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●「おそめ」を歩く 京都編
    初版2008年7月26日 
    二版2008年9月6日  <V01L01> 岡崎円勝寺町を追加

今週は「おそめを歩く 京都編」を掲載します。「おそめ」は、昭和20年代から昭和40年前半に京都木屋町、東京銀座にあったバーです。上羽秀という京都祇園出身のママが経営しており、文化人、政治家、経済人に絶大な人気のあるパーでした。今週は京都木屋町の「おそめ」を中心に歩いてみました。


「おそめ 石井妙子編」
<「おそめ」 石井妙子編>
 「おそめ」は、昭和20年代から昭和40年前半に京都木屋町、東京銀座にあったバーです。上羽秀さんという京都祇園出身のママが経営しており、文化人、政治家、経済人に絶大な人気のあるパーでした。私とは世代(時代ではない)が違いますので、銀座の「おそめ」と聞いても全く認識がなかったのですが、ママの上羽秀さんは抜けるように色の白い絶世の美人で、その上に人当たりが良く、話の上手な方と言われています。京都でご健在のようなので、一度合ってみたいです。
「… その女の名は、上羽秀という。
しかし、おそめ、という通り名のほうが人に知られているかもしれない。
……なんでも昔は有名なクラブのママで、京都ばかりか銀座にも店を持ち、飛行機で往復して「空飛ぶマダム」と呼ばれた人だという話だった。
「おそめさん、つていう人なのよ。それでね、お店の人に聞いたんやけど『夜の蝶』のモデルなんやって。小説で、映画にもなった、いう」
夜の蝶 ──。
そんな言い方が、あることは知っていた。酒場やバーに勤める女性たちの俗称として。しかし、私は、その言葉が生まれた背景に一編の小説があることも、ましてや、その小説に実在のモデルがあるということも、そのときまで、まるで知らないでいた。…」

 石井妙子さんが書かれた「おそめ」の書き出しです。「おそめ」の由来は祇園の芸妓のときの名前が「そめ」で、親しみを込めて「お」が付いて「おそめ」になったようです。祇園の芸妓の頃のおそめさんをみてみたかったです。きっとかわいかったとおもいます。

左上の写真は石井妙子さんの「おそめ」です。2006年の発行ですので比較的新しい本です。石井妙子さんが非常に詳細に取材されて書かれていますので充実した内容の本になっています。昭和20年代の上羽秀さんについて白洲正子さんが書かれています。
「…はじめての出会い、それは昭和二十八年一月のことという。関西で座談会の仕事があり、師として仰いだ青山二郎とともに、白洲正子は京都に滞在した。当時、京都には坂本睦子という女性が俺び住まいをしており、白洲と青山が京都へ出向いた目的には彼女を見舞う意味もあったと書かれている。
……日中に座談会の仕事を終えた白州と青山は東京から舞台美術家の伊藤嘉朔がやはり京都に来ていることを聞き伊藤と合流する。そこで、伊藤に案内されて、はじめて木屋町仏光寺の「おそめ」に足を踏み入れるのである。
このとき、青山二郎は上羽秀という女の印象を、以下のように日記に書きとめたと、白洲は作中で紹介している。
「でッぶりしてゐて品がよくシツカリしてゐてハイカラで、祇園の出である。東京では見られない(松八重)と対照的な美人だ、吸い寄せられる様な魅力がある。松八重が一流の唐津なら、おそめのマダムは織部の傑作だ」
文中に出てくる「松八重」とは祇園の茶屋の名である。青山は白洲正子とともに「松八重」を訪れ、続いて、おそめこと上羽秀を見たのであった。…」

  上羽秀さんは坂本睦子さんとも会われた事があるのではないでしょうか。25歳の時の上羽秀さんも綺麗だったようです。 上記に書かれている「松八重」とは、祇園八坂町にある「白洲次郎」が贔屓にしていたお茶屋です。現在もあります。

