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最終更新日:2006年2月20日

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●向田邦子の宇都宮を歩く 2004年2月21日 V01L02
 「向田邦子を旅する」のなかで、今週は未掲載分から宇都宮と高松を歩いてみました。まず宇都宮ですが、昭和4年東京世田谷で生れた後、直ぐに宇都宮に転居します。父親の保険会社の転勤に伴っての転居でした。その後、一時東京に戻り、すぐ鹿児島から高松へ転勤していきます。

<向田邦子処女説>
 向田邦子が大好きな山口瞳さんに登場してもらいます。やっと出番がきたという感じです。「向田邦子のように、会うたびにどんどん綺麗になる女性というのも、めったにいるものではない。これは私だけが感じたことではない。多くの人から同様の感想を聞いた。その意味でも、彼女は「奇跡の人」である。…」、これは、山口瞳さんの「男性自身 木槿の花」からです。いかに好きかわかりますね。そこでタイトルの”向田邦子処女説”に戻ると「…これは、いつのときだったか忘れた。話の内容からして、彼女と二人きりでいたときのことである。「あなたは文壇の原節子ですね」と、私が言った。「………?」、「永遠の処女……」 いくらか、ヒッカケてやろうとする気味があったのかもしれない。誘導訊問である。そのとき、向田邦子は、思いつめたような顔になった。そうして、思いきって言ってしまおうというようにして、「あら、私、(男が)いるのよ」と、現在形で言った。それから、急に早口になって、「『父の詫び状』のなかに出てくるでしょう。あの男よ」 彼女は『父の詫び状』のなかの、ある章の名を言った。その夜、帰宅してから、その章を読みかえしてみた。なるほど、彼女は、実に巧妙に告白しているのである。…」、私もあわてて『父の詫び状』を読み返してみました。いまでは向田和子さんの「向田邦子の恋文」が出版され、今年の1月にはテレビでも放映されましたので、彼氏の事は有名になってしまいましたが!!

【向田邦子】
昭和4年(1929)東京生れ。実践女子専門学校国語科卒業。映画雑誌編集記者を経て放送作家となりラジオ・テレビで活躍。代表作に「だいこんの花」「七人の孫」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「隣の女」等がある。55年には初めての短編小説「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で第83回直木賞を受賞し作家活動に入ったが、56年8月航空機事故で急逝。(文春文庫より)

【山口瞳】
1926(大正15)年、東京生れ。鎌倉アカデミアに入学。出版社勤務を経て、’58(昭和33)年寿屋(現サントリー)宣伝部に入り、「洋酒天国」の編集者・コピーライターとして活躍する。’62年『江分利満氏の優雅な生活』で直木賞受賞。’79年には『血族』で菊池寛賞を受賞する。’63年「週刊新潮」で始まった「男性自身」は、31年間1614回に及ぶ。シリーズ最終巻は『江分利満氏の優雅なサヨナラ』。’95(平成7)年8月永眠。(新潮文庫より)

左の写真が山口瞳さんの「男性自身 木槿の花」です。新潮文庫なのですが、絶版になっているようです。現在は新潮文庫の『山口瞳「男性自身」傑作集』に「男性自身 木槿の花」の一部が掲載されていますが、全部読みたい方は古本屋を探してみてください。

向田邦子宇都宮年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

向田邦子の足跡

昭和4年
1929
0
11月28日に東京市世田谷区若林に父 俊雄、母 せい の長女として生れる。
昭和5年
1930
ロンドン軍縮会議
1
4月 父親の転勤に伴って栃木県宇都宮市二条町二丁目十三番地に転居
昭和9年
1934
シベリア出兵
5
4月 栃木県宇都宮市西大寛町に転居
昭和11年
1936
2.26事件
7
4月 宇都宮市西原尋常小学校 一年の一学期のみ
7月22日 父親の転勤で東京都目黒区中目黒三丁目に転居
9月 目黒区立油面尋常小学校に二学期から転校

<宇都宮市二条町>
 向田邦子は生れて直ぐに宇都宮に転居します。父親が第一徴兵保険株式会社(破綻した東邦生命で、現GEエジソン生命に引き継がれている)に勤めており、転勤に伴って転居したものです。戦前は徴兵制度があり、子供のときに保険に入ります。徴兵年齢の満20歳になって召集されて入営したときに保険金を支払うもので、戦争のないときは招集されるのは20%くらいでしたので、保険屋はよく儲かったとおもいます。

