●孫文を歩く 香港編 (上)
    初版2008年5月17日
    二版2011年5月 8日  <V01L02>  紅楼を追加

 5月の連休中に香港を訪ねる機会があり、孫文の足跡を歩いてきました。参考図書は「香港歴史漫郵記」という香港の切手について書かれた本です。この本の中に香港での孫文の足跡について書かれていましたので、この本を参考にして歩いてみました。(本来は孫中山と書くところですが、ここでは日本で一般的な孫文と掲載します)


「香港市内」
<香港>
5月の連休中に香港を訪ねる機会があり、孫文の足跡を少し歩いてきました。昨年、上海を訪ねたときも孫文の足跡を歩いてきましたので、順次掲載をしたいとおもいます。日本での孫文の足跡も取材済みですので合わせて掲載します。香港での孫文については内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」を参考にさせていただきました。この本は香港の切手について書かれた本なのです。この本の中に2006年に中国香港郵政が発行した「孫中山誕生一百四十周年」と題する記念切手の小型シート(下記の写真参照)について書かれたところがあり、この小型シートには香港での孫文の活動の跡を示すスポットの地図が印刷されていて、とても参考になるのです。
「…孫文は、一八六六年、マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨出身で、幼名は孫帝象。後に、孫文、孫中山、孫逸仙などの名で、中国の国父として崇められることになる人物である。なお、革命家の常として、彼もさまざまな名前を名乗っており、一般に、日本では孫文、華人世界では孫中山、欧米ではSun Yat-sen(漢字表記だと孫逸仙)と呼ばれているが、混乱を避けるため、本書では、以後、”孫文”で統一することにしたい。辛亥革命の指導者とされている孫文だが、一九一一年に実際の革命が起こったとき、彼は中国大陸のどこにもおらず(というよりも、いられず)アメリカにいた。じつさい、彼が計画した武装蜂起の類はことごとく失敗し、広州から香港へ、さらには東京や横浜へと逃げ回るというのが、彼の基本的なライフ・スタイルだった。”三民主義”(その内容は決してリベラルなものではなく、一般の国民を”愚民”として、中国国民党による一党独裁を主張するものであることは意外と知られていない)を掲げる崇高な理想の持ち主ではあるのかもしれないが、現実の革命家としては決して合格点を与えられる存在ではない。しかし、それでも人をひきつける強烈なカリスマ性はあったのだろう。現在なお、華人世界では、”孫中山先生”は中国の国父として絶大な尊敬を集めており、彼らの学校では、その生涯は繰り返し教えられている。 …… 彼は「どこで革命を習ったか、私は香港で、と答える」という言葉を残しているが、実際、香港には孫文にまつわる”史蹟”が少なからず残されており、その一部は観光スポット化されている。…」
 内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」は切手について書かれた本なのですが、ホンコンの歴史を知る上でとても参考になります。特に孫文については、詳細にかかれていました。

「香港歴史漫郵記」
左上の写真は香港名物のトラム(TRAM)です。香港島の上環付近で撮影したものです。料金は一律2ホンコンドル(一ドル=15円)で、バスよりも乗りやすいです。私も香港大学を訪ねるときに中環まで地下鉄で、そこからトラムにのりました。

左の写真は内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」です。少々高いのですが、切手に興味がない人もおもしろく読ましてくれます。香港の歴史ならこの本ではないかとおもいます。

「「香港仔(アバディーン)へ行かれるなら、中環(セントラル)の交易広場(エクスチェンジ・スクエア)から七〇番のバスに乗っていくのがわかりやすいですよ。珍費(ジャンポ)は五月七日まで改修中で湾内にはいないのですが、太白(タイパ)の方でもよろしかったら、予約を入れときましょうか?」 そうか、改修中か。そうすると、あの切手(図1)の水上レストランの実物を拝むことはできないわけだ。もっとも、僕の懐具合からすると、もともと珍賓海鮮肪で食事などできるはずもなく、そもそも、外観を眺めに行くのが関の山なのだが……。とはいえ、正直に「珍賓に行くような金はないよ」というのも癖なので、バスの路線を教えてくれたコンシェルジュの女性には「いや。あそこは観光客向けで値段の割にはあまり美味くないからね。同じ金を払うのなら、福臨門でフカヒレでも食うことにするよ。」と応えてホテルを後にした。…」。
 本の書き出しです。香港を知り尽くした方の書き出しです。香港仔(アバディーン)の水上レストランは夜の眺めは絶景ですが、食事の評判はいまいちのようです。記念にはなるとおもいます。中華料理は、予約して何軒か回りましたが、当り外れがあるようです。概して四川料理はよかったです。

