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最終更新日:2006年6月9日


●水上勉の東京を歩く 戦前編-1- 初版2004年7月3日 <V01L02>

 今週から「水上勉を歩く」を本格的に掲載します。まず戦前の東京から初めて、戦後の東京、戦前の京都、若狭へと戻っていきたいとおもっています。最初は昭和15年4月の上京から歩き初めます。



<冬の光景>
 水上勉は非常に多くの私小説を書いており、その小説の中を歩いていけばそのまま彼の人生を歩くことになります。しかし水上勉の私小説は書いた時期やテーマにより、内容がかなりくい違っています。今回は水上勉の私小説他の中から、「冬の光景」、「冬日の道」、「東京図絵」、「私の履歴書」、「文壇放浪」を選び、正しいと思われる日時や場所を推定してみました。上記に書いた私小説群のなかでも、昭和15年に上京してからの事柄について最も詳細に書かれているのが「冬の光景」です。「冬の光景」の解説には、「…「冬の光景」 は正真正銘の私小説である。主人公の「私」は作者その人であろう。私小説といえども虚構を用いないわけではないし、この作品にもそれが皆無とは言えない果しても、実際にあったことが殆んどその通りに書かれていると見ていいだろう。この小説に登場する高橋二郎や佐々田太郎などと当時文学仲間で、作者とも面識のあつた人が『冬の光景』を読んで、自分の記憶している限りにおいては、あの当時のことが事実そのままに書かれていると言っていた。この小説は、「私」が同じアパートに住む年上の女、稲取増子と結婚する意志もなく、愛情もないのに強引に肉体関係を結び、子を妊ませてしまったところから始まり、生れた子を人手に渡してしまってから増子と別れたが、戦後に会った増子から、その子が貰われて行った先の明大前で空襲にあって死んでしまったらしいと聞いて、その界隈に行ってみたが消息がわからなかった、というところで終っている。ところが、この子が立派な一家の主人となっていて、突然作者の前にあらわれたのである。そのことが新聞に報道された翌年の昭和五十三年七月から翌年四月にわたってこの小説は毎日新聞に連載されたのだ。…」、と書かれています。この「冬の光景」の中に書かれている氏名、下宿の名前、地名はほとんど仮称でしたが、現在ではほとんどが公表されており(後に書かれた「私の履歴書」等に本名が書かれていた)、なるべく実際に忠実に歩いてみたいとおもいます。

左上の写真が昭和15年に上京してから昭和19年の疎開までを描いた「冬の光景」の文庫本です。この文庫本は再販されておらず、手に入りにくくなっています。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。(福武文庫より)

水上勉の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和15年
1940
北部仏印進駐
日独伊三国同盟
21
4月 上京 父が働いていた勝林寺を訪ねる
日本農林新聞社に勤める
早稲田鶴巻町の岩梅館に下宿
6月 早稲田鶴巻町の春秋荘に転居
昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
22
有楽町の報知新聞校正部に入る
2月 学芸社に移る
水道橋の印刷屋に勤める
淀橋区柏木五丁目 コトブキハウスに転居し加瀬益子と同棲
8月 三笠書房へ移る
9月20日 長男 誕生
昭和17年
1942
英領シンガポールを占領
23
守谷製衡所に勤める
昭和18年
1943
ガダルカナル島撤退
24
4月 新富町の映画配給社に勤める
6月 柏木五丁目から大塚仲町に転居
8月 中野区川添町に転居
9月30日 長男を養子にだす(正式?)
加瀬益子と別れ松守敏子と結婚
昭和19年
1944
マリアナ沖海戦
東条内閣総辞職
25
1月 新井薬師に近い栄楽荘に転居
4月 栄楽荘から若狭に疎開
昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
26
4月13日 東京大空襲(新宿から甲州街道沿いが被災)