左の写真右側が向田邦子が宇都宮で最初に住んだ宇都宮市二条町です。「向田邦子を旅する」の写真では、スナック「シャルマン」と割烹「三松」が写っていたのですが、現在は栃木銀行本店の駐車場になっています。

<宇都宮市西大寛町>
 宇都宮のなかで一度だけ転居します。二条町から800m位離れた大寛町に移ります。現在の住居表示で宇都宮市操町、宇都宮女子高等学校の校庭の側です。宇都宮についての向田邦子の記述はほとんどありません。当然と言えば当然なのですが、記憶がさだかになるのは小学校一年生の頃からです。交通の便としては、東武宇都宮駅が一番近く、JR宇都宮駅はすこし遠くなります。

右の写真左側が宇都宮で二軒目の住まいです。右側に宇都宮女子高等学校の校庭があります。

<西原尋常小学校>
 わずか、一ヶ月しか通わなかった小学校が宇都宮市西原尋常小学校でした。「…小学校一年の工作で、いや当時は工作とはいわず「手工」といった。手工で鶴を折ることを習った。私はおばあちゃん子だったから、折紙はお茶の子さいさいである。教壇で説明する先生よりも先に折り上げてまわりを見廻すと、出来てない子が沢山いる。手順が判らなくなってペソを掻いている子もいる。私は頼まれもしないのに向う三軒両隣りの席へ出張し鶴を折って廻った。ひとの鶴だから、ふくらます時もお尻を濡らさぬように気を使いながら息を吹き込んだ。ところが「出来た人は鶴を持って並びなさい」と言われて気がついたら、机の上にのせた私の鶴がない。鶴は床に落ちていた。自分で踏んだのか人に踏まれたのか、赤い鶴は無惨に潰されていた。上履の靴底の波型に黒い汚れがつき、いくらふくらませても、もとへ戻らなかった。みんなは、私が折ってやった鶴を手にして並んでいる。私は泣きそうになるのをこらえて、新しく鶴を折り始めた。出来ていないのは私一人であった。たった一学期しか居なかった宇都宮の西原小学校の教室と、袴をはいた女の訓導生沼先生と一緒に、「ああ、どうしよう。もう間に合わない」というあの時の気持は、今でも思い出せるような気がする。どうもこのあたりから、赤い潰れた鶴は、私のシンボル・マークになった。…」。宇都宮での一番の思い出が鶴なのです。この後、東京目黒に転居します。

左の写真が現在の西原小学校です。大寛町の自宅から500m位の距離でした。


<向田邦子の宇都宮地図>


●向田邦子の高松を歩く
  初版2004年2月21日
  二版2005年8月16日 
<V01L01> 岩井薬局を追加

 「向田邦子を旅する」のなかで、今週は未掲載分から宇都宮と高松を歩いてみました。まず宇都宮ですが、昭和4年東京世田谷で生れた後、直ぐに宇都宮に転居します。父親の保険会社の転勤に伴っての転居でした。その後、一時東京に戻り、すぐ鹿児島から高松へ転勤していきます。

【向田邦子】
昭和4年(1929)東京生れ。実践女子専門学校国語科卒業。映画雑誌編集記者を経て放送作家となりラジオ・テレビで活躍。代表作に「だいこんの花」「七人の孫」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「隣の女」等がある。55年には初めての短編小説「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で第83回直木賞を受賞し作家活動に入ったが、56年8月航空機事故で急逝。(文春文庫より)

向田邦子高松年表(昭和16年〜17年)

和 暦

西暦

年  表

年齢

向田邦子の足跡

昭和14年
1939
ドイツ軍ポーランド進撃
10
1月 鹿児島県鹿児島市平之町上之平五十番地に転居
鹿児島市立山下尋常小学校 三年の三学期から
昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
12
4月 香川県高松市寿町一番地
高松私立四番丁国民学校 六年一学期から
昭和17年
1042
ミッドウェー海戦
13
3月 高松私立四番丁国民学校卒業
4月 香川県立高松高等女学校入学(一学期のみ)