「孫中山誕生百四十周年記念切手」
<孫中山誕生百四十周年記念切手(香港)>
  内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」に書かれている記念シートです。
「…二〇〇六年二月に中国香港郵政は「孫中山誕生一百四十周年」と題する記念切手を発行したが、そのうちの五ドル切手を収めた小型シート(前貢図1)には、香港での孫文の活動の跡を示すスポットの地図が印刷されていて、ちょっとした”孫文観光”の案内図になっている。せっかくだから、僕たちも、この小型シートを片手に、孫文ゆかりの場所をぶらっと歩いてみようか。…」
 この記念シートは日本では手に入らず、香港で購入しました。宿泊したホテルで切手商を探して貰ったのですが、”切手商”という英語がうまく伝わらず苦労しました。何とか探してもらって、香港島の地下鉄「上環駅」からすこし南の皇后大道中(クイーズロードセントラル)192にある切手商で購入しました。英語は通じませんので「香港歴史漫郵記」に掲載されている切手シートの写真を見せて、15ホンコンドル(5セントの切手のみのシート)だったのですが、高いか安いか分からず複数枚購入しました。

右の写真が「孫中山誕生百四十周年記念切手」です。大きなシートだと期待していたのですが、横13cmの思いの外、小さなシートでした。地図と説明文が印刷されているのですが、小さくて読むのに苦労しました。当然日本語ではありません(中国語と英語です)。

【孫文(そんぶん・ソンウェン)】
 孫文(号は中山、又は逸仙、英文名はSun Yat-sen、1866〜1925)は、中国の政治家、革命家。慶応元年(1866)マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨出身で生まれる。ハワイ、香港、上海を転々とし、一時、日本に亡命をしています。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。中華民国では国父(国家の父)と呼ばれていた。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。両国で尊敬される数少ない人物である。中国では孫文よりも孫中山(そんちゅうざん)の名称が一般的であり、尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼んでいる。(本来は孫中山と書くところですが、ここでは日本で一般的な孫文と掲載します)。(ウィキペディア参照)

「紅楼」
<紅楼>
  2011年5月8日 紅楼を追加
 たまたま津田邦宏さんの「観光コースでない香港」を読んでいたら孫文と関係の深い”紅楼”について書かれていましたので、訪ねてみました。広州、澳門、香港を回ったついでに訪ねたのですが、簡単に行けるだろうとおもったのですが、大変でした。
 津田邦宏さんの「観光コースでない香港」からです。
「…屯門から軽鉄に乗って十分ほどのところに孫文を記念する中山公園がある。
 孫文が住んでいた紅楼と記念碑が立っている公図は、線路わきの「中山公園」という小さな看板を見てやっとその所在がわかる。紅楼までの小道にそって、色あせた青天白日満地紅旗が風になびいていた。
 紅楼は二階建てだった。手入れが不十分なのか痛みが激しい。ピンク色をした壁に「紅楼」という字が書かれていなければ、ただの古い建物と思ってしまうほどだ。壁面にはほかに、「天下為公」「博愛」「知難行易」の文字もあった。……
… 記念碑は一九六八年に建立され、毎年十月十日の双十節(辛亥革命記念日)には、孫文が打ち立てた中華民国の国旗、青天白日満地紅旗が崇拝者らによって掲揚される。…」

