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最終更新日:2017年10月28日

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●向田邦子の東京を歩く(1) 2003年11月15日 V01L02
 向田邦子原作の「阿修羅のごとく」が、森田監督、大竹しのぶ、黒木瞳、深田恭子などの出演で映画化され、現在東宝系で公開中です。映画化を記念して、向田邦子を旅してみました。今週は第一回目として、東京中心に歩いています。

<寺内貫太郎一家>
 向田邦子といえば、本が好きな人なら、「父の詫び状」を一番に思い出すのではないでしょうか。ただ、私が向田邦子で、最も印象が強かったのは「寺内貫太郎一家」です。「寺内貫太郎、東京谷中にある「寺内石材店」通称「石質」の主人。正式には三代目寺内貫太郎である。今年五十の働き盛り。身長百八十センチ、体重百一キロの巨体を、「石貫」の判天に腹巻、裁着袴、首からプラさげた成田山のお守りをゆすって歩く姿はなかなかの見ものである。貫太郎に言わせると、石屋ほど良い商売はないという。「石ってのは、おっぽり出しといたって泥棒は持ってかない。火事や地震も平ちゃら。水が出たって流される心配はないんだから」、理屈は無用。ただコツコツと汗をかいて体を動かすだけ書貫太郎の人生哲学は、すべて石から生れているようだ。一男一女の父。口下手。ワンマン。怒りっぱいくせに涙もろい。カッとなると、口より先に手が飛んで、相手は二メートル先にけし飛んでいる。…」、と本の書き出しを書くと、思い出してきますね。「寺内貫太郎一家」は、TBSで昭和49年(1974)、テレビドラマ化しています。出演は小林亜星、加藤治子、梶芽衣子、西条秀樹、悠木千帆(現・樹木希林)、浅田美代子、藤竜也、ですので、昨日のように思い出しました。

【向田邦子】
昭和4年(1929)東京生れ。実践女子専門学校国語科卒業。映画雑誌編集記者を経て放送作家となりラジオ・テレビで活躍。代表作に「だいこんの花」「七人の孫」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「隣の女」等がある。55年には初めての短編小説「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で第83回直木賞を受賞し作家活動に入ったが、56年8月航空機事故で急逝。(文春文庫より)

左の写真がサンケイノベルスの「寺内貫太郎一家」の表紙です。テレビのイメージそのままです!

向田邦子東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

向田邦子の足跡

昭和4年
1929
0
11月28日に東京市世田谷区若林に父 俊雄、母 せい の長女として生れる。
昭和5年
1930
ロンドン軍縮会議
1
4月 父親の転勤に伴って栃木県宇都宮市二条町二丁目十三番地に転居
昭和9年
1934
シベリア出兵
5
4月 栃木県宇都宮市西大寛町に転居
昭和11年
1936
2.26事件
7
4月 宇都宮市西原尋常小学校 一年の一学期のみ
7月22日 父親の転勤で東京都目黒区中目黒三丁目に転居
9月 目黒区立油面尋常小学校に二学期から転校
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
8
3月 入院
9月 東京都目黒区下目黒四丁目に転居

<生誕の地>
 向田邦子の生誕の地について書かれた資料はほとんどないのですが、クロワッサン別冊、「向田邦子の手紙」には、”住んだ家15軒”が簡単な住所と写真で紹介されています。「当時の家賃台帳が残っている。「十六円他」と記されている。…結婚の翌年、十一月二十八日。この家の奥の座敷で、初めての子供が生れた。女の子で、邦子と名づける。昭和四年のことだ。…「邦子は聞き分けのいい子、それが取り柄でしたよ。我慢つよくてね」母・せいさんの思い出の中の邦子は、(大人になんてからも)けっして愚痴を言わない、痛みを見せない、そんな必死な顔。」、と書かれています。

左の写真辺りが向田邦子が生れた世田谷区若林八十五番地です。三軒茶屋から世田谷通りに入り、環状七号線の若林交差点の手前を右側に入った所辺りです。(今回は個人宅が多いため地図等での表示は控えさせて戴きます)


宇都宮へ転居
 向田邦子は昭和5年4月、一歳の時に宇都宮に転居します。父が第一徴兵保険(戦後は東邦生命)に勤めており、宇都宮支部の書記として転勤したためです。詳細は「向田邦子の宇都宮を歩く」で特集します。



