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最終更新日:2018年06月07日


●上司小剣の「鱧の皮」を歩く (道頓堀シリーズ-1-)
  初版2001年1月1日
 <V02L03>

 今週から「これぞ大阪シリーズ!!」を掲載したいとおもいます。第一回目として大正初期の道頓堀から宗右衛門町を見事に描ききっている上司小剣の「鱧の皮」を歩いてみました。



<鱧の皮(上司小剣)>
 関西でも大阪生まれの方でないと上司小剣の「鱧の皮」は知らないとおもいます。この小説は大正3年1月に「ホトトギス」に掲載されて、好評を博します。「郵便配達が巡査のやうな靴音をさして入つて来た。「福島磯……といふ人が居ますか。」 彼は焦々した調子でかう言つて、束になつた葉書や手紙の中から、赤い印紙を二枚貼つた封の厚いのを取り出した。道頓堀の夜景は丁どこれから、といふ時刻で、筋向うの芝居は幕間になつたらしく、讃岐屋の店は一時に立て込んで、二階からの通し物や、芝居の本家や前茶屋からの出前で、銀場も板場もテンテコ舞をする程であつた。「福島磯……此処だす、此処だす。」と忙しいお文は、銀場から白い手を差し出した。男も女も、襷がけでクルクルと郵便配達の周囲を廻つてゐるけれども、お客の方に夢中で、誰れ一人女主人の為めに、郵便配達の手から厚い封書を取り次ぐものはなかつた。「標札を出しとくか、何々方としといて貰はんと困るな。」 怖い顔をした郵便配達は、かう言つて、一間も此方から厚い封書を銀場へ投げ込むと、クルリと身体の向を変へて、靴音荒々しく、板場で焼く鰻の匂を嗅ぎながら、暖簾を潜 つて去つた。 四十人前といふ前茶屋の大口が焼き上つて、二階の客にも十二組までお愛そを済ましたので、お文は漸く膝の下から先刻の厚い封書を取り出して、先づ其の外形からつくづく見た。…」。これは「鱧の皮」の書き出しです。大阪の道頓堀で鰻屋を営む女将(旦那は道楽者の婿養子)の一日を、大阪の情景を折り込みながら見事に描ききっています。

左上の写真が岩波文庫版「鱧の皮 他五篇」です。残念ながら現在は古本でしか手に入りません。新本では「名作の食卓 文学に見る食文化」角川学芸ブックス版という本の中に掲載されていました。

【上司小剣(かみつかさしょうけん)】
 明治7年(1874)12月15日、奈良市に生まれる。父親が摂津(川西市)の多田神社の宮司を勤めていたため、小学校まで川西市で過ごします。その後大阪の母の実家に預けられ明治22年(1889)大阪予備学校に入学しますが父の死去により退学、その後小学校の代用教員を勤めます。明治30年(1897)東京の読売新聞社に入社。明治38年(1905)エッセイをまとめた『小剣随筆 その日その日』を発表し好評を得ます。大正3年(1914)1月に発表した小説「鱧の皮」は代表作となります。大正4年(1915)には読売新聞の編集局長兼文芸部長兼婦人部長になりますが大正9年(1920)読売新聞社退社し文筆一本となります。昭和22年(1947)9月2日死去。

<まむし(いずもや)>
 「鱧の皮」で登場する鰻屋については下記で書いていますが、その中で登場する「まむし」について解説したいとおもいます(関西の皆さんはよくご存じですが!)。「そんなら私、そツちへいて読みますわ。……をツさん一寸銀場を代つとくなはれ、あのまむしが五つ上ると金太に魚槽を見にやつとくなはれ。…」。と「鱧の皮」には書かれています。左の写真が「まむし」です。ご存じだとはおもいますが関東と関西では鰻の料理方法が違います。関東は背開きしてから一度蒸し、そして焼きます(柔らかくなります)。関西は腹開きしてから焼きます(焼き方が関西の方が難しく、焼き上がりが香ばしくなります)。その上、盛りつけ方が違います。「まむし」はご飯の間に鰻を挟みます。写真には上にも鰻がのっていますが特上を頼んだからで、上と並ではのっていません。上からタレをかけます。写真のとおり、ご飯にしっかり色がついてしまっています。味もしっかりとしています(まあ、すこし濃い感じ!)。もう少し詳しく説明するには三田純市の「道頓堀 川/橋/芝居」の「まむし」について書かれているところを引用します。「…鰻井のことを、大阪では<まむし>という。まむし、の語源は、まぶす──すなわち、混ぜ合わせることで、その意味では<まむし>の鰻は、本来、飯のなかへ姿をしずめていなければならない。器にまず半分ほど飯を入れ、そこへ鰻をのせた上から、もう一度飯をのせる。これが本来の、まむし、である。…… 東京の鰻と大阪の鰻の大きなちがいは、東京式はまず蒸して脂肪を抜いてから焼くが、大阪のはそのままこってりと焼く。これを大阪風とか地焼とか呼ぶが、それともうひとつのちがいは、東京のうなぎ屋が、あくまで鰻専門であるのに対して、大阪のは、料理のフルコースのなかの 一品として、焼物がありに鰻を出すことである。…」。東京の「野田岩」等の一流店と比べてはいけません。価格もリーズナブルですから大阪の「まむし」は庶民の鰻ですね。