  紅楼は何処にあるのか、香港島にでもあるのかとおもったらとんでもないところでした。グーグルの地図で探したら紅楼が掲載されていました。香港島の中環(セントラル)からは北西、直線で20km弱、屯門の蝶蝶というところにありました。中環(セントラル)から地下鉄の東涌線(Tung Chung Line)で南昌(Nam Cheong)まで乗り、西鐵線(West Rail Line)に乗換え、終点の屯門(Tuen Mun)までいきました。そこから軽鐵路(Light Rail)蝶蝶(Butterfly)までいこうとおもったら、屯門(Tuen Mun)から蝶蝶(Butterfly)行きはありませんでした。しかたがないので少し歩いて青雲(Tsing Wun)から軽鐵路(Light Rail)で蝶蝶(Butterfly)までいきました。紅楼は蝶蝶(Butterfly)駅からは100m位です。安全面で不安だったのですがまったく大丈夫でした。中環(セントラル)からは1時間弱で到着できました(もう少し早く行けるとおもいます)。軽鐵路(Light Rail)で蝶蝶(Butterfly)に行くには西鐵線(West Rail Line)の終点である屯門(Tuen Mun)の一つ手前の兆康(Siu Hong)で下車して、駅のすぐ下から屯門碼頭(Tuen Mun Ferry Pier)行に乗れば乗換えなしで便利です。

 軽鐵路(Light Rail)は駅、電車内とも改札はなく、一般の方はほとんどオクトパスカード(Octopus Card)と呼ばれる交通プリペイドカード(日本のSuica)で乗っていました。私はオクトパスカード(Octopus Card)を持っていなかったので現金で切符(上半分が表、下半分か裏)を買いました(自販機で買えますがコインのみしか使えませんので、帰りはコインが無くただ乗りしてしまいました、ごめんなさい!)。屯門付近の地図を掲載しておきます。

左上の写真が紅楼です。建物はぼろぼろでした。この建物の左横に孫文の記念碑が建てられていました。その記念碑の周りには上記に書かれているとおり、青天白日満地紅旗(綺麗だった)がたなびいていました。不思議なところでした。


香港全体地図



香港 香港島地図 -1-



孫文の香港年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
0 11月12日 マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1878 大久保利通暗殺 12 5月 ハワイの兄の元に渡る
明治12年 1879 朝日新聞が創刊
13 9月 ハワイの中学校に入学
明治16年 1883 日本銀行が開行
清仏戦争
17 7月 帰国
12月 キリスト教徒になる
明治17年 1884 華族令制定
秩父事件
18 4月 中央書院に入学
11月 ハワイに向かう
明治18年 1885 ハワイ移民第1陣
清仏天津条約
19 4月 帰国
5月 孫文、最初の結婚
8月 中央書院に復学
明治19年 1886 自由の女神像が完成 20 中央書院卒業、広州の広済医学校に入学
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 21 10月 西醫書院に入学
明治21年 1888 磐梯山が大爆発 22 3月 父親死去
明治25年 1892 水力発電所が京都に完成 26 7月 西醫書院を卒業
12月 澳門で中西薬局を開業
明治27年 1894 日清戦争 28 10月 ハワイへ出発
11月 興中会本部を立ち上げる
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
29 1月 香港に戻る
12月 広州蜂起に失敗し横浜からハワイに亡命
明治29年 1896 アテネ五輪開催 30 10月 ロンドンで清国公使館に幽閉される
明治30年 1897 金本位制実施 31 8月 横浜に到着
         
大正13年 1923 中国で第一次国共合作 56 2月 香港大学で講演を行う



「香港大学本館」
香港大学>
 「孫中山誕生百四十周年記念切手」と内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」を参照して、香港での孫文の足跡を歩いてみます。「孫中山誕生百四十周年記念切手」に描かれている孫文の足跡は15ヶ所あり、今週は一番から七番までです。
「…さて、地図に振られている番号順に孫文の故地を訪ね歩くとすると、スタート地点の@は香港大学の本館になる。孫文は革命家として功成り名を遂げた後の一九二三年二月、香港に立ち寄り、香港大学で講演を行っている。人々は孫文を凱旋将軍のように迎えて歓迎した。孫文観光のスタート地点としては、まあ、幸先の良い場所と言ってよかろう。…」
 一番は香港大学です。上記にも書きましたが、地下鉄で中環駅(セントラル)まできて、トラムに乗り換えてラムダホテルの前で下りて少し歩きました。バスだと香港大学の前までいくことができるのですが、乗り方が難しくあきらめました。

