●堀辰雄の京都を歩く U
    初版2011年7月30日
    二版2011年11月25日  <V01L02>  瓢亭の朝がゆを追加
    三版2019年1月26日  <V01L02>  河峯旅館の写真を入替え

 「堀辰雄を歩く」を引き続いて掲載します。今回は前回に引き続いて「堀辰雄の京都を歩く U」です。堀辰雄の京都訪問は昭和12年、昭和18年の二回ですので、今回は昭和18年の京都を歩いてみました。(堀辰雄は奈良に滞在したときに京都を訪ねたことがあるようです)




「左京区下河原通八坂鳥居前下」
<河峯旅館>
 2019年1月26日 写真を入替え
 堀辰雄は昭和18年5月、6年ぶりで京都を訪ねています。3月に奥様と木曾から伊賀上野を経由して奈良を訪ねたばかりでした。体調は大丈夫だったのでしょうか。その頃の書簡を見ると、やはり調子はよくなかったようです。まずは京都での宿泊ですが、前回は百万遍の知恩寺の塔頭でしたが、今回は旅館に泊っています。
 まずは「堀辰雄全集 第八巻 書簡」の中で昭和18年5月15日の書簡からです。
「555 五月十五日附 京都河峯旅館より
淀野隆三宛(はがき)
ゆうぺこんどは一人でこちらに乗ました一週間ばかり滞在します けふの葵祭りが見られなくてがっかりしました けふは大山(定一)君などに逢ひます 君は相變らずお忙しいのでせうね 家内が花(華)ちゃんによろしくと云ってゐました 僕のゐる宿は八坂神社鳥居前下(祇園三〇四八)、一度お逢ひしたいものですね」

 昭和18年末にガダルカナル島撤退が決定されており、戦況はかなり厳しくなってきた時期です。

左上の写真は八坂神社南側の石鳥居から三筋目を左に入ったところに掲げられていた古い住居表示です。“左京区下河原通八坂鳥居前下 下河原町”と記載があります。上記の書簡に”僕のゐる宿は八坂神社鳥居前下(祇園三〇四八)”、旅館名は”河峯旅館”とありますので、この付近だとおもわれますが詳細の場所は探し出すことが出来ませんでした。昭和17年の電話帳に「河峯 岸部ミネ 下河原 八坂神社鳥居前下」とあり、確かに旅館は確認できました。又、京都の火保図で探してみましたが、下河原は旅館が多く、旅館名の記載が無かったので見つけることができませんでした。(もう少し調べてみます)

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)

「左京区下鴨泉川町六番」
<甲鳥書林>
 堀辰雄は京都で仕事があったようです。
 堀多恵子さんの「堀辰雄の周辺」からです。
「… 昭和十八年の春、京都の本屋甲鳥書林から、大山定一氏を中心にリルケの手紙を出版する計画があり、辰雄は自分に課せられた「パリの手紙」の下訳を森君にたのんでいた。…」
 堀辰雄自身も「晩夏」を昭和16年に甲鳥書林から出版していました。この時の印税が480円ですから、かなりの金額です。
 大山定一が堀辰雄の死後、「文芸」昭和三十二年二月臨時増刊号に「京都における堀さんの思い出」、を書いています。。
「……『晩夏』の出版のころ、下鴨の甲鳥書林でお目にかかったのが、二度目だった。芝生の庭のみえる応接間で、特製本に署名をしていた堀さんの横顔を思いだす。東山の高台寺にちかい宿にとまっていて、その宿も何度かねたずねした。葵まつりまで滞在の予定といっていたのが、戦争のため、突然まつりはその年から中止になりてしまった。ほととぎすの声はもう聞けないけれども、牛車などがきしみながら通る葵まつりの、古い絵巻ものから抜け出たような物静かな行列は、ぜひとも堀さんの眼で、新緑の加茂の堤で見ておいてほしからたと思う。…」
 大山定一は”『晩夏』の出版のころ、下鴨の甲鳥書林でお目にかかった”と書いています。「晩夏」は昭和16年出版ですから、出会ったのは16年になってしまいます。昭和16年5月の奈良訪問時に京都の甲鳥書林を訪ねたのかもしれません。しかし、時期は昭和18年がただしいとおもいます。

写真は現在の左京区下鴨泉川町六番付近です。出版社は本の奥付に住所が書かれています。その当時の本の奥付には”左京区下鴨泉川町六番”と書かれていましたので、直ぐに場所がわかるとおもったのですが、下鴨泉川町六番はかなり広い地番で、場所が特定できませんでした。下鴨神社の右側、写真の一帯が下鴨泉川町六番となっています。(もう少し、調べてみます)

「瓢亭」
<南禅寺の瓢亭(ひょうてい)>
 堀辰雄は京都で大山定一と料亭の瓢亭を訪ねています。 谷崎潤一郎が瓢亭を見て、”見すぼらしい焼芋屋のような家の軒先”と言ったのが有名です。東京から訪ねてきて、始めて見れば、そうおもうかもしれません。
 大山定一の「京都における堀さんの思い出」からです。
「… 最後に掘さんに会ったのは、昭和十八年だったかしら?
堀さんは何の前ぶれもなく、ひょっこりとあらわれた。たぶ
ん奈良からだった。南禅寺の瓢亭へ行った。美術史家の森暢さんが一しょだった。いろいろな話が出たが、あとで『死者の書 ── 京都における初夏の夕ぐれの対話』をよむと、内容は別として、堀さんはこの日の雰囲気を書いたのではないかと思った。…」

