<河峯旅館>
2019年1月26日 写真を入替え
堀辰雄は昭和18年5月、6年ぶりで京都を訪ねています。3月に奥様と木曾から伊賀上野を経由して奈良を訪ねたばかりでした。体調は大丈夫だったのでしょうか。その頃の書簡を見ると、やはり調子はよくなかったようです。まずは京都での宿泊ですが、前回は百万遍の知恩寺の塔頭でしたが、今回は旅館に泊っています。
まずは「堀辰雄全集 第八巻 書簡」の中で昭和18年5月15日の書簡からです。
「555 五月十五日附 京都河峯旅館より
淀野隆三宛(はがき)
ゆうぺこんどは一人でこちらに乗ました一週間ばかり滞在します けふの葵祭りが見られなくてがっかりしました けふは大山(定一)君などに逢ひます 君は相變らずお忙しいのでせうね 家内が花(華)ちゃんによろしくと云ってゐました 僕のゐる宿は八坂神社鳥居前下(祇園三〇四八)、一度お逢ひしたいものですね」
昭和18年末にガダルカナル島撤退が決定されており、戦況はかなり厳しくなってきた時期です。
★左上の写真は八坂神社南側の石鳥居から三筋目を左に入ったところに掲げられていた古い住居表示です。“左京区下河原通八坂鳥居前下 下河原町”と記載があります。上記の書簡に”僕のゐる宿は八坂神社鳥居前下(祇園三〇四八)”、旅館名は”河峯旅館”とありますので、この付近だとおもわれますが詳細の場所は探し出すことが出来ませんでした。昭和17年の電話帳に「河峯 岸部ミネ 下河原
八坂神社鳥居前下」とあり、確かに旅館は確認できました。又、京都の火保図で探してみましたが、下河原は旅館が多く、旅館名の記載が無かったので見つけることができませんでした。(もう少し調べてみます)
【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)