一家は東京都目黒区中目黒四丁目に転居
9月 東京市立目黒高等女学校に編入学

<高松市寿町一番地>
 向田邦子は昭和16年4月、鹿児島から高松に転居します。此処でも父親の第一徴兵保険株式会社(破綻した東邦生命で、現GEエジソン生命に引き継がれている)の転勤によるものです。「三十二年前のことである。その当時、私は小学校六年生で、四国の高松に住んでいた。父は保険会社の支店長をして居り、社宅は玉藻城のお濠に面していた。……夜、台所へ行くと、土間に下駄と木のごみ取りがプカンプカンと浮いていた。高松港が近いので、赤潮がお濠に流れ込み、床下浸水になったのだ。おかげで私の作っていた落花生の畑は全滅した。落花生には馬糞がいい、と父の会社の小使いさんが教えてくれたので、私は二階の勉強部屋から下の大通りを睨んでいて、荷馬車が通るとごみ取りを手に飛び出しては、湯気の立つ馬糞を拾って丹精したのだが…。その馬糞拾いの最中に、屠畜場へ運ばれる途中の豚が大挙逃げ出すのに出くわした。その中の一頭がうちの門の前で、二、三人の男をはね飛ばして大暴れをするのを見た記憶もある。…」。小学校六年生になっていますから、記憶も鮮明、観察力が鋭いので、なかてかおもしろい文書になっています。

左の写真の正面のビルは、旧名 高松東邦生命ビル(現GEエジソンビル)です。このビルの裏側に当時の社宅があったとおもわれます。後ろ側が玉藻城です。「…高松の社宅には、隣りがなかった。父の会社が玉藻城のお濠に隣り合って建っており、そのうしろに社宅があって、片隣りは海軍人事部であった。前には大きな改正道路、まわりは裁判所や空地で隣り近所は無いも同然であった。私の勉強部屋は二階にあり、窓から海軍人事部の中庭が見えた。時々、七、八人の若い海軍士官が銃剣術の稽古をしていた。稽古といっても半分遊びのようで、のぞいている私に気づくと、おどけて挙手の礼をする士官もいた。私も敬礼を返した。その中で、一番背の高い士官は、ひときわ颯爽と見え、その人に敬礼されると背筋がスウッと粟立つような気がした。私は女学校一年生であった。……それから間もなく、アメリカから偵察機が四国上空に飛来するということがあり、中庭の銃剣術は自然に沙汰止みになってしまった。」

<小豆島 岩井薬局> 2005年8月16日 岩井薬局を追加
 向田邦子は「父の詫び状」の中でこんなことも書いています。「…この家には私のほかにもう一人、中学一年の下宿人がいた。小豆島の大きな薬屋の息子で、そうだ、たしか岩井さんといった。色白細面のひょうきんな男の子だった。私が、うちから送ってきた、当時貴重品になりかけていたチョコレートやヌガーを分けてやると、お礼に、いろいろな「大人のハナシ」を聞かせてくれた。夜遅く店を閉めてから、芸者が子供を堕ろす薬を買いにくる、という話を、声をひそめてしてくれた。彼は、芸者を嫁さんにするんだ、と決めていた。「オレは絶対に向田なんかもらってやらんからな」 と何度もいっていた。長男だと聞いたが、家業を継いだのだろうか。少年の大志を貫いて芸者を奥さんにしたかどうか。あれ以来消息も知らないが、妙になつかしい。…」。これは是非とも小豆島で探してみなければとおもい、探してみました。岩井薬局はありました。

