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最終更新日:2018年06月07日

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●坂口安吾の東京を歩く (昭和6年から昭和11年まで)
  初版2002年8月24日 <V01L05>
  今週は、「坂口安吾の東京を歩く」で昭和6年から11年までを巡ってみたいとおもいます。この昭和初期は坂口安吾が新進作家として登場した時であり、その時代に彼の出会った人たちとの巡り合いを中心に、歩いてみたいとおもいます。特にその中で坂口安吾が初めて惚れた女性が矢田津世子でした。彼女に関しては、友人の大谷藤子が下記のように書いています。「矢田津世子は、その生涯を書くために生き、そのためには結婚生活に入ろうとさえしなかつた。作品を書けるという生活を彼女ほど厳しく選び、愛した作家も稀れだといいたいほどである。自分はどういう意味にしろ圧迫する人を持ちたくない、そのために萎縮する性質だからと彼女は語ったことがある」、坂口安吾との関係もこの文を読めば、納得しますね。

<坂口安吾の女性関係について>
 東洋大学には、”悟りを開きぼうさんになろう”と入ったわけですが、卒業後は一端の作家になり、女性関係が複雑になります。だいたい、どの作家も有名になり始めると、女性関係か複雑になり、既婚者は不倫や離婚に走るようです。昭和7年頃から11年ころの坂口安吾の女性関係をまとめてみると下記のようになります。これが全てではないと思いますが、よく書かれているのは下記の女性たちです。

  昭和7年 昭和8年 昭和9年 昭和10年 昭和11年 備考
矢田津世子
─────
─────
─────
昭和19年死去
 坂本睦子
←─
─────
─────
─────
昭和33年自殺
お安さん     ←───
───→
←→  
吉原の女給    
←→
     


坂口安吾の東京編(2)年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

坂口安吾の東京を歩く(2)

作  品

昭和5年
1930
ロンドン軍縮会議
25
3月 東洋大学卒業
5月 荏原郡矢口町字安方127に自宅を新築
11月 同人誌「言葉」を創刊
 
昭和6年
1931
満州事変
26
5月 「言葉」を「青い馬」と変えて岩波書店より新創刊
牧野信一から絶賛される
木枯の酒蔵から、風博士、黒谷村他
昭和7年
1932
満州国建国
5.15事件
27
3月 京都へ旅行
京橋のバー「ウインザア」の女給 坂本睦子と親しくなる
「ウインザア」で矢田津世子と出会う
8月 蒲田の家に矢田津世子が訪ねてくる
蝉、FARCEにおいて、群衆の人、村のひと騒ぎ他
昭和8年
1933
ナチス政権誕生
国際連盟脱退
28
1月 矢田津世子の自宅を訪ねる
5月 蒲田の酒場「ボヘミアン」のマダム安さんと親しくなる
小さな部屋、山麓他
昭和9年
1934
丹那トンネル開通
29
酒場「ボヘミアン」のマダムお安さんとアパートで同棲
9月頃 大森区堤方町555の十二天アパートに転居
年末に檀一雄と「はせ川」であう
長島の死他
昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
30
5月 尾崎士郎とあう 逃げたい心他
昭和11年
1936
2. 26事件
31
本郷 菊富士ホテルに移る 母を殺した青年他