<中目黒三丁目>
 昭和11年7月11日、向田邦子は父の東京転勤にともなって、東京目黒に転居します。当時の住まいについては「父の詫び状」に詳細に書かれています。「…小学校一年の時に住んだ中目黒のうちは文化住宅のはしりであった。玄関の横に西洋館のついた、見てくれはいいが安普請の、同じつくりの借家が三軒ならんでいた。うちは左端にあり、そのまた左隣りは小学校の校長先生だった。そもそも、この家に決めた動機というのが、隣りに教育者が住んでいるということだった。……右隣りは歯科医だった。 栃木だか群馬の素封家の息子だというおとなしいご主人と、美人の奥さんに男の子が二人いた。…ある晩、隣りで夫婦喧嘩があった。… 翌朝、私が学校にゆくので玄関に出ると、隣りのご主人が門のところに立っていた。寝巻の前がはだけた格好で、ぼんやり遠くを見ていた。朝の挨拶をする私の姿も目に入らないようだった。この時、奥さんは布団の中で冷たくなっていたのである。私が学校から帰った時、警察や新聞社や近所の人でうちの前は黒山の人であった。…」。すごい経験をしています。当時の朝日新聞(東京朝日新聞 昭和12年6月17日)を見ると、「…十五日夜七時頃、些細な事から夫婦喧嘩が始まり、○○氏がかっとなって妻○○の襟首をつかんで二三回頭部を鉄拳で乱打した…」、と掲載していました。

右の写真右側が当時の住まいです。現在はアパートになっています。坂の途中なのですが、上記の文章では書かれていません。(今回は個人宅が多いため地図等での表示は控えさせて戴きます)

<油面小学校>
 向田邦子が通った油面尋常小学校についての記述は少ないというか、ほとんどないのですが、「昔カレー」の中に書かれています。「…いままでに随分いろいろなカレーを食べた。目黒の油面小学校の、校門の横にあったパン屋で、母にかくれて食べたカレーパン。…」。油面尋常小学校は戦災で焼けてしまい、門柱しか残っていないのですが、昔の雰囲気はそのままではないかとおもいます。上記に書かれている校門の横のパン屋は写真右側の所ではないかとおもいます。雑誌「東京人」の2001年6、7月号に高島利男が”向田邦子の昭和をさがして”を書いています。「…「油面」は向田邦子が一年生から三年生まで在学した小学校の名だか、かわった名前だなあ、とかねてより思っていた。ここへ来てはじめて、それはお地蔵さんの名前であることを知った。…」、と書いています。

左の写真が現在の油面小学校です。目黒通りから油面小学校へいく油面商店街の途中右側に油面地蔵があります。油面の由来は、油面小学校の裏にある油面公園に「菜の花からとった菜種油を奉納していたので、税を免除されていたことからからの”油免”から由来している」、と記載していました。

<下目黒四丁目>
 昭和12年9月、中目黒三丁目の殺人事件から3ヶ月後にすぐ側の下目黒四丁目に転居します。殺人事件が起こるのはまずかったのでしょう。翌年の昭和13年には妹の和子が生れ、四人兄弟となります。この場所の住所については本によって異なっています。クロワッサンの初期の「向田邦子の手紙」では下目黒四丁目となっているのですか、最近の「向田邦子を旅する」や、向田和子さんの書かれた本では「目黒区中目黒四丁目」となっています。松田良一の「向田邦子 心の風景」では下目黒四丁目となっています。ただ、クロワッサンの「向田邦子を旅する」では記載住所は中目黒四丁目なのですが、掲載されている写真は下目黒四丁目にありました。写真が正しいとすると下目黒四丁目が正解とおもいます。本当にみんないい加減ですね。(記載の住所はすべて旧住所表示です)

右の写真の正面付近に社宅があったようです。油面小学校から細い路を数百メートルの所です。(今回は個人宅が多いため地図等での表示は控えさせて戴きます)


