●孫文を歩く 長崎編 -1-
    初版2015年10月17日 <V01L02> 暫定版

 長崎シリーズの最後となる、「孫文を歩く 長崎編 -1-」を掲載します。孫文の長崎シリーズは2〜3回で終る予定です。孫文は大陸(上海)への窓口である長崎を9回(通過も含めて)訪問しており、いかに長崎が大陸(上海)との関係が深かったかがわかります。又、長崎が大陸からの大量の亡命者を受け入れていたことからも、大陸との関係を重視していたことが分ります。


「孫文と長崎」
<「孫文と長崎」 長崎中国交流史協会編>
 今回の参考図書は長崎中国交流史協会著の「孫文と長崎」 です。訪問日時別に詳細に書かれており、非常に参考になりました。地図も付いていましたが、大まかだったため、詳細の地番等を調べた上で、写真撮影をしてきました。

 長崎中国交流史協会著の「孫文と長崎」 からです。
「 「大アジア主義の原型」

 孫文が最後に長崎を訪れた1924年11月23日、出島岸壁の船上で、長崎の『東洋日の出新聞』記者にたいし、次のように語った、と報道されている(現代文に改めた)。

「日本は東アジアの盟主としての地位を確立した後、アジア民族のために尽力すべきであるにもかかわらず、その使命を誤っている。逆にアジアにたいし、列強に伍して貧狼の欲望をほしいままに真似ている。根本的に、日本のアジア政策は欧米のアジア政策と正反対でなければならない。ところが欧米の尻馬に乗じて、東アジアの日本が東アジアを批なっている。現代は日本が列強の愚行から脱する絶好の機会である。目醒めたアジアの国々の国民の力を世界は認めるべきである。日本は目醒めたアジア、諸国の盟主として、アジア政策を立案し、欧米に当たらなければならない。これが大アジア主義である。」

 日本が欧米の覇道政治から脱して、東洋の王道政治へ進むことを求めた孫文の「大アジア主義」の有名な演説は、この後に訪れた神戸で行なわれたものである。日本の中国侵略に警告を発した言葉として、後世に語り伝えられている。 しかし、そのエッセンスはすでに長崎で語られていたのである。

 孫文は、このときを介めて、合計9回ほど長崎を訪れた。清朝打倒の革命蜂起でお尋ね者となって、日本に亡命中が6回、辛亥革命が成就して中華民国が誕生したものの、軍閥支配に苦しむ中国を救おうと革命運動を継続した時が3回。
 孫文は決して長崎に長期滞在したことはなかった。中国大陸との窓口であった長崎は孫文が日中を往来する窓口でもあった。通過のための短期滞在が多かったが、やはり多くの華僑が活躍する長崎には特別の思いがあったのであろう。「大アジア主義」の原型も、ここ長崎で語られたのだ。…」

 孫文の「大アジヤ主義」は本当にその通りです。戦前の日本で、このようなことが出来れば良かったとおもうのですが、当時の状況を考えれば、まず無理だったとおもいます。日本自体(国民が)が成長していないと、このようなことは考えもつかず、出来ないとおもいます。

写真は2003年発行の長崎文献社 長崎中国交流史協会著の「孫文と長崎」です。古本で手にいれました。

「草莽のヒーロー」
<一回目:明治30年(1897)11月>
 孫文の第1回長崎訪問については資料がなく、探しに探しました。孫文の長崎訪問を直接書かれえた本ではないのですが、長崎の炭鉱王、渡邊元についての本の中に孫文との出合いが書かれているのを見つけました。明治30年11月末、宮崎滔天は孫文を東京から熊本の自宅に連れていきます。その帰りに長崎に寄り、孫文を金銭的に支援してくれそうな、長崎の炭鉱王、渡邊元に合います。