<水上勉の東京地図 -1->


勝林寺跡>
 水上勉は昭和15年4月、駒込蓬莱町の勝林寺で移転の仕事をしていた父を頼って上京します。「東京図絵」では、「…非常時に現役入隊もかなわぬ丙種の病身で上京するなど、父も快く思わないことはわかっていた。相談すれば反対されるだろうから、父の飯場へ押しかけてみよう。ひょっとしたら何とかしてくれるかもしれない。母は米二俵を売ってくれた。十八円持って出たから、当時、一俵は八円ぐらいだったのかもしれない。布団袋と柳行李をチッキ(手荷物)にすべく、若狭本郷まで母が一里の道をリヤカーに積んで送ってくれた。私はスーツケースを一つ持つて敦賀、米原と乗り換えて東海道線で東京へ向かった。生まれて初めての東京行きであった。…」、と書かいています。母親が売った米は、「小作して得た米、つまり、弟たちの喰扶持を売ってくれたのである。」、とも書いていますので、相当大変なおもいをして上京してきています。いつの時代も父親より母親の方が子供おもいです。上記に書かれている”チッキ”とは、鉄道小荷物のことで、駅で遠距離キップ見せて頼んでいた記憶があります。キップを持っていると無料だったような記憶があるのですが、よく覚えていません。

左上の写真の駐車場が勝林寺跡地です。思った通り、父親は怒ります。「…ぼくを見ると急に不機嫌になって、若狭へ帰れ、といった。「東京ではとてもお前のような病人は暮らせん……若狭へ帰つて代用教員でもやれ」 と父はしつこかった。しかし、ぼくが断念しないので、怒って宿の世話もしてくれず、カンナ屑の仕事場を指さして「ここで寝ェ」 といった。ぼくは、東大の農学部前まで歩いて学生食堂でめしを喰って父の飯場で寝た。…」。勝林寺跡地は現在の文京区向丘2丁目8番辺りで、移転先は染井霊園近くの駒込7丁目です。

丸山義二邸跡>
 水上勉は父親が東京での面倒を見てくれないため、自分で下宿や勤め先を探し始めます。「…ぼくは新聞広告をみて、早稲田鶴巻町の岩梅館という下宿屋へその翌日に品川駅においてあったフトン袋やチッキの荷をもってうつった。そして、文通していた四谷坂町の丸山義二氏を訪問した。……丸山さんは、ぼくの大胆な上京に驚かれた。父とのことをしゃべるとうなずいてくださり、飯田橋の日本農林新聞へ紹介状をかいて下さった。そこに丸山さんの友人の細野孝二郎氏がいた。左翼作家である。「文芸」で「黄色い死体」という中編がのっていたのを読んでいた。南瓜ばかり喰って黄症になって死ぬ農民の話だったと思う。ぼくは細野氏に面接して、その新聞社に雇われた。…」。この就職先をさがす為の丸山氏宅への訪問は書いてある本によってさまざまです。「…四谷坂町の丸山氏のお宅は、四谷見附から、新宿の方へ入って一と筋めを左折し、坂を降りたところをすぐ右へ露地を人った角にあった。戦前によく見かけた木造二階家で、二階ひと間が書斎になっていた。…」、と「東京図絵」には書かれています。また「冬の光景」には、「…四谷坂町行きの市電に乗った。丸山義二氏のお宅を目ざしたのである。四谷見附で降り、地図をたよりに新宿に向かって歩き、右に折れ、坂道をくだると四十四番地である。そこに丸山氏の家があった。路地へまがる角のあたりに、漢方薬の問屋があったのをおぼえている。…」。となっています。よく読むと、四谷見附から新宿方面に向かい、”左に曲がる”と”右に曲がる”の正反対に書かれています。住所の四谷坂町44番地は右に曲がらなければなりません。

右の写真の左側、電信柱の先が旧住所で四谷坂町44番地です。写真の下り坂の先に市ヶ谷の自衛隊のビルがみえます。

日本農林新聞社跡>
 東京での最初の就職先が日本農林新聞社でした。「…日本農林新聞は九段の富士見町にあった。警察病院のわきをはいってすぐ左側である。モルタル二階建ての四角い家で、窓から警察病院の病室が、額をならべたようにみえた。患者がのぞいていたり、干し物がみえたりした。新聞社は、農林といっても林業が主で、それは社長の平野増富民が、庄川事件で名を馳せた人であることからしてもわかる。氏は日本林業界の大物だった。二階が編集室で、十人ばかりの記者がいた。当時の編集長は、今日、岐阜県知事の平野三郎氏である。細野氏は、デスクだった。新開は週刊で、記者が書いた原稿を、細野氏が割りつけし、土曜日に有楽町の工日の印刷部へいって組み、日曜日に刷りあがったのを、記者たちが手にして、取材かたがた回り先へ配るという仕事である。…」。日本農林新聞はもうありませんが警察病院はそのままです。