ango-tokyo33w.jpg矢田津世子旧宅>
 「この戦争中に矢田津世子が死んだ。私は死亡通知の一枚のハガキを握って、二三分間、高か二筋の涙というものを、ながした。……つまり私はそのときも尚、矢田津世子にはミレンがあったが、矢田津世子も亦、そうであったと思う。」、坂口安吾が初めて本当に惚れた女性が矢田津世子でした。坂口安吾が初めて矢田津世子にあったのは「とにかく、私と英倫とほかに誰かとウインザアで飲んでいた。そのとき、矢田津世子が男の人と連れだって、ウインザアへやってきた。英倫が紹介した。それから二三日後、英倫と矢田津世子が連れだって私の家へ遊びにきた。それが私達の知り合った始まりであった。」と書いています。このとき矢田津世子は偶然か、意識的か、蒲田区安方町の坂口安吾宅に訪ねたときに本を忘れます。「手紙がきた。本のことにはふれておらず、ただ遊びに来てくれるようにという文面であったが……私は遊びに行った初めての日、母と娘にかこまれ、家族の一人のような食卓で、酒を飲まされて寛いでいた。その日、帰宅した私は、喜びのために、もはや、まったく、一睡もできなかった。私はその苦痛に驚いた。ねむらぬ夜が白々と明けてくる。その夜明けが、私の目には、狂気のように映り、私の頭は割れ裂けそうで、そして夜明けが割れ裂けそうであった。この得恋の苦しみ(まだ得恋には至らなかったが、私にとってはすでに得恋の歓喜であった)は、私の初めての経験だから、これは私の初恋であったに相違ない。」、やはり坂口安吾にとっては初恋の人だったようです。

<矢田津世子>
 明治40年6月15日、秋田県南秋田郡五城目町に生まれる。本名 矢田ツセ、麹町高女を大正13年に卒業後日本興業銀行に勤務、昭和2年名古屋に移り住み、「文学時代」の懸賞小説に「罠を飛び越える女」で当選、昭和11年発表の「神楽坂」は芥川賞候補になる。昭和19年3月病死。

左の写真は坂口安吾が初めて訪ねた矢田津世子の旧宅(新宿区中井二丁目)があった一の坂です。この坂を少し登った右側に矢田津世子の旧宅がつい先頃まで残っていたのですが、今はもうありません。写真の右側は山手通りで、首都高速道路の中央環状線地下工事中です。もう少ししたらここも全て潰されて道路になってしまうかもしれません。


ango-tokyo36w.jpg「はせ川」>
 坂口安吾は新橋から銀座、京橋界隈で飲み歩きます。河上徹太郎の「文士と飲み屋」では「この店には他に牧野信二が、私や坂口安吾を連れてはやって来た。……次に有名なのは、はせ川であらう。ここは久保田万太郎の俳友が始めた店で、夫人が手料理を作り、主人はお爛番をしながら、言葉少なに、一人客の話相手などになつてくれる。……夏の夕方、まだ日も余り煩かない頃、一人で窓ぎはへ席をとつて、下の三十間堀の泥川でポートを漕ぐ人などをゆくりなく見降しながら、それでも遥か海から渡つて来るのか快い風を懐にうけて、鰹の刺身など食ふのは、安直な夏の風物であつたが、今では堀を埋立ててビルディソグがこの窓の外に立塞がってゐる。」と書かれています。この「はせ川」は文士仲間には、かなり有名で、井伏鱒二も「はせ川」について書いています、「夕方この店に行くと、窓の下に見えるどぶ川が、引潮であるのに川霧をためていることもある。…」。この「はせ川」で坂口安吾は初めて檀一雄に会い、一生の友人になります。このほかにも坂口安吾は行きつけの店があり、「この同人が行きつけの酒場があった。ウインザアという店で、青山二郎が店内装飾をしたゆかりで…」、と書いています。この同人とは、牧野信一、河上徹太郎で、この酒場では矢田津世子や中原中也と知り合います。またこの中原中也と店の女給を争うことになります。この女給が坂本睦子です。坂本睦子はこのあとも河上徹太郎、大岡昇平などと浮名を流します。新潮の今月9月号に久世光彦が「女神」として坂本睦子の一生を書いています。

・「坂本睦子」については「坂本睦子を歩く」を参照してください。
・「ウインゾア」については「大岡昇平の東京を歩く -4-」を参照してください。

右の写真は現在の銀座七丁目11番、花椿通りと三原通りの交差点です。写真の薄緑色ビルの左隣のビルが「はせ川」があった長谷川ビルです。現在は一階が画廊になっています。昭和27年の住宅地図を見ると、「酒場 はせ川」と書かれています。ちなみに薄緑色のビルは銭形ビルといい、昔と変わっていません。三十間堀は昭和24年から27年にかけて埋め立てられ、道路とビルになってしまっています。