左上の写真の右側の派手なお店が岩井薬局です。時間がなかったのでお店の方には聞けませんでしたので、確認はとれていません。でも、小豆島で岩井薬局はここ一軒だけです。

<四番丁国民学校>
 昭和16年4月転居ですから、まだ太平洋戦争には入っていない時期でした。しかし学校の名前は国民学校にかわっており、戦時色の強い時代だったとおもいます。「…父の転勤で、四国の高松に二年ほどいたのですが、四番丁小学校の六年の時でした。菊池寛はこの高松の出身で、小学校がこの四番丁だったかどうかは忘れましたが、とにかく郷土が生んだ文士ということで、講演に見えたのです。全校生徒が講堂に集りました。校長先生の先導で菊池寛が入ってきました。ダブダブの背広を着た背の低い、おむすびのような形の管した風采の上がらない人でした。演壇に上がると、ボソポソと話しはじめたのです。……一番おしまいに言ったことだけは今もはっきり覚えています。「人を批評したり判断する時には欠点を先に言いなさい。あの人は人は好いがだらしがない、というとだらしがない人ということになってしまう。しかし、だらしがないが好い人だと考えれば世の中は楽し〈なります」そして、自分の名前の寛という字を引き合いに出して、人には寛大、自分にはきびしく、といわれたのです。生れて初めて有名な人のおはなしを聞いたこともありますが、この教訓は心にしみるものがありました。このことを私は長いこと忘れていました。菊池寛の小説を読んだのはこのあと女学校に入ってからでしたが、その時は高松の講演のことを思い出さず、そのあと二十年もたって「狐を斬る」を読んで、不意に頬を叩かれたように四番丁小学校の講堂の情景がよみがえったのです。この短篇にただようかなしさとやさしさのせいだと思います。私も歳を重ね、そういうことが判る歳になっていたこともありましょう。男のやさしさ、というと、私はこの短篇と、菊池寛の話を思い出してしまうのです。…」。文藝春秋社の創設者が菊池寛で、出身も高松で、小学校はこの四番丁小学校、中学は現 高松高校(旧 高松中学校)です。(菊池寛については別途、特集する予定です)

右の写真右側が現在の高松市立四番丁小学校です。当時と場所はかわっていません。地図をみてもらうとわかりますが、町の真ん中にある小学校です。

<高松高等女学校>
 向田邦子は四番丁国民学校を卒業後、高松高等女学校に入学します。この時の記憶に或るのがカレーです。「…だが、我が生涯の最もケッタイなカレーということになると、女学校一年の時に、四国の高松で食べたものであろう。当時、高松支店長をしていた父が東京本社へ転任になり、県立第一高女に入ったばかりの私は一学期が済むまでお茶の師匠をしているうちへ預けられた。東京風の濃い味から関西風のうす味に変ったこともあったが、おかずの足りないのが切なかった。……そこの家のおばあさんが、「食べたいものをおいい。作ってあげるよ」といってくれた。私は「ライスカレー」と答えた。おばあさんは鰹節けずりを出すと、いきなり鰹節をかきはじめた。私は、あんな不思議なライスカレーを食べたことがない。鰹節でだしを取り、玉ねぎとにんじんとじゃがいもを入れ、カレー味をつけたのを、ご飯茶碗にかけて食べるのである。あまり喜ばなかったらしく、鰹節カレーは、これ一回でお仕舞いになった。…」。叔母さんはカレー記作り方を知らなかったわけです。向田邦子は高松時代の高女の名前を、いろいろ書いています。ここでは県立第一高女、他では高松県立第一高女とかあります。当時、高松には香川県立高女と高松市立高女があり、正式名称では”第一”は付いていないのですが、何方にしても非常に紛らわしいです。何方か詳しい方がいらっしゃいましたらお教え願います。

左の写真が現在の香川県立高松高等学校です。戦後、香川県立高松高等女学校と香川県立高松中学校が合併し、香川県立高松高等学校になっています。敷地は旧高松高等女学校の敷地を利用しています。

「向田邦子を旅する」は、残り”仙台”と”鹿児島”になりました。何時になるかわかりませんがご期待ください。

<向田邦子の高松地図>



【参考文献】
・父の詫状:向田邦子、文春文庫
・無名仮名人名簿:向田邦子、文春文庫
・夜中の薔薇:向田邦子、文春文庫
・霊長類ヒト科動物図鑑:向田邦子、文春文庫
・向田邦子の手紙:クロワッサン別冊
・向田邦子ふたたび:文藝春秋
・向田邦子を旅する:クロワッサン別冊
・向田邦子をの原点:向田和子、文藝春秋
・向田邦子暮しの愉しみ:向田邦子、向田和子、新潮社
・向田邦子鑑賞事典:井上謙、神谷忠孝
・思い出トランプ:向田邦子、新潮社
・寺内貫太郎一家:向田邦子、サンケイノベルス
・姉貴の尻尾:向田保雄、文化出版局
・木槿の花:山口瞳、新潮文庫

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