左上の写真右側が警察病院ですから道路を挟んで左側に日本農林新聞社がありました。警察病院はJR飯田橋駅を神楽坂方面に出て左側に少し歩いた右側です。

春秋荘跡>
 東京の最初の下宿は岩梅館でしたが二カ月あまりで春秋荘に移ります。「…榎町の角に近い質屋の横に(なぜかここも質屋に近かった)春秋荘というアパートがあった。榎町通りから長いアプローチのアスファルト私道の途中に食堂がある。岩梅館に二カ月ほどいて、ここが良さそうなのと、神楽坂に少し近かったので、越すことにした。…洋服は角の質屋から質流れを買い、ネクタイは赤の絹一本きりで四季を過ごした。このアパートに谷崎終平さんがおられた。記憶に間違いがなければ、僅かな期間日本工業新聞に通っておられたように思う。それとも、よく喫茶店を兼ねた食堂で会った谷崎さんの友人が工業新聞の記者だったせいか。終平氏は谷崎潤一郎先生の弟さんだった。終平氏とは一、二度食堂で話をしたように思うが、とにかく、むっつりした、無口の方だった。春秋荘の私の借りた部屋は、玄関を入ってすぐ右に折れたところにある共同炊事場の前で、六畳ひと聞きりだった。両隣に若夫婦がいて、しょっちゅう炊事場で女たちが話していた。谷崎さんの部屋は別棟になっていた。別棟には 「鶏騒動」で芥川賞を授けられた半田義之氏もおられた。 …富士見町まで三十分ぐらいかかった。毎日、往還しているうちに、途中の老舗の名や料理屋の名を覚えた。……いまはどうか知らぬが、原稿用紙で有名だった「やまだ屋」だったか「相馬屋」だったかの店も飯田橋へ下る坂の途中だった気がする。細野さんを中心に左翼作家たちが.よく飲んでいたビヤホールも「原稿用紙店」の反対側にあった。……だが、いま、この神楽坂通りを訪れてみると、ほとんど昔の面影はなく、私の記憶に残っているのは、田原屋果物店ぐらいである。…。」。春秋荘の住所については水上勉の長男である窪島誠一郎の「母の日記」で詳細に書かれていましたのでわかったのですが、早稲田鶴巻町界隈は空襲で焼けてしまったのと戦後の区画整理で全く変わってしまっていましたので、正確な場所がわかりませんでした。原稿用紙で有名だったのは神楽坂の相馬屋で、田原屋果実店は今はなく、ふぐ屋になっていました。

右の写真の左側辺りに春秋荘がありました。昭和15年4月に東京に出てきていますから、6月には春秋荘に移ったことになります。現在の住所では早稲田鶴巻町550〜551番地辺りです。岩梅館については場所が特定できませんでした。「…鶴巻町通りも、道の真ん中に並木のある景色ではなく、昔は古本屋の並ぶ狭い通りだった。岩梅館の前から鶴巻町通りへ出たところに「時代」という縄のれんの飲み屋があったが、これもむろんありはしない。たぶん「大野」といったはずの質屋もなくなっていた。榎町の広い通りから春秋荘へ入る道もなく、質屋から岩梅館に至る細い小路も消え、いまは、表通りはただのビルであった。…」。鶴巻町通り、現在の早大通りに「時代」という縄のれんの飲み屋と「大野」という質屋がないか探したのですが、道も拡張されており不明でした。何方かご存じの方がいらっしゃいましたら教えて頂ければとおもいます。

報知新聞社跡>
 水上勉はせっかく勤めた日本農林新聞社を退社し、昭和16年早々に有楽町の報知新聞に勤めます。「…農林新聞社から、報知新聞校正課に転職したのは、同人雑誌を介して知った三島正六さんの世話だった。彼は報知新聞の学芸部員で、校正課の欠員を知って、私を推薦してくれた。タブロイド版の週刊業界新聞より日刊の報知新聞の方が名も知れていて、病気をかくしている私には、厚生施設や保険制度のある待遇も嬉しかった。また校正課の仕事が三日に一度徹夜当番があって、残業手当も入り、かなり収入がよくなる。仕事は机に向っておればよく、農林省廻りや、時には大理石ずくめの宮殿のような帝室林野局などの晴れがましい建物に入ってゆくのに、ワイシャツのよごれや洋服のしわが気になり、身装りのことでは口やかましい編集長の目を意識していなければならなかった農林新聞より、装りもかまわなくてすむ校正課員の方が都合よかった。仕立て直しの合服一着、ワイシャツも一、二枚でネクタイも一本しかなかったのだから。報知新聞社は、有楽町の、のちにそごう百貨店になった建物の前身で、……」。戦前の報知新聞も現在と同じようにスポーツ紙だったのでしょうか…、きっと違いますね。

