●坂本睦子を歩く
    初版2008年6月28日
    二版2008年9月15日 <V02L02> 「ブンケ」について修正

今週は「大岡昇平を歩く」の別巻として「坂本睦子を歩く」を掲載します。坂本睦子については、書かれたものがかなりあるのですが、伝記的なものは殆ど無く、文壇との関わり合いを書いたものが殆どでした。今回は調べられる範囲で掲載しました。


「新宿区百人町二丁目」
<新宿区百人町二丁目(現 百人町一丁目)>
  昭和33年4月15日、一人の女性が新大久保駅近くのアパートで自殺します。その女性の名前は坂本睦子、銀座では有名なチーママでした。坂本睦子は戦前、戦後を通じて多くの文壇人と関わりを持った女性でした。坂口安吾夫人の三千代さんや武田泰淳夫人となった百合子さんとはちょっと違ったようです。自由奔放のところがあり、特定の文壇人と長続きしなかったことが、最後に自殺した原因の一つだとおもいます。
「…坂本睦子が死んでいるのが発見されたのは、丸一日経った翌日の夕暮れだった。前日に投函された遺書を見て、大家の朴久美子がドアの鍵を壊して睦子の部屋へ入ったら、もう呼吸をしていなかった。まず青山二郎に報され、淀橋警察に遺体が運ばれている間に、二十人ばかりが睦子の部屋に集まった。
……当夜の席には、ジィちゃんこと青山二郎をはじめ、結城さんの小林秀雄、草平さんこと大岡昇平など、昭和の文壇の大所が顔を揃え、一人のバーの女の通夜にしては異様な光景だったという。あっという間に噂が飛んだ銀座界隈でも、あちこちのバーで思い思いの通夜が営まれた。
……誰かが近所の写真屋へ走ったのだろう。睦子の遺体の枕元に、《ブンケ》のカウンターで撮った僻き気味の睦子の写真が飾られていた。その顔があまりに寂しそうなので、隣りにもう一枚、日比谷の《レインボウ・グリル》時代のムウちゃんが笑っている。提灯袖の白いワンピースを着て、両腕をショートカットの頑の後ろで組んだ陸子は、このころ確か十六歳だったはずだ。…」

  久世光彦の「女神」からです。白洲正子の「銀座に生き銀座に死す」からでもよかったのですが、久世光彦の「女神」の方が良くまとまっていましたので、引用させていただきました。ものすごいメンバーの”お通や”です。そのくらい関わり合いがあったのでしょう。凄い女性の一言です。彼女のアパートは新大久保駅 近くと書かれていましたが、職安通りの方が近く、新宿に出るのにもあまり遠くはないところです。

「瑞輪寺」
左上の写真は新宿の職安通りから見た現在の新宿区百人町一丁目です(当時は百人町二丁目)。坂本睦子が自殺したアパートは写真の小道を150m程入った右側です。当時の建物は既になく、現在はマンションが建っていました。上記には大家さんの名前が書いてありますが、実在の大家さんとは違っています。大家さんは現在も直ぐ近くにお住まいです。当時のアパートがまだ少し残っています。雰囲気は掴めるのではないかとおもいます。追伸ですが、久世光彦の「女神」での新大久保界隈の描写はあくまでもフィクションです。(直接の写真は控えさせていただきました)

左の写真は坂本睦子のお葬式がおこなわれた谷中の「瑞輪寺」です。りっぱなお寺でした。お墓は生まれ育った三島にあります。下記を参照してください。
「…肉体に刻まれた男の名前の系列は彼女の成長の跡を物語るかのようだ日く、直木三十五、菊池寛、小林秀雄、坂口安吾、河上徹太郎、大岡昇平etc、etc。彼女が辿った道は、さながら昭和の文学史の観を呈する。もはや古い話とはいえ、私の敬愛する先生達の実名をあえてここに掲げるのも、私にとって、それがつまらない文壇裏話、………」。
 登場する文壇人の名前は物凄いですね。戦前から戦後にかけて日本の文壇を支えてきたメンバーです。

「林光寺」
林光寺>
  坂本睦子のお墓は生まれ育った三島の林光寺にあります。東京では騒がしすぎるかもしれません。東京から少し離れた三島が丁度よいのかもしれません。
「…どうして三島には死んだ人がこんなに多いのだろう。隠れん坊に飽きて、午後のお墓を見回すと、怒っているのや、笑っているのや ── 
……いまでも憶えているが、林光寺さんの境内を出て、そこから石段を三十段ばかり下りた草っ原に、町でも五本の指に入るくらい大きな楠があって、その根方に、妙に落ち着かない間隔をおいて二、三十の白いお墓が散らばっていた。…」

  彼女が書いたものや、取材を受けて書かれたものはなにも残っていません。彼女については、まわりが想像して書いているだけなのですが、的を得ているような、得ていないような、よく分からないのが現実です。

右上の写真が三島市加屋町一丁目の林光寺です。三島駅からは少し離れています。沼津へ向かう旧道添いにお寺があります。久世光彦の「女神」で書いているお寺の付近の風景は、現在は見ることができません。



