●孫文を歩く 神戸編 -1-
    初版2014年9月6日
    二版2014年9月29日  <V01L01> 広島丸の神戸到着日時を修正、暫定版

 しばらく休んでいましたが再開します。今回も引き続いて「孫文を歩く」を掲載します。当時、日本と上海や香港との交通はすべて船であり、そのため日本で有数の港であった神戸港を必ず経由していました(上海への船便は長崎が拠点であったが長崎からは日本国内での移動が大変であった)。そのため、神戸は孫文との関わりが大変多くなっています。


「孫文と神戸」
<「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉>
 今回の参考図書は陳徳仁 安井三吉著の「孫文と神戸」 です。対談形式で書かれていますが、重要な事はすべて書かれていました。大変参考になる図書です。特に神戸については、「孫文と神戸 関係地図(明治・大正)」と「孫文の来神(1895.11〜1924.12)」ですべて網羅されていました。今回はこの図書を参考にして歩いてみました。

 「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著からです。
「 孫文と私

 最近、私はよく次のような質問を受けます。あなたはいつ頃から孫文の研究を始めたのですか、と。いざこのように聞かれますと、答えに困ります。といいますのも、私は孫文の専門的研究者ではないからです。
 専門的なことはともかく、私が孫文について関心を持つようになったのは、神戸華僑同文学校の四年生か五年生の時、一九三〇(昭和五)年頃だったと思います。当時、「党義」という授業があって、本来であれば孫文の三民主義を勉強する時間でしたが、先生はおそらく小学生にそんな話をしても理解できないと考えられたのでしょう、話題を変えて、もっぱら孫文について興味深い話をしてくれました。たとえば、少年時代、村の長老から太平天国の話を聞いて感動し小さな胸を躍らせていたこと、一七歳の頃、村民たちが神として崇めていた偶像を破壊したため、村に住めなくなって香港に渡ったこと、一八九五年、広東で武装蜂起を計画したが、失敗し、海外に亡命したこと。一八九六年の一〇月、孫文がロンドンで清国公使館に幽閉され、危機一髪というところを救出されたこと、…」

 書かれている内容が分かりやすくて良いです。思想的なことは書かずに経緯を淡々と詳細に書かれていますので、とても面白く読むかとがでしました。

写真は 陳徳仁 安井三吉著「孫文と神戸」 神戸新聞出版総合センターです。平成14年(2002)に増補版として発行されています。旧本は「孫文と神戸 (シリーズ兵庫の歴史 (3))」として昭和55年(1985)出版されています。

「辛亥革命と神戸」
<「辛亥革命と神戸」 陳徳仁>
 もう一冊、陳徳仁氏が書かれた本があります。発行が神戸市垂水区の中山記念館発行となっていますので、移情閣で販売されていた本ではないかとおもいます。私は古本屋で入手しました。

 「辛亥革命と神戸」 陳徳仁からです。
「1 最初に孫文が日本の土地を踏んだのは神戸

 孫文が日本の土地を最初に踏んだのは神戸であり、また、最後に日本を訪れたのも神戸である。
 一八九五年(明治二十八年)十月、孫文自ら指揮して起こした広州での最初の「倒満興漢」の武装蜂起の計画は、事前に両広総督に察知され、完全な失敗を喫し、有力な同志陸皓東を失ない、多くの同志が逮捕された。孫文はしばらく広州に潜んでいたが、十月の二十九日前後にかろうじて香港へ脱出、ここで同志鄭士良、陳少白と共にハワイ(安南〔ベトナム〕という説もある) へ亡命するつもりでいたが、あいにく船がないため、ひとまず日本へと日本郵船「広島丸」に乗り込んだ。
 この時孫文はまだ二十九歳、鄭士良が三十二歳、陳少白は最年少で二十六歳、三人共日本ははじめてである。しかも清国政府を倒そうと武装蜂起をたくらんで失敗した首謀者達である故、清朝政府が日本政府に何へらかの手を打っているかも知れない、日本の新聞は広東で起こったこの事件をどのように報道しているのだろうか、日本に一時とはいえ無事上陸できるだろうか? 恐らく孫文一行はこのような不安にかられたのだろう、船が神戸に着くと、先ず新聞を買った。…」

  「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著が対話形式だったのが、 陳徳仁氏の単独著で、辛亥革命の経緯が分かりやすく書かれています。