左の写真が現在のビッグカメラ有楽町店です。ビッグカメラの前がそごうで、その前が読売新聞だったとおもいます。


<水上勉の東京地図 -2->

●水上勉の東京を歩く 戦前編-2- 初版2004年7月10日 V01L02

 今週は「水上勉の東京を歩く」、戦前編の二回目を掲載します。前回は昭和16年早々に報知新聞に校正係として入社したまでを掲載しましたが、今週は柏木五丁目のコトブキハウスで初めて同棲してから、昭和18年までを掲載します。



<水上勉の世界>
 水上勉は非常に人生で37回、職業を変わったそうです。そのかわった職業がこの「水上勉の世界」の”三十七の職業をもつた男”の中で草永貰介が書いています。一回目の職業が”小坊主”で37回目の最後の職業が”作家”になるわけです。「京都・相国寺の侍者(小坊主) 数え年九つのとき、福井県の郷里を離れて、寺に入った。秀才ぶりを見こまれたのである。貧しい寺大工だった親からすれば、扶養家族の人員整理であった。十四歳で逃亡。…… 日本農林新聞の記者芥川賞候補作家の丸山義二氏を頼って、上京した。このあと、しきりに転々とする。 「水上には職を世話するな」という合言葉ができた。 報知新聞・校正部員 学芸杜・編集部員 三笠書房・調整係、のち編集部員 調整とは、整版の進行係である……」。すごい遍歴です。今週は昭和16年から18年まで3年間に5回変わった職業と、その間の女性遍歴を追いかけてみます。

左上の写真は昭和55年の別冊新評「水上勉の世界」です。.亡くなったと思っていた長男と再開したのが昭和52年ですから、その後の水上勉についてさまざまな人が寄稿していて、なかなか面白い水上勉特集になっています。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の?」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」r越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。(福武文庫より)

水上勉の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和15年
1940
北部仏印進駐
日独伊三国同盟
21
4月 上京 父が働いていた勝林寺を訪ねる
日本農林新聞社に勤める
早稲田鶴巻町の岩梅館に下宿
6月 早稲田鶴巻町の春秋荘に転居
昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
22
有楽町の報知新聞校正部に入る
2月 学芸社に移る
水道橋の印刷屋に勤める
淀橋区柏木五丁目 コトブキハウスに転居し加瀬益子と同棲
8月 三笠書房へ移る
9月20日 長男 誕生

学芸社跡>
 有楽町の報知新聞から次に転職したのが銀座の学芸社でした。「…報知新聞を辞めて、学芸社に転じたのは、柴田との交際が多少どころでなく面倒だったのと、柴田の口から病気が社内に知れたのが理由だった。三島正六さんが、京城の朝鮮日報に移ることになったのも、もう一つの理由だった。私は、三島さんの友人和田芳悪さんの世話で、当時、銀座の土橋ぎわにあった日吉ビル三階の学芸社に移った。健康な若者たちが、応召してゆく時節なので、そこらじゆうの出版社や新聞社には、欠員補充の要求があって、私のような肺病男でも、かんたんに入社できたのである。「きみも、いっそのこと、京城へきたらどうか」 と三島さんは出発する日にいった。女のごたごたも、朝鮮までくれば、すっばり切れるよと彼はいうのだった。…… 学芸社は、当時新潮社にいた和田芳意さんが、企画相談の立場にあった文芸出版社で、高見順、南川潤、窪川稲子、武田麟太郎、吉村貞司、野村胡堂などの本を出していた。社長は改造社の出版部長だった広田義夫氏で、十畳ひと間ぐらいのビルの一室に机を四つならべたきりの事務所だった。私は、小説を書きたい野心をもっていたから、この社で、文芸本の編集一切をおぼえる一方で、著者たちに会えるのが嬉しかった。それで、報知新聞をさっさと辞めてしまったのだった。…」。学芸社に移ったのが昭和16年2月ですから、報知新聞に在籍したのはわずか数カ月ではないかとおもわれます。

左上の写真の正面のビルのところに日吉ビルがあり、三階に学芸社がありました。新橋から有楽町に向かう電通通りに土橋がありましたが、橋が架かっていた堀は埋め立てられて高速道路になっています。写真の後ろ側辺りに土橋がありました。

