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最終更新日:2017年10月28日


●夏目漱石の京都を歩く(大正4年) -1-
  初版2006年10月14日 <V02L04>

 「夏目漱石散歩」で京都を訪ねて見ました。夏目漱石は計4回京都を訪ねています。有名なのは明治26年の正岡子規と訪ねた時と今回の大正4年の多佳女とのやり取りのある京都訪問です。



<漱石の京都 水川隆夫>
 夏目漱石の京都を辿るには漱石の日記が一番いいのですが、今回は漱石の京都について最も良く書かれている水川隆夫氏の「漱石の京都」を参照しました。漱石の日記で辿りつつ、水川隆夫の「漱石の京都」で検証していきたいとおもいます。まず「漱石の京都」の書き出しは…‥
「漱石は、その五十年の生涯の間に四回の京都への旅を試みた。まずその年月と漱石の年齢(数え年)と滞在日数(出発日を含む)とを記しておきたい。
第一回 明治二十五年(一八九二)七月・八月 二十六歳 五日間
第二回 明治四十年(一九〇七)三月・四月 四十一歳 十五日間
第三回 明治四十二年(一九〇九)十月 四十三歳 二日間
第四回 大正四年(一九一五)三月・四月 四十九歳 二十九日間
京都滞在日数は合計五十一日間である。…
 …四回目の旅行のあと、漱石が磯田多佳に対して、北野天神行きの約束をめぐって書き送った手紙のことについても、節を改めて述べることにした。「事件」 の真相を推理しておいたのでご検討いただきたい。…」

 今回は上記の四回の中で最後の大正4年に京都を訪ねたときを歩きます。でもやっぱり漱石の京都のポイントは多佳女とのやり取りですね。此方の方は杉田博明の「祇園の女(文芸芸妓磯田多佳)」を参考にしたいと思います。

左上の写真は水川隆夫の「京都の漱石(平凡社)」です。帯に、「見る所は多く候、時は足らず候、便通は無之候、胃は痛み候」、と書かれていました。京都の漱石の心情をズバリ表していますね!!

【夏目漱石(なつめそうせき)】
1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、「吾輩は猫である」を発表し大評判となる。翌年には「坊っちゃん」「草枕」など次々と話題作を発表。'07年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。(新潮文庫参照)


夏目漱石の京都年表(大正4年)

和 暦

西暦

年  表

年齢

夏目漱石の足跡

大正4年
1915
対華21箇条要求
49
3月19日〜4月9日 京都を訪ねる
夏目漱石の京都地図 -1-


旅館北大嘉 木屋町三条上ル>
 漱石日記の大正4年3月19日(金)から始めたいとおもいます。
「○〔三月〕十九日〔金〕 朝東京駅発、好晴、八時発。梅花的れき。岐阜辺より雨になる。展望車に外国人男二人、女五人許(ばかり)。七時三十分京都着、雨、津田君雨傘を小脇に抱えて二等列車の辺を物色す。車にて木屋町着、(北大嘉)、下の離れで芸妓と男客。寒甚し。入湯、日本服、十時晩餐。就褥、夢昏沌、冥濛。」
 東京から京都まで列車で11時間30分かかっています。下関行きの特急ですから当時としては最も早い列車だったわけです。水川隆夫の「漱石の京都」では、
「…駅には津田青楓が出迎えに来ていた。今回の京都への旅は、実は、鏡子夫人が漱石の神経衰弱をやわらげるために、内密で青楓に依頼したものであった。青楓からの招きを受け、漱石も心が動いて、次の連載小説を書くまでの間、京都で「呑気に遊びたい」(大4・3・9付津田育槙宛書簡)と考えたのだった。三回目の京都への旅から約五年半が過ぎていた。二人は人力車に乗って、中京区(当時は上京区)木屋町三条上ルにあった旅館北大嘉に着いた。…」
と書かれています。漱石は奥様の気遣いで京都に来たわけです(亡くなるまであと1年半です)。