ango-tokyo38w.jpg十二天アパート跡>
 「私は工場街のアパートに一人で住んでおり、そして、常に一人であったが、女が毎日通ってきた」で、毎日通ってくる女とは、蒲田の酒場「ボヘミアン」のマダム安さんのことだとおもわれます。坂口安吾はこの女性の良人の追跡をのがれるため、たびたび住むところを変えます。「ちようどそのころ、偶然あなたが私の同郷の知人の所有のアパートに棲んでゐらつしやることを知りました。私の知人とは、佐川といふ人で、アパートは大森堤方のみどり荘と十二天アパートで、その後者にあなたが居られることを知ったわけです。」とあり、この後浦和駅周辺のアパートまで移り住みます。

左の写真のビルの辺りが十二天アパート跡です。蒲田駅と大森駅のちょうど中間あたりで、東邦医大から直ぐの所にあります。

ango-tokyo40w.jpg本郷 菊富士ホテル跡>
 昭和11年になると、坂口安吾は蒲田区安方町から本郷の菊富士ホテルへ転居します。この時に矢田津世子と最後の接吻をします。「私は年が代ると、すぐ、松の内のすぎたばかりの頃であった思いがするが、母の住む家をでて、本郷のKホテルの屋根裏へ引越した。…明治時代の古い木造の洋風三階建で、その上に三畳ぐらいの時計塔のようなものが頭をだしていた。私が借りて住んだのは、この時計塔であった。……とつぜん、矢田津世子が言った。「四年前に、私が尾瀬沼へお誘いしたとき、なぜ行こうと仰有らなかったの。あの日から、私のからだは差上げていたのだわ。でも、今は、もうダメです」……そして、私は接吻した。矢田津世子の目は鉛の死んだ目であった。顔も、鉛の、死んだ顔であった。閉じられた口も、鉛の死んだ唇であった。……「じゃア、さよなら」矢田津世子は、かすかに笑顔をつくった。そして、「おやすみ」と軽く頭を下げた。それが私たちの最後の日であった。そして、再び、私たちは会わなかった。」このあと矢田津世子は昭和19年3月、病死します。

右の写真が本郷菊富士ホテル跡の記念碑です。有名なので皆様ご存じたと思います。それから上記の文から続きがあります。「意を決して、矢田津世子に絶縁の手紙を書き終えたとき、午前二時ごろであったと思う。ねむろうとしてフトンをかぶって、さすがに涙が溢れてきた。……翌日、それを速達でだした。街には雪がつもっていた。その日、昭和十一年二月二十六日。血なまぐさい二・二六事件の気配が、そのときはまだ、街には目立たず、街は静かな雪道だけであったような記憶がする。一しょに竹村書房へも手紙をだした。数日後、竹村書房へ行ってみると、その手紙が戒厳令司令部のケンエツを受けて、開封されているのだ。してみれば矢田さんへ当てた最後の手紙も開封されたに相違ない。むごたらしさに、しばらくは、やるせなかった。矢田さんからの返事はなかった。」とあります。矢田津世子と本郷菊富士ホテルであった翌日が2.26事件当日ですね、ひたひたと戦争の足音が忍び寄ってきています。


<坂口安吾 東京地図 その三>
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【参考文献】
・評伝 坂口安吾 魂の事件簿:七北数人、集英社
・坂口安吾の旅:若月忠信、春秋社
・定本 坂口安吾全集:坂口安吾、冬樹社
・太宰と安吾:檀一雄、沖積舎
・クラクラ日記:坂口三千代、筑摩書房
・追憶 坂口安吾:坂口三千代、筑摩書房
・新日本文学アルバム(坂口安吾):新潮社
・本格評伝坂口安吾:奥の健男、文藝春秋
・白痴:坂口安吾、新潮文庫
・堕落論:坂口安吾、新潮文庫
・風と光と二十の私と:坂口安吾、講談社文藝文庫
・文人悪食:嵐山光三郎、新潮文庫
・酒場:常磐新平、作品社
・昭和文学盛衰史(上)(下):高見順、福武書店
・新潮2002年9月号:新潮社
 
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