<「人間 檀一雄 」 昭和61年1月>
今週は野原一夫の「人間
檀一雄」を参考にして、檀一雄が東京帝国大学を卒業後の昭和11年末から12年の7月までを歩きます。壇は東京帝国大学を半年遅れの昭和10年9月に卒業します。昭和11年には8月から約3ヶ月間中国に渡航しております。年末には帰国していますので、正確には帰国後から、昭和12年の7月までになります。
野原一夫の「人間 檀一雄」の書き出しです。
「 私がはじめて檀一雄と会ったのは、昭和二十三年の晩秋である。その頃、私は、角川書店で『表現』という思想文芸誌の編集を担当していた。その雑誌に小説を書いてもらいたいと思って、檀さんを訪ねたのである。……
… 小説執筆の依頼に私が訪ねたのは、檀さんが、西武線石神井公園駅から歩いて十三、四分の、練馬区南田中の建売住宅に移った直後である。…」
さすがに戦後の檀一雄については、野原一夫はよく知っています。担当だったのですから当然かもしれません。戦後の檀一雄については、別途掲載します。
★写真は野原一夫の新潮社版「人間 檀一雄」です。昭和61年1月発行です。
<本郷 栄楽館>
檀一雄は満州から帰国後、本郷の永楽館に下宿したようです。野原一夫の「人間
檀一雄」では、”下関に着いたのは十月の末である”と書いてあるので、秋の終わりが正しいとおもわれます。
「…『文藝春秋』の名編集長だった池島信平が、当時文藝春秋社から出されていた『話』の記者として、移り住んでいた本郷の下宿栄楽館に満洲から帰ってまもなくの檀一雄を訪ねたのは昭和十一年の暮である。井伏鱒二からその話を聞き込んできた編集長が乗り気になり、入社三年目の若手記者池島に檀からの談話筆記をとるように命じたのである。…」。
檀一雄は昭和11年初に第二回芥川賞の候補になっていますから、文藝春秋社でも名前を知っていたのだとおもいます。
★写真の左側ビルから2軒目辺りが旧地番で本郷区台町52、53番地、永楽館跡です。東大前の落第横町を突き当たって左に曲り、直ぐに右に曲がった先、左側です。空襲で焼けたのは、写真の道の左側までで、右側は焼け残っています。永楽館は焼けてしまっています。
<芳賀檀宅>
永楽館の下宿代が払えなくなった檀一雄は、友人の芳賀檀の家に転がり込みます。野原一夫の「人間
檀一雄」からです。
「…やがて檀一雄は、下宿代を滞らせていた栄楽館を出て、日本浪蔓派の同人の芳賀檀の家にころがりこんだ。芳賀檀は高名な国文学者芳賀矢一の子息であり、矢一博士から譲られた小石川の宏壮な邸宅に住んでいた。その二階の二十畳か三十畳かの馬鹿々々しく広い部屋を檀はあてがってもらった。朝の八時頃に寝て午後の三時頃に眼を醒ます。階下の食堂に降りてゆき、大きな冷蔵庫からバターやチーズを勝手に抜き出し、フランスパンをちぎりちぎり食べる。ハムやソーセージをつかみ出し、ウィスキーや酒を探し出して一人で叩る。…」
芳賀檀の父親の芳賀矢一は、名の知れた東京帝国大学教授でした。夏目漱石と同年で、芳賀矢一が教授になっても夏目漱石はまだ講師でした。
★写真は旧地番で小石川坂下町114番地付近です。写真に写っている超高層ビルは池袋サンシャインビルです。この先に芳賀邸があります。現在もご家族の方がお住まいのようなので、直接の写真は控えさせていただきました。
<太宰治の碧雲荘>
檀一雄が芳賀邸の次に住んだのが太宰治が下宿していた碧雲荘でした。野原一夫の「人間
檀一雄」からです。
「… 芳賀檀の家から太宰治の碧雲荘に移った。親戚筋の画学生と間違いを犯した妻の初代と共に太宰は、三月下旬水上温泉に行って心中を図った。死にきれずに帰京した二人は別居し、太宰は荻窪の碧雲荘で一人暮しをはじめた。檀がそこに移ったのは四月の上旬か中旬のことと思われる。
壇があやうく太宰の自殺のまきぞえを食いそうになったのはその時期のことだろう。…」。
荻窪付近で、太宰関連の建物が残っているのは、この碧雲荘と井伏鱒二宅ではないかとおもいます。
