●銀座を歩く 野口冨士男編 〈昭和10年頃〉
    初版2011年8月27日 
    二版2011年9月4日  <V01L01>  モナミを追加

 前回、「銀座を歩く 立原道造編 昭和10年頃」を掲載しましたが、今回から数回に分けて、作家別に「銀座を歩く」を掲載します。今回登場してもらうのは「野口冨士男」です。”鈴ヶ森のポフラハウス”で一度掲載していますが、今回は本格登場ということで、野口冨士男の「私のなかの東京」から銀座を歩いてみました。




「私の中の東京」
<「私の中の東京」>
 ”戦前の銀座を歩く シリーズ”を数回に分けて掲載することにしました。特に今回は、カフェーではなくて、喫茶店を中心に歩いてみることにしました。「銀座を歩く 立原道造編」を第一回として、第二回の今回は野口冨士男編を掲載します。野口冨士男は戦前に自身が通った銀座の喫茶店について”銀座二十四丁”のなかで、かなり詳細に書いています。お店の名前などの固有名詞が多く書かれており、戦前の銀座がよく分かる本です。
 野口冨士男の「私のなかの東京」から、”銀座二十四丁”です。
「… 昭和三年から銀座へ出はじめた私が最初にしたしんだのは、やはり喫茶店である。
 昭和九年七月に、丸之内出版社から石角春之助の『銀座解剖図』という一書が出版されている。それによると、一丁目のブラジレイロの筋向いにサソパウロがあり、西側二丁目にはライン、東側にはオリンピック、三共製薬の喫茶部、西三丁目にはアトラス、向う側に明治製菓、西四丁目には富士アイス、木村屋の喫茶部、同五丁目にはレストラント松月、オリンピック、ブラジル、西六丁目の不二家の筋向うにはコンパル、西側にはコロンバンテラス、その角にはコロンバン、筋向うが森永キャンデーストア、西七丁目にはモナミがあって、八丁目には資生堂、一軒おいて隣りがエスキモー、そして新橋寄りに千疋屋のフルーツパーラー、青柳と三銀の喫茶部があった、とのことである。
 これを写しながら気づいたのは、私がこれらのほとんどの店に入っていることで、なかでもよく行ったのほいずれも西側ばかりだが、四丁目の富士アイス、六丁目のコロンバンと同テラス、七丁目のモナミと八丁目の資生堂、それにエスキモーで、特にモナミが私たちの根城になっていたのは三田の白十字の姉妹店だったほかにもう一つの動機があった。…」

 石角春之助の『銀座解剖図』については下記で説明しておきます。
 今回は東京茶房と富士アイスの二軒を紹介し、その他の喫茶店は場所のみの紹介とします。

上記の写真は野口冨士男の「私のなかの東京」、中公文庫版です。昭和64年(1989)発刊ですが、初出は「文学界」昭和52年で、その後、文藝春秋社から昭和53年に発刊され、その後、文庫本になったわけです。

【野口 冨士男(のぐち ふじお、明治44年(1911)7月4日 - 平成5年(1993)11月23日)】
明治四十四年(1911)、東京に生まれる。慶応大学文学部中退。昭和八年紀伊国屋出版部に勤め、十年都新聞入社。この頃から小説を書きはじめる。十五年長篇小説『風の系譜』を発表。十九年海軍に応召。戦後は二十四年『白鷺』を発表。戦前と変らぬ作家の姿勢を示す一方、若き日知遇を得た徳田秋声研究に没頭。四十年『徳田秋声伝』を刊行、毎日芸術賞受賞。五十年『わが荷風』により読売文学賞(随筆・紀行部門)を受賞。五十三年自伝的長篇『かくてありけり』で読売文学賞(小説部門)受賞。五十五年短篇「なぎの葉考」で川端康成文学賞を受賞。五十七年「作家としての業績に対して」日本芸術院賞受賞。六一年、『感触的昭和文壇史』で菊池寛賞を受賞する。主著に『海軍日記』『暗い夜の私』『流星抄』『散るを別れと』『風のない日々』『相生橋煙雨』『少女』 など。(中公文庫参照)