「木屋町仏光寺のおそめ跡」
<木屋町仏光寺の「おそめ」>
  上羽秀さんは昭和23年に木屋町仏光寺で初めてバーを開きます。木屋町といえば、飲み屋街の代名詞ですが、木屋町仏光寺は四条より南側で、当時は高瀬川添いに旅館街だったとおもいます。バーを開いた家は祇園の芸妓の時に落籍された白井家(松竹)の当主に買ってもらった家でした。この当りの事情を梶山季之が週間文春(1959/5/11号)に書いた”新女将論”から引用します。
「…彼女は昭和十三年、十六歳のとき祇園から芸者に出た。生粋の京女である。
……その祇園芸者上りの彼女が、高瀬川のそばで散歩道として知られていた木屋町で、馴れないバーを開業しようというのだから冒険であった。彼女は柄のわるい客を敬遠する意味で、はじめからクラブ制をとったが、昭和二十三年に開店した頃は、普通のしもた家の四畳半ぐらいの玄関先を改造しただけの、カウンターに五人も坐れば満員というような小規模な店であった。トイレに立つにも座敷を通って裏へ行かねばならないので、高瀬川に行った方が早い、とよく冗談を言われたものだという。…」。

 彼女は自宅でバーを開く前に寺町四条角の「菊水」で女給を少しの間しています。バーを開く前の練習になったのでしょう。戦前に祇園で芸妓だった頃のお客などが押しかけて人気があったようです。そのお客をそのままバー「おそめ」に連れてきたようです。
「…大佛だけでなく小津安二郎もまた「おそめ」の熱心な客であった。大佛は京都を舞台とした作品を手がけることになって、足繁く古都を訪れるようになった。そ の中で門田の紹介により、「おそめ」を知るのである。
……川端も、「おそめ」には足しげく通った常連客のひとりである
……気づけば里見クや吉井勇ら、戦前は文壇茶屋「大友」に遊んだ面々が、そのまま「おそめ」の客になっていた。…」。

  「大友」については「夏目漱石の京都を歩く 」と谷崎潤一郎の「磯田多佳女を歩く 」を参照してください。詳細に書いています。 また、上羽秀さんは映画に「おそめ」のママとして出演しています。大佛次郎の毎日新聞連載小説「風船」が川島雄三監督で昭和31年映画化されており、その中で木屋町仏光寺の「おそめ」が登場します。お店の中の場面で、モノクロですが33歳の上羽秀さんが登場しています。一見の価値があります。

「木屋町仏光寺付近」
左上の写真の右から二軒目が「おそめ跡」です(建物は建て直されているようです)。当初は場所が分からず苦労しました。当時の写真がないか探しましたら、梶山季之が週間文春(1959/5/11号)に書いた”新女将論”のなかで唯一写真がありました。しかしお店の写真のみで、周りをカットした写真でしたのであまり役に立ちませんでした。結局、付近の方に聞いて場所を特定しました。
「…店を開いてから幾日も経たぬ日のこと。はじめて一見客が、ドアを開けて顔をひょいと覗かせ た。落ち着きのある中年の紳士だった。
「一杯、飲ましてもらえるかな」
そう問う男の素朴な笑顔に秀はひと目で好感を持った。 ……すると、ひょんな拍子にその客は、ぷっと吹き出した。
「そしたら、サムじゃなくて 『おそめ』 だったの?」
「へえ、そうどす。うちの名前と一緒どす。おそめ、ですわ」
秀が答えると、男は笑いながら続けた。
「てっきりサムだと思ったよ。表のネオン、『SOME』 になってるから」
表のネオンサインのOの字が、故障して消えていたのだった。
「そうどしたんか。うち何にもしらんと。「そめ」 やのうて 「さむ」 になってしまいますのん。 せやけど、みんなにサムやと思われたら困ります。それやと、なんや男の人の名前みたいでけっ たいなことどすな」 この一見客が誰であるのか、秀は後から知ることになる。男の名は、服部良一。
…… 服部は、すぐに「おそめ」 の熱心な常連客になった。どれほど熱心な客であったか、「おそめ」 のために作った二曲の歌が物語っている。
「おそめ囃子」に「おそめの四季」。「おそめ囃子」の作詞は、吉井勇が引き受けている。吉井勇は祇園時代から秀のファンで、「おそめを開いてからは、やはり熱心な常連客のひとりとなっていた。秀のために短歌も何首か残している。…」。

