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最終更新日:2006年2月20日

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●向田邦子の鹿児島を歩く 初版2004年5月22日 <V01L03>
 今週は「中原中也の世界を歩く」をお休みして、「向田邦子を旅する」で残っていた鹿児島を歩いてきました。天候が悪く写真が綺麗に撮れませんでしたが、お酒も食べ物も美味しくて楽しい旅行でした。

<鹿児島>
 向田邦子は父親の転勤に伴って昭和14年1月、東京都目黒区から鹿児島市に転居します。当時の事について後に「鹿児島感傷旅行」で書いています。「…帰るといっても、鹿児島は故郷ではない。保険会社の支店長をしていた父について転勤し、小学校五年、六年の二年を過した土地に過ぎないのである。しかし、少女期の入口にさしかかった時期をすごしたせいか、どの土地より印象が強く、故郷の山や河を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい「故郷もどき」なのであろう。……四十年前の鹿児島は、遠い国であった。東京から東海道本線、山陽本線、鹿児島本線と乗りついで、二十八時間かかっている。日支事変が始まったすぐで、八幡製鉄所のそばを通過する時は、車内に憲兵が廻ってきて窓を閉めさせられたことを覚えている。それが、現在では、羽田から全日空で一時間四十五分の空の旅である。私は、四十年の歳月を、一時間四十五分で逆もどりしたような不思議な気分で鹿児島空港におり立った。…」。小学校の3年生の一月から5年生まで鹿児島で過ごしています。子供の時期としては一番多感な年頃だったとおもいます。記憶も定かで殆どの事を覚えているんではないでしょうか。

【向田邦子】
昭和4年(1929)東京生れ。実践女子専門学校国語科卒業。映画雑誌編集記者を経て放送作家となりラジオ・テレビで活躍。代表作に「だいこんの花」「七人の孫」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「隣の女」等がある。55年には初めての短編小説「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で第83回直木賞を受賞し作家活動に入ったが、56年8月航空機事故で急逝。(文春文庫より)

左の写真はNPO法人かごしま文化研究所/かごしま探検の会が発行されている「向田邦子 かごしま文学散歩」です。鹿児島における向田邦子については一番詳しい本ではないかとおもいます。

向田邦子鹿児島年表(昭和12年〜16年)

和 暦

西暦

年  表

年齢

向田邦子の足跡

昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
8
3月 入院
9月 東京都目黒区中目黒四丁目に転居 七歳〜九歳
昭和14年
1939
ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
10
1月 鹿児島県鹿児島市平之町上之平五十番地に転居
鹿児島市立山下尋常小学校(三年の三学期から)
昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
12
4月 香川県高松市寿町一番地に転居
高松私立四番丁国民学校に転校(六年一学期から)

鹿児島市平之町上之平五十番地>
 向田邦子が鹿児島で住んだのが鹿児島市平之町上之平五十番地でした。「…昔住んでいた、城山のならびにある上之平の、高い石垣の上に建っていたあの家の庭から桜島を眺めたい。知らない人が住んでいるに違いないが、何とかしてお庭先に入れて頂いて、朝夕眺めていた煙を吐くあの山が見たかった。…ところが、私のうちは、失くなっていた。石垣は昔のままであったが、家はあとかたもなく、代りに敷地いっばいに木造モルタル二階建てのアパートが建っていた。戦災で焼けたのか老朽化したので取りこわしたのか。門も、石段も新しくなっていた。昔通り裏山には夏みかんの木が茂り、黄色に色づいた夏みかんが枝の閏から見えていたが、昔より粒が小さくなったように思えた。いや、夏みかんが小さくなったのではない。私が大きくなったのだ。その証拠に、子供の頃、見上げるほど高いと思ったわが家の石垣は、さほど高くはないのである。思ったより高くなかった石段の上に立って、しばらくじっとしていた。春先なのに初夏に近い陽気の、みごとに晴れた日である。目の下に広がる鹿児島の街は、見たこともない新しい街であった。…」。私も近い場所に立ってみましたが、見晴らしはいいのですか、ビルが多くて決して眺めがいいとはいえませんでした。戦前の平屋が多かった町並みとはまるで違っていたでしょう。