 横山宏章さんの「草莽のヒーロー」からです。
「… 田舎らしいのんびりした滞在であった。一〇日ほどいて長崎に向かった。渡邉元を紹介するためである。上村希美雄の研究では、荒尾に行く前に長崎に寄ったのではないかというが、詳
細は不明。とにかく荒尾行きのときに長崎に遊んだことは間違いない。
 『亡友録・渡邉元君』に、わずかながら長崎の出来事が記されているに過ぎない。
「明治三十年の頃、私は孫文、陳白両君を彼(渡邉元)に紹介した。彼は亡兄の忘遺物として彼等を歓待した。其後彼の案内によりて、孫、陳二君と長崎に遊び、付近の古刹を訪れ廻りて某寺に到り、高僧の誉ある某禅師を訪ひ、維摩経の一節に就て禅師の教誨を受けた。其中に白浪滔天の文句があったのが酷く渡邉君のお気に入り、取って以て私に贈られたので白浪庵滔天の号を用ゆるに至ったのである。然り、此是れ渡邉君の賜であるのだ」。
 あれほど「無名の恩人」と持ち上げながら、渡邉元と孫逸仙の関係は、わずか数行の文章しか確認できない。渡邉元自身、孫逸仙との関係は何も書き残していないから、この数行から、すべてを膨らませる以外に方法はない。…
… 孫逸仙らが訪れた「某寺」はどこか。「某禅師」とは誰か。長崎で寺捜しを始めた。手がかりは「付近の古刹」「高僧の誉れある禅師」の二つである。渡邉元の自宅の付近にある古くからの禅寺であるということになる。
 当時、渡邉元の自宅は長崎市内の下筑後町である。明治三一年四月二七日の消印がある「熊本県玉名郡荒尾村宮崎寅蔵」宛の手紙の裏に「長崎市下筑後町 渡邉元」と書かれている。しかし兄の彌蔵は「長崎深堀の渡邉別荘」で療養したという記述もあり、孫逸仙らが滞在したのは深堀別荘とも考えられる。…
… ということで、残念ながら孫逸仙が訪れたという確証は、可能性が高い菩提寺、晧台寺、福済寺の何処にもない。…」

 渡邊元の住所については上記に”当時、渡邉元の自宅は長崎市内の下筑後町である。”と書いてあり、下筑後町までは分るのですが、番地が分りません。商工名鑑等で調べたのですが、あまり有名ではなさそうで、記載がありませんでした。長崎は元々幕府の直轄地でしたが下筑後町は佐賀鍋島藩の飛地として存在していました。渡邊家は佐賀鍋島藩下の深掘藩に属していたようです。下筑後町は現在の筑後町で、長崎駅から東に400m、元下筑後町附近の写真を掲載しておきます。又、上記に書かれている”某寺”は下筑後町の「福済寺」が一番可能性が高いとおもいます。

写真は2002年長崎新聞新書から発行された横山宏章さんの「草莽のヒーロー」です。面白い本です。

「秘第163號 明治33年6月11日」
<二回目:明治33年(1900)6月>
 孫文が長崎を訪ねた二回目は明治33年(1900)6月11日です。孫文は6月8日、仏船インダス号で横浜を出発、翌日の9日9時に神戸着(「孫文を歩く 神戸編-1-」を参照)、9日23時に神戸を出港、長崎には11日朝に到着しています。何故この時期に孫文が香港に向かったかというと、義和団事件が起っていたためでした。(香港着は17日)

【義和団事件】
 当初は義和団を称する秘密結社による排外運動でしたが、1900年6月10日、20万人の義和団が北京に入城。甘粛省から呼ばれて北京を警護していた董福祥(とうふくしょう)配下の兵士に日本公使館書記官の杉山彬が殺害され、6月20日にはドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラー(Clemens Freiherr von Ketteler)が義和団に殺害されます。西太后はこの反乱を支持して6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となります。しかし宣戦布告後2か月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされます。軍事力の差は如何ともしがたかったようです。日本は第五師団(およそ8000名)を派兵。(ウイキペディア参照)

