< 矢田津世子旧宅> 「この戦争中に矢田津世子が死んだ。私は死亡通知の一枚のハガキを握って、二三分間、高か二筋の涙というものを、ながした。……つまり私はそのときも尚、矢田津世子にはミレンがあったが、矢田津世子も亦、そうであったと思う。」、坂口安吾が初めて本当に惚れた女性が矢田津世子でした。坂口安吾が初めて矢田津世子にあったのは「とにかく、私と英倫とほかに誰かとウインザアで飲んでいた。そのとき、矢田津世子が男の人と連れだって、ウインザアへやってきた。英倫が紹介した。それから二三日後、英倫と矢田津世子が連れだって私の家へ遊びにきた。それが私達の知り合った始まりであった。」と書いています。このとき矢田津世子は偶然か、意識的か、蒲田区安方町の坂口安吾宅に訪ねたときに本を忘れます。「手紙がきた。本のことにはふれておらず、ただ遊びに来てくれるようにという文面であったが……私は遊びに行った初めての日、母と娘にかこまれ、家族の一人のような食卓で、酒を飲まされて寛いでいた。その日、帰宅した私は、喜びのために、もはや、まったく、一睡もできなかった。私はその苦痛に驚いた。ねむらぬ夜が白々と明けてくる。その夜明けが、私の目には、狂気のように映り、私の頭は割れ裂けそうで、そして夜明けが割れ裂けそうであった。この得恋の苦しみ(まだ得恋には至らなかったが、私にとってはすでに得恋の歓喜であった)は、私の初めての経験だから、これは私の初恋であったに相違ない。」、やはり坂口安吾にとっては初恋の人だったようです。
<矢田津世子> 明治40年6月15日、秋田県南秋田郡五城目町に生まれる。本名 矢田ツセ、麹町高女を大正13年に卒業後日本興業銀行に勤務、昭和2年名古屋に移り住み、「文学時代」の懸賞小説に「罠を飛び越える女」で当選、昭和11年発表の「神楽坂」は芥川賞候補になる。昭和19年3月病死。
★左の写真は坂口安吾が初めて訪ねた矢田津世子の旧宅(新宿区中井二丁目)があった一の坂です。この坂を少し登った右側に矢田津世子の旧宅がつい先頃まで残っていたのですが、今はもうありません。写真の右側は山手通りで、首都高速道路の中央環状線地下工事中です。もう少ししたらここも全て潰されて道路になってしまうかもしれません。
|