●銀座を歩く 立原道造編 〈昭和10年頃〉
    初版2011年8月20日  <V01L02> 写真を入替え

 「立原道造の世界」を引き続き掲載します。今回は昭和10年前後の銀座を歩いてみました。立原道造はお酒を飲めませんので友人たちと喫茶店のはしごをしていたようです。それにしても昔の人はよく歩いています。本郷からお茶の水、小川町、有楽町から銀座まで歩いています。




「喫茶店の時代」
<「喫茶店の時代」>
 戦前の喫茶店について書いた本がないかと探したら、林哲夫氏の「喫茶店の時代 あのとき、こんな店があった」、という素晴らしい本を見つけることができました。第15回(2002年)尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞(研究・考証部門)を受賞されています。本当によく調べられている本です。この本のなかには立原道造についてもページを割かれていました。
 林哲夫の「喫茶店の時代 あのとき、こんな店があった」から、”新々堂”の項です。
「進々堂
 京都市左京区、東大路通りと今出川通りの交差点(百万遍)から東へ少し歩くと 「進々堂」がある。道路を挟んで南側は京都大学工学部。薄茶のタイルを張ったその建物は今も独特な風格を漂わせている。
 立原道造は昭和十三年(一九三八)、長崎へ向かう途次、京都に立ち寄った。十一月二十五日夕刻、奈良から京都駅に着き、河原町のアサヒ・ビルの向かいのレストランで夕食を摂った。水戸部アサイに宛て 「たうとうひとりで京都に来てしまった」 で始まる葉書を投じた後、吉田へ芳賀檀を訪ねてそこに泊まった。…」

 新々堂は京都百万遍にある戦前からの喫茶店です(建物は戦前のままです)。喫茶店というよりはパン屋さんの方が有名で、私も京都を訪ねた折は京都駅前にあるお店でパンを買って新幹線に乗ります)。百万遍ですから京都大学の北側になります。この辺りのお話は別途掲載する予定です。

上記の写真は林哲夫氏の「喫茶店の時代 あのとき、こんな店があった」、編集工房ノア版です。ただ、この本は現在なかなか手に入りにくくなっています。2002年刊ですから9年前になり、増刷されていないようで、新刊書では入手不可です。「日本の古本屋」で検索してもでてきません。

「立原道造全集 月報」
<立原道造全集 月報>
 立原道造全集の月報のなかから、今回は杉山平一氏の書かれた文章を参考にしました。
 立原道造全集第五巻の月報の中から杉山平一氏の”立原道造氏のこと”です。、
「 立原道造氏のこと
                                杉 山 平 一
   以前、僕は「黒」という小品のなかに立原道造のことを書いたことがあった。本にまとめるとき、その小品散文集の題を「黒」としようとしたが、印象が暗いという周囲の意外な意見で「ミラポー橋」とあらためたのだが、僕の心のなかでは「黒」というのは、シックで華麗な色にしか思われなかった。というのは「黒」という題は、立原道造が「四季」に書きはじめたノート「黒手帖」にあやかったからでもある。……
… そのうち、ある日、その仲間のなかに、其黒の外套をきた長身の学生がいた。上等の犬のような顔である。近づいて行って襟章を見るとTになっていた。彼が立原なのではないか。ふと足もとを見ると、黒の編上靴の紐が全都ほどけたままになって、それをひきずっている。これは詩人だ、立原道道にちがいない、と僕は心にきめた。…」

 杉山平一氏は立原道造とは東京帝国大学の同期で、「四季」の同人です。福島県生まれ。北野中学、松江高校を経て東京帝国大学美学美術史学科卒業。在学中三好達治に認められ『四季』に参加、同人となる。卒業後織田作之助らと『大阪文学』を創刊。1941年第2回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞しています(ウイキペディア参照)。

左の写真は立原道造全集第五巻の月報の表紙です。第五巻の月報には杉山平一、中里恒子、柴田南雄、近藤武夫の四氏が書かれており、僅か8ページですが、文庫本一冊程度の情報量があります。月報はいつ読んでも内容の濃い文章が多いです。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)

