●銀座を歩く 十返肇編 〈昭和10年頃〉
    初版2011年9月3日  <V01L01> 暫定版

 今回は、「銀座を歩く 昭和10年頃」、の第三回です。高見順が編集した「銀座」という本の中に、十返肇が書いた「銀座文壇地図」が昭和10年頃の銀座を書いていましたので、この「銀座文壇地図」に沿って銀座を歩いてみました。因みに、十返肇は、”とがえりはじめ”、と読みます。




「銀座」
<「高見順編 銀座」>
 元々は、この本については知らなかったのですが、「日本の古本屋」で「銀座」で検索していたところ、「高見順編 銀座」を見つけ、面白そうだったので購入してみました。高峰秀子から野田宇太郎まで、分野の違う25名の方々が、銀座について書いています。出版元は英宝社(現在は大学向け英語教科書・英語関連研究書の発行を中心とした出版社となっています)で、昭和31年2月発行です。その中で、一番面白かったのが十返肇の「銀座文壇地図」でした。今回はこの「銀座文壇地図」に沿って歩いてみました。
 十返肇の「銀座文壇地図」からです。
「銀座文壇地図   十返肇(とがえり はじめ)
    戦 前 の 巻
 毎夜のように銀座裏におびただしく並んだ酒場の灯影の下には、作家批評家やジャーナリストが、どこかで談笑しているには達いないが、果して彼らは、しん底から、そういう時間を愉しみ陽気に享楽しているであろうか。私にはそうは考えられない。彼らは多くは好んで、そういう時間をもっているのではあるまい。ただ、胸中欝々たるなにものかが、彼らをして、やむなくそのような時間のなかに自己を埋没せしめているに過ぎない。したがって、無名の文学青年が、酒場通いする流行作家の景気のよさを羨望したりする必要はないであろう。
 私自身は、戦前年少のころから銀座を歩くのが好きで、ひところは毎夜、銀座を歩かなければ眠れないような時期もあったけれど、いまだ資力もなく、またかくべつの興味もないので酒場通いなどはしたこともない。ただ先輩に連れられたり、交際上から、ときどきそういう場所に足を踏み入れるにすぎない。したがって、かくべつ、今日の銀座と文学者の関係に詳細なものではないが、ただ、この機会に個人的な思い出を中心に、しばらく銀座文士風景を展開してみよう。…」

 文芸評論家 十返肇が書く”銀座”はタイトルだけで面白そうです。固有名詞がバンバン登場しています。普通なら、個人名は直接書かず、頭文字をとって、AとかTとか書くのが普通ですか、十返肇はそのまま書いています。お店の名前などもそのままです。読者にとってはとても面白いんです。

上記の写真は高見順編の「銀座」、英宝社版です。昭和31年(1956)発刊ですから、戦後すぐの銀座と戦前の銀座が書かれています。なかなか面白い本です。

【十返 肇(とがえり はじめ、1914年3月25日 - 1963年8月28日)】
高松市生れ。本名一(はじめ)、市最大の料亭であった生家が幼時に没落、父も早世して母一人子一人となる。高松中学低学年で吉田絃二郎に魅せられて回覧雑誌発行。「若草」「令女界」に散文を投じ大半当選。昭和4年『田園の憂鬱』に感動して家出、佐藤春夫を訪問したが入門を謝絶され帰郷。5年十六歳の女学生と駆落ちする途中大阪でとらえられて高松中学退学。昭和7年9月日本大学芸術学部入学。8年2月「文学機構」創刊。『白い海港の展望』が「近代生活」で吉行エイスケ(匿名)に取上げられ、ついで創刊した「芸術科」掲載の短編も寺崎浩に好評されるなど作家として嘱望される。同年8月中河与一主宰の翰林同人となり9月から翌年5月まで「文芸時評」を連載。評論家としての生涯を決定づける第一歩となる。昭和19年9月海軍応召、20年8月復員。同年風間完の妹千鶴子と結婚した。昭和22年から「文芸時評」を再開。昭和28年5月から11月まで「朝日新聞」に掲載した「文芸時評」が評判を呼ぶ。。翌29年から「文学界」「新潮」「中央公論」などにも迎えられていちやく流行児となり、37年「朝日新聞」PR版連載の戯文『けちん坊』を頂点として社会戯評にも才筆をふるい『人われを軽評論家とよぶ』などの文章を書くにいたらしめた。無類の文学ずきで文壇随一の消息通であったがゆえにゴシップ的読物を多産したため誤解されがちだが、現場の目撃者、生き証人の立場に徹して対象と切りむすんだ現場主義の文芸評論は躍動性にみちた独自のものであった。(日本近代文学大事典参照)


