<「おそめ」 石井妙子編>
「おそめ」は、昭和20年代から昭和40年前半に京都木屋町、東京銀座にあったバーです。上羽秀さんという京都祇園出身のママが経営しており、文化人、政治家、経済人に絶大な人気のあるパーでした。私とは世代(時代ではない)が違いますので、銀座の「おそめ」と聞いても全く認識がなかったのですが、ママの上羽秀さんは抜けるように色の白い絶世の美人で、その上に人当たりが良く、話の上手な方と言われています。京都でご健在のようなので、一度合ってみたいです。
「… その女の名は、上羽秀という。
しかし、おそめ、という通り名のほうが人に知られているかもしれない。
……なんでも昔は有名なクラブのママで、京都ばかりか銀座にも店を持ち、飛行機で往復して「空飛ぶマダム」と呼ばれた人だという話だった。
「おそめさん、つていう人なのよ。それでね、お店の人に聞いたんやけど『夜の蝶』のモデルなんやって。小説で、映画にもなった、いう」
夜の蝶 ──。
そんな言い方が、あることは知っていた。酒場やバーに勤める女性たちの俗称として。しかし、私は、その言葉が生まれた背景に一編の小説があることも、ましてや、その小説に実在のモデルがあるということも、そのときまで、まるで知らないでいた。…」。
石井妙子さんが書かれた「おそめ」の書き出しです。「おそめ」の由来は祇園の芸妓のときの名前が「そめ」で、親しみを込めて「お」が付いて「おそめ」になったようです。祇園の芸妓の頃のおそめさんをみてみたかったです。きっとかわいかったとおもいます。
★左上の写真は石井妙子さんの「おそめ」です。2006年の発行ですので比較的新しい本です。石井妙子さんが非常に詳細に取材されて書かれていますので充実した内容の本になっています。昭和20年代の上羽秀さんについて白洲正子さんが書かれています。
「…はじめての出会い、それは昭和二十八年一月のことという。関西で座談会の仕事があり、師として仰いだ青山二郎とともに、白洲正子は京都に滞在した。当時、京都には坂本睦子という女性が俺び住まいをしており、白洲と青山が京都へ出向いた目的には彼女を見舞う意味もあったと書かれている。
……日中に座談会の仕事を終えた白州と青山は東京から舞台美術家の伊藤嘉朔がやはり京都に来ていることを聞き伊藤と合流する。そこで、伊藤に案内されて、はじめて木屋町仏光寺の「おそめ」に足を踏み入れるのである。
このとき、青山二郎は上羽秀という女の印象を、以下のように日記に書きとめたと、白洲は作中で紹介している。
「でッぶりしてゐて品がよくシツカリしてゐてハイカラで、祇園の出である。東京では見られない(松八重)と対照的な美人だ、吸い寄せられる様な魅力がある。松八重が一流の唐津なら、おそめのマダムは織部の傑作だ」
文中に出てくる「松八重」とは祇園の茶屋の名である。青山は白洲正子とともに「松八重」を訪れ、続いて、おそめこと上羽秀を見たのであった。…」
上羽秀さんは坂本睦子さんとも会われた事があるのではないでしょうか。25歳の時の上羽秀さんも綺麗だったようです。
上記に書かれている「松八重」とは、祇園八坂町にある「白洲次郎」が贔屓にしていたお茶屋です。現在もあります。