写真は昭和56年(1981)発行の陳徳仁著「辛亥革命と神戸」 からです。出版は神戸市垂水区の中山記念館・移情閣です。

「明治30年代の神戸港」
<明治28年(1895)11月 2日 香港を脱出>
 2014年9月29日 広島丸の神戸到着日時を修正
 孫文の初めての神戸来訪は明治28年(1895)11月 9日か10日です。孫文は第一次広州起義に失敗した後、広州から香港に脱出し、香港から日本経由でハワイに向おうとします。香港からの脱出の船として日本郵船の「廣島丸」に乗船し、孫文、陳少白、鄭士良の三人で日本に向います。明治28年(1985)11月2日、香港発でした。そして11月9日か10日に神戸に到着します。12日、廣島丸とともに横浜に向っています。

 「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著からです。
「… 安井 孫文は澳門を通って香港に逃げます。そこで今後のことをカントリーの友人の弁護士のデデニスのところに相談しに行くのですね。デニスは、早く逃げろと……。
 神戸へ
陳  そこで広島丸に乗って神戸に来た。
安井 そうです。日本郵船のボンベイ航路の貨物船です。三二八二トン、積み荷は綿花のはずです。
陳  陳少白、鄭士良も一緒ですね。
安井 ベトナム行きの船に空席がなくて。
陳  それで広島丸に。
安井 そうです。空席が四つあったのです。
陳  神戸に着いたのはいつですか。
安井 一八九五(明治二八)年一一月九日あるいは一〇日です。広島丸は、一一月二日香港を発って、九ないしは一〇日に神戸着、二、三日停泊した後、一二日午後四時、横浜港へ向けて出港、こうした広島丸の入港、出港は、すべて当時の新聞に出ています。
陳  一般に孫文の神戸着は一二日ということになっていますが。
安井 それは、陳少白の「興中会革命史要」の記述に基づいているものと思いますが、正しくはありません。…」


 広島丸の神戸到着日時を当時の新聞である神戸又新日報で調べました。神戸市立中央図書舘で神戸又新日報を調べたところ、明治28年11月10日の記事で船報の欄に広島丸が書かれていました。”広島丸は孟買(ボンベイ)より神戸に入着す…”と書かれていましたので、9日に神戸着だったとおもわれます。明治28年11月12日の記事には12日出発と書かれていました(広島丸の記事は二つ掲載されているが左側が正しいとおもわれます)。

「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「 11月2日(九月十六日)離香港赴日本。
  先生従達尼思處歸,興陳少白等商議,“‘顧問已叫我們離開香港,較爲妥當。我們還是跑吧!’就我到了一張報,看看今天有什麼船離港。看了報,知道有一隻到安南去的船,當晩就開、就派人去買船票。豈知這艘船、是貨船、不乗客人的。後来打聴到還有一艘船、船名”廣島丸”的、明早到日木去,雖然也是貨船、却有四個艙位。…

 11月9或10日(九月二十三或二十四日)抵紳戸。…

 11月12日(九月二十六日)午後四時,”廣島丸”離神戸開往横濱。(《神戸又新日報》1895年11月12日)…

 11月13日(九月二十七日)抵横濱、旋組建興中會分會。…」

 日本郵船の”廣島丸”については、「日本郵船創業100周年記念船舶写真集 七つの海で一世紀」によると
廣島丸(T):2,453t 建造 寛永6年 建造地 米国ニューヨーク 明治23年売却 外輪蒸気船
廣島丸(U):3,276t 建造 明治24年 建造地 英国サンダーランド 大正6年座礁・売却
とあるので、廣島丸(U)となります。外輪蒸気船ではありません。写真を探したのですが見つからず、もう少し探してみます。

写真は明治30年代前半の神戸港です。諏訪山よりも東で、もう少し高いところから撮影しています。当時の波止場はメリケン波止場しかありませんでした。メリケン波止場は明治元年(1868)に明治政府が兵庫港第3波止場として開設したものです。直ぐ近くに米国領事館があったことから、「アメリカン」の英語の原音発音から「メリケン」波止場と呼ばれるようになったようです。

「@諏訪山温泉跡」
<諏訪山温泉>
 孫文は神戸を訪ねたときに諏訪山温泉の旅館に度々泊っています。諏訪山温泉についてすこし解説したいとおもいます。当時の本を探したところ、国会図書館で明治30年(1897)四月発行の「神戸名勝案内記」に記載がありました。

