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最終更新日:2007年2月2日

●織田作之助の夫婦善哉を歩く -1-
  初版2007年1月27日 
<V01L03> 
 「これぞ大阪シリーズ」の三テーマ目です。今回は大本命、織田作之助の「夫婦善哉(めおとぜんざい)」をストーリーに沿って歩きます。今週は第一回目です(数回に分けて掲載します)。

<「夫婦善哉」 昭和15年8月発行(創元社)>
 織田作之助の「夫婦善哉」は昭和15年4月、同人雑誌「海風」に発表したのが最初です。この作品が改造社の第一回文藝推薦作品に推薦され「文藝」7月号に採録されます。これで人気を呼びます。織田作之助が”あとがき”で書いています。「この単行本に収めた五つの作品は何れも大阪を主題にした小説である。と同時に、それらの五篇には私が意識して追求した或るスタイル、手法が一貫して流れていると言えば言えるかも知れぬ。いわばこれらの作品は一つの物語(ロマン)形式の上に成り立つものである。…… 「夫婦善哉」は幸に第一回文藝推薦作となった。この作品は「雨」を書いている間に構想した。「雨」の中にも法善寺が少し出て来るが、その箇所を東京本郷の下宿で書きながら、法善寺横丁のめおとぜんざい屋をしきりに想ったのが動機である。リアリズムを形式を借りた童話である。…」。青山光二がこの「夫婦善哉」について、”とんな商売をしても長続きせず、転変の運命をたとりながらも二人の主人公は、大阪人の伝統的な生活力の強さで切りぬけていく”、と書いています。我々が思い抱いている”大阪のイメージ(夫婦愛も含めて)”とピッタリ合うわけです。現在にも通じる大阪のイメージです。

左上の写真が「夫婦善哉」の創元社版です。私は古本で入手しました。この表紙の絵が欲しくて買ったみたいなものです。題字が藤沢桓夫、表紙の絵は田村孝之介で法善寺横丁の「夫婦善哉」と右隣の「花月(裏表紙)」を描いています。当時の大阪の雰囲気を上手にあらわしています。表紙と裏の絵を合わせてお見せします。現在の同じ場所の写真と比べてみてください。

<「夫婦善哉」 昭和22年3月発行(大地書房)>
 織田作之助が肺結核で亡くなったのが昭和22年1月10日です。当時、織田作之助は人気作家であり、すぐに「夫婦善哉」は再発行されます。「年中借金取が出はいりした。節季はむろんまるで毎日のことで、醤油屋、油屋、八百屋、鰯屋、乾物屋、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促だった。路地の入り口で牛蒡、蓮根、芋、三ツ葉、蒟蒻、紅生姜、鯣、鰯など一銭天婦羅を揚げて商っている種吉は借金取の姿が見えると、下向いてにわかに饂飩粉をこねる真似した。近所の小供たちも、「おっさん、はよ牛蒡揚げてんかいナ」と待てしばしがなく、「よっしゃ、今揚げたアるぜ」というものの擂鉢の底をごしごしやるだけで、水洟の落ちたのも気付かなかった。
 種吉では話にならぬから素通りして路地の奥へ行き種吉の女房に掛け合うと、女房のお辰は種吉とは大分違って、借金取の動作に注意の目をくばった。催促の身振りが余って腰掛けている板の間をちょっとでもたたくと、お辰はすかさず、「人さまの家の板の間たたいて、あんた、それでよろしおまんのんか」と血相かえるのだった。「そこは家の神様が宿ったはるとこだっせ」
 芝居のつもりだがそれでもやはり興奮するのか、声に泪がまじる位であるから、相手は驚いて、「無茶いいなはんナ、何も私はたたかしまへんぜ」とむしろ開き直り、二三度押問答のあげく、結局お辰はいい負けて、素手では帰せぬ羽目になり、五十銭か一円だけ身を切られる想いで渡さねばならなかった。…」
。「夫婦善哉」の書き出しです。織田作之助の私小説ではないかとおもうくらいの書き出しです。この”借金取りの仕種”などは経験しないと書けませんね。