左上の写真は「いずもや」の”まむし特上+肝吸い”です(1400+200=1600円)。「いずもや」さんのメニューも掲載しておきます(いずもやさんごめんなさい)。東京風の白いごはんの”かば焼”もありました。

道頓堀界隈地図



いづもや跡(讃岐屋)>
 「鱧の皮」のモデルになった鰻屋が「いずもや」です。当時は「いづもや」もチェーン店で道頓堀から千日前には何店舗かあったようです。特に有名だったのが道頓堀の相生橋東詰めと角座前のお店でした。「…源太郎がまた俯いて、読みかけの長い手紙を読まうとした時、下の河中から突然大きな声が聞えた。「おーい、……おーい、……讃岐屋ア。……おーい、讃岐屋ア。」 重い身体を、どツこいしよと浮かして、源太郎が腰|硝子の障子を開け、水の上へ架け出した二尺の濡れ縁へ危さうに片足を踏み出した時、河の中からはまた大きな声が聞えた。「おーい、讃岐屋ア。……鰻で飯を二人前呉れえ。」。…」。ここでは鰻屋は讃岐屋になっていますが、大正初期の芝居小屋のまえの鰻屋というと、道頓堀では芝居小屋が角座で鰻屋が「いづもや」となってしまいます。道頓堀というと、ここしかないわけです。残念ながら角座前の「いづもや」はもうありません。現在は千日前にある「いづもや」のみです。

左の写真の正面のやや右の「わらい」のお店の所に「いづもや」がありました。昭和の中頃までは角座の前に「いづもや」はあったのですが、何時の間にか無くなっていました。

千日前筋>
 讃岐屋の女将お文と叔父は夫婦善哉を食べに行くふりをして法善寺横丁の呑み屋に向います。「…お文と源太郎とは、人込みの中を抜けて、褄を取つて行く紅白粉の濃い女や、萌黄の風呂敷に箱らしい四角なものを包んだのを掲げた女やに摩れ違ひながら、千日前の方へ曲つた。「千日前ちふとこは、洋服着た人の滅多に居んとこやてな。さう聞いてみると成るほどさうや。」と、源太郎は動もすると突き当らうとする群集に、一人でも多く眼を注ぎつゝ言つた。…」。上記の地図を参照してください。角座の前の讃岐屋(いづもや)から西に向うと直ぐ千日前筋です。そこを左に折れます。

右上の写真が千日前筋の入口です。角は金龍ラーメンになっています。人通りは当時と比べても変わらないくらい多いですね!、大阪では南北の道が”筋”で東西が”通り”の名称です。

夫婦ぜんざい跡(戦前)>
 千日前筋を少し歩いて右に折れて法善寺横丁に入ります。「…お文はにこにこと法善寺裏の細い路次へ曲つた。其処も此処も食物を並べた店の多い中を通つて、この路次へ入ると、奥の方からまた食物の匂が湧き出して来るやうであつた。路次の中には寄席もあつた。道が漸く人一人行き違へるだけの狭さなので、寄席の木戸番の高く客を呼ぶ声は、通行人の鼓膜を突き破りさうであつた。芸人の名を書いた庵看板の並んでゐるのをチラと見て、お文は其の奥の善哉屋の横に、祀つたやうにして看板に置いてある、大きなおかめ人形の前に立つた。…」。戦前の夫婦ぜんざいの場所と現在の場所とは違っています。現在は水かけ不動の横に有ります(上記の地図を参照)。

左上の写真の正面角に戦前の夫婦ぜんざいがありました。その右隣には寄席の花月がありました。この通りには夫婦ぜんざいも花月も無くなりましたが、雰囲気はそのままですね。

戎橋>
 法善寺横丁の呑み屋で飲んだ後、二人は千日前筋を戻って道頓堀を西へ向い戎橋から宗右衛門町に入ります。「…酔つたお文を笑はして、源太郎は人通りの疎らになつた千日前を道頓堀へ、先きに立つて歩いた。「をツさんも古いもんやな。芝居の舞台で見るのと違うて、二本差したほんまの武士を見てやはるんやもんなア。」と、お文は笑ひ笑い言つて、格別酔つた風もなく、叔父の後からくツ付いて歩いた。「これから家へ行くと、お酒の臭気がして阿母アはんに知れますよつて、私もうちいと歩いて行きますわ。をツさん別れまへう。」 かう言つて辻を西に曲つて行くお文を、源太郎は追ツかけるやうにして、一所に戎橋からクルリと宗右衛門町へ廻つた。…」。ここでは細かい描写をしています。飲んでいたため讃岐屋の前を通りたくなかったのでしょう。道頓堀を西に向い戎橋から宗右衛門町にぐるっと遠回りしています。

右の写真の所が戎橋です。グリコだけは変わりませんね!