  外務省資料、秘第163號 明治33年6月11日によると
「東亜同文會員来往の風説に就き

今回清国事変に際し本邦在留の清国亡命者孫逸仙、楊飛鴻等は当機に乗じ香港辺へ渡航為す○あらんとすと云と亦孫逸仙等と関係ある福岡県人平山周(東亜同文會員)等は同志の徒と共に渡清亡命者等の後援たらんと云うに付 専を注意中本月九日福岡県人内田某よりフランスメールの発着時間を当市福島屋に電報問合を来れり○○一層注意中昨十日午後七時過き福岡県人内田甲、末永節、島田経一、動向来着福島屋に投宿せり 内偵するに末永 島田の両人は内田が渡清を見送りの為動向したるものにて内田は今朝六時当港出航佛国郵船インダス号にて上海へ赴けり…」(○は余りに達筆のため解読不能の字)

 ”清国事変”とは義和団事件のことです。
 又、楊飛鴻は楊衢雲だとおもわれます。楊飛鴻はこの後、香港で暗殺されます。(「孫文を歩く 香港編(上)」を参照)

楊衢雲(1861年12月6日−1901年1月11日),名飛鴻,字肇春,別號衢雲,福建省漳州府海澄縣三都(今屬廈門)人。廣東東莞出生,中國近代革命家,1890年於香港創立最早的革命組織輔仁文社,創辦興中會且為首任會長(孫文為秘書),負責策劃廣州起義。1901年在香港遭清政府派人刺殺。(中国語ウイキペディア参照)
(1892年香港で謝纉泰らと輔仁文社を設立(社長),1895年孫文と共に香港興中会を結成(初代会長),1900年広州の武装蜂起に参加,1901年香港で暗殺される)

 上記に記載のある”福島屋”については、2項下を参照してください。

写真は外務省資料、秘第163號 明治33年6月11日、長崎県知事から青木外務大臣に報告されたマル秘文書です。現在は国立公文書館 アジア歴史資料センターのホームページで閲覧することができます。

「丸山町鹿島屋跡」
<三回目:明治33年(1900)8月>
 孫文は7月20日、佐渡丸で香港を発ち、横浜に向かいます。7月24日午後5時神戸着、26日午前9時横浜着となります。8月15日には、義和団と清国軍を破って八カ国連合軍が北京に入場しています。孫文は8月22日正午に日本郵船の神戸丸で横浜から上海にむかいます。23日午後4時、神戸着、25日10時神戸発、26日6時門司着、11時門司発、26日23時長崎着です。そして、27日午後6時上海に向けて出港します。

 外務省資料、秘第323號 明治33年8月28日によると
「孫逸仙寄港並同行者の件

一.清国亡命者孫逸仙は中村樵と称し、一昨夜十一時入港の神戸丸にて来着。仝夜は船内にありしが、昨日午前十一時、船員根岸某と共に上陸、丸山町鹿島屋に於て芸妓二名を招き、飲食の末、午後三時過ぎより大浦町艦船売込商片岡達三郎方に到り、主人に面会、暫時休憩の上、片岡の番頭に送られ、乗船。午後六時十分、上海に向け出発せり。上陸中は以上の外、異状を認めず…
…一.孫逸仙の同行者と認む下き日本人に内田甲 平山周 安永東之助(以上福岡県人) 宮坂九郎(長野県人) 中野熊五郎(佐賀県人) 村田忠三郎(山梨県) 遠藤留吉(北海道)の七名なりしか 内田、平山は門司より村田、遠藤は横浜より安永、宮坂、中野じゃ当地より乗船したるものなり……」

 上記の”丸山町鹿島屋”は現在の丸山町見番の横、花月の傍にありました。
 又、”大浦町艦船売込商片岡達三郎方”については調べて見たところ
・片岡辰三郎、食料品艦船賣込 大浦相生町39(長崎商工名録、大正7)
・片岡商店、食料品艦船賣込 大浦町9 (長崎商工名録、大正13)
 大浦町の片岡商店を訪ねたのではないかと推定しています。片岡商店は現在の長崎市大浦町2−2、デイリーヤマザキのところになります。