柏木五丁目 コトブキハウス跡>
 早稲田鶴巻町の春秋荘から次に住んだのが柏木五丁目のコトブキハウスです。このコトブキハウスに移った時期については諸説あり、正確な時期は不明ですが16年の夏ごろではないかとおもいます。このコトブキハウスで初めて同棲します。「…稲取増子というのが女の名だった。私よりふたつ年上だから巳年うまれである。美人というほどでもなかったが、ぷおんなかといえばそうでもない。額がひろくて、生えぎわもととのっていた。眉も形よくのびていたし、肌は白くてきめもこまかい。短めの髪をうしろへ撫であげ、ありあわせの櫛でとめている髪型も、私の好みにあった。……ぶってり肉づきがよく、大尻を左右に振り振りアパートのリノリュームを肘つた廊下を、私の部屋に向ってくる。真夏など両側で戸をあけて風を入れているいくつもの部屋の住人が眼をそそいでいるのにさえ、気をつかわず、悠然と来る姿は、着物のときなど、アパートのどの女よりも押し出しのきく風格であって、これもまたたのもしく思えた。その稲取増子が、急に私よりは倍ぐらいの身長と体重をもつ巨体に見えはじめ、のしかかる重さで気になりだしたのは、妊娠を告げられた日からだった。正直、夏の末に越してきて間もなかった私は、このアパートで彼女と知りあい、秋半ばにもうそれを宣告されたので、間尺にあわぬような気がしたのである。…」。ここで書かれている妊娠して生まれた子どもが先に「明大前を歩く」で書いた窪島誠一郎氏になるわけです。稲取増子は仮称ですので、本名は加瀬益子になりますが、二人が会った時期についてはよく分かりません。この「冬の光景」ではコトブキハウスで初めて出会ったように書かれていますが、窪島誠一郎氏の「母の日記」では”早稲田鶴巻町の春秋荘”時代から二人は付き合っていたように書かれています(「母の日記」の中には早稲田鶴巻町の春秋荘が書かれています)。どうも「母の日記」のほうが正しくて、早稲田鶴巻町の春秋荘からの付き合いではないかとおもっています。「…「駅を降りてからね、明治大学の方へ降りかけて、四、五分のところ」その勤め先が、東亜研究所という名で」。当時、加瀬益子が勤めていたのがお茶の水駅から明治大学へ向かう途中にある東亜経済研究所でした。明治大学の一筋手前のビルになります。

右の写真正面が現在の北新宿四丁目の中央線高架橋です。柏木五丁目のコトブキハウスはこの写真の左側辺りに建っていたようです(北新宿4−17〜18付近)。「…木造二階建ての、板壁の四角な建物だった。中央線大久保駅から、東中野に向って走る電車から、柏木五丁目のこのあたりは、谷底のように見えた。ひしめきならぶ人家が、川に向ってトタン、瓦まちまちの屋根をひくめてゆくあたり、アパートは電車の線路へ密着していた。それで電車からも干物のならぶ窓は丸見えだったし、アパートの方から眺めても、上り線が黒ずんだ腹を見せてゆっくり走るのが見える。高架線のへりは、夏場は丈高い葛がまきつき、挨っぼい葉が灰いろによごれていた。私の部屋は二階の角にあったので、もっとも電車に近かった。…」。このコトブキハウスについては詳細の住所がわからなかったのですが、「母の日記」の中のなかの当時の住所が書かれていました。最も、この辺りは空襲で焼けており、また区画整理で全く変わってしまっていますので、詳細の場所はわかりませんでした。

三笠書房跡>
 学芸社時代にも警察沙汰を起こし、すぐに辞めてしまいます。次に勤めたのが水道橋駅そばの堀内印刷所でした。「…三崎町の堀内という印刷所にいたのだが、印刷所の世話で書房へ入れたのだった。…」。ここに少しいて三笠書房に移ります。「…当時、同書房は、九段下の川沿いにあって、冨山房倉庫裏であった。月刊「文庫」が出ていて、内田百聞「冥途」、宮城道雄「雨の念彿」 の再版、石川淳「森鴎外」などが刊行されていた。「カロッサ全集」や「ヘルマン・ヘッセ全集」も出ていた。畳敷きの和室が編集室で、私の係は校正だった。昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃の報は冨山房裏から専修大学前通りへ出た外食券食堂で畳めし中に号外売りがやって来て知った。冨山房の倉庫真に汚れ雪が溶けずにあった気がする。寒い日だった。…」。ここで、太平洋戦争に突入します。ですから昭和16年12月になるわけです。

