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最終更新日:2006年2月19日


●水上勉の明大前を歩く 初版2004年6月12日 <V01L04>

 平成12年(2000)6月24日に”水上勉の「私版 東京図絵」 散歩”の第一回目として蓬莱町から動坂目赤不動までを紹介してから4年間続編ができなかったのですが、ようやく「水上勉の全編」を歩く事が出来ました。少しづつですが掲載していきます。

 今週は「水上勉を歩く」の第一回目として京王線の明大前を歩いてみます。最初の妻との離婚、養子に出した長男との再会を二週にわたって掲載します。



<秋風>
 水上勉は昭和15年4月、21歳の時に父親の仕事場を頼って若狭から上京します。父親に”若狭に帰れ”と言われますが、つてを頼って東京で仕事に就きます、その後、加瀬益子と同棲、昭和16年9月20日 長男が生れますが戦争と生活苦のため長男を明大前の靴屋に養子に出します(水上勉は養子先を知らされていなかった)。その後、明大前付近は昭和20年4月の大空襲で焼け野原となり、長男は死んだものとおもわれていました。また最初の妻も昭和24年、長女を置いて明大前近くのM印刷の長男と駆け落ちします。「…浦和にいた頃だからざっと三十五年前になる。逃げた妻(Kの母親のつぎに結婚した女性だ)が三歳の娘を私の手許に置いて去った。娘が母親の行方を問うのをだましだまししてごまかしたが、日がたつにつれ、だましもきかなくなった。また私自身も、普段着のまま出たきりで音信もしてこない妻に、怒りもわいて、つとめ先のダンスホールや、ダンサー仲間のところへゆき、行方を聞きまわった。あとでわかったことによると、妻は慎重に計画をたて、普段着のまま八百屋へゆく姿で出たのも、その足で潜伏先へ向う都合からだった。計画に手落ちはなかった。ホールの支配人も、ダンサー仲間も、知らぬという。子をつれて行った私が、みすぼらしい身なりだし、当時はまだ敗戦後の食糧不足もあって親子ともほそっているのを眺め、気の毒そうに「何かのまちがいじやないですかね。お子さんもいるのに帰られないなんて……ひとのすることとは思えんですがね」 口ぐちに同情してくれた。…」。水上勉の最初の結婚は同棲ですから、正式には昭和18年の松守敏子と結婚が最初となります。この妻が駆け落ちした昭和24年は終戦後間もなくで、売れない作家の水上勉は妻の稼ぎに頼っていた時代でした。妻は子供を置いて日本橋白木屋にあった勤め先のダンスホールで知り合った明大前近くのM印刷の長男との駆け落ちしてしまいます。今週はこの駆け落ち先となった明大前付近を歩いてみました。

左の写真が明大前付近を描いた「秋風」の文庫本です。水上勉の本は非常にたくさん出版されていて、類似した本が多いです。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。(福武文庫より)

水上勉の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和15年
1940
北部仏印進駐
日独伊三国同盟
21
上京
昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
22
秋頃 コトブキハウス六号室に転居、加瀬益子と同棲
9月20日 長男 誕生
昭和18年
1943
ガダルカナル島撤退
24
9月30日 長男を養子にだす
加瀬益子と別れ松守敏子と結婚
昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
26
4月13日 東京大空襲(新宿から甲州街道沿いが被災)
昭和24年
1949
湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞
30
6月頃 妻 子供をおいて家出
昭和26年
1951
サンフランシスコ講和条約
32
10月 妻と協議離婚
昭和31年
1956
スエズ戦争勃発
日本国連加盟
37
西方叡子と再婚
昭和52年
1977
日本赤軍、日航機をハイジャック
58
6月 水上勉 長男と再会

京王線明大前駅>
 水上勉は妻が数カ月間帰ってこないため、長女をつれて探すうちに行き先がわかってきます。「…松原へいったのはそんな一日である。ダンサー仲間のAというのがいて、松原の土地名をはじめて私に教えた。六丁目あたりにある印刷屋の息子で、Mという二十二、三の男でいつも妻の客になり、かなり仲間の眼にも親密に見えたという。……「くわしくはしらないけどさァ。明大前の駅からだいぶ入ったところらしいわよ。古い印刷屋さんらしいから、電話帳みればわかると思うのよ。M印刷といったから」……明大前までは、国電で渋谷まできて、井の頭線に乗りかえた。その日も娘の手をひいていた。駅でおりて、カストリ焼酎や、バクダン酒を呑ませる屋台のならんだ線路ぞいを歩き、地図をたよりに、踏切のある通りへ出たが、あらかじめ電話帳でしらべてわかっていたから、その六丁目のM印刷の方へ折れていった。…」。いまだに明大前はごちゃごちゃしていますが、戦後すぐの当時はもっとすごかったのでしょう。