左上の写真の正面は御池大橋西話(木屋町御池)にある夏目漱石の記念碑です。「春の川を隔てて男女哉」と書かれています。漱石が多佳女に送った句です。この付近に旅館北大嘉があったはずなのですが、当時は御池大橋はありませんでした。当時の地図を掲載しておきます(大正2年の地図ですので北大嘉はまだありませんでしたが、同じ場所に大可楼という旅館があります。読み方がちかい?)。

一力>
 到着した翌日20日の漱石の行動です。
「〇二十日〔土〕 朝静甚し。硝子戸の幕をひく。 東山吹きさらされて、風料峭、比叡に雪斑々。忽ち粉雪、忽ち細雨、忽ち天日。…… 三人で大石忌へ行く。小紋に三ツ巴の仲居。赤前垂。「此方へ」「あちらから」と鄭寧に案内する。…」
 大石忌は大石蔵之助の命日に一力で開催されています。旧暦では2月4日、新暦では3月20日になります。この日に合わせて京都を訪ねたのですね。水川隆夫の「漱石の京都」では、
「…一力につくと、小紋に三つ巴の着物を着て赤前垂をかけた仲居がていねいに案内してくれた。仏壇に浅野内匠頭長姫と大石良雄を中心に四十七士の人形を飾り、莱飯に田楽が供えてあった。ふだんは蔵や「大石さんの間」 と呼んでいる小部屋にしまっていたものを、この日のためにとり出してきたのだった。…」
と一力での大石忌の内容を書いています。

右上の写真が一力の花見小路側の入口です。大正2年の地図を掲載しておきます。一力は本来の屋号「万亭」の字を二つに分けて呼ばれたものです(一力は万亭(一と力で万)の名前で記載されていました)。

阿古屋茶屋 二年坂>
 漱石は一力で大石忌を見た後、京都見物に出かけます。
「…三年坂の阿古屋茶屋へ入る。あんころ一つ。薄茶一碗、香一つ。木魚は呼鈴の代り。座敷北向、北の側、山家の如し、絶壁。(祇園から建仁寺の裏門を見てすぐ左へ上る)。清水の山伝 子安の塔の辺から又下る。小松谷の大丸の別荘を見る。是も北に谷、其又前に山を控へて寒い。亭々曲折して断の如く続の如く、奇なり。石、錦木を植ゑたり。小楼に上る。呉春蕪村の画中の人、腹いたし。電車にて帰る。晩食に御多佳さんを呼んで四人で十一時迄話す。…」。一力から花見小路を南に下がって建仁寺の裏門から安井北門通を東に向かい、三年坂から清水寺に向います。この漱石の歩いた道筋を水川隆夫の「漱石の京都」ではさらに詳しく説明しています。「…三人は、花見小路通を南へ歩き、建仁寺の裏門前で左折して安井北門通を通って東大路通を東側に渡り、二年坂にある阿古屋茶屋へ入った。「日記」に「三年坂」とあるのは、この店が二年坂から三年坂(産寧坂) へ出る直前に位置しているからであるが、入口は二年坂に面し、今も「二年坂阿古屋茶屋」と称している。江戸時代に清水寺への参詣人を目当てとした清水新地がこの地にあり、俗に阿古屋茶屋とも呼ばれたが、明治初年に遊廓はなくなり、そのうちの一軒が阿古屋茶屋として名をとどめたのである。三人は、ここで抹茶にあんころ餅を一つ食べた。…」
 写真の通り、阿古屋茶屋は二年坂にあります。入りそびれたので次回は餡ころ餅の写真を掲載します。

左上の写真が二年坂の阿古屋茶屋です。この上の路が三年坂です。(三年坂 「八坂塔より清水坂に出づる坂路なり。此の坂大同三年に開くを以て三年坂と云ふ」:京都市役所編『新撰京都名勝誌』大正四年)