左上の写真が昭和22年8月、大地書房版の「夫婦善哉」です。戦後直ぐで、昭和15年の創元社版よりも紙質が悪いようです。この大地書房版では序文を宇野浩二が書いていました(大阪だからなのでしょうか)。「…織田の書き方には、ほめていへば、類のない所がある。それは、一と口にいふと、言葉が、あとからあとからとたぐり出されるやうに、述べられるので、それにつられ、それに、ひかれて、しらずしらず、読ませてしまふやうな方法である。これは、時とすると、読者が息ぐるしくなるほど、せはしないところがあるけれど、このために織田の文章を大へん面白くしてゐる。これは、ほめていへば、織田独特のものであらう。織田の小説の手法は、かつて、私も、小説の書きはじめ頃は、私の小説を、説話的といはれたけれど、織田の小説は、徹頭徹尾、説話的で、そこに織田の小説の面白さの一つがある。…」。なかなか良く見ていますね。現在、この「夫婦善哉」を読もうとすると「新潮文庫版」がいいのではないかとおもいます。

【織田作之助(おださくのすけ)】
 大正2年(1913)10月26日、大阪市の仕出し屋の家に生れる。三高時代から文学に傾倒し、昭和12年(1937)に青山光二らと同人誌『海風』を創刊。自伝的小説「雨」を発表して注目される。昭和14年(1939)「俗臭」が芥川賞候補、翌年「夫婦善哉」が『文芸』推薦作となるが、次作「青春の逆説」は奔放さゆえに発禁処分となった。戦後は「それでも私は行く」をいち早く夕刊に連載、昭和21年(1946)には当時の世俗を活写した短編「世相」で売れっ子となった。12月ヒロポンを打ちつつ「土曜夫人」を執筆中喀血し、翌年1月死去。(新潮文庫より)

夫婦善哉の道頓堀付近地図




しる市跡(そごう横)>
 この「夫婦善哉」を読み進みながら当時の大阪のミナミを紹介したいとおもいます。「…柳吉はうまい物に掛けると眼がなくて、「うまいもん屋」へしばしば蝶子を連れて行った。彼にいわせると、北にはうまいもんを食わせる店がなく、うまいもんは何といっても南に限るそうで、それも一流の店は駄目や、汚いことを言うようだが銭を捨てるだけの話、本真にうまいもん食いたかったら、「一ぺん俺の後へ随いて……」行くと、無論一流の店へははいらず、よくて高津(こうづ)の湯豆腐屋、下は夜店のドテ焼、粕饅頭から、戎橋筋そごう横「しる市」のどじょう汁と皮鯨汁(ころじる)、…」。やっぱり美味いもんはキタよりもミナミですね(キタは梅田付近、ミナミは難波付近)。上記に書かれている”高津の湯豆腐屋”は現在は全くありません。現在の高津神社前の写真を掲載しておきます。次に”夜店のドテ焼、粕饅頭”は不明です。最後に”戎橋筋そごう横「しる市」”ですが、お店があった場所が上記の写真の所です。「しる市」の味噌汁は二日酔いには良く効いたでしょうね!!この後、さらに沢山のお店の名前が出てきますので順に紹介していきます。

左上の写真の中央の”ampm”の所付近に「しる市」がありました(参考図書:大阪春秋 第33号)。残念ながら現在は有りません。正面のアーケードの左右が心斎橋筋で、その先の左側にそごうがあります。

出雲屋(相合橋東詰)>
 「鱧の皮」でも紹介しました”まむし”の「いずもや」です。「…道頓堀相合橋東詰「出雲屋」のまむし…… 新世界に二軒、千日前に一軒、道頓堀に中座の向いと、相合橋東詰にそれぞれ一軒ずつある都合五軒の出雲屋の中でまむしのうまいのは相合橋東詰の奴や、ご飯にたっぷりしみこませただしの味が「なんしょ、酒しょが良う利いとおる」のをフーフー口とがらせて食べ…」。当時は相生橋東詰め南側にあった「いずもや」のまむしが一番美味しかったようです。”まむし”については「鱧の皮」を参照してください。