「新宿 紀伊国屋」
<新宿 紀伊国屋>
 十返肇が書いた「銀座文壇地図」にしたがって銀座を歩いてみます。まず最初は新宿 紀伊国屋2階にあった「サロン行動」です。
 十返肇の「銀座文壇地図」からです。
「… 私自身が、銀座のいわゆる文士のタマリ場めいた場所を知るようになったのは、かれこれ二十年以前
 ── 昭和十年頃でもあったろうか。
 当時、私は二十歳で、新聞雑誌にすこしばかり文芸時評めいた文章を発表しかけたころであった。そのころ新宿紀伊国屋書店の社長である田辺茂一が、文芸雑誌「行動」を刊行しており、私にしばしば舞台を与えてくれていた。私は新宿裏のアパートに、ある少女と同棲していて、夜ともなると新宿から銀座の方へと足を伸ばすのが習慣であった。そのような私の相棒は、やはり新宿裏のアパートに棲んでいた新進作家田村秦次郎であった。夕方がくると、たいてい私たちは紀伊国屋書店の二階にあった「サロン行動」という喫茶室で逢い、しばらく無駄話を交してから、バスに乗って尾張町まで出掛けていった。…」

 住むのは新宿、遊ぶのは銀座は贅沢ですね。新宿でも遊ぶのに困らなかったはずです。新宿の紀伊国屋は、田辺茂一が昭和5年に実家(炭屋)の隣で本屋を開店したのが始まりです。その当時の建物の写真があるのですが、2階は展示会場になっていました。”「サロン行動」という喫茶店”がいつ頃出来たのかは不明です。

左上の写真は少し前、2004年頃の新宿 紀伊国屋の写真です。

「テラス・コロンバン跡」
<テラス・コロムバン>
 戦前の銀座の喫茶店といえば必ず登場するのが「テラス・コロンバン」です。
 十返肇の「銀座文壇地図」からです。
「… バスを尾張町で降りると、私たちは新橋に向って西側の道を歩いてゆく。そのころ、現在フジ・コロムバンのある六丁目角がコロムバン喫茶店で、その二、三軒北側にテラス・コロムバンという店があり、この二軒によく文士たちが腰かけていたものである。テラス・コロムバンは街路に直接面していて、道の上でコオヒイを飲んでいるような感じがあって気に入られていた。コオヒイの受皿に、値段をあらわす15という文字が焼いてあった。私はここで片岡銑兵にはじめて逢った日を、いまでも鮮やかに記憶している。『花嫁学校』を書いて以来、通俗小説で花形流行作家になった彼は、よくここでコオヒイを飲みながら、ひとりの場合は、誰か話相手が通らぬものかというような顔をして、街路の方を眺めていた。私と田村が通りかかると、いかにも人なつこそうな微笑をして、右手を肩のあたりまで軽く挙げて、オイデオイデをするのであった。また誰か相手があると、いかにもうれしそうに満面笑みを浮かべ、笑う時は左手で眉をかばうようにして話に夢中になっていた。近寄ってみると、たいていその話題は女性に関するもので、彼氏がその豊富な体験談を相手にきかせているのであった。。…」
 当時のコロンバンの写真を見ると、現在でも通用するデザインの建物になっています。建物の前にテラスがあり、テーブルが二つおかれています。スタバのイメージとあまり変わりません。片岡鉄平がテラスに座ってコーヒーを呑んでいた雰囲気がよく分かります。