去風洞 富小路通御池
 京に着いて三日目の21日、漱石は西川一草亭より電話を貰い、富小路御池の西川一草亭自宅を訪ねます。
「…二人で出掛ける。去風洞といふ門札をくゞる。奥まりたる小路の行き当り、左に玄関。沓脱。水打ちて庭樹幽遠、寒き事移し、床に方視の六歌仙の下絵らしきもの。花屏風。壁に去風洞の記をかく。黙雷の華蔵世界。一草亭中人。…… 料理 鯉の名物松清。鯉こく、鯉のあめ煮。鯛の刺身、鯛のうま煮。海老の汁。茶事をならはず勝手に食く。箸の置き方、それを膳の中に落す音を聞いて主人が膳を引きにくるのだといふ話を聞く。最初に飯一膳、それから酒といふ順序。…」
 西川一草亭のご自宅は素晴らしそうです。一度見てみたかったです。また富小路御池の角にあった「松清」は箸の音で料理を出すようで此方もすばらいしそうです。西川一草亭については水川隆夫の「漱石の京都」で詳しく書かれています。
「…西川一草亭(一八七八〜一九三八)、津田青楓(一八八〇〜一九七八) の兄弟は、西川源兵衛(一葉) の子として、中京区(当時は上京区)麸屋町押小路通に生れた。一葉は表で生花商花源を営み、奥の部屋で去風流の六代目家元として華道を教えていた。長男の源治郎は幼時からいけばなを学び、一草亭と号し、大正二年(一九一三)父の死後、七代目家元を継いだ。彼は形式にとらわれないおおらかで自由な作風を示して「文人生」と呼ばれ、華道に新風を吹きこんだ。…」
 西川一草亭と津田青楓の兄弟は有名なのでご存じの方も多いとおもいます。

右上の写真は現在の富小路御池交差点です。この交差点の右角に「松清」がありました(大正2年の地図に掲載されていました)。横断歩道の先の白いビルのところが「松清」の跡です。ただし当時とは御池通の道幅が違いますので、白いビルから少し手前のところまでが「松清」の跡だったとおもわれます。

新橋通-1->
 やっと多佳女の話になるのですが、漱石と多佳女が始めてあったのは上記の阿古屋茶屋のところで書かれている通り、20日の夜です。多佳女の祇園のお茶屋は「大友(だいとも)」といい漱石は30日に訪ねています(漱石はこの大友で体調を崩し泊り込んでしまいます)。今週はこの「大友」の場所を谷崎潤一郎の「磯田多佳女のこと」から探してみます。
「…ありし日の大友の座敷を偲ぶために毀ち去られたその家の跡に行って見た。四条通りの、南座のすぐ向うを北へ這入ると、大和大路、─ 俗に縄手と呼んでいる街路になるが、あれを北へ進むこと数丁、白川が賀茂川に注ぐあたりに架した大和橋を渡り、ちょっと行って東へ折れた横丁が、大友のあった新橋の通りで、正確に云えば新橋通大和大路東入ル元吉町と云う町名である。…」
 京都の地名はご存じの通り「○○通××路上ル」とか書かれていて番地がありません。ですから上ルといっても角から何軒目か分かりません。こまったものです。 

左上の写真は新橋通を西から東に撮影したものです。正確には縄手通(大和大路)角から新橋通を写しています。観光客用の通りですね。この場所が新橋通大和大路東入ル元吉町となります。ただこれだけでは「大友」の場所が分かりません。谷崎潤一郎の「磯田多佳女のこと」は忠公文庫の谷崎潤一郎「月と狂言師」の中に掲載されています。