冨田屋跡(宗右衛門町)>
 「鱧の皮」ではこの場面で宗右衛門町を細かく描写しています。昔の宗右衛門町がよく分かります。「…随一の名妓と唄はれてゐる、富田屋の八千代の住む加賀屋といふ河沿ひの家のあたりは、対岸でも灯の色が殊に鮮かで、調子の高い撥の音も其の辺から流れて来るやうに思はれた。空には星が一杯で、黒い河水に映る両岸の灯と色を競ふやうであつた。 名妓の噂を始めた縮れ毛の、色の黒い、足の大きな雇女は、源太郎が何とも言はぬので、また欄干を叩いて喇叭節をやり出した。…… 富田屋にも、伊丹幸にも、大和屋にも、眠つたやうな灯が点いて、陽気な町も湿つてゐた。たまに出逢ふのは、送られて行く化粧の女で、それも狐か何かの如くに思はれた。…」。ここに書かれている冨田屋、加賀屋、伊丹幸、大和屋は有名なお茶屋で、残念ながら全てが無くなっていました(大和屋が少し前まであったのですが)。

左上の写真の左側の駐車場の所が冨田屋跡(とんだや)で、右隣に伊丹幸(いたこ)、向かい側に加賀屋、次の交差点を過ぎた先の左側に大和屋(写真右側)がありました。

日本橋停留所跡>
 叔父を市電に乗せるために日本橋停留所まで宗右衛門町を歩きます。「…日本橋の詰で、叔父を終夜運転の電車に乗せて…」。当時は日本橋の橋の上に市電の停留所があったようです。

右の写真の通りが堺筋です。正面辺りが日本橋です。市電は遠の昔に無くなっていて、道も北行きの一方通行になっていました。

さの半(蒲鉾屋)>
 女将は道頓堀の讃岐屋に戻る前に東京にいる旦那のために蒲鉾屋で「鱧の皮」を買います。「…お文は道頓堀でまだ起きてゐた蒲鉾屋に寄つて、鱧の皮を一円買ひ、眠さうにしてゐる丁稚に小包郵便の荷作をさして、それを提げると、急ぎ足に家へ帰つた。…」。ここでやっとタイトルの「鱧の皮」がでてきます。書かれている蒲鉾屋は道頓堀を日本橋から西に向うと相生橋東詰め南側にある「さの半」になります。

左の写真の左側の白い看板に「さの半」と書かれています。残念ながら残っているのは看板だけで、お店は営業されていませんでした。

鱧の皮(大寅製)>
 「さの半」がやっていなかったので何処かで「鱧の皮」を売っているところはないかと探しました。やっと探した蒲鉾屋さんが戎筋の「大寅」です。お店の正面に置いてありました。「鱧の皮」そのものと、千切りにして酢で味付けしてあるパック詰めと二種類ありました。三田純市の「道頓堀 川/橋/芝居」から引用すると、「…大阪のかまぼこ屋では、かまぼこの材料に使った鱧の、皮だけを、さっと焙って売る。これが、鱧の皮、である。これを買って帰って毛抜きで丹念に小骨を抜き、胡瓜と一緒に三杯酢で食べても美味いし、また味噌醤油に漬けて温い飯にまぶし、井にする手もある。『鱧の皮』に登場する極道な亭主も、きっと私同様、食い意地ばかり張った、そのくせ意気地のないぐうたら者だったのだろうと、ひそかに同情するのである。…」、とあり、鱧の皮は大阪の夏に無くてはならないものになっていたようです。

右の写真が鱧の皮のパック詰めです。「鱧の皮」そのものの写真そのものも掲載しておきます。ビールというよりも日本酒に合いますね!なかなか美味しかったです。

「これぞ大阪シリーズ!!」二回目は織田作之助の「夫婦善哉」です。

【参考文献】
・鱧の皮:上司小剣、岩波文庫
・道頓堀 川/橋/芝居:三田純市、白川書院
・大阪の歴史62(道頓堀特集):大阪市史編纂所
・大阪春秋112:大阪春秋社
・都市大阪 文学の風景:橋本寛之、双文社出版
・モダン道頓堀探検:橋爪節也、創元社
・モダン心斎橋コレクション:橋爪節也、国書刊行会
・大阪365日事典:和多田勝、東方出版

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