写真は銀座六丁目と七丁目の交差点から六丁目西側を撮影しています。当時は角に「コロンバン」があり、「コロンバン」の右隣が「美濃常洋品店」で、二階が「東京茶房」になります。現在は「コロンバン」と「美濃常洋品店」跡がひとつのビルになっているようです。テラスコロンバンはこの角から当時としては6軒目、現在は3軒目になります(くのやビルの右隣の銀座UKビルのところ)。

 コロンバンのホームページによると、昭和6年(1931)11月に六丁目交差点西側角に「コロンバン」が開店し、その年の12月に六丁目西側中程に「テラス・コロンバン」が開店したとなっています。ただ、今和次郎の「銀座一帯飲食店分布状態」1929年9月(昭和4年)では銀座六丁目西側中程に「コロンバン」が掲載されています。昭和6年4月発行の「大日本職業別明細図」によると、「コロンバン」の記載は無く、六丁目交差点西側角は「五木田運動具店」、六丁目西側中程には「サロンドテパン」の記載がありました。昭和10年の「大銀座街之図」では六丁目交差点西側角は「コロンバン」、六丁目西側中程には「ヨシノヤ靴店」となっています。又、アルバム・銀座八丁によると、六丁目交差点西側角は昭和5年12月には記載は「すずらん毛糸店」、昭和17年には「コロンバン」となっており、六丁目西側中程は昭和5年12月には記載は「コロンバン」、昭和17年には「ヨシノヤ婦人子供靴店」となっています。まあ、バラバラですね、困ったものです。六丁目西側中程にあった「テラス・コロンバン」は昭和10年には無くなっていたことだけは確かなようです。

「トリコロール」
<松坂屋裏のトリコロール>
 「トリコロール」は比較的新しいお店だとおもっていたのですが、昭和11年の創業でした。
 十返肇の「銀座文壇地図」からです。
「… そのころは、すでに前記のマダムと別れて新富町のアパートに棲んで、新進作家となっていた丹羽文雄が、毎晩銀座に姿をあらわしていた。彼は銀座へ出てくると松坂屋裏のトリコロールという喫茶店へ必ず最初に立ち寄っていた。その腰掛ける場所も例外なく決まっていた。それはレジスターの正面の席で、彼はそこから、勘定台にいる女の子をいつも眺めていた。彼のある小説に書かれているトリ子という女性は、この女性をモデルにしたものである。それからコロムバンへ彼は出かけていった。
 当時、私たちの仲間は、どういうものかいまのように、あまり酒を飲まなかったので、酒場や飲み屋はほとんど知らなかった。ただ時々交詢社の階下にあるサロン・春とか、出雲橋にいまもあるはせ川、五丁目の吉田などへ時々でかけたにすぎなかった。…」

 丹羽文雄については別途 特集したいなとおもっています(時期は何時になるか分かりません)。「トリコロール」は私も食したことがあります。その時は記事になるとはおもいもしませんでした。
-サロン・春 : 下記を参照
-出雲橋にいまもあるはせ川 : 坂口安吾の東京を歩く(昭和6年から昭和11年まで)」を参照
-五丁目の吉田 : 不明、吉田というと七丁目の蕎麦屋「よし田」か、五丁目なら「岡田」の間違いか?