左上の写真、正面付近に三笠書房がありました(現在の神田神保町3−3辺り)。写真の反対側に専修大学があります。当時の堀内印刷所は、水道橋駅そばの三崎町2−21(現在の住居表示)にありました。現在の堀内印刷所は三崎町2−18−2で営業されています。

都立下谷産院跡(推定 下谷病院)>
 少し時期が戻りますが、昭和16年9月20日、長男 窪島誠一郎をもうけます。窪島誠一郎氏の本名は「水上凌」でした。「…病院は「徳安産婦人科病院」というのが正式の名だった。それまでにも名だけはきいておぼろげだったが。省線鴬谷駅を降り、陸橋をわたり、根岸の方へ歩いてゆくと、市電交叉点に出た。坂本二丁目である。このあたり、商店や飲食店、床屋、印刷所などがごみごみと建て混んで、上野と三輪を結ぶ電車が走っていた。その電車道を右に折れて、五十メートルはど商店に沿うてゆくと、電柱に「徳安産科」 の看板が目立った。病院は、印刷所と文房具屋のあいだに四角い建物をつき出していた。…」。この産院については、最初場所がよく分からなかったのですが、「母の日記」で詳細に書かれていました。産院は都立下谷産院でした。この下谷産院は、下谷病院のことではないかと推測しています。上記に書かれている坂本二丁目の交差点は現在の根岸一丁目の交差点です。右に曲がっても病院はありませんでした。左に曲がると下谷病院があります。丸山義二の自宅を訪ねる時もそうでしたが、わざと曲がる道の右左を逆に書いているのではないかとおもいます。

右の写真の右側に下谷病院がありました。平成13年12月に江戸川区に移転しています。「…東中野から鶯谷駅まで省線にのり鶯谷陸橋を渡っていると、この駅のホームから高台にへばりつくような回廊がいやに長くて、そこに国防婦人会の襷をかけた、日の丸の小旗を振る女性たちが、通過する汽車めがけて、バンザイを叫んでいた。……私はこれから生まれてくるであろう子の力のない父親だった。鶯谷陸橋は、後に作家となった私が、軽井沢へ急ぐ途中、特急が一秒間で足り抜けることになるのだけれど、K女の退院の日以来、この陸橋をめったに荷物を背負って歩いたことはなかった。」。なかなか印象的な文章です。

今回で「戦前の東京を歩く」が終わりませんでした。次週も継続します。

<水上勉の東京地図 -3->


●水上勉の東京を歩く 戦前編-3- 初版2004年7月24日 V01L02

 今週は「水上勉の東京を歩く」、戦前編の三回目を掲載します。前回で戦前編は終わることができると思ったのですが、遍歴が複雑すぎて掲載しきれませんでした。今週がやっと戦前編の最終回となります。



<冬の光景(初版本)>
 水上勉が初めて同棲した加瀬益子との関係を描いたのが「冬の光景」です。この「冬の光景」を書いたのが昭和55年で、亡くなったと思っていた長男と再開したのが昭和52年ですから、やはり長男との再開がきっかけになって書いたものだとおもいます。もちろん再開した長男は加瀬益子との間にできた子供です。長男との出会いの詳細は「水上勉を歩く 明大前編」を参照してください。

左上の写真が水上勉「冬の光景」の初版本です。文庫本とは違って、いいですね!!

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の?」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」r越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。(福武文庫より)

水上勉の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和17年
1942
英領シンガポールを占領
23
守谷製衡所に勤める
昭和18年
1943
ガダルカナル島撤退
24
4月 新富町の映画配給社に勤める
6月 柏木五丁目から大塚仲町に転居
8月 中野区川添町に転居
9月30日 長男を養子にだす(正式?)
加瀬益子と別れ松守敏子と結婚
12月 映画配給社を辞める
昭和19年
1944
マリアナ沖海戦
東条内閣総辞職
25
1月 新井薬師に近い栄楽荘に転居
電気新聞に勤める
4月 栄楽荘から若狭に疎開
昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
26
4月13日 東京大空襲(新宿から甲州街道沿いが被災)

