<「磯田多佳女のこと」 谷崎潤一郎著>
谷崎潤一郎は戦後、祇園のお茶屋「大友(だいとも)」の磯田多佳について書いています。昭和22年9月に全国書房から発行された「磯田多佳女のこと」です。書き出しを掲載します。
「大友のお多佳さんで通っていた祇園の多佳女が去年(昭和二十年)の五月に亡くなったことを知ったのは、同じ年の六月であったと思う。当時私は作州津山に疎開していたので、多佳女の嗣子又一郎氏から熱海西山の善居へ宛てて出された死亡通知が、漸くその時分に廻り廻って私の手もとに届いたのであったと記憶する。私は多佳女に又一郎氏と云う嗣子があったことをも、又一郎氏が実は多佳女の姪の子に当る人であることをも、それまで知らなかったのであるが、しかし故人には実子がなかった筈であるから、此の人は多分故人と血のつながりのある人で、養子に貰われたのであろうとは、ほゞその時に想像した次第であった。平時ならば葬式には間に合わなかったとしても直ぐ飛んで行くところであったが、当時はどうにもならなかったので、私は取りあえず南禅寺北之坊町に住む又一郎氏に宛てて、悔み状にいさゝかの香花料を添えて送った。すると折返して又一郎氏から丁寧な挨拶状が来たが、それによって私は、多佳女が亡くなったばかりでなく、あの吉井勇の歌で名高い新橋の大友の家、 ── 何十年来多佳女が住み馴れた、あの白川の水に臨んだ家までが、建物疎開のためにあとかたもなく毀ち去られた事実を知った。…」。
谷崎潤一郎が初めて京都を訪ねたのは明治45年です。三条小橋西の万屋の金子氏に「大友」に連れて行ってもらっています。谷崎潤一郎も新進作家として名前が出ており、「大友」の磯田多佳女も二年前には雑誌に載っていましたから有名人が二人会ったということでしょうか!
★左上の写真が全国書房版の「磯田多佳女のこと」です。昭和22年9月発行です。私も古本で入手しましたが、価格も高くなく手に入るとおもいます。文庫本では中公文庫の「月と狂言師」の中に掲載されていますので、一読されることをお薦めします。京都祇園を歩くのにはこの本は必読です。
<源光院>
磯田多佳女は昭和20年5月に亡くなりますが、その一周忌の案内が谷崎潤一郎の元に届きます。多佳女が亡くなった時には谷崎潤一郎は岡山県津山市に疎開しており、お葬式には参加できていません。戦後の谷崎潤一郎は神戸には戻らず、21年3月には京都に住まいを見つけていますので、多佳女の一周忌には京都にいたわけです。
「…今年の五月、「磯田おたかさんが亡くなられてけんに一周忌を迎えましたので生前親しく芸事を通じて交りし者が集りまして故人の為に追善の演芸会を催しましておもいでのありし日を忍びたいと存じます」、と云う松本さだ女の案内状を貰った時は、私は既に京都の住人になっていた。会は五月二十五日の午後一時から知恩院境内の源光院と云う寺で催され、出し物は大友の客筋であった旦那衆の人々が語る荻江節、清元、一中節、宮薗節等の外に、袖香炉、短夜、露の蝶、桶取、花の旅等の京舞があるとのことであった。……
会場の源光院と云う寺もよかった。それは円山公園を北へ、知恩院の山門の方へ抜けて粟田口へつゞく廣い舗装道路がある、あの道の、山門の前を少し行って、雑草のあいだに僅かに通じている細い径をだらだらと西へ下った北側にあって、知恩院の塔頭ではあるが、今は某氏が知恩院から借りた形式で、私邸に使っているのであると云う。こゝの庫裡の二階には、嘗て上田敏がいたこともあり、又一郎氏も、今の南禅寺畔に家居する前、十年ばかりもこゝに住んでいたそうであるが、多佳女は此の寺院の庭の閑寂なのを愛して、しばしば此処へ来てひとり静かに三味線などを弾いていたものだそうで、故人に取っても因縁の深い場所なのであった。…」。
知恩院の塔頭、源光院は上記に書かれている通りなのですが、なかなか場所か分からず苦労しました。知恩院前の神宮路から三門の北側の車もやっと通れる細い路を西に入ります。
★左上の写真の左側が源光院です。大きなお寺なのでびっくりしました。
<「大友(だいとも)」跡>