左の写真が京王線明大前駅を下高井戸方向から撮影したものです。線路沿いの道は当時も南側しかなかったので、水上勉が長女を連れて歩いた道は写真の通りだとおもわれます。

京王線の踏切>
 水上勉が長女を連れて線路沿いの道を歩き二つ目の踏切で左へ曲がります。「…私たちは松原の高架線に沿って、インターチェンジのある高井戸よりヘタクシーを走らせた。私は、Nさんとならんで、片側町のみえる窓から、ふたつめの通りのくるのを見すえていた。角に火災海上の看板のある通りであった。そこにきて車は速度をおとした。左折通りが住宅地にのびていて百メートルぐらい先に踏切の光りが見えた。あの向うに、M印刷のMがいた家があったな、と私は思った。それから、私は、その途中の左手よりには女子体育大学があったな、と思った。…」。水上勉はこの踏切がそうとう印象深かったのでしょう。また現在の妻の出身が日本女子体育専門学校だったので記憶に残っているのだとおもいます。

右の写真が京王線の明大前から下高井戸方向に二つ目の踏切です。この踏切をわたるとすぐ左側に日本女子体育大学があります。

日本女子体育専門学校>
 松原六丁目へ行くには京王線の明大前駅より小田急線の梅ケ丘駅や豪徳寺駅の方が近いとおもうのですが、道順として分かりやすかったのか明大前駅からかなりの距離を歩きます。「…まだ、この当時は、女子体育大学の建物は町家の空に目立ち、ところどころに大樺の生えた屋敷があった。ずいぶん歩いたと思う。ようやく屋敷町の中に、印刷屋のありそうな、酒屋、ミルクホール、荒物屋などのならぶ商店街へ出て、番地をきいてみた。印刷屋はなくて、いくらか高台になったその商店街をぬけて、降り勾配になったあたりに所番地があるのだった。だが、そこまで降りても印刷屋はなかった。…」。”高台になった商店街”と書いていますが、日本女子体育大学の右側の道には商店はありませんでした。左側の道、つまり明大前駅から一つ目の踏切を左に曲がった道には少しですが商店街があります。ただ何方にしても下り坂付近になると道は一本になるのであまり関係はないのですが。

左の写真が当時の日本女子体育専門学校、現在の日本女子体育大学です。大学は千歳烏山に移っており、同系列の二階堂高等学校とみどり幼稚園になっていました。

松原六丁目のM印刷>
 かなり歩いたようですが松原六丁目のM印刷を探し出します。「…私はベルを押した。内から男の声がして、やがて、戸があくと二十二、三の長身の男がにゅっと上りはなから半身を泳がせてのぞいた。Mにちがいなかった。男は、私がわきに娘をつれていたので、すぐわかったと見えて、一瞬、表情をこわばらせた。……「たしかに、ぼくは、よし子さん(妻の名)の客として白木(ホールの名)へ行ってますがさいきん、顔が見えないので、不思議に思っていました。お宅に帰ってらっしゃらないとなると心配ですね。ご事情はわかりますが、ぼくにも見当はつかないのです。どうして……ぼくの家なんぞにあなたがこられたか、ちょっと、びっくりしています」……この世にひとりの女をかりにふたりの男が好きになったとすれば、どっちに女がなびくか。もう勝負はついている。Mは妻の話では、私より五つもわかく、妻と私とは二っちがいだから、Mは妻より三っ年下なのであった。当然その若さは肌にも男ぶりにも感じられたのだ。それに何といっても長身で六尺近いのは五尺二寸そこそこしかない私に劣等感をあたえる。……Mは玄関を出て私たちを外まで送ってきた。ここで不思議なことが起きた。私と娘が、露地を出て、六丁目の通りへ出た時、はす向いのタバコ屋へ、Mはさっと走って、窓口の向うにすわっている中年風の女に何かいって、代金をだし、タバコを買ったのである。私たちは、釣り銭を待っているらしいMのうしろ姿を見ながら、屋敷町の木蔭をひろってまた駅の方へもどっていった。」。まだこの時は水上勉はMとの確信が持てなかったようです。それにしても妻もこの男も計画的ですね。このとき妻は既に松原六丁目近くの松原四丁目二三三番地のアパートに住んでM印刷の経理を手伝っていた訳です。まあ、小説なので誇張もあるとおもいますが、水上勉の人生そのものが小説です。