写真は現在の花月前から東側を撮影したものです。丁度正面の白いビル辺りに鹿島屋がありました。その先が見番です。当時の絵葉書を掲載しておきます(同じ場所から撮影)。

「外浦町福島屋跡」
<四回目:明治33年(1900)9月>
 前項のように孫文は明治33年(1900)8月28日夜に上海着、翌29日、上海の英国総領事と面談しています。その頃の上海は革命派に対する追求が厳しく、上陸出来ない孫文は日本に戻らざるをえませんでした。9月1日、横浜から乗船してきた神戸丸で上海からそのまま長崎に戻ります。長崎着は3日です。

 外務省資料、秘第329號 明治33年9月4日によると(長崎での状況)
「孫逸仙及同志者来訪件

一.先月二十七日神戸丸にて上海へ渡航せし孫逸仙は昨日上海より入港の~戸丸にて清国人容開と平田晋及内田甲 安永東之助 中野熊五郎と共に来着 外浦町福島屋に投宿せしが内田甲は過日来当地滞在中なりし福島県人許變揚一と共に昨夜終列車(午後十時三十分)にて福岡県博多へ向い出発せり(福岡県に電報す)而て孫逸仙 平田晋両名は東京新橋迄の乗車券を買い 中野熊五郎 島田経一(島田は過日来 当市滞在中なりし)は博多迄の切符を買ひ 共に午後〇時三十三分発列車乗込めり…
…一行滞在中九州日の出新聞社田中待郎 福島屋を訪たるも格別の談話もなく引取りたりと云う…
一.昨日神戸丸にて孫逸仙と同船したる清国人秦西(容栄とも云う)齢七十五年は当地上陸南山手町クリフハウスに投宿せり…
…孫逸仙及平田晋は昨夕五時過より秦西を旅館に訪ね午後九時半頃迄密議を為して寄宿せり……」

 上記に記載のある”福島屋”については、日本郵船関連の旅館として有名だったようです。万才町3−16(旧大村町14)にありました。又、南山手町クリフハウスについては、大浦天主堂に向かう手前、右側、南山手町2−11(旧南山手町10)にありました。

 孫文は”東京新橋迄の乗車券を買い”と書いてあります。
 山陽鉄道(国有化前)が神戸−山口県の馬関(現在の下関)間を全通させたのは明治34年(1901)5月27日です。明治33年9月頃は、神戸−三田尻(現在の防府)間しか開通していませんでした。当時は三田尻駅手前の徳山駅から海路で門司へ行き、そこから九州鉄道線に乗っていたようです。

<明治32年1月時刻表>
 長崎発10時58分→門司着22時23分
 門司発23時→(山陽汽船)→徳山着4時
 徳山発5時40分(京都行急行)→岡山着13時26分→神戸着16時50分
 岡山発17時10分→神戸着22時47分
<明治36年1月時刻表>
 長崎発12時33分→門司着22時24分
 門司発22時50分→(連絡船)→下関着23時5分
 下関発23時40分(京都行急行)→神戸着16時40分
 ※明治33年9月には長崎発12時33分があったようです。門司以東は明治32年の時刻表通りだとおもいます。

外務省資料、高秘第898號 明治33年9月5日によると(福岡駅の状況)
「孫逸仙並に之の関係者の動静
孫逸仙之の関係せるものの動静、事後の状況左き如し
一.長崎より電報ありたる孫逸仙及「容開ヨウカイ」事平田しん(清国人)並に中村熊次郎は昨四日午後七時五十八分鉄路博多着 先程内田甲 末永○郎 山田○ 葛生修亮 (○)井上豊熊及河田直八郎 関政○鈴木○等博多停車場にて○一行を待受居りたるが列車が着するや末永と同乗の清国人を紹介したりと云う而め内田及河田開 鈴木の四人は同列車に乗一行と共に門司へ出て同日午後十一時門司出航山陽連絡船○徳山を経て東京に向へり…」