「夏目漱石と磯田多佳女」でも「大友」の場所を掲載しましたが、桜の季節に撮影した写真が有りましたので再度掲載します。
「…先日、六月二十九日の夕刻五時半頃に、私はひとり此の歌を思い出しながら、ありし日の大友の座敷を偲ぶために毀ち去られたその家の跡に行って見た。四条通りの、南座のすぐ向うを北へ這入ると、大和大路、─
俗に縄手と呼んでいる街路になるが、あれを北へ進むこと数丁、白川が賀茂川に注ぐあたりに架した大和橋を渡り、ちょっと行って東へ折れた横丁が、大友のあった新橋の通りで、正確に云えば新橋通大和大路東大ル元吉町と云う町名である。私が初めて大友へ遊びに来た頃の祇園は、今の花見小路がまだ開けないで、四条通りの北側から此の新橋へかけての一郭に茶屋が多く集っており、此のあたりが最も繁昌しているように見受けられたが、終戦後の今日も、両側に格子作りの茶屋や置屋が並んでいる町の姿は、明治の頃とぁまり大して変っていない。蓋し祇園の遊里のうちでは此の辺が一番昔の面影をとゞめているのではあるまいか。花洛名勝図会に載っている大和橋附近の図などを見ても、川の北岸の人家が一と側だけ、水に沿うて細長く疎開されたことを除けば、此の界隈の感じが徳川時代とそう違っていないことが分る。…」。
「大友」は終戦直前の昭和20年に強制疎開で壊されます。現在は白川沿いの遊歩道になっています。「大友」跡地には吉井勇の「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」と書かれた歌碑が建てられています。
★左上の写真は「大友」があった白川右岸です。正面やや左に吉井勇の歌碑があります。
<中村楼>
多佳女はさまざまな人たちと出会います。
「…節分前日の二月二日であった。多佳は、祇園社樓門前の中村楼から呼ばれた。 中沢岩大京都高等工芸学校校長が発起人になって開いた洋画家の懇親会の席であった。座敷には京都高等工芸学校の色彩科の自在画と図案の実習、図画法を担当するために赴任したばかりの浅井忠をはじめ、田村宗立、牧野克次、伊藤快彦のほか東京から黒田清輝、久米桂一郎らの顔も見えた。ちょうど大阪で開会される第五回内国勧業博覧会の打ち合わせに、東京の黒田らが関西入りしたこともあって中沢が配慮した宴会である。…」。
四条通りに九雲堂を開くきっかけになる浅井忠と初めて出会いです。明治40年、四条通りに九雲堂を開きますが、僅か三カ月後の12月に浅井忠は東京で急死します。なかなかうまくいかないようです。
★左上の写真は現在の中村楼です。有名なので皆様よくご存じだとおもいますが、八坂神社の南楼門前にあります。八坂神社の境内にあるように思えるのですが、神社とは直接は関係ないようです。
<中村旅館跡>
多佳女の生涯の友達?(伴侶?)になる三条小橋西入ルの万屋旅館の主人、岡本橘仙と出会います。
「…多佳は、真葛ケ原への道を急いでいた。新橋から花見小路通を四条通に出、八坂神社の楼門をくぐり、拝殿のある境内から南門を抜ければ真葛ケ原にでる。多任は、いつものように八坂神社の拝殿で、お賽銭を上げ、パンパンと相手を打って頭を下げて真葛ケ原にすり抜け、「中村屋」の軒暖簾を潜った。中村屋は多佳がはじめて浅井に会った、忘れることのできない茶屋「中村楼」の南にある旅館である。ここに岡本が、突発性の、腰の神経痛で療養していた。…」
万屋旅館は三条小橋西入ルにあるのですが、主の岡本氏は自ら経営はせず甥の金子氏に任せています(夏目漱石が泊まったりして有名な旅館です)。
★右上の写真の正面角の家の處に中村旅館がありました(多佳女と岡田氏の…ですかね)。戦後もしばらくあったようです(住宅地図で確認しています)。現在は廃業されたようで普通の民家になっていました。谷崎潤一郎の「磯田多佳女のこと」によると、
