<「高見順編 銀座」>
元々は、この本については知らなかったのですが、「日本の古本屋」で「銀座」で検索していたところ、「高見順編
銀座」を見つけ、面白そうだったので購入してみました。高峰秀子から野田宇太郎まで、分野の違う25名の方々が、銀座について書いています。出版元は英宝社(現在は大学向け英語教科書・英語関連研究書の発行を中心とした出版社となっています)で、昭和31年2月発行です。その中で、一番面白かったのが十返肇の「銀座文壇地図」でした。今回はこの「銀座文壇地図」に沿って歩いてみました。
十返肇の「銀座文壇地図」からです。
「銀座文壇地図 十返肇(とがえり
はじめ)
戦 前 の 巻
毎夜のように銀座裏におびただしく並んだ酒場の灯影の下には、作家批評家やジャーナリストが、どこかで談笑しているには達いないが、果して彼らは、しん底から、そういう時間を愉しみ陽気に享楽しているであろうか。私にはそうは考えられない。彼らは多くは好んで、そういう時間をもっているのではあるまい。ただ、胸中欝々たるなにものかが、彼らをして、やむなくそのような時間のなかに自己を埋没せしめているに過ぎない。したがって、無名の文学青年が、酒場通いする流行作家の景気のよさを羨望したりする必要はないであろう。
私自身は、戦前年少のころから銀座を歩くのが好きで、ひところは毎夜、銀座を歩かなければ眠れないような時期もあったけれど、いまだ資力もなく、またかくべつの興味もないので酒場通いなどはしたこともない。ただ先輩に連れられたり、交際上から、ときどきそういう場所に足を踏み入れるにすぎない。したがって、かくべつ、今日の銀座と文学者の関係に詳細なものではないが、ただ、この機会に個人的な思い出を中心に、しばらく銀座文士風景を展開してみよう。…」
文芸評論家 十返肇が書く”銀座”はタイトルだけで面白そうです。固有名詞がバンバン登場しています。普通なら、個人名は直接書かず、頭文字をとって、AとかTとか書くのが普通ですか、十返肇はそのまま書いています。お店の名前などもそのままです。読者にとってはとても面白いんです。
★上記の写真は高見順編の「銀座」、英宝社版です。昭和31年(1956)発刊ですから、戦後すぐの銀座と戦前の銀座が書かれています。なかなか面白い本です。
【十返 肇(とがえり はじめ、1914年3月25日 - 1963年8月28日)】
高松市生れ。本名一(はじめ)、市最大の料亭であった生家が幼時に没落、父も早世して母一人子一人となる。高松中学低学年で吉田絃二郎に魅せられて回覧雑誌発行。「若草」「令女界」に散文を投じ大半当選。昭和4年『田園の憂鬱』に感動して家出、佐藤春夫を訪問したが入門を謝絶され帰郷。5年十六歳の女学生と駆落ちする途中大阪でとらえられて高松中学退学。昭和7年9月日本大学芸術学部入学。8年2月「文学機構」創刊。『白い海港の展望』が「近代生活」で吉行エイスケ(匿名)に取上げられ、ついで創刊した「芸術科」掲載の短編も寺崎浩に好評されるなど作家として嘱望される。同年8月中河与一主宰の翰林同人となり9月から翌年5月まで「文芸時評」を連載。評論家としての生涯を決定づける第一歩となる。昭和19年9月海軍応召、20年8月復員。同年風間完の妹千鶴子と結婚した。昭和22年から「文芸時評」を再開。昭和28年5月から11月まで「朝日新聞」に掲載した「文芸時評」が評判を呼ぶ。。翌29年から「文学界」「新潮」「中央公論」などにも迎えられていちやく流行児となり、37年「朝日新聞」PR版連載の戯文『けちん坊』を頂点として社会戯評にも才筆をふるい『人われを軽評論家とよぶ』などの文章を書くにいたらしめた。無類の文学ずきで文壇随一の消息通であったがゆえにゴシップ的読物を多産したため誤解されがちだが、現場の目撃者、生き証人の立場に徹して対象と切りむすんだ現場主義の文芸評論は躍動性にみちた独自のものであった。(日本近代文学大事典参照)