<「孫文と長崎」 長崎中国交流史協会編>
今回の参考図書は長崎中国交流史協会著の「孫文と長崎」
です。訪問日時別に詳細に書かれており、非常に参考になりました。地図も付いていましたが、大まかだったため、詳細の地番等を調べた上で、写真撮影をしてきました。
長崎中国交流史協会著の「孫文と長崎」 からです。
「 「大アジア主義の原型」
孫文が最後に長崎を訪れた1924年11月23日、出島岸壁の船上で、長崎の『東洋日の出新聞』記者にたいし、次のように語った、と報道されている(現代文に改めた)。
「日本は東アジアの盟主としての地位を確立した後、アジア民族のために尽力すべきであるにもかかわらず、その使命を誤っている。逆にアジアにたいし、列強に伍して貧狼の欲望をほしいままに真似ている。根本的に、日本のアジア政策は欧米のアジア政策と正反対でなければならない。ところが欧米の尻馬に乗じて、東アジアの日本が東アジアを批なっている。現代は日本が列強の愚行から脱する絶好の機会である。目醒めたアジアの国々の国民の力を世界は認めるべきである。日本は目醒めたアジア、諸国の盟主として、アジア政策を立案し、欧米に当たらなければならない。これが大アジア主義である。」
日本が欧米の覇道政治から脱して、東洋の王道政治へ進むことを求めた孫文の「大アジア主義」の有名な演説は、この後に訪れた神戸で行なわれたものである。日本の中国侵略に警告を発した言葉として、後世に語り伝えられている。 しかし、そのエッセンスはすでに長崎で語られていたのである。
孫文は、このときを介めて、合計9回ほど長崎を訪れた。清朝打倒の革命蜂起でお尋ね者となって、日本に亡命中が6回、辛亥革命が成就して中華民国が誕生したものの、軍閥支配に苦しむ中国を救おうと革命運動を継続した時が3回。
孫文は決して長崎に長期滞在したことはなかった。中国大陸との窓口であった長崎は孫文が日中を往来する窓口でもあった。通過のための短期滞在が多かったが、やはり多くの華僑が活躍する長崎には特別の思いがあったのであろう。「大アジア主義」の原型も、ここ長崎で語られたのだ。…」
孫文の「大アジヤ主義」は本当にその通りです。戦前の日本で、このようなことが出来れば良かったとおもうのですが、当時の状況を考えれば、まず無理だったとおもいます。日本自体(国民が)が成長していないと、このようなことは考えもつかず、出来ないとおもいます。
★写真は2003年発行の長崎文献社 長崎中国交流史協会著の「孫文と長崎」です。古本で手にいれました。