「銀座解剖図」
<「銀座解剖図」>
 野口冨士男の「私のなかの東京 ”銀座二十四丁”」で参照していたのは石角春之助の『銀座解剖図』です。
 石角春之助の『銀座解剖図』の中から”喫茶店とスタンドバーの銀座”です。
「(九) 喫茶店とスタソドバーの銀座
 大衆の末梢神経の發達は、カフェーをして著しく發達せしめたが、しかし、その末梢神経は、更らに、安價な今、一歩簡単な刺戟の設備を慾求せしめるまでになつた。つまり喫茶店の發達がそれである。
 銀店に於ける喫茶店の元組とも見るべきものは、明治三十九年頃、現在銀座シネマになってゐる處に、古ぼけた勘工場があった。無論、その頃は、空家同様になってゐたから、磯谷額縁屋が中心となり、而も、松山省三氏などの若手畫家が膽入りで、繪の展覧會を開いたものだった。そして、その頃、會場の中央部で、ウーロン茶を賣り始めたものがあった。つまりそれが後の臺湾喫茶店である。臺湾喫茶店は、その後、筋向ふのコロンバンのある處へ引起したものだ。こゝへ引越してからの臺灣喫茶店は、漸ぐ對社會的となり、可なり有名にもなったものだ。……
… 銀座の表通りだけを拾ひ出しても、次の如く多数に昇る。先づ一丁目のブラジレイロ、コーヒー店から始めると、その筋向ひにサンパウロがあり、而も尚は、カフエーマルの横に、コロムビヤ喫茶店がある。西側二丁目には、ラインがあり、東側にはオリンピックレストランドがあり、少し行くと三共の喫茶部がある。西三丁目にはアトラス・レストラン
ドがあり、その向側には、明治製菓の賣店がある。西四丁目の角には、富士アイスがあり、木村屋の喫茶部があって、同五丁目には、レストランド松月、オリンピック、ブラジルなどがある。
 叉西六丁目には、不二家があり、その筋向ふには、コンパルがあり、更らに西側には、コロンバンテラスがあり、その角にはコロンバンがあって、その筋向ふが、森永キヤンデーストアになってゐる。西七丁目には、モナミ喫茶店があって、同八丁目には資生堂があり、一軒おいてその隣りがエスキーモである。それから新橋寄りの處に、千疋屋のフルツパラー、青柳の喫茶部、三銀の喫茶部等がある。
 尚ほ此の外に、各デパートには、皆それぞれ喫茶部なるものがあり、叉伊東屋の地階には、千疋屋のフルツパラーなどがあって、至る虚にコービーが網施かれてゐる。…」

 上記に書かれている”臺灣喫茶店(台湾喫茶店)”は明治38年(1905)に銀座にできた喫茶店です。石角春之助の『銀座解剖図』によれば、場所は”銀座シネマ”のところとあるので、現在の銀座七丁目ヤマハ銀座ビルの左2軒先の銀座ロータリービルになります。ネットなどで調べると、臺灣喫茶店は銀座八丁目と書かれたのが多いのですが、どうなのでしょうか?

左上の写真は石角春之助の『銀座解剖図』、丸の内出版社版です。表紙はデザインだけだったので中表紙を掲載しています。発行は昭和9年7月ですので、”大銀座街之圖 昭和10年11月現在調査”と見比べると丁度よいかなとおもっています

「モナミ跡」
<モナミ>
 2011年9月4日 モナミを追加
 野口冨士男の「私のなかの東京 ”銀座二十四丁”」の中で、野口冨士男が特に取り上げている喫茶店を順に紹介したいとおもいます。まず最初は銀座六丁目西側の「モナミ」です。
 野口冨士男の「私のなかの東京」から、”銀座二十四丁”です。
「…特にモナミが私たちの根城になっていたのは三田の白十字の姉妹店だったほかにもう一つの動機があった。
 瀬戸内晴美の『かの子撩乱』には女主人公を取り巻いて夫のほか数人の男性が同居している、考えようによっては滑稽な地獄図が繰りひろげられているが、実際に即していえば、そのうちの一人で慶人生から母校の教授となったのち野球部長にも就任して、戦後島根県知事となった恒松安夫という人物がいた。私は幼稚舎から普通部を通じて岡本太郎と同級で、少年時代から同家に出入りしていたために恒松を彼の大学生時分から知っていたが、モナミの経営者はその恒松と同姓の親戚であった。食事もできたモナミのメニュウに一平ライスなどという品目があったのもそのためで、そんな関係から、私たちは邪魔な持ち物を預かってもらうほどボーイたちと親しんでいた。吉行淳之介の芥川賞祝賀会が銀座のモナミの分店であった東中野のモナミで催されたとき、バツさんと呼んでいたボーイさんがマネージャーになっていて久闊を叙したことなどもある。…」