 明治30年発行の「神戸名勝案内記」からです。
「諏訪山温泉
 同通り四丁目字諏訪山にあり浴場の構造は凡そ布曳(ぬのびき)に同じく亦相似たり主治効能は痛風、僂麻質斯、胃病、瘰癧等に効験多し、場内二基の碑あり一基には一六居士巖谷翁の文を刻し一基の文は長與衛生局長の撰むところなり居士の記中英人何某の語を載せて曰く…
… 
 茶舗割烹店軒を並べ酒を呼び飯を喫する等咄嗟にして辨ぜずということなくわけて割烹店は旅舎を兼ぬるみより浴遊の為め宿泊するも欲るままに求に應るを常とせり其最も名あるものを常盤といひ東中西の三店に分れ其他一力、吉田、伊村、常盤舎支店等数軒あり各樓れのれの長ずる所あるべし客も亦好む好まざるあり其よしあしは論うべくもあらず…

明治五六年の頃故關戸慶治氏購ひ得て更に前田又吉氏に貸し前田氏の盡力によりて開き成せしところなり故に巖谷翁温泉の記中には又吉泉と稱し …」

 もっと資料がないかと探したら、「神兵豪商 湊の魁」という明治15年発行の商店紹介絵図を見つけました。私が入手したのは昭和50年発行の復古版です。その中の”諏訪山温泉 常盤樓”のところに諏訪山温泉の絵図がありましたので、右側のページ(常盤東店、常盤中店に記載あり)左側のページ(常盤樓、上記の石碑の記載あり)を掲載しておきます。石碑は。戦後も割烹旅館桐乃家前にありましたが、前田又吉が創設者である「京都ホテル(現在は京都ホテルオークラ)」が創業100年の記念事業として京都に移設しホテルの横に建てられています(写真の左側が「又吉泉記」、右側が「長與衛生局長の石碑」)。割烹旅館桐乃家は現在は無く、上記写真の一番左側のビルの右側の路地を入った直ぐ右側にありました。石碑は路地入口の右側にあったのではないかとおもいます。

 残念ながが上記に書かれている「一力亭」の記載は「神兵豪商 湊の魁」にはありませんでした。明治15年以降にできたものとおもわれます。

写真は現在の神戸市中央区山本通り四丁目27,28附近を下記の地図の@から撮影したものです。この右側に諏訪山温泉の旅館街がありました。空襲で焼けた後は全く面影が無くなっています。写真左側の木の茂っているところが諏訪山公園で、この丘の上に孫文の記念碑があります。

「B諏訪山一力亭跡」
<諏訪山一力亭>
 孫文は明治33年(1900)6月9日 横浜から香港へ向う途中神戸に立寄っています。仏蘭西船インダス号が神戸に寄港するのでついでに上陸したという感じでしょうか。

 「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著からです。
「…  さて、一九〇〇(明治三二)年、この年孫文は、何度も神戸を出入りしていますね。
陳  この年は、中国近代史上重要な一年になります。
安井 義和団事件ですね。山東省の南部に起こった義和拳は、やがて”扶清滅洋”という旗幟を掲げますと、山東巡撫(地方長官)毓賢もこれを公認して、義和団となりました。一九〇〇年になると、天津や北京にも義和団の力が急速に広がってゆきました。西太后ら清朝内の保守派は、義和団と結び、列強に対して宣戦布告を行うんですね、六月二一日のことです。
陳  これより先孫文は、六月九日、フランス船インダス号で横浜からやってきますね。宮崎滔天らと一緒に。
安井 この時彼は、山本通に住んでいた朝鮮人亡命者朴泳孝と諏訪山の一力亭で会談している。
陳  香港へ行くんですね。…」

 諏訪山一力亭の場所についてはよく分かりませんでした。少し後の大正から昭和初期にかけての神戸市商工名鑑、電話番号簿等に”一力亭 山本通 4-30”と記載されているのですが、この番号の地番が山本通りの北側にありません。”山本通り4”は”山本通り四丁目”で間違いないとおもうのですが、最後の”30”の番地がありません。昭和28年の地番の入っている地図を下記に掲載しておきます(大正時代の地籍図と同じです)。