右の写真正面の路地を入ったところにM印刷がありました(推定)。ですからこの交差点にタバコ屋があったはずなのですが確認がとれませんでした。

松原町四丁目二三三番地>
 妻が出奔してから二年後の昭和26年10月、水上勉は東京家庭裁判所より協議離婚についての呼び出しを受けます。「…「里子さんは、世田谷区松原町四丁目二三三番地にお住まいですね……」 「はい」 と里子はこたえた。「ここのアパートで、おひとりでお住まいですか」 「はい」 と里子はこたえた。とこの時、調停官の眼が烱った。 「しかし、里子さんは、このアパートから一町ばかしはなれている宮口印刷所へたえず出入りしておられて、あの町内では、あなたが宮口印刷の若主人の数弥さんとご結婚なさるという噂がしきりです。当裁判所で調べたところでは、あなたは、シロキクラブで働いておられる時に、宮口さんと関係が出来て……浦和の安田さんのところから家出なさったのも、宮口さんが出来たからだということもきいています。とすると、いま、里子さんが、蕗代ちやんがかわいいとか、安田さんとの性格が相違しているとかいっておられるのは離婚の理由というよりは、本心では、いまの結婚を解消して、早く、宮口家へお嫁入りしたいと思っておられる……それが目的のようにうけとれるのですが……どう思われます」 「嘘です」 と里子はこの時カナギリ声をあげた。…」。これは水上勉の「凍てる庭」に書かれています。離婚は成立しましたが、妻が取り戻そうとした子供は家庭裁判所の判断で水上勉側での養育となります。また「秋風」に書かれていた”M印刷”が”宮口印刷”と書かれていますが、その他でつかわれている名前も含めてこれはあくまでも仮称です。イニシャルのMだけは正しそうです。それにしても、女性は怖いですね!!

左の写真が当時の世田谷区松原町四丁目二三三番地です。現在は幼稚園になっていました。松原六丁目のM印刷からは700mの距離で歩くと10分も掛からないとおもいます。

次回は死んだものと思っていた長男との奇跡の再会です。

●続・水上勉の明大前を歩く 初版2004年6月19日 V01L01

 今週は「水上勉を歩く」の第二回目として昭和18年に養子に出した長男との再会を京王線の明大前駅を中心に歩いてみました。



<父への手紙>
 昭和52年8月4日の朝日新聞朝刊の社会面は、「捜しあてた父は水上勉氏、”孤児の一念” 戦災の空白を克服」、と昭和18年に養子に出した長男との再開を10段の大きなスペースを割いて報じています。水上勉は昭和15年4月、21歳の時に上京、淀橋区柏木五丁目のコトブキハウスに住む加瀬益子と同棲、昭和16年9月20日 長男(水上凌)が生れますが戦争と生活苦のため止むを得ず長男を明大前の窪島家(靴修理屋)に養子に出します(水上勉は養子先を知らされていなかった)。その後、明大前付近は昭和20年4月の大空襲で焼け野原となり、長男は死んだものとおもわれていました。そのとき養父母と石巻市に疎開しており空襲は無事に逃れていました。戦後、養父母と明大前に戻って靴修理屋を再開します。しかし本人は血液型などにより養父母が実の親ではないと確信し、本当の両親を捜し始めます。(窪島誠一郎氏については別途掲載したいと思っております)。「…私の足にも鉄粉がこびりついてあって、松原という土地の底に、磁鉄鉱のような力が働いていたのを、私は気づかずにいたのか、とその夜考えた。Kからもらつた案内状を見た時にも思ったし、六時の開会にまにあうよう渋谷からタクシーに乗つた車内でも思った。Kは私が二十一歳の時に、S女との間にうまれた子で、私の生活苦と病苦に加えて、やがてくるだろう召集令のこともあってS女が思案して、子を他人にもらってもらった。その子がKであった。S女の子をあずけた先は明大前駅の近くのK家である。S女の知人の世話であった。世話した人とS女の相談で、あずけ先への配慮もあつて私にだけKの行き先は告げられなかった。S女と私はそれで別れたが、そのS女と敗戦後早々に一度街で逢い、Kのことをきくと、戦災で死んでいるだろう、といった。私たちが別れてすぐ空襲ははげしくなり、新宿を中心に甲州街道ぞいが、焼け野と化したのは、昭和二十年の四月だときいた。…」。水上勉にとって松原(明大前)は鬼門です。水上勉が呼ばれたのは下記に書いている「キッド・アイラック・アート・ホール」のオープンの時だとともわれます。Kはもちろん窪島誠一郎であり、Sは加瀬益子なのですが、Sの方がどうもイニシャルが違うようです。どうしてかわかりません。