新橋通-2->
 もう少し「大友」の詳細の場所を探します。
「…私は新橋通りへ曲って、正面に東山の新緑と知恩院の瓦の見える往来のまん中にたたずみ、暫く街の有様を眺めていたが、本来ならば遊客の出さかる時刻であるのに、昨今の花柳界は何処も火が消えたようなので、此のあたりもひっそりとして、一人の嚢者も舞妓も通らず、絃歌の声も聞えて来ない。進駐軍の兵士が一人、路上で自転車の稽古をしているのが、一二間行っては梶を取り損ねて横倒しに倒れかゝるのを、「あの進駐軍自転車によう乗らんぜ」と、子供が傍で唆し立てている。大友はその通りの南側の、路傍に地蔵様が祭ってある所を一二軒行ったあたり、西から数えて二つ目の露地の奥にあったので、行って見ると、表通りは昔のまゝの家並であるのに、ちょっと露地へ這入っただけですっかり様子が違っている。…」
 進駐軍の兵士はいませんでしたが、西から数えて一つ目の路地はありました。その先に上記書かれている「地蔵様」もありましたが二つ目の路地がありませんでした。ただ建物を良く見ると地蔵様の二軒先に路地が在ったとおもわれる場所がありました。現在は塞がれてしまっています。

右上の写真のやや右側に「地蔵様」があります。この「地蔵様」から二軒先の左側に路地の跡とおもわれる場所がありました。皆さんで確認してください。大正2年の地図を掲載しておきます。

大友跡>
 吉井勇の「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」と書かれた歌碑が白川沿いに建てられています。この歌碑の場所が漱石の泊まった多佳女の「大友」の場所なのです。
「…以前は表通りから覗くと、露地の奥が暗く見えたのに、今はぼかッと穴があいたように明るくなっていて、取り除かれた家のあとが読菜畑に化しており、盗賊避けの竹垣が囲らしてあるが、折よく「人の少年がその竹垣の一部を外したまゝ畑の土を掘り返しているので、私は中へ這入って行って、こゝが確かに大友の跡であるか否かを問い質した後、低掴これを久しゅうした。実は私は、家が潰されただけなので空爆に遭ったのとは違うから、少しは思い出の種になるようなものが残っていそうに考えていたのであるが、こう云う風に完全に掘り返され てしまったのでは、何一つ残る訳はない。彼女が名残を惜しんだと云う紫陽花は私は覚えていないけれども、毎年、ちょうど今の季節に来ると、木種の花の咲いているのが二階座敷から見えたものだのに、勿論そんなものもない。昔を語るものと云っては、畑の向うを流れて行く白川と、その綜々たる水音ばかりである。…」
 現在は白川の右 岸には道路ができていますが、この道は昭和20年に空襲対策で造られたものでそれまでは「大友」等のお茶屋が建っていました。上記の新橋通の二つ目の路地を入った先に「大友」があり、今は吉井勇の歌碑となっています。「この「大友」については「谷崎潤一郎の京都」で詳細に掲載する予定です。

左上の写真が吉井勇の「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」と書かれた歌碑です。「大友」の跡地に造られています。白川の流れも掲載しておきます。

次回も「夏目漱石の京都を歩く」は続きます。

夏目漱石の京都地図 -2-

【参考文献】
・硝子戸の中:夏目漱石 新潮文庫
・漱石の思い出:夏目鏡子、文春文庫
・夏目漱石 青春の旅:半藤一利、文春文庫ビジュアル版
・漱石2時間ウォーキング:井上明久、中央公論社
・漱石とその時代:江藤淳、新潮社
・漱石全集:岩波書店
・岡山文学風土記 岡山文庫33:大岩徳二、日本文教出版株式会社
・回想 子規・漱石:岩波文庫、高浜虚子
・評伝 正岡子規:岩波文庫、柴田宵曲
・墨汁一滴:岩波文庫、正岡子規
・新潮日本文学アルバム(正岡子規):新潮社
・東京文学地名辞典:東京堂出版、槌田満文
・筆まかせ 妙:正岡子規、岩波文庫
・伝記 正岡子規:松山教育委員会編
・松岡子規 故郷 松山平野の文学風景:松山郷土史文学研究会
・伊予路の正岡子規 文学碑遺跡散歩:松山郷土史文学研究会
・松山市立子規記念博物館 総合案内:松山市立子規記念博物館
・坂の上の雲マップ:松山市産業経済部坂の上の雲まちづくりチーム

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