 ”白十字”というと、本郷東大前をおもい出します。東大生のたまり場というイメージがあったのですが、三田の慶應前にも支店があったようで、銀座は慶大生のたまり場だったようです。上記に書かれている”東中野のモナミ(駅西口の北側、現 東中野アパートメンツのところ)”は戦後の昭和30年以降も営業されていたようです。空襲に遭わなかったためです。

写真は銀座七丁目東側から西側を撮影したものです。左に資生堂が見えます。現在のビルから数えると、七丁目角の資生堂から右に2軒目、逆からは、立田野から左に3軒目が「モナミ」跡です(「資生堂」、「立田野」は戦前から場所が変わっていない)。当時は、資生堂から右に4軒目、立田野から左に3軒目でした。

「東京茶房跡」
<東京茶房>
 野口冨士男の「私のなかの東京 ”銀座二十四丁”」で二番目に取り上げているのが「東京茶房」です。
 野口冨士男の「私のなかの東京」から、”銀座二十四丁”です。
「… 時代は 『銀座解剖図』出版の二、三年後になるが、表通りでは新橋方面からいってコロンバンの先隣りにあたる洋品店の二階にあった東京茶房、裏通りでは千疋屋の真裏にあったきゅうペる、交詢社ビルの一階にあった紫烟荘、今のすずらん通りにあったプリンス、三十間掘ぞいの三原橋ちかくにあった門などにもよくかよった。
 東京茶房は新興喫茶のはしりで、紫烟荘などもその一軒であったが、いわゆる純喫茶とは違ってビールや洋酒もあった。そして、コーヒーを注文してもウエイトレスがストウールに腰を掛けて話相手になったから、他の店では十五銭だったコーヒーが五十銭であった。前章に書いた岡田三郎が妻子を捨てて駈落ちから同棲生活に入った相手の江尻のぶ子や、高見順の『故旧忘れ得べき』のヒロインで彼の初婚の相手であった石田愛子も離婚後その店のウエイトレスになっていた。…」

 ”『銀座解剖図』出版の二、三年後”と書かれていますから、昭和11年から昭和12年頃だとおもわれます。「東京茶房」の場所については、”コロンバンの先隣りにあたる洋品店の二階”ですから、当時のお店で”美濃常洋品店”の二階に在ったとおもわれます。しかしながら、”大銀座街之圖 昭和10年11月現在調査”と”アルバム・銀座八丁”には掲載されていませんでしたので、確認はとれていません。上記に書かれている他の喫茶店では、

−”千疋屋の真裏にあったきゅうペる”: 「堀辰雄の東京を歩く V 【カフェー・料理屋編】」で登場済み、
−”交詢社ビルの一階にあった紫烟荘(紫煙荘)”: 交詢社ビルは建て直されています。(旧ビル新ビルの写真)
−”すずらん通りにあったプリンス”: 場所不明で調査中
−”三十間掘ぞいの三原橋ちかくにあった門”: 「銀座を歩く 立原道造編 〈昭和10年頃〉」で掲載済み


写真は銀座六丁目と七丁目の交差点から六丁目西側を撮影しています。当時は角に”コロンバン”があり、コロンバンの右隣が”美濃常洋品店”で、二階が”東京茶房”になります。現在は”コロンバン”と”美濃常洋品店”跡がひとつのビルになっているようです(銀座六丁目B&Vビル)。写真では左角のビルが”銀座六丁目B&ビル”になります。