 なぜ上記の文を掲載したかというと、当時の住宅地図には”バー・ソーミ”と書かれていて、分からなかったのですが、上記の週間文春の写真を見ると、お店の入り口の上に看板があり、ローマ字で”club osome”と書かれていました。”o”を読み飛ばせば、”サム”ではないですが”ソーミ”と読めないこともないと理解しました。

「となりの旅館」
となりの旅館(平六荘or喜美屋?)>
 「おそめ」の隣の旅館にも有名な人が下宿していたようです。ここで登場するのは上羽秀さんの旦那さんの俊藤浩滋が書いた自伝からです。
「…私は祇園の芸者と深い仲になった。そして芸者屋に入り浸ったあげく、ほとんど京都に住み着いてしもうた。
まあ、そこまでなら、ええ女ができたというだけの話やが、なんと、その縁でマキノ雅弘監督と知り合いになる。あの大野福次郎親分の関係とは別に。
まったく、人生、何が起こるかわからない。深い仲になったその祇園の芸者は、以前からマキノ雅弘とすごく親しかった。おまけに、当時、マキノのおやっさんは、偶然にも私と芸者が住んでいる家の隣の旅館にずっと居候していた。まだ離婚する前やから、むろん轟夕起子も一緒だった。場所は京都の木屋町で、いまでもその旅館はある。…」

 この付近は旅館がたくさんあり、特定するのは難しかったです。俊藤浩滋は後に上羽秀さんと正式に結婚しますが、当時は不倫の関係で、俊藤浩滋には前妻との間に三人の子供がおり、次女が藤純子(後の富司純子)なのは有名です。

「おそめ」の隣には旅館はありませんでした。一軒おいて二軒目と三軒目が旅館でした。現在は旅館の名前も変わっていました。二軒目の旅館は平安荘(当時の地図には平六荘と書かれていた。六は安の間違い?)です。三軒目は喜美屋です。この何方かにマキノ雅弘が居候していたとおもわれます。鴨川から撮影した写真 も掲載しておきます。



おそめの京都地図 -1-



「おそめ」の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 「おそめ」の年表
大正12年 1923 関東大震災 0 1月15日 京都市木屋町大黒町に生れる。父角田元義、母よしゑの長女として生まれる
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 12 3月 尋常小学校卒業
上京し東京新橋の置屋に入る
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
15 京都に戻り祇園で芸妓となる
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 19 白井家(松竹)の当主に落籍され木屋町仏光寺に住む
昭和20年 1945 ソ連参戦 ポツダム宣言受諾 22 俊藤浩滋と出会う
昭和21年 1946 日本国憲法公布 23 10月 長女を出産
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
24 寺町四条の「カフェー菊水」に勤める
昭和23年 1948 太宰治自殺 25 木屋町仏光寺に「おそめ」を開店
昭和28年 1953 朝鮮戦争休戦協定 30 1月 白洲正子、青山二郎と初めて会う
昭和30年 1955 坂口安吾没 32 7月 銀座三丁目に「おそめ」を開店
昭和32年 1957 長嶋茂雄が巨人と入団契約 34 4月 川口松太郎が『夜の蝶』を中央公論に掲載
銀座八丁目に「おそめ」を移転
昭和35年 1960 ケネディ大統領
37 3月 京都「おそめ会館」開店
昭和53年 1978 王貞治が800号ホームラン 55 2月 銀座「おそめ」閉店



