<香港>
5月の連休中に香港を訪ねる機会があり、孫文の足跡を少し歩いてきました。昨年、上海を訪ねたときも孫文の足跡を歩いてきましたので、順次掲載をしたいとおもいます。日本での孫文の足跡も取材済みですので合わせて掲載します。香港での孫文については内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」を参考にさせていただきました。この本は香港の切手について書かれた本なのです。この本の中に2006年に中国香港郵政が発行した「孫中山誕生一百四十周年」と題する記念切手の小型シート(下記の写真参照)について書かれたところがあり、この小型シートには香港での孫文の活動の跡を示すスポットの地図が印刷されていて、とても参考になるのです。
「…孫文は、一八六六年、マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨出身で、幼名は孫帝象。後に、孫文、孫中山、孫逸仙などの名で、中国の国父として崇められることになる人物である。なお、革命家の常として、彼もさまざまな名前を名乗っており、一般に、日本では孫文、華人世界では孫中山、欧米ではSun
Yat-sen(漢字表記だと孫逸仙)と呼ばれているが、混乱を避けるため、本書では、以後、”孫文”で統一することにしたい。辛亥革命の指導者とされている孫文だが、一九一一年に実際の革命が起こったとき、彼は中国大陸のどこにもおらず(というよりも、いられず)アメリカにいた。じつさい、彼が計画した武装蜂起の類はことごとく失敗し、広州から香港へ、さらには東京や横浜へと逃げ回るというのが、彼の基本的なライフ・スタイルだった。”三民主義”(その内容は決してリベラルなものではなく、一般の国民を”愚民”として、中国国民党による一党独裁を主張するものであることは意外と知られていない)を掲げる崇高な理想の持ち主ではあるのかもしれないが、現実の革命家としては決して合格点を与えられる存在ではない。しかし、それでも人をひきつける強烈なカリスマ性はあったのだろう。現在なお、華人世界では、”孫中山先生”は中国の国父として絶大な尊敬を集めており、彼らの学校では、その生涯は繰り返し教えられている。 ……
彼は「どこで革命を習ったか、私は香港で、と答える」という言葉を残しているが、実際、香港には孫文にまつわる”史蹟”が少なからず残されており、その一部は観光スポット化されている。…」。
内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」は切手について書かれた本なのですが、ホンコンの歴史を知る上でとても参考になります。特に孫文については、詳細にかかれていました。
★左上の写真は香港名物のトラム(TRAM)です。香港島の上環付近で撮影したものです。料金は一律2ホンコンドル(一ドル=15円)で、バスよりも乗りやすいです。私も香港大学を訪ねるときに中環まで地下鉄で、そこからトラムにのりました。
★左の写真は内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」です。少々高いのですが、切手に興味がない人もおもしろく読ましてくれます。香港の歴史ならこの本ではないかとおもいます。
「「香港仔(アバディーン)へ行かれるなら、中環(セントラル)の交易広場(エクスチェンジ・スクエア)から七〇番のバスに乗っていくのがわかりやすいですよ。珍費(ジャンポ)は五月七日まで改修中で湾内にはいないのですが、太白(タイパ)の方でもよろしかったら、予約を入れときましょうか?」 そうか、改修中か。そうすると、あの切手(図1)の水上レストランの実物を拝むことはできないわけだ。もっとも、僕の懐具合からすると、もともと珍賓海鮮肪で食事などできるはずもなく、そもそも、外観を眺めに行くのが関の山なのだが……。とはいえ、正直に「珍賓に行くような金はないよ」というのも癖なので、バスの路線を教えてくれたコンシェルジュの女性には「いや。あそこは観光客向けで値段の割にはあまり美味くないからね。同じ金を払うのなら、福臨門でフカヒレでも食うことにするよ。」と応えてホテルを後にした。…」。
本の書き出しです。香港を知り尽くした方の書き出しです。香港仔(アバディーン)の水上レストランは夜の眺めは絶景ですが、食事の評判はいまいちのようです。記念にはなるとおもいます。中華料理は、予約して何軒か回りましたが、当り外れがあるようです。概して四川料理はよかったです。