写真は下記の地図のBの所から撮影したものです。推定ですが写真の坂道を登った先ではないかとおもっています。



神戸市中央区山本通り四丁目附近地図



「A中常盤跡」
<諏訪山の常盤>
 明治33年(1900)8月23日 横浜から上海への途中神戸に寄ります。ここでも乗った船が神戸に寄港するので上陸するようです。

 「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著からです。
「陳  孫文は、八月二三日に神戸に来て、二五日、神戸丸で上海に行ってますね。
安井 そうです。二四日には上陸して諏訪山の常盤へ来て一杯やり、その夜は張殿芳という華僑の家に一泊し、翌朝船に戻ったとなっています。帰りは内田良平と一緒です。…」

 上記には24日は ”諏訪山の常盤へ来て一杯やり、その夜は張殿芳という華僑の家に一泊”とかかれています。

 確認の為、外務省資料を参照します。
「兵發秘四八三號
  清国人皈国ノ件
一既報(昨廿四日兵○秘四八一号)清国亡命者孫逸仙ハ昨廿四日午十二時神戸丸ヨリ仝船賄ニ根岸要(清国人ニシテ現ニ日本ニ皈化シ居ルモノナリト云フ)ナルモノト仝行上陸ノ上諏訪山中常盤ニ投シ藝妓三名且ツ根岸ノ知人タル
當地在晋仝国人張殿芳ナルモノヲ招待シ酒宴ヲ開キ遂ニ仝家、一泊ノ上本日午前六時三十分皈船仝十時出航ノ神戸丸ニテ…」

 ”諏訪山の常盤”が”中常盤”と正式な名前で書かれいます。ただ一泊した場所が違うようです。「孫文と神戸」 の本文には”張殿芳という華僑の家に一泊”と書かれていますが、「孫文と神戸」 の裏表紙の”孫文の来神”の一覧表には常盤(諏訪山)と書かれています。どちらが正解かは分りません。

 中常盤の住所は”常盤中店 山本通 4-129(神戸市商工名鑑 大正12年)と表記されていますが、上記の地図を参照してみるとこの地番はありません。大正時代の地籍図でも同じです。家屋番号ではないかと推定しています。

写真の正面付近にA中常盤があったのではないかと推定しています。写真下に写っている道は山本通りで、明治中期以降できた道なので、写真の正面の上り坂が旧道ではないかと推定しています。「神兵豪商 湊の魁」掲載の常盤樓、右側のページ(常盤東店、常盤中店に記載あり)と、明治36年の地図と現在の地図を見比べて推定しています。

「西村旅館跡」
<西村旅館>
 明治33年(1900)7月24日 香港から横浜へ向う途中神戸に立寄っています。その時にメリケン波止場前の高級旅館である西村旅館に一泊しています。西村旅館は神戸では有名な旅館でした。空襲で焼けた後は残念ながら復活されていません。

 「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著からです。
「 鉄拐老叟
安井 李鴻章や康有為に対する期待があったんでしょうね。香港から帰る時乗った佐渡丸という船には、国木田収二が乗り合わせています。独歩の弟で後に、『神戸新聞』の主筆兼編集長になる人です。佐渡丸は七月二四日神戸に到着しました。その日は、栄町三丁目の西村旅館に投宿、翌日三宮から横浜に向かいます。これが一回目です。…」


 確認の為、外務省資料を参照します。
「兵發秘四一二號
  清国亡命者孫逸仙ノ件
一孫逸仙ハ昨廿四日午後五時過香港ヨリ神戸港ニ佐渡丸ニテエ宮崎寅藏、清藤幸七郎ト共ニ来神 栄町三丁目西村旅館ニ投宿セリ…