左の写真は窪島誠一郎氏の「父への手紙」です。幼いときの養父母との葛藤や実父を捜し出すまでを丁寧に書いています。自らの率直な思いが書かれているのでびっくりしてしまいました。

【水上勉】
 1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の?」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」r越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。(福武文庫より)

京王線明大前駅(1)>
 昭和52年8月2日、34年ぶりに二人は再開します。その様子を朝日新聞が書いています。「…父にめぐりあつたのは東京・渋谷駅前で画廊を、世田谷区松原で小劇場を経営する窪島誠一郎さん(三五)=世田谷区○○。窪島さんは十三、四歳のころ、自分が両親に似ていないことに気づいた。『自分は両親の子ではないのではないか』。思いきってたずねると、両親は『何をいうんだ』と笑ってとりあわなかった。 そのころ、両親は明大和泉校舎の構内でクツ修理をしていたが、生活は若しかった。窪島さんは高校をでると、深夜喫茶のボーイ、ホテル従纂員、店員、珠算学校の手伝いなどをしながら、家計を助けるとともに、金をためた。それをもとに二十一歳のとき、小さな喫茶店を開いた。その間、自分の両親への?疑い″は年ごとに深まり、二十六歳のとき、再び両親に迫った。すると、意外な答えが返ってきた。『私たち夫婦は戦前、世田谷の明大前でクツ修理屋をやり、二階を下宿にしていた。そこに山下義正という学生がいて、昭和十八年秋、孤児をもらったといって二歳の赤ちやんを連れてきた。…」。ここに書かれている”26歳のころに両親にせまった”というのは少し違っているようです。「父への手紙」に詳しく書かれていますが、ご本人が苦労して探されたようです。この山下さんについては窪島誠一郎氏とともに別途掲載したいとおもっています。

左の写真がひょっとしたら知らないうちに水上勉と窪島誠一郎がすれ違っていたかもしれない京王線明大前駅です。区画整理の真っ最中で、新しいビルと古い民家が混在しています。あと数年すればきれいな駅前になるのではないでしょうか。

京王線明大前(2)>
 それでも戦後になると水上勉は長男を捜したようです。「…もちろん、Kの消息などわかりはしない。S女の死んでいるだろう、といったことを私は信じるしかなかった。だが、S女が、再会の時にはじめて白状した子の行き先について、世田谷松原のうどんや、というのだけはのこっていた。それで、二どばかりだったと思うが、仕事の都合で、世田谷に用があり、帝都線や京王線に乗る時は、明大前をすぎる駅の近所のことが気になって、用もないのに降りてみたことがある。二どとも、二十一年から二年にかけてのことだから、復旧のめどもっかず、大きな屋敷町もあるのに焼けっくしたままで、商店も仮小舎づくりで、経営者も前とかわっていた。うどんやが気になって一、二軒尋ねたがKを知る者はなかった。…」。なぜ靴修理屋がうどんやに変わったのかはよくわかりません。私もこのうどん屋をさがしましたが、そば屋はありましたがうどん屋はありませんでした。昭和30年頃には駅前に4〜5軒のそば屋がありました。

