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最終更新日:2007年1月30日


●織田作之助生誕の地 大阪を歩く
 初版2003年8月9日
 二版2006年1月30日 
<V01L01> たこ梅の写真を追加

 前回の掲載から少し時間が経ちましたが今週は「織田作之助生誕の地 大阪」を歩いてみます。大阪は文学不毛の地とよく言われますが、商売の街として”儲からん商売はやらん”の精神が子供から大人まで徹底しており、物書きは儲からん商売の最右翼となっています。仕出屋の息子の織田作之助がよく物書きになったものだとおもいます。

<たこ梅> たこ梅の写真を追加
 今週もまず最初の紹介は食べ物からです。寒くなるとよく食べる”おでん”は別名「関東煮」とも呼ばれていますから本来は関東の食べ物ですね。でも大阪に”おでん”の有名なお店が有ります。「…と困っているうちに、ふと関東煮屋が良いと思いつき、柳吉に言うと、「そ、そ、そら良え考えや、わいが腕前ふるつて点え味のもんを食わしたる」ひどく乗気になつた。……新規開店に先立ち、法善寺境内の正弁丹吾亭や道頓堀のたこ梅をはじめ、行き当りばつたりに関東煮屋の暖簾をくぐって、味加減や銚子の中身の工合、商売のやり口などを調べた。……お互いの名を一字ずつとつて「蝶柳」と屋号をつけ、いよいよ開店することになった一未だ暑さが去っていなかつたこととて思い切つて生ビールの樽を仕込んでいた故、はよ売りきってしまわねば気が抜けてわや(駄目)になると、やきもき心配したほどでもなく、よく売れた。人手を借りず、夫婦だけで店を切り廻したので、夜の十時から十二時頃までの一番たてこむ時間は眼のまわるほど忙しく、小便に立つ暇もなかった。柳吉は白い料理着に高下駄という粋な恰好で、ときどき銭函を覗いた。売上額が増えていると「いらつしやアい」剃刀屋のときと違って掛声も勇ましかった。」、は織田作之助の「夫婦善哉」の一節です。大阪ミナミの道頓堀沿いにある「たこ梅」は150年の歴史を誇るミナミを代表する(もとい関西を)おでん屋さんでした。でもこの道頓堀川沿いにあるお店は現在は閉まっています。そのかわりにミナミやキタに「たこ梅」の支店がたくさん出ています。大きく「たこ梅」という文字が染め抜かれた暖簾をくぐり抜ければ、織田作之助が生き、愛し、書いた戦前の大阪ミナミ道頓堀界隈にタイムスリップしてしまいます。

左上の写真が「たこ梅」名物のタコの甘露煮です。タコを丸ごと煮たものなのですが、これがまたやわらかくて旨いんです。大阪に出張したら新梅田食道街の「たこ梅北店」で…‥‥で〜す。

たこ梅の当初の場所(戦前)は現在閉まっている道頓堀川沿いのお店の場所では有りませんでした。道頓堀通りの南側、日本橋通りから二軒目に当初のお店はありました。「モダン道頓堀探検」によると、「…弁天座の東隣りのたこ梅が可なり古い店で、いつも繁昌している。蛸の煮方に特色があるのと、酒の酌ぎ方がケチケチしていないというので上戸党を喜ばしている。…」。と日比繁次郎が書いているのを紹介しています。左の写真は道頓堀通りの日本橋口ですが、左側角から二軒目に戦前のたこ梅がありました。反対側にある「たこ梅」は現在は閉まったままです。

織田作之助の「大阪」年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

織田作之助の足跡

大正2年
1913
大正デモクラシー
1
10月26日 大阪市南区生玉前町5215で生れる。父織田鶴吉、母たかゑ
大正6年
1917
ロシア革命
5
大阪市東区東平野町7丁目260番地に転居
大正7年
1918
シベリア出兵
7
大阪市東区東平野町7丁目265番地心光庵境内に転居
大正9年
1920
国際連盟成立
9
4月 大阪市東野尋常高等小学校(現市立生魂小学校)入学
大正15年
1926
円本時代始まる
13
春、天王寺区上汐町4丁目27番地に転居
4月 大阪府立高津中学校(現、府立高津高等学校)入学
昭和6年
1931
満州事変
18
4月 第三高等学校入学(現、京都大学教養学部)

大阪市南区生玉前町>
 大阪の地理はよく分からないので、此処では大谷晃一の織田作之助」から紹介します。「大正二年癸丑十月二十六日、作之助は生まれた。星は六白金星。時代は大正に入って、一年とはたっていない。……生まれた家は、大阪市南区生玉前町五二一五番地にあった。あるいは五二一四か五ニー六であるかも知れない。現、天王寺区生玉前町四番一九号。源聖寺坂を上り、谷町筋に突き当たって南へ数軒のところ。拡張した谷町筋の東側にあたる。いまは吉田建材株式会社という四階建ての小さいビルがある付近である。前の歩道ぐらいの幅が、当時の谷町筋だった。作之助の出生地は、従来すべて天王寺区上汐町四丁目二七番地になっている。これは、いわゆる日の丸湯横の路地のことである。一家がそこへ移ったのは、ずっと後年の大正十五年だった。そのころは東区東平野町七丁目二六〇番地で、谷町筋の家からいえばその裏町にあたる。近所ではあるけれども、表筋と裏店で、決定的に違う。作之助自身は生まれた家を記憶していないようである。作品の中にそれらしい描写は出て来ない。長姉のタツだけが、おぼろげに憶えている。作之助が生まれた年には、父鶴吉は数え四十四歳、母たかゑ三十三歳、長女タツ十歳、次女千代八歳、四女きく三歳であつた。」、道頓堀に近い生玉前町は東京で例えると浅草近くの根岸界隈から両国辺りではないかとおもいます。