新富町の映画配給社>
 三笠書房を辞め、次に勤めたのが本所菊川町の守谷製衡所(現在の墨田区立川一丁目付近で現在も守谷製衡所は実存します)でしたが、ここも長くは勤まらず、すぐに辞めます。「…意外なことに就職斡旋の内容だった。それによると、このたび、松竹、東宝、大映三社の営業部門が合同することになり、社名も「映画配給社」ときまり、社屋はいまの大映(京橋筋の昭和通りに面していた)に本社を置き、各所に分室を置いて発足する。これを機に人員も増やす噂をきいたので、貴兄のことが頭にうかび、人事係にいってみたところ、総務部から社内報が出ることになっていて、適当な編集員がいない由。それで、もし、意志があるなら、傭ってもいいとの返事だ。すぐ電話をしてくれぬか。私は永井に家庭の事情は話していたが、病気のことはいっていなかった。親切な就職斡旋は嬉しいが、またぞろ三笠書房のように辞めてしまって、仲介してくれた人にめいわくかけても、という気がしたので、そのことを電話でいうと、「仕事も社内報のようなものやから外へ出る用事もないからラクだと思うんだがね」 と彼はいった。…… 私は、新富町にあった松竹本社裏の、バラックに分室をもつ 「総務部厚生課」 へ永井につれられて行った。…」。友人の紹介で無事 映画配給社に就職します。この昭和18年頃は若い男はみな兵隊にとられており、人手不足で経験者なら誰でもが勤められた時代だったとおもいます。

左上の写真の左のビルが当時の松竹本社ビルでした。このビルの左手は当時新富座ですから、”松竹本社裏のバラック”とは、松竹本社ビルの右手になります。バラックがあった場所は写真の左から二つ目のビル付近だとおもいます。

大塚坂下町の封筒屋(推定)>
 最初の同棲相手、加瀬益子と別れ話が出てきます。水上勉が病気がちであり、生活苦のため長男も養子に出すことにしてしまいます。「…急に帰ります。あなたはあなたのことをきめて下さい。わたしもはっきり心をきめて帰ってきますが、日数はかかると思います。くれぐれも、リョウちやんのところへはゆかないで下さいね。あなたがゆくと、リョウちゃんの将来が、また真っ暗になってしまいます、…」、二人が分かれた時期については昭和18年春ころだとおもうのですが、長男を養子に出した時期が昭和18年9月であり、すこしオーバーラップしているようです。次につき合い始めた彼女は映画配給社で出会った松守敏子でした。「… 総務部厚生課は新富町で、本社や営業局のある京橋、銀座通りの社屋とはなれていた上に、仕事が男女社員の福利厚生事業でもあったので、映画の配給とはかかわりのない、別天地でもあった。課内には、錬成部、音楽部、文芸部、事業部があって、私の社内報編集部にも、時々、女子社員が顔を見せた。… その中に、杉森トシ子がいた。… 私が間借り先をさがしているというと、トシ子が、「大塚坂下町はどうですか。あたしの遠縁のひとでね……トシ子の書いてくれた地図によると、大塚仲町から、護国寺の方へ坂になった市電通りを降りて、右へ折れると通称坂下通りになった。……地図は、その小鳥屋の前を数分歩けば、炭屋の隣りに、しもた屋の封筒屋があると教えていた。私は、夕刻迫る坂下通りにきて、そのしもた屋の表札を見て興味をもった。沖田一厘社分工場 沖田というのが、トシ子の叔母の夫で、神田に封筒工場をもつ本家らしく、弟は、ここに分工場を経営するらしかった。…」。戦後、”逃げた女房”になる松守敏子に紹介された下宿に、初めて同棲した柏木五丁目のコトブキハウスから転居します。大塚仲町交差点は現在の大塚三丁目交差点で、大塚三丁目から護国寺方面に150mほど歩き右に曲がるとと坂下通りになります。不忍通りを護国寺より大塚三丁目方面を撮影した写真を掲載しておきます(都バスが信号で止まっているところを左に曲がると坂下通りになり、道を登りきった所が大塚三丁目の交差点になります)。この付近は戦後また住むことになります。

昔の地図で坂下通りを探してみると写真の田中商店のところに上記に書かれている炭屋(燃料店)がありました。また封筒印刷所もこのお店の裏側にあったようで、田中商店の左の駐車場から裏手の方に”しもた屋の封筒屋”があったのではないかとおもわれます(推定)。