●向田邦子の東京を歩く(2)
  初版2003年11月22日
  二版2007年8月1日 <V01L01> 仙台を追加

 向田邦子原作の「阿修羅のごとく」が、森田監督、大竹しのぶ、黒木瞳、深田恭子などの出演で映画化され、現在東宝系で公開中です。映画化を記念して、向田邦子を旅してみました。今週は第二回目として、昭和20年前後の東京中心に歩いています。

<向田邦子の手紙>
 向田邦子の住まいを探すのにはこの本が一番詳しいのではないかと思います。昭和57年8月発行で、すこし古いですが真面目に作っている本です。近ごろの向田邦子本は、あまりに着飾りすぎで、本当かなと思う事も書いています。「東京山の手 …… が向田邦子の”故郷”と言えば言える。けれどお父さんが転勤の多い仕事だったため、彼女にはいくつもの”故郷もどき”が……。向田邦子の住んだ家15軒… もちろん現在は見知らぬ人が住んでいる。町名も変わった。道のかたちが違ってしまったり、市兵衛町のように住宅地が高速道路に変貌してしまったり。高松では社宅の跡に大きなビル。昔を忍ぶよすがは殆どないけれど、それでも彼女の足あとは歴然と残っている。」、と特集をしています。ただ、写真と住所が書いてあるのですが、肝心の場所と住所があっていないところもありました。ほんとうに困ったものです。

【向田邦子】
昭和4年(1929)東京生れ。実践女子専門学校国語科卒業。映画雑誌編集記者を経て放送作家となりラジオ・テレビで活躍。代表作に「だいこんの花」「七人の孫」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「隣の女」等がある。55年には初めての短編小説「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で第83回直木賞を受賞し作家活動に入ったが、56年8月航空機事故で急逝。(文春文庫より)

左の写真が「向田邦子の手紙」の表紙です。昭和57年8月30日発行のクロワッサン別冊でした。

向田邦子東京年表(昭和17年〜22年)

和 暦

西暦

年  表

年齢

向田邦子の足跡

昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
8
3月 入院
9月 東京都目黒区下目黒四丁目に転居
昭和14年
1939
ドイツ軍ポーランド進撃
10
1月 鹿児島県鹿児島市平之町上之平五十番地に転居
鹿児島市立山下尋常小学校 三年の三学期から
昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
12
4月 香川県高松市寿町一番地
高松私立四番丁国民学校 六年一学期から
昭和17年
1042
ミッドウェー海戦
13
3月 高松私立四番丁国民学校卒業
4月 香川県立高松高等女学校入学(一学期のみ)
一家は東京都目黒区中目黒四丁目に転居
9月 東京市立目黒高等女学校に編入学
昭和22年
1947
中華人民共和国成立
18
3月 東京都立目黒高等女学校(現都立目黒高校)卒業
4月 実践女子専門学校(現・実践女子大学)入学
6月 父親が宮城県仙台市に転勤のため、麻布区市兵衛町の母方の祖父の家に下宿