左上の写真が香港大学本館です。当時のままのようです。記念碑 が建てられているのですが、最初、場所が分からなかったのですが、写真の手前側を降りた所 にありました。

「抜萃書室の跡地」
抜萃書室の跡地>
 孫文の足跡の解説は内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」から引用させていただきます。
「…大学前の曲がりくねった般威道(ポンハム・ロード)を道なりに西側、市街地の方向へ歩いていくと、東邊街(イースタン・ストリート)という道にぶつかるから、そこを海方向に左折。高街(ハイ・ストリート)と交わる一つ目の大きな交差点、佐治(ジョージ)五世紀念公園の手前に般含道(ボンハム・ロード)官立学校がある。これが、Aの抜萃書室の跡地となる。…… 香港へ渡った孫文が、英語を学ぶためという名目で入学したのが、抜萃書室だったというわけである。…」
 香港の道は全て名前が付けられており、地図を良く見ていると、分かりやすいです。ただ、道か狭く、車がバンバン走っていますので注意が必要です。日本の様に”人優先”ではありませんので、当てられ損ですから要注意です。

右上の写真がA抜萃書室の跡地の記念碑です。「抜萃書室の跡地」 はこの写真の所です。一番から15番まで全て記念碑が建てられていました。詳しく書かれていますので参考になりました。佐治(ジョージ)五世紀念公園 の写真も掲載しておきます。

「同盟合招待所の跡地」
同盟會招待所の跡地>
「…東邊街(イースタン・ストリート)を右に折れて高街をしばらく歩いていくと、ふたたび、般威道(ポンハム・ロード)と合流する。そのまま、さらに道なりに西側方向へ進んでいくと、ミッション系の合一堂幼稚園のところで醫院道(ホスピタル・ロード)とぶつかるヘアピン状のカーブがあるから、醫院道に入り、二〇〇メートルはど進んだところで右折し、普仁街(ポヤン・ストリート)に入る。そこから三本目、東華醫院の前を右折して普慶坊(ポヒンフオン)に入ってすぐのところでBの同盟會招待所の跡地(ただし、その痕跡は何も残っていない)にたどり着く。 同盟會、すなわち中国同盟合は、義和団事件の混乱の中で孫文らが起こした一九〇〇年の恵州蜂起が失敗した後、革命派が陣容建て直しのために一九〇五年、大同団結して東京で結成した組織である。…」
 「孫中山誕生百四十周年記念切手」と内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」を参照しても、道が無くなっているところがありました。困ったものです。”醫院道に入り、二〇〇メートルはど進んだところで右折”は道が無くなっていました。仕方がないので100メートル位戻って(醫院道に入り100メートル位進んだ所を右折)右側階段を下ります。次を左折、右折して本に書かれた元の道に戻ります。東華醫院 の写真を掲載しておきます。

左上の写真は同盟會招待所の跡地の記念碑です。上記に”普慶坊(ポヒンフオン)に入ってすぐのところ”と書かれていますが、卜公花園(プレイク・ガーデン) (写真左側)の端の所まで170m位歩かないと記念碑はありません。「同盟會招待所の跡地」 はこの写真のところになります。香港島は坂の町で、アップダウンが多く、歩き疲れます。

「美園公理会福音堂の跡地」
美園公理会福音堂の跡地>
「…同盟會の跡地を出ると目の前は卜公花園(プレイク・ガーデン)という公園になっている。この公園を左手に見て西側方向に進んでいくと、居賢坊(クイインフオン)の通りにぶつかるから、そこを左折。少し進んで小学校の脇を抜けて右折して必列者士街(プリッジス・ストリート)に入る。そのまま、道なりに歩いていくと、現在はマーケットになっている場所にたどり着く。ここが、一八八三年に孫文と陸皓東がキリスト教の洗礼を受けたというCの美園公理会福音堂(アメリカン・コングリゲーショナル・ミッション)の跡地である。 前にも述べたように、”反逆児”孫文のスタートはキリスト教への改宗にあったわけだから、その意味では重要な意味を持つ場所である。…」
 ”同盟會の跡地を出ると目の前は卜公花園(プレイク・ガーデン) (写真左側)という公園になっている”は少し違って、卜公花園(プレイク・ガーデン) (写真左側)の端に同盟會の跡地があります。記念碑の先を左折、次を右折し階段を上がると必列者士街(プリッジス・ストリート)となります。