中野区川添町>
 大塚坂下町の封筒屋の下宿も長くは居れませんでした。松守敏子との関係が下宿先にばれて、やむを得ず中野区川添町に転居します。「…神田川は、柏木五丁目の日本閣裏へそそぐのに、淀橋区と中野区の境にある川添町の低地帯を、えぐるように流れていた。省線下をくぐるあたりでは人家もそう混んでいないのだが、川添町へくると、建てこんだ家の裏口をのぞくように流れた。岸すれすれに物干しが見え、台所口が見えたりしたが、川に沿うて通があるところとないところがあって、私の借りたアパートは岸ぎわで、出入口の細道が川べりの金網垣に沿うてあった。…この沖田の家には三ケ月ぐらいいて、夏のあつい盛りに、川添町へ越した。…」。この中野区川添町は、柏木五丁目とは中央線と神田川を挟んでちょうど反対側になります。

左上の写真の正面にオレンジ色に写っているのが中央線快速電車で、右側が神田川となります。東中野駅は左側になります。ですから、上記に書かれているアパートはこの辺りの左側になるようです。(水上勉の東京地図-3-を参照)

新井薬師に近い栄楽荘>
 松守敏子との関係が職場の映画配給社にばれてしまい、やむを得ず映画配給社を辞めます。この次に勤めたのが有楽町駅前の電気ビルの電気新聞社(水上勉の東京地図-3-を参照)でした。「…翌年一月に、中野区新井町の、西武電車停留所わきにあった「新井荘アパート」に越して、まもなく、トシ子も会社をやめ、私は有楽町にあった電気協会の新聞につとめた。が、二月半ばに、申請してあった疎開許可が区役所から降りたので、いよいよ若狭ゆきを決行したのだった。……私は、ながいあいだ勘当されたまま疎遠をつづけていた父が、私に同棲妻があるとわかって、急遽上京し、その妻(?) の顔を見たとたんに、ながらく見せなかった顔のほころびを見せた前後のことを考えていた。父はもってきた大工道具で、夜なべ仕事に本棚をこわし、台所用品や、書籍や、衣類などごたごたしたものを、ひとまとめに入れてしまえる大箱をつくったのだった。そうしてそれが出来上ると、妻(?)がつくる雑煮を喰って、私たち夫婦(?) の一つ床の、私のうしろへ、足をつっこんで仮眠し、夜明けにはもう、さっさと起きて、中野駅へ手荷物をはこぶという、手っ取り早さだった。… ところが、ようやく、目的の列車にたどりついてみると、老駅員の制止をきかず、先着順の行列は乱れて、人は窓から車内に乗り込んでいるのだった。指示通りに並んで待っていた者はひと足おくれ、窓から入った者に座席を占拠され、通路や、出入口はふくれ上った。父と、私とトシ子は、車輌と車輌のつなぎめの、破れた布蛇腹のうごく場所に、かろうじて、一家の場所を見つけた。父がトランクに、トシ子はリュックサックに、私は大風呂敷包みの上へ、へたりこむようにすわって、夜行列車の客になった。…」昭和19年4月、父親と水上勉、妻敏子の三人で東京から若狭の実家へ疎開します。

右の写真の右側が西武新宿線新井薬師前駅です。駅近くの中野区新井町ですから、この写真の左側付近にアパートがあったのだとおもわれます。

今回で「戦前の東京を歩く」が終わりました。次週は戦後の東京を歩きます。

<水上勉の東京地図 -4->

【参考文献】
・霧と影:水上勉、新潮文庫
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・私版 京都図絵:水上勉、福武文庫
・私版 京都図絵:水上勉、作品社
・京都遍歴:水上勉、平凡社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
・秋風:水上勉、福武文庫
・凍てる庭:水上勉、新潮文庫
・冬の光景:水上勉、角川文庫
・父への手紙:窪島誠一郎、筑摩書房
・母の日記:窪島誠一郎、平凡社
・わが六道の闇夜:水上勉、読売新聞社
・告白 わが女心遍歴:水上勉、河出書房新社
・冬日の道:水上勉、中央公論社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・停車場有情:水上勉、角川書店
・枯木の周辺:水上勉、中央公論社
・文壇放浪:水上勉、新潮文庫
・五番町夕霧楼:水上勉、新潮文庫
・名作の旅 水上勉:巌谷大四、保育社
・越前竹人形 雁の寺:水上勉、新潮文庫
・寺泊 わが風車:水上勉、新潮文庫
・命あるかぎり贈りたい:山路ふみ子、草思社


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