「富士アイス跡」
<富士アイス>
 「富士アイス」は永井荷風の「断腸亭日乗」にたびたび登場するので有名です。当時、富士アイスは銀座に2店舗あり、今回は教文館ビルの富士アイスです。
 野口冨士男の「私のなかの東京」から、”銀座二十四丁”です。
「…  富士アイスは、西側四丁目に教文館ビルが建ってから地階が永井荷風と知友との溜り場になったが、木造の時分には二階のレストランに私は親しんだ。高層建築の脇に強風が吹くのは常識だが、教文館の筋向いにあたる松屋横は銀座でいちばん風の強い地点であった。そこを通る和服の女性はかならず裾をおさえたが、それでも風にあおられるので、私たちにはあぶな絵をみるような興味があった。『断腸亭日常』にそのことが出て来ないのは、荷風が地下室にばかり入っていたせいだろう。…」
 教文館ビルは関東大震災後の昭和8年に再建された建物で、教文館と聖書協会の共同建築です。教文館は銀座通りに面し、聖書協会はその西側となっています。設計者は旧帝国ホテルの設計で有名なライトの高弟として知られるアントニン.レーモンドです。教文館ビルは彼が43歳の働き盛りの作品であり、聖ロカ国際病院とともに、当時のアメリカ建築の粋を感じさせる作品となっています。自己の売店と事務室に使用するほかは大部分を貸室としています。地下1階はレストラン用に造られ、富士アイスが入りました。教文館は1階を貸店舗、2階を売店として使用し、3階以上は貸事務室として賃貸としたようです(「震災復興〈大銀座〉の街並みから」を参照)。震災以前の教文館ビルは三階建てでしたが震災で焼失しており、野口冨士男の銀座二十四丁”で書かれているように、震災後は仮の建物として、木造の二階建ての建物であったとおもわれます。

 永井荷風の「断腸亭日乗」、昭和8年11月25日から
十一月廿五日。今日も好く晴れたり。読書の外為すことなし。日の暮るゝを侯ちて銀座に往き、不二アイス屋にて夕餉を食して後紅茶をキユウベルに喫す。酒泉萬本山田樋田杉野竹下の諸子在り。酒泉君知る所の某令嬢と千疋屋に入り盆栽及び熱帯産小魚を観る。小魚の価貴きもの八九拾円、廉なるものも五六円を下らず。菓子屋青柳にて名物の金鍔を焼くを見、之を購ひ三個拾銭也きゆうぺるに還る。杉野氏其の知る所の墺国の婦人を紹介す。維也納府の人。年三十歳許り仏語また英語を善す。」
 25日以前は風月堂にて食事をしていますので、25日に初めて富士アイスで食事をしたのだとおもいます。教文館ビルが昭和8年9月に完成していますので、時期的には丁度です。

写真は現在の教文館ビルです。当時と場所も全く変わっておりません。当時の教文館ビルの写真を掲載しておきます。写真の一階、左端の入口から富士アイスに入ります。

「木村屋」
<銀座通り 一丁目〜四丁目の喫茶店>
 野口冨士男の「私のなかの東京」の銀座二十四丁”と、石角春之助の『銀座解剖図』の中の”喫茶店とスタンドバーの銀座”で登場する銀座通りの喫茶店を探してみました。
 野口冨士男の「私のなかの東京」から、”銀座二十四丁”です。
 「…昭和九年七月に、丸之内出版社から石角春之助の『銀座解剖図』という一書が出版されている。それによると、一丁目のブラジレイロの筋向いにサソパウロがあり、西側二丁目にはライン、東側にはオリンピック、三共製薬の喫茶部、西三丁目にはアトラス、向う側に明治製菓、西四丁目には富士アイス、木村屋の喫茶部…」
  〈銀座一丁目から銀座四丁目まで順に探します〉
 −銀座一丁目: ブラジレイロ : 銀座通り東側、北東角から4軒目(現在は空地)
            サンパウロ : 銀座通り西側、北東角から2軒目の銀座小柳ビルのところ
 −銀座二丁目: ライン 銀座通り西側、竹中銀座ビルのところ
           オリンピック : 銀座通り東側、現 ティファニーのところ
           三共製薬の喫茶部 : 銀座通り東側、現 ブルガリのところ
 −銀座三丁目: アトラス : 場所不明(調査中)、明治製菓:松屋の真ん中やや左付近
 −銀座四丁目: 富士アイス : 教文館ビル、木村屋の喫茶部:現 木村屋

