶ岳のいただきで 京と琵琶湖を見はらして それから弁慶の力餅をたべ その店の娘さんの淋しい顔立が忘れかね その夜叡山の僧房にやどり 次の朝早く行くと早すぎ まだ来てゐないで盡きない恨みをのこしたまま 滋賀のみやこの方に降った 坂本から大津までの船で小学生の一行といっしょになったが その中にひとりチョコレートばかり 食べつづけた ひよわさうないい子がゐた 大津で岸田さんの赤十字の病院を見た……」

 まず、大津赤十字病院ですが、岸田日出刀氏(東大安田講堂を設計)が設計した本館(鉄筋コンクリート地上3階、地下1階)が昭和11年4月に竣工しています。立原道造はこの建物を見に行ったのだとおもいます(残念ながら写真を入手できませんでした)。
 この日に歩いた銀閣寺から哲学の小路南禅寺の写真を掲載しておきます(地図も参照して下さい)。
 比叡山については別途まとめて掲載する予定です。

写真は現在の大津赤十字病院です。建物は順次建て直されて昔の建物は残っていないようです。残念ながら当時の建物の写真を入手することがてきませんでした。

 続きます。改版も随時行っていきます。

「文之助茶屋跡」
<そのまへにある君のいふお團子や>
 2011年7月17日 文之助茶屋を追加
 立原道造は高台寺の前にあるお団子屋で、甘酒とくづもちを食べています。”君のいふ”と書いていますので、小場晴夫から事前に聞いていたのだとおもいます。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和11年からです。
「三一三  十月二十八日〔水〕 小場晴夫宛(東京市中野區江古田二の七四一) 京都市左京區浄土寺真如町迎稱寺田中香積気付より 〈航空便・封書・巻紙〉
 ……
 京都にかへり高台寺に行くと 日が西の山の端に、月が東の山の上にあり 庭もとざされてゐた甘ざけとくづもちを そのまへにある君のいふお團子やで食べ且又飲んだ 新京極の本やに きれいな娘さんがゐるのではひつて本を買ふと そのひとの聲は低くにごり 僕は外人部隊といふ活動寫眞をおもひだした 夜にいりてふたたび宿にかへり この手紙を書く 筆も墨も紙もこの室の主人田中香積氏のものであり それは僕の筆よりもよく墨よりもよく ために文もすらすらと暢び 夜半の灯の下に たのしかった三日の追想をしたためるにまことにふさはしかった
 あれこれとおもひほっきぬ しかしかへってからまたはなすことなくなるといけないから のこりおしいままここで筆をおく。
    二十八日
                      道造…」

 上記の”甘ざけとくづもちを そのまへにある君のいふお團子やで食べ且又飲んだ”と書かれているお店を探してみました。有名なので探したと言うほどのことでもないのですが、”文の助茶屋(文之助茶屋)”の事ではないかとおもいます。
 又、田中香積は田中一三の雅号です。

写真は圓徳院の三面大黒天へ入る表門です。この門を入ってすぐ左側に文之助茶屋がありました(現在は違うお店になっていました)。この文之助茶屋は落語家桂文之助が明治末期に三面大黒天の中で甘酒茶屋を始めたのが起こりです。平成に入って三面大黒天境内から八坂の塔の近くに移っています(寺側といろいろあったのだとおもいます)。甘酒を飲みたかったのですが、あまりに暑かったので”甘酒のもと”を買ってきました。八坂の塔の近くのお店で食べたのはわらび餅でした(くづもちは無かったようです)。

 続きます。改版も随時行っていきます。


立原道造の大津地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
昭和10年 1935   22
昭和11年 1936 2.26事件 23 8月25日 追分を発って東京に戻る
8月27日 尾鷲着、土居邸に宿泊
8月28日 瀞八丁に遊ぶ
8月29日 新宮駅で土井と別れ、那智の滝を見物
夜、勝浦港から大阪に向かう
8月30日 早朝大阪着、京都の船岡山公園に向かう
大阪の伊達嶺雄宅で宿泊(2〜3日宿泊)
9月2日〜3日 奈良を訪ねる
9月3日 名古屋の生田勉宅に宿泊
9月4日 伊良湖岬の杉浦明平宅に数日逗留
9月7日 帰京
10月24日 奈良経由で京都に向かう
10月27日 比叡山の登る
10月30日 帰京
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