 大山定一と堀辰雄が京都で会った時期は昭和12年6月と18年5月です。
 堀辰雄の「大和路、信濃路」から”死者の書 古都における、初夏のタぐれの対話”の書き出しです。
「… 客 なんともいえず好い気もちだね。すこし旅に疲れた体をやすめながら、暮れがたの空をこうやって見ているのは。
 主 京都もいまが一番いいんだ。この頃のように澄み切った空のいろを見ていると、すっかり京都に住みついている僕なんぞも、なんだかこう旅さきにいるような気がしてきてならないね。まあ、そういう気もちになるだけでもいいからな……それにしても、君はこの頃はよくこちらの方へ出てくるなあ。いつか話していた仕事はその後はかどっているのかい。何か、大和のことを書くとかいっていたが……」

 未だに「大和路、信濃路」の構成がよく分かりません。最後に”死者の書”で終わるんですね。

写真は南禅寺草川町の「瓢亭(ひょうてい)」です。南禅寺の参道沿いの細い小道沿いにあります。インクラインが出来て、南禅寺とは少し離れたようにおもいます(場所的には変わっていない)。

「瓢亭の朝がゆ」
<瓢亭(ひょうてい)の朝がゆ>
 2011年11月25日 瓢亭の朝がゆを追加
 堀辰雄が食したのは夕食とおもわれますが、現在の瓢亭の夕食には手が出ないので”朝がゆ”を食してきました。それも、本店は高いので同じ料理で少し低価格になっている別館の朝がゆにしました。別館も予約が必要で、休日はそうとう先まで予約で埋まっているようです。私は平日に予約をしました(”朝がゆ”は午前中で8時から11時です。12月からは”うずらがゆ”になります)。平日は直前でも予約が取れるようです。価格は瓢亭のホームページを見て頂ければとおもいます。それなりの価格です。

左の写真が最後に出てくる”朝がゆ”です。コース料理なので、順番に出てくる料理を説明します。
1.まず最初は梅干し入りのお茶です。
2.次は瓢箪型の器に入った料理です。器を開いた写真も掲載しておきます。
3.湯豆腐です。
4.最後に”朝がゆ”です。(”朝がゆ”と香の物、出汁醤油の餡掛けをかけて食べます)
 これで全てです.30分以上かかります。味はやはり京都風で全体的に薄味です。別館は本館の直ぐ横にあります。座敷ではなく、六人掛けのテーブルに座って食べますので、畳に較べて楽は楽です。

大友(だいとも)跡
<祇園のお茶屋>
 堀辰雄は甲鳥書林の中市弘に連れられて祇園の茶屋「大友」を訪ねています。
 「堀辰雄全集 第八巻 書簡」からです。
「560 五月十九日附 京都河峯旅館より
堀多恵子宛(はがき)
おまへの手紙よんだ、鎌倉へは往ったか、僕は土曜日あたりこちらを立ってどこか途中で一泊でもしながら歸らうかとおもふ、ゆうぺはまた中市君につれられて鹿ヶ谷の料理屋にいき、鯛づくめの御馳走をたぺ、それから祇園にいって舞妓はんをちょっとみた、舞妓はんよりもそこの夏目漱石先生をよく知ってゐるといふおかみさんがよかったよ、

561 五月二十日附 京都祇園より
堀多恵子宛(はがき)
華ちゃんにつれられて、祇園のお茶屋で、まいこはんたちと銀杏をたべたりサイダアをのんだりしてゐるところ。」

 ”夏目漱石先生をよく知ってゐるといふおかみさん”は、「磯田多佳女」のことです。「磯田多佳女」については「夏目漱石の京都を歩く」と、谷崎潤一郎の「磯田多佳女の京都を歩く」を参照して下さい。詳細に書いています。

写真は祇園の白川南通りです。今は白川の右岸に路ができていますが、この路は昭和20年に空襲対策で造られたもので、それまでは「大友」等のお茶屋が建っていました。吉井勇の歌碑のところに「大友」がありました。


堀辰雄の京都地図-1-(立原道造の京都地図と連携)


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 軽井沢に初めて滞在
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在、奈良を尋ねる
7月 帰京後、信濃追分に滞在
11月 油屋焼失
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
34 1月 帰京
2月 鎌倉で喀血、鎌倉額田保養院に入院
4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚
5月 軽井沢835の別荘に滞在、父松吉が脳溢血で倒れる
10月 逗子桜山切通坂下の山下三郎の別荘に滞在
12月 父松吉、死去
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
35 3月 鎌倉小町の笠原宅二階に転居
5月 神西清と奈良を訪問、日吉館に泊る
7月 軽井沢638の別荘に滞在
10月 鎌倉に帰る
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
36 3月 東京杉並区成宗の夫人実家へ転居
7月 軽井沢658の別荘に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃
太平洋戦争
37 6月 軽井沢1412の別荘を購入
7月 軽井沢1412の別荘に滞在
10月 奈良に滞在
12月 再び奈良に滞在、神戸経由で倉敷に向かう
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 38  
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 29 4月 婦人と木曽路から奈良に向かう
5月 京都に滞在、奈良も訪問
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
40 9月 追分油屋隣に転居
         
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 47 7月 追分の新居に移る