「銀座資生堂」
<資生堂>
 銀座の喫茶店(カフェ)といえば、当時は資生堂パーラーが有名だったとおもいます。資生堂パーラーについては「大東京うまいもの食べ歩き 昭和10年度版」によると
「新宿の中村屋と高野のやうに、ここは千疋屋とよく比較されますが、千疋屋は果物店の副業、ここは化粧品屋が、美しいお客あてこみに開いたのがそもそもで、喫茶、軽い食事等、アラカルトとして評判だった店。殊に二階にロッジをめぐらし、上と下の部屋を連絡させたあたり、本場の巴里のそれを見るやうで、若い人達を喜ばせてゐます。」
 昭和10年年度版からなのですが、昭和8年度版と比べてみると、全く同じ内容でした。
 立原道造と資生堂について書かれているのは 立原道造全集第五巻の月報で、杉山平一氏の”立原道造氏のこと”です。
「… あるとき、やはり学校の通りであったと思うが、これから、堀さんに会いに行くので一緒に行こうと誘ってくれた。堀さんには神田で支那料理を御馳走になり、資生堂でお茶をのんで話した。立原は自分の詩を、詩壇が認めないことなどを堀さんに告げたりしていた。
 「四季」の周辺以外で、立原の詩を認める人はすくなく、草野心平氏が、立原の詩は署名なしでも、すぐ作者のわかる稀有の詩人の一人だといったのをおぼえているくらいである。…」

 堀辰雄の神田と言えば”多賀羅亭”となります。このお店のメインは洋食ですが、東京市商工名鑑によると”多賀羅亭”は”西洋料理、支那料理”となっていますの、推定ですがこのお店で食事をしたのではないかとおもいます。

写真は銀座七丁目と八丁目の角にある資生堂です。特に右側のビルは完成したところです。当時の資生堂パーラーハ現在と同じく左側のビルのところにありました。当時の寫眞を掲載しておきます。

「門跡」
<門>
 立原道造が銀座でよく立寄っていた喫茶店が”門”です。  この喫茶店は三原橋の傍にあり、当時は三十間堀川も健在で、川傍の喫茶店でした。
 立原道造全集第六巻の月報の中から杉山平一氏の”立原道造氏のこと”です。
「… 彼が石本建築事務所に勤め出してから会ったのは、二度くらいではなかったかと思う。最後に会ったのは、数寄屋橋から銀座へかけての道だった。肩幅のひろい背広を着ていた。何か少し大きすぎる感じがした。そこから細いくびをすっくと立て、大またに歩いてきた。あとから思うと、非常に辞せてきていて服がガブガプになっていたのかもしれない。
「やあ」と声をかけてくれて、彼は僕を築地寄りの銀座の「門」という喫茶店へ連れで行った。サロン・ド・テ・モンといったような気もする。そこで、僕は、高等学校は松江だが、家は芦屋であること、しかし、本籍は静岡で、母の実家は長崎だ、というような身上話をした。
 すると彼は、きみは、いいところばかりに関係がある、とうらやましがった。僕は、そのひとつも、いいところと思っていなかったので、そうかしら、と意外だった。…」

 この門は喫茶店建築では有名らしく、「建築写真類聚 喫茶店の新構成1巻」に写真が掲載されています。外観の写真と、内部の写真を掲載しておきます。当時としては洒落た喫茶店だったのだとおもいます(私は建築に関しては全く分かりません)。当時の外観写真を見ると上から”Maison Mon Salon de thé”と書かれています。直訳すると、”門という喫茶店”かなとおもいます。Mon(英語ではmyの意味)と門を掛けたのかなともおもいます(フランス語は全く分かりません)。

写真の正面付近の吉田ビルか東洋精米機ビルのところに”門”があったとおもわれます。ビルが建ってしまって正確な場所が分かりません。三十間堀川は戦後の昭和23年から埋め立てられて現在はありません。場所の特定は”大銀座街之圖 昭和10年11月現在調査”からです(中央区京橋図書館で閲覧)。