写真は現在の銀座四丁目、銀座通りの木村屋です。上記に書かれている喫茶店で残っているのは木村屋のみでした。

「銀座鳩居堂」
<銀座通り 五丁目〜八丁目の喫茶店>
 野口冨士男の「私のなかの東京」の銀座二十四丁”と、石角春之助の『銀座解剖図』の中の”喫茶店とスタンドバーの銀座”で登場する銀座通りの喫茶店を探してみました。
 野口冨士男の「私のなかの東京」から、”銀座二十四丁”です。
 「…、同五丁目にはレストラント松月、オリンピック、ブラジル、西六丁目の不二家の筋向うにはコンパル、西側にはコロンバンテラス、その角にはコロンバン、筋向うが森永キャンデーストア、西七丁目にはモナミがあって、八丁目には資生堂、一軒おいて隣りがエスキモー、そして新橋寄りに千疋屋のフルーツパーラー、青柳と三銀の喫茶部があった、とのことである。…」
 〈銀座五丁目から銀座八丁目まで順に探します〉
 −銀座五丁目: レストラント松月 : 鳩居堂の左隣、田崎真珠のところ、
           オリンピック : 大黒屋ビルの左隣、MAUBOSSINのところ、
           ブラジル : ニューメルサビルの右端のところ
 −銀座六丁目: 不二家 : 菊水の右隣
           コンパル 松坂屋のティファニーのところ辺り
           コロンバンテラス : 銀座くのやビルの右隣、銀座UKビルのところ
           コロンバン : 銀座六丁目B&Vビルのところ(東京茶房の項参照)
           森永キャンデーストア : 松坂屋のティファニーのところ辺り(コンパルの右隣)
 −銀座七丁目: モナミ : 七丁目交差点から銀座通り西側右に3軒目(上記の項参照)
 −銀座八丁目: 資生堂 : 七丁目交差点西側左角、
           エスキモー : 資生堂の左隣、陽栄銀座ビルのところ(当時は2軒目)
           千疋屋、青柳と三銀の喫茶部 : 西側、銀座888ビルが千疋屋跡で左に青柳、三銀と続いていた

写真の 右側茶色のビルが鳩居堂ビルです。銀座四丁目交差点の東側から西側を撮影しています。写真の地下鉄入口は銀座駅の入口です。この鳩居堂の左隣に”レストラント松月”、2件目に”オリンピック”、ニューメルサビルの右端付近に”ブラジル”がありました。

  追加更新予定です。

銀座地図(昭和10年頃)


野口冨士男年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 野口冨士男の足跡
明治44年 1911 辛亥革命 0 7月4日 東京市麹町に野口藤作・小トミの長男として生まれる
大正2年 1913 島崎藤村、フランスへ出発
2 両親協議離婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 5 父が渡支したため、養祖父母と静岡へ移住
大正6年 1917 ロシア革命 6 牛込区肴町居住の生母に引き取られる
大正7年 1918 シベリア出兵 7 4月 慶應義塾幼稚舎入学
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 13 普通部に進学、赤坂で父と同居
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 19 5月末 成績不良のため文化学院文学部に中途転校
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
22 3月 文化学院卒業
4月 紀伊国屋出版部に入社
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 24 8月末 紀伊国屋出版部倒産
10月 都新聞入社
昭和11年 1936 2.26事件 25 7月 肺門淋巴腺腫脹のための都新聞社解雇
12月 河出書房入社(翌年2月退社)
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 26 12月 生母・平井小トミとの養子縁組成立、本姓が平井、筆姓が野口となる
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
29 3月 歯科医早川三郎三女・直と結婚
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
33 9月 召集されて横須賀海兵団入団
         
平成5年 1993   82 11月23日 死去