<「私の中の東京」>
”戦前の銀座を歩く シリーズ”を数回に分けて掲載することにしました。特に今回は、カフェーではなくて、喫茶店を中心に歩いてみることにしました。「銀座を歩く
立原道造編」を第一回として、第二回の今回は野口冨士男編を掲載します。野口冨士男は戦前に自身が通った銀座の喫茶店について”銀座二十四丁”のなかで、かなり詳細に書いています。お店の名前などの固有名詞が多く書かれており、戦前の銀座がよく分かる本です。
野口冨士男の「私のなかの東京」から、”銀座二十四丁”です。
「… 昭和三年から銀座へ出はじめた私が最初にしたしんだのは、やはり喫茶店である。
昭和九年七月に、丸之内出版社から石角春之助の『銀座解剖図』という一書が出版されている。それによると、一丁目のブラジレイロの筋向いにサソパウロがあり、西側二丁目にはライン、東側にはオリンピック、三共製薬の喫茶部、西三丁目にはアトラス、向う側に明治製菓、西四丁目には富士アイス、木村屋の喫茶部、同五丁目にはレストラント松月、オリンピック、ブラジル、西六丁目の不二家の筋向うにはコンパル、西側にはコロンバンテラス、その角にはコロンバン、筋向うが森永キャンデーストア、西七丁目にはモナミがあって、八丁目には資生堂、一軒おいて隣りがエスキモー、そして新橋寄りに千疋屋のフルーツパーラー、青柳と三銀の喫茶部があった、とのことである。
これを写しながら気づいたのは、私がこれらのほとんどの店に入っていることで、なかでもよく行ったのほいずれも西側ばかりだが、四丁目の富士アイス、六丁目のコロンバンと同テラス、七丁目のモナミと八丁目の資生堂、それにエスキモーで、特にモナミが私たちの根城になっていたのは三田の白十字の姉妹店だったほかにもう一つの動機があった。…」
石角春之助の『銀座解剖図』については下記で説明しておきます。
今回は東京茶房と富士アイスの二軒を紹介し、その他の喫茶店は場所のみの紹介とします。
★上記の写真は野口冨士男の「私のなかの東京」、中公文庫版です。昭和64年(1989)発刊ですが、初出は「文学界」昭和52年で、その後、文藝春秋社から昭和53年に発刊され、その後、文庫本になったわけです。
【野口 冨士男(のぐち ふじお、明治44年(1911)7月4日 - 平成5年(1993)11月23日)】
明治四十四年(1911)、東京に生まれる。慶応大学文学部中退。昭和八年紀伊国屋出版部に勤め、十年都新聞入社。この頃から小説を書きはじめる。十五年長篇小説『風の系譜』を発表。十九年海軍に応召。戦後は二十四年『白鷺』を発表。戦前と変らぬ作家の姿勢を示す一方、若き日知遇を得た徳田秋声研究に没頭。四十年『徳田秋声伝』を刊行、毎日芸術賞受賞。五十年『わが荷風』により読売文学賞(随筆・紀行部門)を受賞。五十三年自伝的長篇『かくてありけり』で読売文学賞(小説部門)受賞。五十五年短篇「なぎの葉考」で川端康成文学賞を受賞。五十七年「作家としての業績に対して」日本芸術院賞受賞。六一年、『感触的昭和文壇史』で菊池寛賞を受賞する。主著に『海軍日記』『暗い夜の私』『流星抄』『散るを別れと』『風のない日々』『相生橋煙雨』『少女』 など。(中公文庫参照)