鹿児島へ転居
 向田邦子は昭和14年1月、父親の転勤に伴って鹿児島へ転居します。詳細は「向田邦子の鹿児島を歩く」で特集します。



高松へ転居
 向田邦子は昭和16年4月、鹿児島から父親の転勤に伴って高松に転居します。詳細は「向田邦子の高松を歩く」で特集します。



<中目黒四丁目>
 向田邦子は昭和14年1月に東京を離れてから、五年ぶりの昭和17年9月、東京中目黒に戻ってきます。そろそろ空襲が始まるころに東京に戻って来たわけてす。「三月十日。……おもてへ出たら、もう下町の空が真赤になっていた。我家は目黒の祐天寺のそばだったが、すぐ目と鼻のそば屋が焼夷弾の直撃で、一瞬にして燃え上った。父は隣組の役員をしていたので逃げるわけにはいかなかったのだろう、母と私には残って家を守れといい、中学一年の弟と八歳の妹には、競馬場あとの空地に逃げるよう指示した。……「空襲」この日本語は一体誰がつけたのか知らないが、まさに空から襲うのだ。真赤な空に黒いB29その頃はまだ怪獣ということばはなかったが、繰り返し執拗に襲う飛行機は、巨大な鳥に見えた。家の前の通りを、リヤカーを引き荷物を背負い、家族の手を引いた人達が避難して行ったが、次々に上る火の手に、荷を捨ててゆく人もあった。通り過ぎたあとに大八車が一台残っていた。その上におばあさんが一人、チョコンと坐って置き去りにされていた。父が近寄った時、その人は黙って涙を流していた。……火の勢いにつれてゴオッと凄まじい風が起り、葉書大の火の粉が飛んでくる。空気は熱く乾いて、息をすると、のどや昇がヒリヒリした。今でいえばサウナに入ったようなものである。乾き切った生垣を、火のついたネズミが駆け廻るように、火が走る。水を浸した火叩きで叩き廻りながら、うちの中も見廻らなくてはならない。……三方を火に囲まれ、もはやこれまでという時に、どうしたわけか急に風向きが変り、夜が明けたら、我が隣組だけが嘘のように焼け残っていた。私は顔中煤だらけで、まつ毛が焼けて無くなっていた。…」、と「父の詫び状」に詳細に書かれています。誰が書いても東京空襲はずごかったようです。また隣のお医者さんについては、「…わが家の隣りは外科の医院で、かつぎ込まれた負傷者も多く、息を引き取った遺体もあった筈だ。」、とか、「妹や弟がけがをしたときに、担ぎ込んだりしていた」、と書いていたので、まだいらっしゃるのかなとおもって隣を探したところ、やっぱりお医者様でした。りっぱな病院になっていました。

左の写真の正面が向田邦子が昭和17年から戦後にかけて住んでいた所です。この場所の住所も、本によっては下目黒と書かれていくものもありましたが、「向田邦子の手紙」の写真の場所は中目黒四丁目でした。(すべて旧住所表示です)、(今回は個人宅が多いため地図等での表示は控えさせて戴きます)

<東京市立目黒高等女学校>
 昭和17年9月、向田邦子は父の東京転勤にともなって、高松高女から東京市立目黒高等女学校に編入学します。家族は一足先の4月には東京に戻っていました。編入学については両親も苦労されたようです。「…父と母の、男と女の違いなのだろうか。こと体の動きにかけては、いつも母におくれをとっていた父だが、一回だけ子供の為に駆け出してくれたことがある。私は女学校は四国の高松県立第一高女だが、入学した直後、父の転勤で、一学期の終りに東京の目黒高女の編入試験を受ける羽目になった。試験日が盲腸手術の直後とぶつかってしまい、体操は免除して戴くようお願いをしていた。試験の朝早く、母は隣りで寝ている父が、脂汗をかきひどくうなされているのに気づいて、揺り起した。父は私の編入試験の夢を見ていた。あれほど頼んだのに、私は体操が免除にならず、走ってみなさいといわれている。父は飛び出して、「この子は病み上りだから、代りに走らせてもらいたい」と願い出て、編入試験を受けるほかの女学生の中にただ一人まじって、スタートラインに立ったという。ピストルが鳴って走り出したのだ。が、足に根が生えたのかどう焦っても足が前に進まない。七転八倒しているところを母に起されたというのである。…」、と書いています。亭主関白な父親だったようですが、この話を聞くと子供思いの親父としかおもえません。東京市立目黒高等女学校は、戦後の昭和24年、東京都立目黒高校となります。

右の写真右側が現在の都立目黒高等学校です。実は、目黒高女を受験する前に、もう一校編入試験を受けています。多分、御茶ノ水高女をうけたのではないでしょうか。「…女学校一年のとき、編入試験を受けた。四国の県立高女で一学期を終えたところで父が転勤になった。東京府立の名門女学校の試験を受けさせられたのである。普通の教室で、受験生は二十人ほどだった。このなかで何人合格するのか。人数が少ないだけに、ビリビリしたものがあった。試験が終り、先生が黒板の出題を消しはじめた。とたんに、四、五人の受験生が先を争って教壇にかけ寄った。先生の手から黒板拭きをひったくるようにして拭きはじめた。あとを追うように五、六人が走り寄った。雑巾バケツを探してきて、黒板を水拭きする受験生もいた。私は立ちそびれた組だった。こんなことは当落に関係ないと自分に言いきかせ、黒板を拭く人を軽べつしながら、嫉妬していた。私は不合格だった。落ちたことを、黒板を拭かなかったせいだと、しばらくの間、自分に言いわけしていた。…」。凄いですね、今でもそこまでする人は少ないのではないでしょうか。