写真は現在の「トリコロール」です。戦前から場所は変わっていません。上記には”松坂屋裏”と書かれていますが、正確には銀座五丁目、銀座通りから一筋東の通りにあります。

「交詢社ビル」
<サロン・春>
 「サロン・春」も銀座のバー(カフェ?)としてはよく登場しています。
 十返肇の「銀座文壇地図」からです。
 「…サロン・春へは、それから四、五年のち南川潤がよく通っていた。さいきん松竹映画会社秘書課長として活躍し本もあらわしている長島ひさ子さんが勤めていた。堀口大学がよく来ていたようで、愛人がこの店にいた。出雲橋のはせ川は、主人が長谷川零余子といって久保田万太郎門下の俳人で、当時から文芸春秋社の人たちや、いわゆる文春系といわれる作家たちが集っていた。そのころは文士が、新潮系と文春系にわかれていて、鎌倉の連中は文春系といわれていた。久米正雄、横光利一、永井竜男、今日出海、河上徹太郎、寺崎浩、中山義秀、丸岡明、中島健蔵、井伏鱒二などという人たちが毎夜のように集っていたらしいが、私たちはほとんど行ったことがなかった。吉田では、いまもいる宮内義治が板前で威勢のいいところを見せていた。ここもやはり文春系の人たちが多かったようである。…」
 「サロン・春」が入っている交詢社ビルは昭和4年12月に完成しています。「サロン・春」が一階に開店したのは翌年の5月になります。経営者は神戸の蔵元の関係者で、神戸の清酒を東京で売るためにお店を開いたようです。後に経営者が変わり、地下にも「サロン・春」を開店しています。

写真は現在の交詢社ビルです。昭和4年12月頃の交詢社ビルの寫眞を掲載しておきます。

「園枝」
<園枝>
 最後は「園枝」です。現在も八丁目に園枝ビルがあり、知る人ぞ知る「園枝」です。
 十返肇の「銀座文壇地図」からです。
 「… 丹羽、田村、それに当時都新聞記者をしていた井上友一郎と私の四人は、さきにも述べたように、ほとんど酒を飲まなかったが、たまに飲むときは国民新聞社裏にあった園枝というオデン屋へもっぱら行った。園枝もいまは立派な旅館になっているが、ここの二階で私たちはよく一緒に飲んだ。そして、現在の十五日会(丹羽主宰、機関誌「文学者」発行)の端緒というべき少数での文学研究会を一カ月に一回ずつ行った。集ったものは、前記の私たちのほかに、死んだ荒木観、また伊藤整、田宮虎彦などで、誰かが作品を発表すると一同でそれを批判したものであった。いつか丹羽の『怒涛』という小説の合評をしたとき、私があまり圧したので、さすがの丹羽文雄も不興になってしまったことを記憶している。そのほかでは電通通りのハイデルベルヒとか、草野心平が行きつけていたジルヴエスターとか、いまも文士の客が多いブーケとかいう酒場に時々いった起度だが、なにしろ当時の私たちは酒を飲まなかったので、詳しいことは私には語れそうにはない。…」
 「園枝」については、上記には”国民新聞社裏にあった”と書かれていますが、私が調べた限り、国民新聞社裏にはありませんでした(国民新聞社の位置については下記の地図参照)。昭和10年の「大銀座街之図」で「園枝」を探したところ、電通通りから東に少し入った銀座八丁目に見つけることが出来ました。
 〈”電通通りのハイデルベルヒ”、”草野心平が行きつけていたジルヴエスター”、”文士の客が多いブーケ”を順に探します〉
 −電通通りのハイデルベルヒ : このお店も電通通りにはありませんでした。五丁目の「門」の斜め前に見つけました。
 −草野心平が行きつけていたジルヴエスター :不明です。
 −文士の客が多いブーケ : 坂本睦子で有名な「ブーケ」です。開店は昭和7年で場所は八丁目協立ビルです。

写真は電通通りから日航ホテルのところを一筋東に入ったところです。昭和10年当時は写真の右側(黒い壁のところ)に「園枝」がありました。戦後は写真左側に園枝ビルを建てられています。

 追加更新予定です。

銀座地図(昭和10年頃)