右上の写真が美園公理会福音堂の跡地です。必列者士街(プリッジス・ストリート)の右側 にあります。

「中央書院の跡地」
中央書院の跡地>
「…マーケットを出てすぐの交差点を左折して海側に城皇街(シンウォン・ストリート)を下ると、骨董品屋が並んでいることで有名な荷李活道(ハリウッド・ロード)にぶつかるから、この通りを渡って歌賦街(ガウ・ストリート)まで出ると、聖公会基恩小学校がある。ここが、Dの中央書院の跡地だ。 中央書院は、一八六二年創立の官立学校で、孫文がAの抜萃書室から一八八三年に転入した当時はこの場所にあった。…」
 上記に書かれしいる美園公理会福音堂の跡地の先を少し歩くと、「孫中山時期的香港」 という、当時の香港の写真を掲載した記念碑が多く建てられている場所にたどり着きます。その先の城皇街(シンウォン・ストリート)を左に下りると中央書院跡地の記念碑となります。道なりに歩くと、荷李活道(ハリウッド・ロード)を超えて、皇后大道中に下りる階段の手前で右に曲がってしまいます。その右カーブのところに中央書院の跡地があります。本当に筆者は歩いたのかなと疑問におもいだしました。

左上の写真が中央書院の跡地の記念碑です。この写真のところが中央書院跡 になります。。

「”四大寇”聚所」
”四大寇”聚所>
「…聖公会基恩小学校の角から歌賦街を右方向に少し行くと、小さな印刷所が見えてくる。ここが、Eの”四大寇”聚所になる。中央書院を卒業した彼は、翌一八八六年、アメリカの長老会派のジョン・ケルが経営する広州の広済医学校に進学したが、一年後には香港に新設されたばかりの西醫書院(後述)に入学する。西醫書院時代の孫文は、学業成績は優秀だったが、おとなしく勉学のみをしているはずもなく、広州で知り合った三合会(反清復明を唱える秘密結社)の首領で侠客の鄭士良らと付き合い、清朝政府を公然と批判して”四大寇”(四人の悪党)の一人に数えられるほどの有名人となっていた。当時の彼の仇名は孫大砲。大法螺吹きの孫という意味である。 この四人が出会った場所が、現在は印刷所となっているEのポイントというわけだ。…」
 この六番目の記念碑の場所が分からず苦労しました。歌賦街を少し歩くと右に美輪街に曲がる右側角にありました。美輪街は右に登る階段の道で食堂がたくさんありました。

右の写真が”四大寇”聚所の記念碑です。実際の場所は少し先の右側 になります。

「楊衢雲暗殺の地」
楊衢雲暗殺の地>
「…ここから少し西側に進むと、すぐに鴨巴甸街(アバーディーン・ストリート)にぶつかる。この通りにも孫文関連の史蹟はあるのだが、ちょっと後回しにして、右折して道をピーク方向に少し戻り、一つ目の結志街(ガゲ・ストリート)を左に入るとFの楊衢雲暗殺の地に出る。 楊衢雲は福建省出身の革命家で、一八九二年に香港で謝纉泰らと輔仁文社を設立した。一八九五年に香港興中会が結成されると、孫文よりも年長であった彼は初代会長に就任。一九〇〇年の武装蜂起にも参加したが、翌一九〇一年、Fの場所で暗殺された。…」
 今週最後の記念碑です。上記に道順が書かれていますが、正確には歌賦街から鴨巴甸街(アバーディーン・ストリート)に出て、右に曲がると直ぐに左に結志街(ガゲ・ストリート)となります。この角に記念碑があります。

左上の写真は楊衢雲暗殺の地です。写真左の道が結志街(ガゲ・ストリート)となります。写真左右の道が。鴨巴甸街(アバーディーン・ストリート)で、実際の場所は写真正面の建物 のところです。

来週も引き続いて後半を掲載します。