<仙台へ転居>2007年8月1日追加
 昭和22年6月、父親が仙台市に転勤します。



<宮城県仙台市国分町> 2007年8月1日追加
 昭和22年6月、父親は東邦生命仙台支店に転勤します。転勤先が初めて東北になります。「…「啼くな小鳩よ」という歌が流行った頃だから昭和二十二、三年だろうか。 父が仙台支店に転勤になった。弟と私は東京の祖母の家から学校へ通い、夏冬の休みだけ仙台 の両親の許へ帰っていた。東京は極度の食糧不足だったが、仙台は米どころでもあり、たまに帰省すると別天地のように豊かであった。東一番丁のマーケットには焼きがれいやホッキ貝のつけ 焼の店が軒をならべていた。…」。向田邦子は実践女子専門学校に通い始めていたため、東京六本木の母方の祖父の家から学校に通い、夏、冬の休みだけ両親が住んでいる仙台を訪ねます。

左の写真の正面のところが仙台で最初に住んだ所です(現在の住居表示で仙台市青葉区国分町2-10-21邦栄ビルとなります)。国分町の呑み屋街の真ん中ですが、戦前の第一徴兵保険仙台支店の場所のようです。

<宮城県仙台市琵琶首丁三三> 2007年8月1日追加
 向田一家は仙台で一度転居しています。お客の接待が大変だったようです。「…当時一番のもてなしは酒であった。 保険の外交員は酒好きな人が多い。配給だけでは足りる筈もなく、母は教えられて見よう見真似でドプロクを作っていた。米を蒸し、ドプロクのもとを入れ、カメの中へねかせる。古いどてらや布団を着せて様子を見る。夏は蚊にくわれながら布団をはぐり、耳をくっつけて、「プクプク……」 と音がすればしめたものだが、この音がしないと、ドプロク様はご臨終ということになる。 物置から湯タンポを出して井戸端でゴシゴシと洗う。熱湯で消毒したのに湯を入れ、ひもをつけてドプロクの中へプラ下げる。半日もたつと、プクプクと息を吹き返すのである。 ところが、あまりに温め過ぎるとドプロクが沸いてしまって、酸っぱくなる。こうなると客に出せないので、茄子やきゅうりをつける奈良漬の床にしたり、「子供のドプちゃん」と称して、乳酸飲料代りに子供たちにお下げ渡しになるのである。すっぱくてちょっとホロっとして、イケる口の私は大好物であった。弟や妹と結託して、湯タンポを余分にほうり込み、「わざと失敗してるんじゃないのか」 と父にとがめられたこともあった。…」、どぶろくを作るのはたいへんだったようです。

右の写真の正面当たりが琵琶首丁三三です(大手町4-49)。近所の方にお聞きしたところ、東邦生命の社宅が数年前までは残っていたそうです。現在は区画整理で仙台市に買い取られたようです。

<向田邦子の仙台地図>




<実践女子専門学校>
 向田邦子は目黒高等女学校を卒業後、昭和22年4月、実践女子専門学校(現・実践女子大学)に入学します。専門学校時代については、書き物がほとんど見つからなかったのですが、「…私は終戦間もない時期に実践女子専門学校の国語科を卒業したのだが、この卒業式に写した記念写真におかしな一枚がある。校門の前に一人で立って写したものだが、足許に十円札が落ちている。新円切り換えの時に作られた進駐軍の軍票のような、二つに千切つて映画館に入りたくなるような安っぽい紙幣であった。どうして、そんなものが落ちていたのか見当もつかないのだが、兎に角クシャクシャになったそれが足許に落ちており、袴をはき、卒業証書を手にした私は、明らかに横目を使って十円札を見ている。卒業式の喜びや厳粛さもないことはないが、それよりも十円札が気になって仕方がないといった風である。人生のスタートに於て早くも志の低い本性はあらわれているのである。…」、と、卒業の頃のことについては書いています。また、弟の向田保雄は、青山学院に進学しますが、同じ渋谷での思い出を書いています。「…姉が茶をいれてくれたのをきっかけに、話はラーメンにもどった。渋谷・道玄坂の中ほどにある、イサミヤという洋品店を左に曲がって三軒めが「ホームラン軒」である。ここのラーメンは、フチの赤い鯨のベーコンがのっかったヤ。ギトギトとした汁のわりにはうまかった。恋文横丁の中の「ミンミン」の餃子とその斜め前にあったラーメンやタンメンの店。 姉は実践、私は青学、共に通学の場所が渋谷だったから、同じようなところで同じ味を楽しんでいた。次々と話がはずみ、同じ味を思い出していた。一緒に行ったのは「ホームラン軒」だけだった。ギトギトのラーメンに、姉は多めに酢をかけて食べていた。…」、懐かしいですね!!道玄坂の恋文横町については、別途特集したいな、とおもっています。