右の写真の赤いビルの所が相生橋東詰めです。左側が相生橋となります。当時の地図にはこのビルの所に「いずもや」が確かにありました。

正弁丹吾亭(法善寺横丁)
 織田作之助は夫婦善哉」の中で嫌というほど大阪ミナミのお店を紹介します。「…日本橋「たこ梅」のたこ、法善寺境内「正弁丹吾亭(しょうべんたんごてい)」の関東煮、千日前常盤座横「寿司捨」の鉄火巻と鯛の皮の酢味噌、その向い「だるまや」のかやく飯と粕じるなどで、いずれも銭のかからぬいわば下手もの料理ばかりであった。芸者を連れて行くべき店の構えでもなかったから、はじめは蝶子も択りによってこんな所へと思ったが、「ど、ど、ど、どや、うまいやろが、こ、こ、こ、こんなうまいもんどこイ行ったかて食べられへんぜ」という講釈を聞きながら食うと、なるほどうまかった。…」”ど、どや、うまいやろ!、うまいやろ!!”と言われれば美味いとおもってしまいますね。”日本橋「たこ梅」”は「織田作之助の生誕の地 大阪を歩く」で紹介していますのでそちらを見てください。次に書かれている「正弁丹吾亭」は関東煮で有名で、いまも織田作之助が書いた当時と同じ場所にありました。戦災や火事で何回か焼けていますが継続してお店を出されていました。三番手の「寿司捨」は下記に掲載します。最後の「だるまや」は残念ながら無くなっていました。2000年頃までは千日前二丁目の同じ場所にお店は在ったようです。その後心斎橋そごうの新開店に合わせてB2にお店を出したようですが現在は撤退しています。

左上の写真が法善寺横丁にある現在の「正弁丹吾亭」です。この「正弁丹吾亭」は元々は(大正時代?)この法善寺裏(現在の法善寺横丁)の西門入口南側に軒店としてお店を出していたようです(現在のお店の向い側辺りで、昭和初期には現在の所に移っています)。この西門の暗がりで小便する酔っぱらいが多いので、小便のタンゴ(タンゴとは小便担桶)を置いたので、”正弁丹吾”となったそうです(大阪繁昌記より、本当かな!!)。またこのお店の前に織田作之助の句碑があります。「行き暮れて ここが思案の 善哉かな」。なかなかいいですね!!

寿司捨跡(常盤座横)>
 「夫婦善哉」に書かれている「寿司捨」の場所は千日前常盤座横なので、現在の千日前二丁目8番(なんばオリエンタルホテルの所に常盤座が在った)になります。昭和30年代の地図を見ると確かに千日前二丁目7番に「すし捨」がありました。「寿司捨」と「すし捨」が同じお店なのかは確認できておりません。「すし捨」は相生橋筋の千日前一丁目7番にもありました。此方のお店はかなり有名で、私も食べてみようとおもったのですが、夜しか営業していないようで、お昼に訪ねたので開いておらず食べ逃しました。

右の写真の先の空き地の所に「すし捨」がありました。相生橋筋の千日前二丁目7番です。千日前一丁目7番の「すし捨」の写真を掲載しておきます。

花月跡(法善寺)>
 昭和15年8月発行の「夫婦善哉」の本にも描かれている「法善寺 花月」です。「…法善寺の「花月」へ春団治の落語を聴きに行くと、ゲラゲラ笑い合って、握り合ってる手が汗をかいたりした。…」。この「法善寺 花月」は元々は金沢亭という大阪では一流の寄席でした。大正7年にこの寄席は吉本興業部に一万五千円(現在の億円単位の金額です)で買い取られ、「花月」になります。吉本興業部とは皆様ご存じの”吉本”です(吉本については別途、特集する予定です)。

左の写真が現在の法善寺横丁です。写真の右側に「法善寺 花月」がありました(この花月の先に昔の夫婦善哉がありました)。現在の右側のお店は「浪花割烹喜川」です。写真にも写っていますが右下に花月の記念碑があります。「懐かしおます この横丁で おもろし噺 五捨銭也 此処は花月の落語場あと」と書かれていました

次回も「夫婦善哉を歩く」が続きます。

織田作之助の大阪地図


【参考文献】
・道頓堀 川/橋/芝居:三田純市、白川書院
・大阪の歴史62(道頓堀特集):大阪市史編纂所
・大阪春秋 33、112:大阪春秋社
・都市大阪 文学の風景:橋本寛之、双文社出版
・モダン道頓堀探検:橋爪節也、創元社
・モダン心斎橋コレクション:橋爪節也、国書刊行会
・大阪365日事典:和多田勝、東方出版
・夫婦善哉:織田作之助、創元社、大地書房、新潮文庫
・関西名作の風景 正、続:大谷晃一、創元社
・百年の大阪 1〜4:大阪読売新聞社、浪速社

参考図書























参考DVD





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