「ダット跡」
<ダット>
 この喫茶店も立原道造が通ったお店です。通常の喫茶店ではなく、音楽喫茶だったようです。当時は蓄音機でレコードをかけて聞かせていました。
 立原道造全集第六巻の月報の中から小場晴夫氏の”立原のこと”です。
「…  映画、演劇、展覧会を一緒に見に行き、音楽会、レコード鑑賞会に誘いあった。武蔵野館、帝劇、本郷座、南明座、シネマ・パレス、全線座などなつかしい。
 級会のとき酒を飲んでとろんとした彼が思い浮ぶが、二人でアルコールを飲んだことは一回もない。何かを見たり聞いたあとは、必ず喫茶店で語り合った。八重洲通の田園、銀座の門、ミュンへン、ダット、ジヤーマンベーカリー、本郷の田村、神保町のキャンドル、須田町の万惣等々。…」

 このお店は永井荷風の断腸亭日常にも登場しています。昭和9年1月26日です。
「正月廿六日。晴れて風なく日の光うらゝかなるは立春の節遠からざるがためなるべし。日影は長くなりて、夕五時半頃家の内くらくなるなり。午後東京近郊名所図会をよむ。明治四十四五年頃まで砂村には砂村川一名境川といふ堀割あり。火葬場のあたりにおん坊堀あり。又仙気稲荷のあたりに元〆川と呼ぶ堀割ありし事を知り得たり。一昨年始めて砂村を散歩せし時、砂相川の有無につきての疑ひはこゝに解くを得たり。昏刻銀座に節してキユウベルに赴かむとする途中、安藤萬本樋田歌川山田の諸子に逢ひ、倶に大根河岸の喫茶店ダットに入り、少憩して後、一同きゆうぺるに至る。高橋邦太田嶋醇の二子来る。柳家にて汁粉を食してかへる。」
 永井荷風は”ダット”の場所を”大根河岸”と書いています。”大根河岸”とは、当時青物市場があった京橋付近を指すことばで、現在の銀座一丁目付近を指しているものとおもいました。しかし、林哲夫氏の「喫茶店の時代 あのとき、こんな店があった」、には銀座二丁目と書いてありました。又、”きゅうぺる”は堀辰雄でも登場しています。

写真は現在の銀座二丁目4番、南東の角、SPP銀座ビルのところです。この角に”都茶房”、その左隣に”銀座ダット”がありました(ダットは何店舗かあったようです)。永井荷風の断腸亭日常に書かれた場所からは少し遠いです。場所の特定は”大銀座街之圖 昭和10年11月現在調査”からです(中央区京橋図書館で閲覧)。

「更科そば屋跡」
<更科そば屋>
 最後はそば屋です。立原道造の雰囲気からは、日本食(そば)よりは洋食(カレーライス)という感じなのですが、コストパフォーマンスには勝てなかったようです。
 立原道造全集第六巻の月報の中から小場晴夫氏の”立原のこと”です。
「… 一緒に歩き廻り、街々で、店々で、公園で、到るところで建築、彫刻、絵画、音楽、演劇、文学について語りあった。腹がすいたとき、よく飛びこんだのは数寄屋橋の更科そば屋だった。金七銭の大盛のもりそばをたべた。カレーライス(十五銭)の半額ですむわけだが、彼はたれを一寸つけてつるっと音をたてながらたペるのが上手で早かった。ニコライ堂近くのロシアパン屋でパンを買い、それを歩きながら、映画を見ながらたべたりもした。…」
 数寄屋橋傍の”更科そば”は更科系列では結構有名なそば屋でした。正式名称は有楽町更科で、明治35年開店です。終戦後の昭和28年に再開していますが、平成6年に閉店しています。有楽町更科系列のお店として、品川区南大井(大森駅徒歩10分)に「布恒更科」がありますので、一度食して下さい。残念ながらカレーライスよりはかなり高くなっています。「子母沢寛の「味覚極楽」を歩く 蕎麦屋編」を参照

写真の正面付近に有楽町更科がありました。晴海通り、JRのガードの手前、ORE有楽町ビルのところです。当時は右端から二軒目に有楽町更科がありました。

  追加更新予定です。

銀座地図(昭和10年頃)


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