【実践女子専門学校】
明治32年(1899)に実践女学校、実践女子工芸学校が設立され、現千代田区麹町に開校しています。渋谷には明治36年に校舎を新築、移転しています。昭和22年3月には財団法人帝国婦人協会実践女学校を財団法人実践女子学園と改称、昭和24年、実践女子大学を設立、文家政学部の一学部に国文・英文・家政の3学科を設置しています。実践女子専門学校としての最後の卒業式は昭和26年3月です(ちなみに、向田邦子は昭和25年3月卒業です)。

左の写真が現在の渋谷の実践女子です。現在の渋谷の校舎は実践女子学園 中学校・高等学校のみとなっています。短期大学及び大学、大学院は東京都日野市に移転しています。

<麻布区市兵衛町>
 昭和22年6月、両親が仙台市に転勤のため向田邦子は麻布区市兵衛町の母方の祖父の家に下宿します。「生れてはじめてお巡りさんに捕まったのは、実践女子専門学校国語科二年のときである。夏休みに両親のいる仙台に帰省し、トランクに米をつめて東京の下宿先へもどったところを、派出所のお巡りさんに呼びとめられてしまった。……それが、上野へつき、市電に乗って麻布の今井町の停留所で下りた途端に、御用になってしまったのである。あと二百メートルほどで下宿している祖父のうちである。つい気がゆるんで、お巡りさんの前を通るときは軽々と持つというルールを忘れたのがいけなかった。派出所に引っばられ、トランクをあけてみろ、と言われた。私は頭に血がのぼってしまった。「どうしてもあけろと言うのならあけます。たしかにお米が入ってます。仙台から苦労して持って来たんです。車内の一斉取締りも、どうにかお目こぼししてもらって、もうそこが下宿なんです。それでもあけろ、と言うんですか」中年の痩せたお巡りさんだった。もっともあの頃の日本人はみな痩せていたが、その人はとりわけ痩せていた。しばらく黙っていたが、「いいから、いきなさい」と言って、日誌のようなものをつけはじめた。次の朝、学校へゆくときに、そのお巡りさんと逢った。私は最敬礼をしたが、彼はそっぽを向いて私のはうを見ようとしなかった。…」、なかなかいいお巡りさんですね。日本中のお巡りさんが、こんなだといいのですが。

右の写真の高速道路の下辺りが麻布市兵衛町二丁目十一番地です。現在は首都高速道路の下になってしまっています(正面のビルの上にIBMと書いてありました)。この母方の祖父の家については、「…私が物心ついた時は、麻布市兵衛町の小さなしもた屋で、たまに注文のある料亭の建具やこたつやぐらなどの手間仕事をして暮していた。…」、と書いています。


<向田邦子の東京地図(旧住所表示) −1−>


<向田邦子の東京地図 −2−>



【参考文献】
・父の詫状:向田邦子、文春文庫
・無名仮名人名簿:向田邦子、文春文庫
・夜中の薔薇:向田邦子、文春文庫
・霊長類ヒト科動物図鑑:向田邦子、文春文庫
・向田邦子の手紙:クロワッサン別冊
・向田邦子ふたたび:文藝春秋
・向田邦子を旅する:クロワッサン別冊
・向田邦子をの原点:向田和子、文藝春秋
・向田邦子暮しの愉しみ:向田邦子、向田和子、新潮社
・向田邦子鑑賞事典:井上謙、神谷忠孝
・思い出トランプ:向田邦子、新潮社
・寺内貫太郎一家:向田邦子、サンケイノベルス
・姉貴の尻尾:向田保雄、文化出版局

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