本日正午十二時十二分三宮駅発ノ列車ニテ孫逸仙ハ横濱追宮崎清藤ノ両名ハ東京ニ向イ…」

 この頃の手書き文章は達筆過ぎるのと、字を省いているのが多くてなかなか読めません。

 「商工名鑑」、「電話番号簿」、「西村旅館年譜」から西村旅館の詳細の所在地を探すと、
・神戸区栄町3−67(神戸市商工名鑑 大正12年)、(京阪神職業別電話名簿 昭和16年)
・神戸区栄町通三丁目四十六、五十八番屋敷(西村旅館年譜 明治8年土地購入時)
・神戸区栄町通三丁目四十五、(西村旅館年譜 明治24年土地追加購入時)
・家屋位置:栄町通三丁目六十七番邸、(西村旅館営業届  明治32年)
 以上の住居表示から考えると、家屋位置の栄町通三丁目六十七番邸を通常使う住所として表示していたようです。本来の地番は神戸区栄町通三丁目四十五、四十六です。戦後の昭和28年の地図では神戸区栄町通三丁目四十五、四十六の表示です(大正時代の地籍図でも同じ)。神戸市全体でも家屋位置(屋敷番号、家屋番号?)を通常使う住所として使用していたようです、今となっては場所が分らないはずです。

写真の正面、マンションの手前、セブンイレブン附近にあったとおもわれます。港から近くて良い場所でした。この西村旅館さんから昭和55年に「西村旅館年譜」という立派な本が出版されています。

「加藤旅館跡」
<加藤旅館>
 明治33年(1900)9月5日から度々宿泊しているのが神戸駅前の加藤旅館です。駅前で便利だったのだとおもいます。西村旅館に比べればランクは落ちますがその分、宿賃が安く、なんと言っても駅前で便利だったのだとおもいます。

明治33年(1900)に加藤旅館に宿泊した日時
・9月5日:上海-(船)-長崎-(列車)-神戸-東京 加藤良旅館
・9
月20日:横浜-(船)-神戸-基(台湾) 加藤良旅館(手合亭に寄る)
・11月15日 基-(船)-神戸-(列車)-横浜 旅館名は未記入

 「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著からです。
「陳  孫文は、八月二三日に神戸に来て、二五日、神戸丸で上海に行ってますね。
安井 そうです。二四日には上陸して諏訪山の常盤へ来て一杯やり、その夜は張殿芳という華僑の家に一泊し、翌朝船に戻ったとなっています。帰りは内田良平と一緒です。
陳  この上海行きの目的は何ですか。
安井 武装蜂起の準備のためだといわれていますが。先ほど触れた、香港から神戸に戻る船中で決定されたものだということです。上海では、劉学詢らと会っているんですが、詳しいことはわかりません。自立軍起義の直後だけに、あまり大したことはできなかったと思います。九月五日には神戸に戻っています。相生町二丁目の加藤コマツという人のやっていた旅館に一泊してから上京している。これが二回目です。…

 恵州起義
安井 孫文は、九月二〇日、温炳臣と浅田ハルという女性を伴って再度神戸にやってきています。
今度は、相生町三丁目の加藤艮という人の経営する旅館に泊まりました。相生座には、ハルと一緒に芝居見物に行ったといわれています。九月二四日、台湾の基隆に向けて出発、ここで恵州起義の指揮をとるためです。…

陳  一〇月六日、鄭士良の指揮する恵州起義が始まります。蜂起は成功しました。この時は広州ではなく、厦門へ向けて進撃を開始するんですね。六〇〇名で始まった挙兵は一万にもふくれあがったといいます。
安井 しかし予定していた日本からの武器・弾薬は入手不可能となってしまいました。そして決定的なことは、この時期に山県有朋内閣が倒れ、伊藤博文内閣に代わったことです。伊藤は、起義に日本人が参加することを禁止するとともに、台湾から孫文を退去させます。一一月一五日、孫文は基隆からふたたび神戸に戻りました。これが三回目です。…」


確認の為、宿泊場所を外務省資料で参照します。

 明治33年(1900)9月5日:相生町旅宿加藤良
 明治33年(1900)9月20日:相生町三丁目旅人宿加藤良
 明治33年(1900)11月15日:相生町二丁目旅館加藤小松

 ここでは「旅宿加藤良」、「旅館加藤小松」と二軒の加藤旅館名が出てきます。

 最初、商工名鑑で調べたところ、
 加藤良(旅館)      相生町三丁目 旅人宿兼料理店 (神戸商工録 明治44年)
 加藤小マツ(料理店業) 相生町三丁目 料理店兼旅人宿 (神戸商工録 明治44年)
 加藤館 加藤小松 相生町三丁目四六(神戸市商工名鑑 大正12年)