「…多佳女の情的生活の方面については、私は多く知るところはないし、格別深く立ち入って書き記す興味も持たない。「続風流俄法」の「おとよ」は「お藤さん」の噂をして、「今はもうよその旦那のおもひもので、焼物の店を出してやはります」と云い、その焼物は「此間お穀れやした葺の先生」の「浅田先生がお畫きやした畫が多い」と云っているので「よその旦那」なる者が浅井忠氏でないことは分るが、それならその時分は誰の「おもひもの」だったのであろうか。又一郎氏の話では、最初彼女を落籍したのは中島某と云う人で、多佳女も此の人とは並々ならぬ仲であった。そして一時は実家の大友にも断りなしに此の人の後援で近所にお茶屋を出したりしたので、母の機嫌を損じたことなどもあったがー此の人は至って病身だったので間もなく天折してしまい、二人の交情はあっけなく終ったらしいと云う。とすると、九雲堂時代の 「旦那」は此の中島某であったか、それとも別な人であったか、調べれば分るだろうけれども、今はあまりそう云った風なことには触れずに置こう。ともかくも私が識ってからの彼女、明治四十五年以来三十五年間の多佳女と云うものは、岡本橘仙氏の「おもひもの」でもあり、「友達」でもあり、あらゆる意味での「好伴侶」であったと云う以外に、別にうわついた噂などは、私の寡聞かも知れないが聞いたことがないのである。。…」
、と書かれています。多佳女を見ていると、”情的生活”のイメージは思い浮かびませんね。上記に書かれている中村某氏はよく分かりませんでした。男性の名前としては中村某、浅井忠、岡本橘仙の三名くらいです(特に旦那を持つ必要もなかったようです!)。
<四条通り>
九雲堂を開いた四条通りについてここですこし説明したいとおもいます。下記には京都の道(三条通りとか四条通りとか烏丸通り)は幅三間ほど(一間=1.8mで道幅5.4mとなります)と書いてありますが、狭すぎますので実際には10数m程だったとおもいます。ただ、この幅だと市電も通れませんから明治時代後半には仕方がなく道路の拡張が始まるわけです。
「…四条通は、幅三間ばかりしかない狭い通り。花見小路通を四条通から下ったあたりは、西一面に野原が広がっていて、向こうに建仁寺の僧堂が見えた。…」。
左の写真のように見通しはよかったようです。
★左の写真が八坂神社前から見た四条通りです。丁度、道の拡張工事中のようなので明治45年頃の写真だとおもわれます。四条通りの道幅については、「…四条通は、明治四十五年に拡張されるまで、わずか十数メートルばかりの大路。…」、と書かれていましたのでそれなりに広かったようです。左の家並みから真ん中の電柱までが旧道で右側の町並みまで拡張したものとおもわれます(逆に書いていましたので修正しました)。
<九雲堂跡>
浅井忠氏の勧めにより、四条通りに陶器のお店「九雲堂」を開きます。
「…九雲堂開店の時の引札の口上は浅井氏が執筆したものらしく、同氏自筆の草稿が前記尺牒集の巻末に貼ってある。
京都の陶器とて名声の高きにも係らずさて改良進歩の跡なく菖型模倣に止まって陳套なるものとなり或は又輸出向の卑俗なるものとなり大方の愛顧に酬ふるに足らずこれ弊堂の深く憾みとなす処にして微力これを恢復せんことを欲し試験を重ぬること立に数年幸に精良なる品質を作ることを待たれば今回美術諸大家の賛助を得て斬新にして高雅なる意匠図案によりて質文相待ちて優美高雅なる珍品を製造し柳か新興国の面目を全ふし京都の名声をして益ます四方に輝やかしめんことを期す希くは続々御来生ありて実物御一覧の上世間ある処のものと自ら其撰を異にしたることを御認めありて御愛顧の栄を賜はらんことを乞ふ
明治四十年九月 九 雲 堂。」。
新規開店の案内状ですね。
★右上の写真が香鳥屋本店のビルです。昭和元年のビルですから貴重です。
「…とにかく多佳は、「大友」から数百メートル南の四条通に画した仕舞屋を見つけ、手を入れて開店に漕ぎ着けた。現在、「一力茶屋」の東の、袋物専門店「香鳥屋」のある場所である(四条通は、明治四十五年に拡張されるまで、わずか十数メートルばかりの大路。「九雲堂」の地は、道路上になる)。かつて、お梶が開いたという「歌茶屋」は目と鼻の先であり、東山散策の文人たちが円山公園から八坂神社を抜けて訪ねるのに、恰好の場所であった。…」。
この香鳥屋本店のビルの前辺りに九雲堂があったわけです。
次回も引き続いて「谷崎潤一郎の京都を歩く」を掲載します。