右の写真が明大前駅から西方を写したものです。当時は写真の左側と右側にそは屋がありました。右側のそば屋はまだあるようです京王線明大前(3)。出奔した妻を捜しにきた時もここでうどん屋に入っています。「…この帰り道に明大前駅近くのうどんやで娘と私は何か喰った記憶がある。このとき、私の頭にあったのはMのことではなくて私を捨てたよし子と結婚する以前に、私と一年間ほど東中野で同棲していたS女のことだった。S女とのあいだになした男の子を、S女が、明大前駅近くのうどんやへ子にもらってもらったところが、空襲で焼けてしまっているといったことについてである。…」。京王本線の南側の線路沿いにあるうどん屋と書いているのですが、そば屋ではなかったかとおもうのですが。

靴修理屋の跡地>
 窪島家は戦前、明大前で靴修理屋を営んでいましたが、疎開している間(戦後のドサクサで)に土地を奪われてしまいます。戦後、明大前に戻ってきたときは土地を借りて明治大学の学生向けに靴修理を初めています。「…明大前の養父母のいた土地で早くからスナック店を張り、それが成功すると、近所に分店も出し、さらにそれが成功すると、旧店を小ホールと喫茶店につくりかえて、他の地で画廊を経営するにいたっていた。案内書はその小ホール開業十五周年の祝宴で、私にもぜひ出席してくれるようにと、Kのそえ書きであった。…」。窪島誠一郎氏が成長すると靴修理屋をやめてスナックを開店します。昭和42年の甲州街道の拡張工事をきっかけにして左隣の高橋時計店を回収し「キッド・アイラック・ホール」を建てます。

右の写真が最初の「キッド・アイラック・ホール」の跡地です。現在は駐車場になっていました。明大前駅から甲州街道へ向かう小道の拡張工事で無くなってしまったようです。ですからいまの駐車場のところが高橋時計店跡で゛、歩道付近が当時のスナック跡ではないかとおもいます。(写真を拡大すると歩道までの写真となります)

キッド・アイラック・アート・ホール>
 「キッド・アイラック・ホール」の意味は喜怒哀楽をもじったものと窪島誠一郎が書いています。現在の「キッド・アイラック・ホール」は正式には「キッド・アイラック・アート・ホール」となり、旧「キッド・アイラック・ホール」からすこし明大前駅よりにビルを建てています。「…二階のホールは暗かった。常にはアングラ劇団が借りて有名になっているホールであるから、暗くて当然だが、天井の高い黒壁の真四角な空間に、五十人あまりの出席者がコの字に壁にへばりついて開会を待つ六時すこし前に私はあがっていった。……Nさんを皮切りに、入れかわり、立ちかわり、祝辞をのべる画壇の長老画家や大学教授や詩人は私にはまばゆかった。「K君は晴闇を生きているような不思議な男でしてね。いや、まったくこの劇場の暗い雰囲気はまことにふさわしい。暗闇といえば、まことK君の来し方は、波瀾万丈であって、いまも、三つの事業をひとつ手でやりぬくという……不思議な腕をもっている……たのもしい限りだが、いろいろのことを考えさせる人でもある」と私も親しくし、畏敬もしている老画家いった。…」。明大前に土地を買ってビルを建てるのですからそうとうなものです。

左の写真が現在の「キッド・アイラック・アート・ホール」です。この道を通ったことのある方なら見たことがあるとおもいますが壁に描かれた戦後まもなくの風景もすごいですね。時間がとれたら軽井沢の美術館も訪ねてみようとおもいます。

明大前付近地図

【参考文献】
・霧と影:水上勉、新潮文庫
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・私版 京都図絵:水上勉、福武文庫
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
・秋風:水上勉、福武文庫
・凍てる庭:水上勉、新潮文庫
・冬の光景:水上勉、角川文庫
・父への手紙:窪島誠一郎、筑摩書房
・母の日記:窪島誠一郎、平凡社
・わが六道の闇夜:水上勉、読売新聞社
・告白 わが女心遍歴:水上勉、河出書房新社
・冬日の道:水上勉、中央公論社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・停車場有情:水上勉、角川書店
・枯木の周辺:水上勉、中央公論社
・文壇放浪:水上勉、新潮文庫
・五番町夕霧楼:水上勉、新潮文庫
・名作の旅 水上勉:巌谷大四、保育社
・越前竹人形 雁の寺:水上勉、新潮文庫
・寺泊 わが風車:水上勉、新潮文庫

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