 京阪神職業別電話名簿(昭和9年9月)で調べると、
 加藤光三加藤館 相生、三ノ四六

 次に法務局でしらべたところ、(相生町三丁目四六は無く、相生町三丁目七でした)
 明治49年12月14日 加藤良 登記
 大正4年3月5日 加藤光三 登記
 大正11年3月20日 加藤こまつ 登記
 昭和3年5月25日 加藤光三 登記

 もう一つ、加藤旅館が写っている写真を見つけました。東海道線が高架化されているので撮影日時は昭和5年以降で戦前です。この写真の位置を特定しました。相生町二丁目25〜28附近です。

 結論です。加藤旅館は神戸駅前に二軒ありました。ご家族で経営されていたようです。一つは相生町三丁目七(登記簿で確認済み)、もう一軒は相生町二丁目25〜28附近(推定)です。

 商工名鑑や電話番号簿で表示されている”相生町三丁目四六”は家屋番号?を使っていたのではないかとおもいます。諏訪山の中常盤もそうでしたが地番として探しても見つかりません。登記簿では相生町三丁目七となっています。


写真の左側赤いビル左前が西国街道ですので、”相生町三丁目七”はその道を右に延ばした写真正面やや先付近にあったとおもわれます。もう一軒は神戸駅前正面です。現在は駅前広場になっているところとおもわれます。



神戸駅前附近地図(昭和28年)



神戸市中央区附近地図

孫文の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
0 11月12日 マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1878 大久保利通暗殺 12 5月 ハワイの兄の元に渡る
明治12年 1879 朝日新聞が創刊
13 9月 ハワイの中学校に入学
明治16年 1883 日本銀行が開行
清仏戦争
17 7月 帰国
12月 キリスト教徒になる
明治17年 1884 華族令制定
秩父事件
18 4月 中央書院に入学
11月 ハワイに向かう
明治18年 1885 ハワイ移民第1陣
清仏天津条約
19 4月 帰国、天津條約
5月 孫文、最初の結婚
8月 中央書院に復学
明治19年 1886 帝国大学令公布
自由の女神像が完成
20 中央書院卒業、広州の博済医院付属南華医学校に入学
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 21 10月 香港の西醫書院に入学
明治21年 1888 磐梯山が大爆発 22 3月 父親死去
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立 26 7月 香港の西醫書院を首席で卒業
12月 澳門で中西薬局を開業
明治27年 1894 日清戦争 28 広州の博済医院に眼科の医師として働く
7月 日清戦争始まる
10月 ハワイへ出発
11月 興中会本部を立ち上げる
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
29 1月 香港に戻る
4月 日清講和條約、三国干渉
10月 第一次広州起義に失敗
11月 孫文は香港から神戸・横浜経由でハワイに亡命
明治29年 1896 アテネ五輪開催 30 10月 ロンドンで清国公使館に幽閉される
明治30年 1897 金本位制実施 31 8月 カナダ経由で横浜に到着
明治33年 1900   34 10月 恵州起義に失敗、孫文は台湾から日本に移送
明治37年 1904 日露戦争 38 2月 日露戦争始まる
明治38年 1905 ポーツマス條約 39 9月 ポーツマス條約
明治40年 1907 義務教育6年制 41 5月 黄岡起義
6月 第2回恵州起義
12月 鎮南関起義
明治41年 1908 42 2月 欽州、廉州起義
4月 河口起義
明治43年 1910 日韓併合 44 2月 庚戌新軍起義
明治44年 1911 辛亥革命 45 4月 黄花崗起義(第二次広州起義)
10月 武昌起義、辛亥革命始まる
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
46 1月 中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任
2月 清朝、宣統帝退位
3月 袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 47 8月 孫文、日本に亡命
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 48 6月 第一次世界大戦始まる
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 49 10月 孫文、宋慶齢と結婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 50 6月 袁世凱が死去、軍閥割拠の時代となる
大正6年 1917 ロシア革命 51 3月 ロシア革命(2月革命)
8月 孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる
11月 ロシア革命(10月革命)ボリシェヴィキが権力掌握
大正7年 1918 シベリア出兵 52 5月 孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る
大正8年 1919 松井須磨子自殺 53 6月 ベルサイユ条約(第一次世界大戦終結)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 55 5月 孫文が非常大統領に就任
7月 中国共産党成立
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 58 1月 第一次国共合作
2月 香港大学で講演を行う
5月 黄埔軍官学校設立
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
58 3月 孫文死去