★写真は現在の碧雲荘です。昭和初期の建物がそのまま残っているのは珍しいと思います。
<高橋幸雄の同和荘>
檀一雄が昭和12年に住んだ4番目の下宿です。本郷から大塚、荻窪ときて、最後が高円寺でした。高円寺といっても中野区との区界で、青梅街道から少し南に下ったところです。野原一夫の「人間
檀一雄」からです。
「…日本浪漫派の同人の高橋幸雄はそのころ高円寺天神前の同和荘というアパートに住んでいた。碧雲荘からそこに移ってきたとき、檀は麻の甚平姿だった。たぶん初夏の候だったのだろう。高橋が勤めに出る頃には檀はまだ寝ているのだが、その枕元に高橋は、「あやめ」という刻み煙草の袋を毎朝そっと置いておいたという。…」。
高橋幸雄は本当に優しい人です。同和荘が4番目の下宿と書いたのですが、最後の下宿は桜井浜江宅です。桜井浜江さんについては、野原一夫の「回想 太宰治」を参照します。
「…桜井浜江さんが太宰さんと知り合ったのは昭和十二年頃のことらしい。山形の旧家に生まれた浜江さんは画業で身を立てようと上京、新進作家の秋沢三郎氏と結婚して中央沿線の阿佐ヶ谷に居を構えた。その新居は中央沿線に住む作家たちの絶好の溜り場となり、太宰治、啓一雄、外村繁、高橋幸雄、緑川貢、時には井伏鱒二氏も現れて、車座になっての酒宴が連日のようにひらかれていた。その後、浜江さんは秋沢氏と離婚し、十六年ごろ三鷹に移住した。…」
と書いています。桜井浜江さんが秋沢氏と離婚したのは昭和15年頃ですが、昭和12年頃には既に別居していたのではないかとおもっています。又、阿佐ヶ谷周辺で何度か転居していますので、詳細の場所をつかんでおりません。
★写真は旧地番で高円寺一丁目27番地、同和荘跡付近です。正確には、写真左側、武正医院の右隣になります。武正医院は当時からありましたので、同和荘跡も直ぐに分かりました。
<新宿の遊廓石橋楼>
檀一雄、太宰治が昭和初期の時代に遊んだのが、玉の井であり、新宿二丁目でした。野原一夫の「人間
檀一雄」からです。
「…玉の井は十、十一年の船橋に移る迄、新宿は十二年、太宰が荻窪に舞い戻ってからである。」ただし太宰が船橋に移ったのは十年七月であり、玉の井は九、十年としたほうが正確だろう。また、碧雲荘を出た檀が居候をきめこんだ高橋幸雄も、「その頃、太宰は新宿の遊廓石橋楼という所に流連してい、檀も時々、そこに出かけて行くらしかったが、私がお供をして行こうとすると、彼ら二人は或る地点まで来ると、「きみは帰り給え」というのであった」 と当時を回想している。…」。
玉の井についてはまだ調査不足なのですが、二丁目の遊廓石橋楼については場所もわかりました。
★写真は旧地番で新宿二丁目54番地付近です。遊廓石橋楼は右側角から二番目付近になります。写真は昔の大門通りを南から北に撮影したものです。
<「紫苑」>
「織田作之助の東京を歩く(戦前編)」でも掲載しましたが、詳細の場所が分かりましたので再度掲載します。野原一夫の「人間
檀一雄」からです。
「…その頃、本郷の追分に「紫苑」という喫茶店があった。女主人の好意からだろう、ツケでビールをいくらでも飲ませてくれた。開店の十一時から晩までそこにすわり込み、スペインの年増女が唄う「グラナダ」というレコードを繰り返しかけさせては酔っていた。
日本橋区役所に勤めていた水田三郎もしょっちゅう「紫苑」に現われていた。店のツケは水田との共同である。金が入ったときにどちらかが払うのだが、水田は安月給だったし、檀は下宿代もろくに払っていなかった。金がなくて払えないのである。「紫苑」の借金は百円を越えているようだった。…」。
「紫苑」は当時の文学青年のたまり場だったようです。青山光二、織田作之助、太宰治、檀一雄等、登場しています。
★写真左側の白っぽい建物のところが「紫苑跡」です。右隣はおでん屋だったようです。写真に”旅館更新館”の看板が写っていますが、当時からある旅館です。「紫苑跡」の建物は古そうなのですが、当時からの建物かどうかは不明です。因みに、この付近は空襲を免れています。