「木屋町大黒町」
木屋町大黒町>
 上羽秀さんが生まれたのは京都三条小橋傍の大黒町です。父角田元義、母よしゑの長女として商家に生まれています。
「…大正十二年一月十五日、上羽秀は高瀬川に架かる三条小橋近く、京都木屋町大黒町に生まれた。
家のほとりを流れる高瀬川は、慶長年間に角倉了以という豪商によって切り開かれた、いわば人工の水路だった。二条通りの脇から鴨川の流れを引き入れ、京の街を通り抜けて伏見、さらには宇治川に合流し大阪へと続く。秀の生まれるわずか数年前までは、高瀬舟といわれる小舟が材木や炭、酒樽などを荷として頻繁に往き来をした水の道である。それゆえ高瀬川沿いの木屋町と呼ばれる町筋には、自然と材木や炭などを商う大きな商家や旅籠屋が軒を連ねて栄えることになった。
秀の生家もそうした木屋町らしい商家のひとつ、屋号を浪速組と名乗る炭問屋だった。三条小橋から高瀬川沿いに下り、ひとつ目の橋を西に入った二軒目、そこに浪速組はあった。…」

 現在の大黒町は商家は全くなく、飲み屋街の真ん中でした。

左上の写真右側付近に浪花組があったのだとおもわれます。写真手前は高瀬川で、右側は三条小橋になります。写真左側正面には、後に落籍される白井家(松竹)がありました。

「寺町四条の菊水」
寺町四条の菊水>
 上羽秀さんが戦後に女給として働いたのが寺町四条角の「菊水」でした。
「…秀の勤めたカフェの名は「菊水」という。当時、京都にあるカフェの中では最も高級な店だっ た。場所は寺町四条、今も交差点の角にある「菊水ビル」がその跡地にあたる。木屋町仏光寺の 秀の家からは歩いて十五分もかからない。
……秀が「菊水」に勤めるようになると、その噂を聞きつけ祇園時代からの客たちが、おそめ会いたさに「菊水」に通うようになった。普段は一流のお茶屋でしか遊ばない、いかにも大旦那然とした人が伴を連れて「菊水」にやってくる。いくら「菊水」が一流とはいえ、所詮はカフェである。秀を慕って訪れる祇園時代からの男客は、明らかにほかの客とは一線を画していた。
その上、花街からの古い馴染み客ばかりでなく、元祇園芸妓のおそめがいるという評判を問きつけて、顔を見に来る客もあった。…」

  「菊水」は戦前からあるお店で、京都では有名でした。

右上の写真やや左が四条通りから見た寺町通りです。寺町通りは京都では一番の繁華街です。この寺町通りの右側角に「菊水」のビルはあります。

「おそめ会館跡」
おそめ会館>
 上羽秀さんは昭和30年に東京に進出します。京都木屋町のバーは昭和35年、木屋町御池通り上ル右側に移ります。
「…秀は、御池通りと鴨川が交差する西詰めに広大な土地を求めて、新しい「おそめ」を作った。二階建ての豪華なビルディング、総面積三百二十坪、それは「おそめ会館」と名づけられた。
……一階に「ナイトクラブおそめ」、二階には「グリルおそめ」と「バーおそめ」が入った「おそめ会館」は、ついに昭和三十五年三月、開店の日を迎えることになった。木屋町仏光寺の店の面影は、かろうじて「バーおそめ」に反映されたが、一階は、ダンスホールとバンドの入るステージを備えて、これまでの 「おそめ」とは違う豪奪さであった。 ……開店パーティの席上、主賓として挨拶に立ったのは、川口松太郎だった。ほかにも東京から東郷青児や、岩田専太郎など多数の著名人が顔を出したようである。妻の三益愛子とともに駆けつけた川口松太郎は、居並ぶ招待客を前に挨拶に立ち、「どうか晶屑にして盛り立てていきましょう」といつになく熱弁を揮って、客たちに訴えた。口とは裏腹に、おそらく川口は、大きく豪勢に、なりを改めた新しい 「おそめ」を一目見て、秀の手に余ることを瞬時に悟っていたのであろう。…」