文壇酒場 銀座地図



「ブーケ跡」
ブーケ>
 戦後いち早く文壇バーとして銀座で再開したのは坂本睦子が勤めた「ブーケ」でした。「ブーケ」の再開については「らどんな」のママ瀬尾春が主人公の「銀座 らどんな物語」の中に詳しく書かれていました。
「…お春は、上海時代の親友で、高見順の最初の妻、石田愛子を頼った。石田のいる場所は知らなかったが、銀座のダンスホールで訊きまわれば何とかなるだろうと思った。事実、石田の居場所はすぐにわかった。「なんだ、愛子さんなら、ここでもう一時間も待っていれば来るよ」 石田は、東京でも定職を持たず、ふらふらしていることがわかった。しばらくして、派手なワンピースに身を包んだ石田があらわれた。石田は、お春の顔を見てもおどろきもしなかった。引き揚げてきて当然、という顔で一瞥した。お春は、泣きついた。「愛ちゃん、どこか働き口世話してよ」 石田は、だるそうにいった。「あぁ、来月開店する『ブーケ』 という店を知ってるわ」 造作ないといったふうに、地図を書きはじめた。「服部時計店の裏に、一杯飲み屋があるわ。そこに行って、石田の紹介っていえば、鮮牢をつけてくれるわよ」お春が訪ねて行くと、ふたつ返事で採用が決まった。お春は、引き揚げ二カ月目にして、ようやく職を見つけることができた。……「ブーケ」は、銀座七丁目、電通通りからひとつ銀座通り方向に入った角にあるという。戦争中は落下傘の縫製をしていた。…」
 ここでも凄いメンバーが登場します。石田愛子がここで登場するとはおもいもしませんでした。「酒(昭和38年1月号)」という雑誌に「ブンケ」の片岡と志さんが取材を受けており、「ブーケ」の生い立ちが分かりました。”「ブーケ」は戦前からのお店で、片岡と志さんは戦前、「ブーケ」から「セビアン」に移り、次に自ら銀座一丁目の「うしお」を開きます。そこで太平洋戦争になります。銀座八丁目付近は焼け残り、昭和21年5月、「ブーケ」の持主の滝本さん、若松みさ子さん、そして片岡と志さんの三人で「ブーケ」は再開します。”

左上の写真は「ブーケ」があった銀座八丁目の恊立ビル跡です。「ブーケ」の場所については諸説あり、「銀座 らどんな物語」には銀座七丁目と書かれていましたが、昭和28年の「銀座界隈」と昭和33年の地図には銀座八丁目の恊立ビルに「ブーケ」と書かれていました。正解は銀座八丁目にある恊立ビルの「ブーケ」です(昭和26年度版の電話帳で確認しました)。

「プーサン跡」
プーサン>
  「ブーケ」はすぐに滝本さんから若松みさ子さんが買い取ります。若松みさ子さんが「ブーケ」の次に開いたお店が「風さん(プーサン)」でした。また、宇野千代の「青山二郎の話」の中にはこのバーの名前のことが詳細に書かれていました。
「…誰でも知っている銀座のバーに、プーサンと言うのがある。青山さんはこれに、という字を当てた。風に小さな○をつけて、プーと読ませる。…」
 青山二郎が名付けた名前が「風さん(プーサン)」というわけです。当然、坂本睦子もこの「風さん(プーサン)」に勤めます。この頃は銀座に新しいお店がどんどん開店します。下記の「文壇酒場の歴史」を参照してください。

右上の写真は銀座七丁目、旧電通ビルの裏通りです。この電通ビル裏の三軒先に「風さん(プーサン)」がありました(昭和26年度版の電話帳で確認しました)。

「ブンケ跡」
ブンケ>
 片岡と志が「ブーケ」から分かれて作ったバーが「ブンケ」と呼ばれていました。分かれたから「ブンケ」なのですね。昭和25年には瀬尾春が「ブーケ」から分かれて「らどんな」を開店させています(「らどんな」については別途特集予定)。坂本睦子も片岡と志について「ブンケ」に勤めます。
「…戦後から、昭和三十年ごろの時代の銀座で、文壇人を始め、著名人、有力者の客を集めて、羽振りをきかせたのが、高級バーとして、先に述べた『ブーケ』であった。戦後の文壇酒場のさきがけであった。『ブーケ』は、若松美佐子と片岡と志という二人のマダムによって、戦争直後の昭和二十一年五月に、開店したという。昭和三十年ごろまで、いわば『ブーケ』時代といってもいいほど栄えたようだ。昭和三十年、片岡さんが独立して『ブンケ』を開店した。当時の電通本社の前辺りであった。『ブーケ』の分家だから、『ブンケ』と名付けたという。…」
 「ブンケ」については書いてある本が少なく、場所の特定に苦労しています。雑誌「酒」では、片岡と志本人は電通の前といっていました。

左上の写真正面のホテルホンロン跡(「らどんな」と同じビル)に「ブンケ」があったと推定しています。住所は銀座西六丁目2まで確認ができています。「さらば銀座文壇酒場」に掲載されている地図には電通通りに面してあったと記されているのですが、昭和33年の地図にはホテルホンロン跡の「らどんな」と同じところに「酒場ブンケ」と書かれていました(ブンチとも読める)。今回はあくまでも推定です。



銀座 文壇酒場の歴史