 原文の字がうすいのと、余りに達筆すぎて読めない文字がおおいです。

外務省資料、兵庫秘第520号 明治33年9月6日によると(神戸での状況)
「孫逸仙並に同行者来神の件
一.清国亡命者孫逸仙、平田晋(清人変名○○)と内田甲の三名は昨五日午後十時三十分神戸駅着山陽列車にて来神市内相生町旅宿加藤良という投宿本日午前六時神戸駅発列車にて一行上京せり…」

 上記の2つの外務省資料を参照して、時刻表で孫逸仙を追ってみました。明治33年9月の時刻表がないので、明治32年と36年を比べて見るしかありません。上記のように神戸着が午後10時30分(時刻表には無い)なので、どうも岡山辺りで休んだようです。翌日、神戸発6時→横浜着21時55分となります。

写真正面、やや右のビルのところが福島屋跡です。後は県庁ですから良い場所にあります。上野屋の向い側です。

 続きます。



孫文長崎地図(谷崎潤一郎の地図を流用)



和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
0 11月12日 マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1878 大久保利通暗殺 12 5月 ハワイの兄の元に渡る
明治12年 1879 朝日新聞が創刊
13 9月 ハワイの中学校に入学
明治16年 1883 日本銀行が開行
清仏戦争
17 7月 帰国
12月 キリスト教徒になる
明治17年 1884 華族令制定
秩父事件
18 4月 中央書院に入学
11月 ハワイに向かう
明治18年 1885 ハワイ移民第1陣
清仏天津条約
19 4月 帰国、天津條約
5月 孫文、最初の結婚
8月 中央書院に復学
明治19年 1886 帝国大学令公布
自由の女神像が完成
20 中央書院卒業、広州の博済医院付属南華医学校に入学
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 21 10月 香港の西醫書院に入学
明治21年 1888 磐梯山が大爆発 22 3月 父親死去
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立 26 7月 香港の西醫書院を首席で卒業
12月 澳門で中西薬局を開業
明治27年 1894 日清戦争 28 広州の博済医院に眼科の医師として働く
7月 日清戦争始まる
10月 ハワイへ出発
11月 興中会本部を立ち上げる
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
29 1月 香港に戻る
4月 日清講和條約、三国干渉
10月 第一次広州起義に失敗
11月 孫文は香港から神戸・横浜経由でハワイに亡命
明治29年 1896 アテネ五輪開催 30 10月 ロンドンで清国公使館に幽閉される
明治30年 1897 金本位制実施 31 8月 カナダ経由で横浜に到着
明治33年 1900   34 6月 義和団北京入城、清朝欧米列国に宣戦布告
8月 連合軍北京入城
10月 恵州起義に失敗、孫文は台湾から日本に移送
明治37年 1904 日露戦争 38 2月 日露戦争始まる
明治38年 1905 ポーツマス條約 39 9月 ポーツマス條約
明治40年 1907 義務教育6年制 41 5月 黄岡起義
6月 第2回恵州起義
12月 鎮南関起義
明治41年 1908 42 2月 欽州、廉州起義
4月 河口起義
明治43年 1910 日韓併合 44 2月 庚戌新軍起義
明治44年 1911 辛亥革命 45 4月 黄花崗起義(第二次広州起義)
10月 武昌起義、辛亥革命始まる
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
46 1月 中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任
2月 清朝、宣統帝退位
3月 袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 47 8月 孫文、日本に亡命
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 48 6月 第一次世界大戦始まる
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 49 10月 孫文、宋慶齢と結婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 50 6月 袁世凱が死去、軍閥割拠の時代となる
大正6年 1917 ロシア革命 51 3月 ロシア革命(2月革命)
8月 孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる
11月 ロシア革命(10月革命)ボリシェヴィキが権力掌握
大正7年 1918 シベリア出兵 52 5月 孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る
大正8年 1919 松井須磨子自殺 53 6月 ベルサイユ条約(第一次世界大戦終結)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 55 5月 孫文が非常大統領に就任
7月 中国共産党成立
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 58 1月 第一次国共合作
2月 香港大学で講演を行う
5月 黄埔軍官学校設立
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
58 3月 孫文死去