 バー「おそめ」は上羽秀さんでもっているので、大きくなりすぎたお店を上羽秀さんはやりきれなくなってきます。

左上の写真正面におそめ会館はありました。現在は葬儀場になっています。昭和40年過ぎには売却したようです。

「岡崎円勝寺」
岡崎円勝寺町> 2008年9月6日 追加
 上羽秀さんは銀座の「おそめ」を昭和53年2月に閉めた後、夫婦で京都に戻ります。新しく購入したのが岡崎円勝寺町、広道橋前でした。
「…ふたりは京都で土地を探した。岡崎がいい、と言ったのは秀だった。京都に育った秀にとって、川のせせらぎと大文字の送り火の二つが故郷の象徴である。
 ほどなく平安神宮の鳥居を右に曲がった疎水沿いに、広々とした土地を手に入れることができた。後のことはすべて俊藤が行った。…」

  平安神宮に近く、動物園のすぐ傍でした。

右上の写真の正面左の角地に住んだようです。この土地もやがて手放して北白川に移っています。



●「おそめ」を歩く 東京編
    初版2008年9月6日  <V01L01> 

今週は「おそめを歩く 京都編」の続編、「おそめを歩く 東京編」を掲載します。上羽秀は昭和30年京都木屋町から東京銀座に「おそめ」を開店します。京都から東京への進出は冒険だったわけですが、いい顧客に恵まれ、人気のお店になります。


「銀座三丁目のおそめ跡」
<銀座三丁目の「おそめ」>
 「おそめ」は、昭和20年代から昭和40年代に京都木屋町、東京銀座にあったバーです。上羽秀さんという京都祇園出身のママが経営しており、文化人、政治家、経済人に絶大な人気のあるパーでした。東京に進出したのは京都時代からのおなじみ、伊藤道朗が自分のビルの一階を提供したことから始まります(週間女性1958.11.16)。
「…昭和三十年七月、銀座三丁目文祥堂の裏に「おそめ」はついにオープンした。
 初日から連日、文士や映画人、財界人や政治家が押し寄せた。客たちが入り混じって足の踏み場もない賑わいである。周辺は黒塗りの車や、豪勢な外車で埋め尽くされた。延々と今の晴海通りにいたるまで「おそめ」に駆けつける客の車が横付けされて、あたり一帯が渋滞したほどだった。
 立錐の余地もないほどに客がつめかけ、「おそめ」の開店を口々に祝う。店の外にも客が溢れ出た。開店の日だけでなく、それが幾日も続いた。…」

 銀座三丁目4に昭和30年7月開店します。吉井勇の挨拶状と京都風の店づくりで人気を得ます。顧客には、佐藤栄作、川口松太郎、東郷青児、石川達三、等、錚々たるメンバーでした。

左上の写真は右側が文祥堂ビルです。銀座三丁目の「おそめ」は銀座三丁目4番の文祥堂裏ですので、写真の道を少し入った右側になります(直接の写真は控えます)。

「銀座八丁目のおそめ跡」
<銀座八丁目の「おそめ」>
  銀座三丁目のお店は狭くなったのか、昭和32年には銀座八丁目の広いお店に移ります。
「…昭和三十二年、小説『夜の蝶』が発表されてから始まる一連の騒動のただ中、実は銀座「おそめ」は八丁目へと店を移転している。三丁目の店では手狭になったというのが、その理由だった。新しく求めた場所は、てんぷら処「天国」から三本ほど東よりの道を入ったビルの地下。バンドを入れられるだけの申し分ない広さと、周辺に車を止めやすいという条件が整っていた。…」。
 今度のお店は新橋に近い銀座八丁目のビルの地下になります。

左上の写真は右側が銀座八丁目12番になります。この道を少し入った右側のビルの地下に「おそめ」は移ります(直接の写真は控えます)。「さらば銀座文壇酒場」に掲載された地図に銀座八丁目の「おそめ」が掲載されていますが、場所が間違っています。




おそめの銀座地図