左の写真が向田邦子居住跡地の碑です。坂道を上った角にありました。ここの上あたりが居住跡かなとおもいました。(写真をクリックすると周りの風景になります)

鹿児島市立山下尋常小学校>
 向田邦子が通学していたのが鹿児島市立山下尋常小学校でした。「…気がつくと山下小学校の前に立っていた。この時の私は、赤いランドセルを背負った、蚊トンボのようなすねをした四十年前の小学生であった。わが母校の変りようにも、目を見張るものがあった。昔の表門は、今は「あと」だけが残り、使われていない。校庭の真申に二本そびえていた大きな楠は、あとかたもないのである。私はこの楠の根方の洞に、うちへ持って帰ると叱られるおはじきをかくしていた。戦争が烈しくなってからは、八のつく興亜奉仕日のおひる、この楠のまわりに坐り、日の丸弁当や、バターやジャムもついていないコッペパンを食べた思い出がある。一階建てだった校舎は、新しい三階建てになっている。校庭に立っていると、冬の寒い朝、かじかんだはだしで(当時、鹿児島の小学生は冬でもはだしであった)、朝礼にならんだ冷たさを思い出す。…」。”冬の寒い朝”といっても鹿児島ですから東京のような寒さではないとおもいます。上記の社宅から山下小学校までは一本道で約400m位ですから5分程度だったとおもいます。

右の写真が現在の山下小学校の表札です。町の中にある小学校としては比較的大きな小学校でした。(写真をクリックすると正門の写真になります)

<両棒餅(じゃんぼ or ぢゃんぼ)>
 食べ物の話になりますが鹿児島で有名なお餅が「両棒餅」です。「…変らないものは、磯浜のジャンボ。大きいという意味ではない。名物の餅の名前である。リャン棒のなまったもので、つきたてのやわらかい餅に、うす甘い醤油あんをからませたもの。昔、これを母が好んだこともあり、よく出かけたものである。ここは今は公園になっているが島津公の別邸であったところで、ここから眺める桜島の美しさは、また格別である。…」。私も磯浜の両棒餅を食べにいきましたが、お店を間違えたようです。”向田邦子 かごしま文学散歩”では向田邦子が両棒餅を食べたのは桐原家となっていました。私が訪ねたのはすぐ近くの中川家でした。包んだ写真も掲載しておきます。たしか中川家はフーテンの寅さんの撮影が行われた場所だとおもいます。

左の写真が500円の両棒餅です。「…「じゃんぼ」は醤油味のたれをからめたやわらかい餅である。ひと口大の餅に、割り箸を二つ折にしたような箸が二本差してあるので、二本棒つまり「リャン棒」がなまったのだと、解説好きの父が食べながら教えてくれた…」

かごしま近代文学館>
 鹿児島ゆかりの6人の作家(海音寺潮五郎、林芙美子、向田邦子、島尾敏雄、椋鳩十、梅崎春生)を展示しております。林芙美子の鹿児島は有名ですが、海音寺潮五郎の鹿児島は知りませんでした。

右の写真がかごしま近代文学館正面です。


<向田邦子の鹿児島地図 -1->



【参考文献】
・父の詫状:向田邦子、文春文庫
・無名仮名人名簿:向田邦子、文春文庫
・夜中の薔薇:向田邦子、文春文庫
・霊長類ヒト科動物図鑑:向田邦子、文春文庫
・向田邦子の手紙:クロワッサン別冊
・向田邦子ふたたび:文藝春秋
・向田邦子を旅する:クロワッサン別冊
・向田邦子をの原点:向田和子、文藝春秋
・向田邦子暮しの愉しみ:向田邦子、向田和子、新潮社
・向田邦子鑑賞事典:井上謙、神谷忠孝
・思い出トランプ:向田邦子、新潮社
・寺内貫太郎一家:向田邦子、サンケイノベルス
・姉貴の尻尾:向田保雄、文化出版局
・東京人 168,169号「向田邦子の昭和を探して 前後篇 高島俊男」:都市出版
・向田邦子 鹿児島文学散歩:NPO法人かごしま文化研究所、NPO法人かごしま探検の会

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