左上の写真は谷町筋の生玉前町4番地付近から生玉南交差点方面を撮影したものです。右側手前から2軒目が織田作之助生誕の地の吉田建材株式会社のビルです。親父の鶴吉はこの地で仕出屋を営んでいました。店を半分にわけて、南側で魚屋を、北側で寿司屋をしていたようです。この後、大阪市東区東平野町7丁目に転居しますが、場所は下記の写真付近です。

左の写真は日の丸湯横の路地のあった大阪市天王寺区上汐町4丁目付近です。この辺りについては大谷晃一の「関西名作の風土」(この本は天牛書店から通販で買いました)を参考にすると、「…私は昆布を煮る勾いをかいだ。日の丸路地の入口のあたりである。蝶子がヤトナの勤めを終えて、夜ふけて帰って来る。路地へ入るとプンプン良い勾いがする。柳吉が昆布を煮ている。いや、これは小説のはずだが。実はそのころ昆布の勾いなんかしなかった。織田作得意の虚構だった。ところが、米機がここも焼きつくした時、日の丸湯の釜と煙突だけが残った。そこを塩昆布屋が買取って、残った釜で昆布を煮ることになった。嘘の可能性が本当になった。材木屋の倉庫、製菓屋、文化アパート、自動車シート修理屋、昆布加工小売協同組合、映画資材卸、写真植字、アパート、運送屋。これが今の家並である。…」、とあります。写真の左手前から、、製菓屋、文化アパート、自動車シート修理屋、昆布加工小売協同組合、映画資材卸となっているはずなのですが、確認できたのは昆布加工小売協同組合、映画資材会社だけでした。

大阪市東野尋常高等小学校(現市立生魂小学校)>
 作之助は大正9年4月、すぐ側の大阪市東野尋常高等小学校(現市立生魂小学校)に入学します。「大正九年四月一日、作之助は大阪市立東平野尋常高等小学校へ入学した。翌十年に東平野第一尋常高等小学校と改称し、現在は生魂小学校。……町内をあっと言わせるには、さし当たり高津中学へみごとに合格することが第一である。東平野第一小学校からは、優等生でないと高津中学へ入れなかった。谷町四丁目の学習塾へ通った。竹中の二階で勉強に熱中した。…」、そうとう勉強していたようです。織田作之助の児童学籍簿によると6年生のときは修身、国語、算術、日本歴史、地理が10、理科、唱歌、手工が9、図画、体操が8でした。

右の写真が現在のの生魂小学校です。建物だけは建て直されていますが場所も変わっていませんのでそのままだとおもいます。

生国魂神社>
 近くに作之助がよく遊んだ生国魂神社があります。「現、上汐町三丁目の煙草屋横の路地に、かつぎの魚屋があった。父親が砲兵工廠をやめた退職金を元手にその商売を始め、イワシーイワシーと天びん棒をかついで回つた。母親は生国魂さんの縁日に露店を出して、頭をたたくとガタガタ動く土人形を売つた。作之助より六つ年上の息子ががき大将だった。これが、作曲家の服部良一である。…」、作之助が上汐町四丁目ですから隣町ですね。

左の写真が生国魂神社です。「作之助が六つのとき、七月九日の生国魂さんのお祭の晩に、長姉タツが言うた。作ちゃん連れたげよ。妹登美子も一緒であった。お祭を見てから千日前まで歩き、常盤座の向かいにあった朝日写真館で三人の写真を撮った。上汐町界隈の家々は生国魂神社の氏子であった。大正七年である。」、この近所では大きな神社ではないかとおもいます。

大阪府立高津中学校(現、府立高津高等学校)>
 作之助は大正15年4月、大阪府立高津中学校(現、府立高津高等学校)に入学します。「大正十五年三月、町内があっと言うた。作之助の目算はみごとに当たった。大阪府立高津中学校の入学試験に合格したのである。現、高津高校。東平野第一小学校から四人が受け、三人が通った。河中正一、灘波春芳、鈴木作之助である。……魚屋の子に似合わん、鳶が鷹を産んだと町内中が喝した。第一に驚いたのは、何んと父親の鶴吉である。……この町で中学へ行けるのは、野崎や浮田や久下や中村という家主の子でなければならなかった。…」、この当時は路地の奥の六軒長屋に住んでいる仕出屋の息子が中学などにはとても行けなかったようです。試験を受けさせた親も親ですが、合格した息子も並大抵の息子ではなかったのではないでしょうか。その時、町内中が”あっと驚いた”のはなにか分かりますね!!

右の写真は現、府立高津高等学校です。

次回は第三高等学校時代ですが何時になるかわかりません。

<織田作之助の大阪地図>



【参考文献】
・わたしの織田作之助:織田昭子、サンケイ新聞社
・織田作之助:大谷晃一、沖積舎
・資料 織田作之助:関根和行、オリジン出版センター
・青春の賭け:青山光二、中公文庫
・わが文学放浪:青山光二、実業之日本社
・純血無頼派の生きた時代:青山光二、双葉社
・夫婦善哉:織田作之助、大地書房
・カリスト時代:林忠彦、朝日ソノラマ
・青春無頼の詩:織田作之助、大和出版
・夫婦善哉:織田作之助、新潮文庫
・関西名作の風土:大谷晃一、創元社
・大阪学、文学編:大谷晃一、新潮文庫
・大阪文学散歩 ?J?K?L:関西書院
 
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